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2016年8月31日 (水)

武器輸出

安倍自民党政権は憲法改正と国防軍事力強化に向かって進んでいる。素晴らしい日本の民族性や歴史に異議を唱えるかのような隣国たちに反感を感じ、国民の中にも軍事力強化と国防軍創設に賛成する人たちも多い。国民が選ぶ指導者は、その選んだ国民に責任があるのだし、結果を引き受けるのは指導者でなく国民だ。だから、隣国との関係や軍事力、憲法は国民が責任を持って考えるべき問題ではあるが、この問題とは別に、考えなければいけないのは、武器輸出の問題だ。我々の作った武器で誰かが殺され苦しむ、なんていうと、感傷的すぎると批判を受けそうではあるが、武器輸出の側面には確かにこういう問題もあり、日本人が国際的にどう見られ評価されるのか、単純に言えば、尊敬されるのか、憎まれるのかという問題につながる。日本人として、私はこの問題にかかわっていないのだから潔白ですよという言い訳はできない。全員共犯者なのだ。

安倍さんは積極的に武器を海外に売り込んでいる。世界で大口顧客として有名なサウジとの関係強化に努めている。そんな中で8月30日付の河北新報には東北大学では、軍事研究に一定の歯止めをかける方針だという記事が、河北新報で報じられた。もちろん、東北大学内部でも、軍事研究いいじゃないかという声もあるということは記事の中で紹介されていた。いま日本政府は、大学の研究室に軍事研究をしようと持ち掛けている。研究には多額の予算がつくのだ。東北大では指針を作り軍事技術に直結する研究には慎重な姿勢を示す方針だということだ。東北大学、がんばって、負けるなという声援を送りたい。

人類の歴史をたどってみれば、戦争が技術を進めさせた、という側面も否定できない。生活を便利にしてくれる科学技術も、ある面では戦争や軍事のおかげで進んだという面はある。だが、倫理的にやっていいことといけないことがある。そこまでやったらおしめーよと、いうラインがあると私は思うのだが、そのラインはずるずる後退している。特に国公立大学は立場が弱い。国に予算や人事権が握られている。国の方針にどこまで逆らえるか。つまり兵糧攻めにどこまで耐えられるのか。

そう考えた時に、「私立」や「民間」というセクターは、確かに大事になる。明治以来日本は「官尊民卑」だ。だが、そんな官立大学に危機感を抱いた新島襄は私立の同志社大学を作ったし、渋沢栄一は、民間企業を起こした。兵糧攻めにあったときに耐えられる独自の財源や仕事・産業・収入源を持ち独立・自尊するというのは本当に大事なことだと偉大な先人を見て思う。そもそも江戸時代は官立学校もあったが、農村でも都会でも、私塾がたくさんあり、教育熱心な日本人の必要に応えていたし人材も輩出した。時代が違うとはいえ、いまだって大学の研究室レベル、特に科学技術系レベルの民間研究所があちこちにたくさんあり、地元産業や地元の生活の向上に貢献できる仕組みがあればいい、と思う。

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2016年8月29日 (月)

ルードヴィヒ

ルキノ・ヴィスコンティ監督の「ルードヴィヒ」が仙台フォーラムで上映されている。ずっと前から見たいと思っていたもののレンタルビデオ店では貸しだしてなく、デジタル・リマスター版の日本公開記念ということで上映がかかったようだ。ルードヴィヒ2世はバイエルン王国の国王で、ワーグナーや芸術家を支援し、美青年を侍らせ、美しい城をたくさん建築した。ヴィスコンティ監督自身が美青年好きなので、抜擢された主人公はヘルムート・バウガー。王の若いときから、狂気と失意の晩年(史実としては40歳で謎の死を遂げたという)までを好演していた。

プロシャの台頭と戦争という難しい国際問題の時代に、臣下たちは王の国費の乱費にたまったものでなく、「狂っている」とのレッテルを張り幽閉してしまう。だが、国民には人気があったようで、現に今も彼が残したノイシュヴァンシュタイン城(白鳥城)は、地元で最大の観光施設になって地元民を潤しているし、めでたく世界遺産にもなった。映画の中では、城の中で本当に白鳥が泳いでいて、ゴンドラで王が登場してくる。

映画の中ではワ-グナーの憎むべき山師ぶりが本当によく描かれている。ワーグナー役のトレバー・ハワードは本当にいい役者だ。芸術を愛する純粋な王から金をむしり取る悪徳人物として、本当に嫌悪を催させる好演だ。どうしてこんな悪人からあの美しい無限旋律ができたのかと本当にそう思うが、当のルードヴィヒ王がワーグナーに心酔してしまう。妻のコジマも本当にひどい女だ。と思わせる、それだけいい映画だ。

映画はルードヴィヒが心を寄せる従姉のエリザーベトや、王に忠実だったデュルクハイム大佐などの人物たちともドラマも描かれている。4時間という大作だがいい映画は本当に心を豊かにしてくれる。

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2016年8月22日 (月)

自分探し

"The best American Science and Nature Writing"より気になった記事をさらに紹介する。Vergina Hugesの書いた23 and Youというレポートだ。このレポートには、自分探しで苦労するアメリカの女性が書かれている。どうやって自分探しをするのか?それは自分のDNAを分析することによってだ。

アメリカには人々のDNAの分析を気軽に請け負ってくれるベンチャー企業がある。インターネットでホームページが公開されていて、会社が送ってくるキットにDNA細片が採れるもの、例えば唾などを入れて送り返すとDNAを分析してくれる。最初は分析の値段が高かったが、技術の進歩や依頼する人数が増えて今ではやろうと思えば誰でもできる値段になっている。

このDNA分析のユニークなところは、送ったDNAはデータベースとして会社に蓄積されるという点だ。究極の個人情報であるDNAである。しかしそれをデータベース上に公開されることを同意するメリットというのは、DNAのマッチングをしてくれるということだ。自分と似たDNAを持っている人がいないか、自分のルーツは誰なのか、ということを知りたいと思っている人が利用するのだ。

23 and Youというレポートには、幼少時の体験から自分は父親の子どもではないのではないかと考えた女性が、自分の本当の父親や兄弟を求めて、サイトでDNAマッチングをし、そしてそうではないかと思った人に実際に連絡を取り会いに行くところなどが書かれている。生物学的に言えば、兄弟であれば何%、いとこであれば何%のDNAを共有するということがわかっているし、性染色体の関係から父系のみに伝わってくるDNAもあるのでそういうものを利用するのだ。

姉妹かと思って会った人がのちに関係ないとわかりがっかりしたものの、二人は仲の良いかけがいのない関係になったことなどが書かれている。そもそもアメリカというのは、日本と違っていいと思ったらとにかくやって見るというところがあるので、こういうベンチャー会社も生まれ支持されるのだ。もちろん、個人情報をどうするのかという議論も紹介されていたが、問題はとりあえずやってみた後でという感じだろう。また、日本と違って養子縁組もたいへん多いので、養子になった人が大きくなって自分のルーツは?と思い悩むケースというのもたくさんあるからだろう。23 and Youというのはこのベンチャー会社の名前だ。たぶん人間の染色体が46本あり、その半分ずつが父母から来ることからきているのだろう。

日本では、こういうDNAマッチングは当面は受け入れられないだろうなと思う。日本ではそもそも親戚づきあいなどが伝統的に決まったものとしてあり、親せきの範囲もわかっているので、DNAから見た自分探しということは起こらないのだろうと思う。この夏、いろいろなことがあってしばらく会っていないいとこやおばさんに会いたいとしきりに思うようになった。DNAの力は、理性的に考える力よりも人間の思考や行動に大きく影響すると思う。アメリカのような社会でその要求を満たすとしたら23 and Youのようなあからさまな試みなのだろう。

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2016年8月20日 (土)

紙の本VS電子書籍 続き

"The best American Science and Nature Writing" の"Why the Brain Prefers Paper" から興味深いところの続きを書く。

子どもが初めて文字を読めるようになる、本を読めるようになる、これは実に素晴らしいことだ。だが、ふつうはそれが自然にできるようになるので、本来それがどれくらいたいへんなことなのかということを忘れがちだ。まず文字を認識するということがどれくらい大変なことか。そもそも自分が今見ているものを文字だと認識する。そして例えば二つの文字の違いを識別して今見ている文字はこういう意味でこういう音だと認識する。それには、文字のカーブだったりへこみだったり、隙間だったりを認識しなくてはいけない。人が書いた文字を認識できるスキャナーを開発するのがどれくらい大変なことなのかを考えてほしい。

そしてそもそも人の脳は文字を認識するためにはできていないという。「話す」「運動や体の動きを調整する」「見る」などにあてがわれた脳の組織を結び付け、「即興的に」神経回路を作っていって読めるようになるそうだ。「読む」というと非常に静的なイメージを受けるが、実は体を使った『運動』と同等の行為なのだ。さりげなく文字が読めるようになってしまったなんて、もしかしたら、我々はみなオリンピックの金メダリストと同じくらいヒーローなのかもしれない。

文字を認識し読めるようになるというのはこんなにも大変なことだ。しかも日本の子どもたちは、ひらがな・カタカナに加えて漢字まである。"Why the Brain Prefers Paper"には漢字を学習している日本人の子どもの脳のことが書かれていた。脳を調べてみると、漢字を読むだけで、たとえ手に鉛筆を持っていなくても、書いて、つまり運動して手を動かしているのと同じ反応が脳の「書く」部位にみられるそうだ。

さてあとは、私の所感である。漢字は、その昔何度も書き取りをさせられて覚えた。あれは脳科学的には意味があることだったのだ。漢字を読んだり書いたりすることはすなわち「運動」なのだ。それが脳の回路を形作っていくのだ。そして、もし日本人が「賢い」「頭がいい」としたら、それは漢字のおかげだろう。
もちろんこれは議論を呼ぶ言い方だろう。そこで私が言っている「頭がいい」は、主に脳の神経回路が複雑に発達していることと定義する。ちなみに、学習したり新しい体験をすると、脳の神経は育って伸びて結びついて数も増える。これは何歳になってもだそうだ。実験室のマウス的な実験では、複雑な課題をこなすネズミの方が神経回路=ニューロンが発達している。

子どもたちの負担になるので、漢字を教えるのはやめるとか、少なくするなんてことは昔から話に上ってきている。アメリカをはじめとする連合国軍に対する戦争に負けた後は、著名な文学者が日本語廃止論を唱え、アルファベット文字の使用を提言した。私自身が、こういう提言には反対で、日本人を日本人たらしめていることの一つに「漢字」があると思っているし、文字体系の複雑さも悪いことばかりでないと思う。世界一煩雑な文字や文字体系が、日本人の脳を鍛えてくれているのであるから、これをやめてはもったいない。八つ当たり的に言うと、大学入試で「漢文」を課さない大学が増えているのもとても残念だ。(地元の名門私立大学もそうだ)子どもたちのために負担を軽減するという言い訳で、実際は子供たちから成長する機会を奪っているとしたら残念である。

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2016年8月19日 (金)

紙の本VS電子書籍

仕事がら教材やテストのネタを探しておかないといけないので、"The best American science and nature writing"のようなアンソロジーは大変役に立つしお世話になっている。その年に英語で書かれた優れたエッセーを収録したものだ。2014年版からFerris Jabrが書いた"Why the Brain Prefers Paper"が興味深かった。

私は読んだり勉強したりするのは絶対に「紙の本」派だ。実をいうと私自身電子書籍を発行しているが、それは紙の出版社が誰も私の本を出版してくれないからだし、アマゾンであればただで出版できるからだ。 "Why the Brain Prefers Paper"という随筆は学習効果から紙の本と電子書籍のどちらが良いかを論じていて、その点も仕事がら興味をひかれた。結論を言うと、紙の本に軍配が上がる。これは、試験勉強や受験生にも示唆を与える。

紙の本の方がよい理由はいくつかあるが、私が最も興味をひかれたのは、紙の本の物理性だ。紙の本では、今自分がどこにいるのかということを確認できる。文庫本であれば、今までどれくらいのページを読んできたか、これからあと何ページくらい残されているかといったことが、ページの重さや厚みから肉体を通して感じられる。また、見開きページやテストで長文を読むときでも、自分がいまいる位置を確認したり、どこに何が書かれていたかを思い出すときに、この物理性というのは大事だ。例えば、右隅の上の方にあったとか、左の真ん中あたりといった相対的な位置関係を紙の本では把握できるのだ。

そしてこういう情報が人間の理解力を総合的に高めるのだ。人間という存在は空間的には全体の中で相対的な位置関係によって自分を把握するものだし、時間的には過去から未来の流れの中で自分の存在を把握するはずだ。だから、歴史を軽視するものは現在の中で自分の位置を見失う。

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2016年8月18日 (木)

保育の現場

少子化対策としてよく言われているのが保育所の充実と待機児童の解消。さらにそれを実現するために必要なのは人手不足である保育士の確保。河北新報が6月29日から7月1日までに特集していた『保育の現場は今』を要約し問題点をまとめてみる。

記者の保育現場での体験取材からは保育士の仕事がどのようなものかが伝わってくる。朝、子どもたちが登園してくると、さりげなく体にさわり状態を見る。体温を測り記録する。前日体調が悪かった子どもは共通ノートに記録する。午前中子どもが園庭で遊んでいるときも誰がどこにいるかを確認する。昼食時はうまく食べられない子の補助をする。1歳児であれば発達の個人差も大きいという。子どもたちが昼寝をする時間でも先生たちには休みがない。トイレ掃除、汚れ物の洗濯、着替え服のまとめ。寝ている子の様子を見守り、全員分の連絡ノートに子供たちの様子を記入する。シフトによっては5時まで、延長保育のシフトであれば夜8時まで。1歳児などは言葉も歩行も未熟で手助けが欠かせず、気が抜けない。次の行動に誘導するのにうまく飽きさせない工夫も必要になる。しかし先生たちは臨機応変に声を掛け合い役割分担し、保育の流れはスムーズでその仕事ぶりに圧倒されたと記者は言う。

よく保育士の仕事は大変だというが、じっさいにどのようなものであるか、なにに気をつけるべき仕事であるのかを保育士以外の人が知ることも重要だ。保育士が不足する要因は、幼児の命を預かる責任の重さに見合わぬ待遇の低さと、負担増だと言われている。国の待遇改善策が不十分な中で自治体では独自の保育士確保策を始めている。

宮城県では、資格を持ちながら就労していない潜在保育士に対して、「保育士バンク」が就職支援セミナーを実施し、就労を促している。また、小規模保育施設の開設も増加している。また、働きやすい環境を整えるという試みを行っている園もある。マネージャー保育士を養成し、シフト勤務には入らず保育士の相談に乗る。子育て中の保育士が仕事と両立しやすいようシフトを固定する。保育士全員を正職員とし、栄養士らも含めた全職員で保育内容や園児の情報を交換する。こうすることで、保育士が一人で保育内容や保護者対応に悩むことがないという。賃金による処遇改善がままならない中で働きやすい環境を整えることも保育士確保につながる。

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2016年8月10日 (水)

全体食は体にいい

白くしすぎた食べ物をとりすぎるのはは体に良くないと言われてきた。例えば、白砂糖や白米。そのかわりに黒砂糖や玄米を食べるのが健康に良いと。玄米は削って捨ててしまうぬかの部分にビタミンやミネラルが含まれている。だからある部分だけを精製するのでなく全体をいただくのが良いという考えがある。

さて、これは科学的に根拠があることなのか。8月8日付の河北新報に目立たないがこんな記事が載っていた。ハーバード大学の公衆衛生大学院のキ・スン医師らが約78万人のデータを解析したところ、全粒粉や大麦といった全粒穀物を1日に70グラム以上食べていた人はそうでない人に比べて、心血管疾患による死亡リスクが23%低下、がんによる死亡リスクは20%低かったという。

目立たない記事だったので、翌日スーパーから全粒粉で作ったパンが店頭から消えたということはないだろうが、食生活について考えさせられる研究結果であった。

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2016年8月 9日 (火)

結婚したい独身男女

少し前だが、保育園には入れない待機児童のことが大きく取り上げられ河北新報でも「保育」に関する特集記事が掲載された。これは私も興味を持ちまた別の機会にまとめてみたいと思うが、ちょうど保育の特集連載記事が終わるころ、20歳独身男女で結婚したいと考える人の割合が3年前と比較して2割減少したという、明治安田生命福祉研究所の調査結果が報じられていた。(2016年6月22日付河北新報)

確かに日本の抱える問題は保育所不足による待機児童の問題ということもあるのだが、本来は少子化による人口減少という問題の方が大きく、人口減少を食い止めるための方策ということが大きな課題だ。それには1つには若者の結婚観を知り若者が結婚し、そして子育てしやすい環境を作るということが大事になる。人口減少下での、保育所不足というのは何とも皮肉である。

さて、明治安田生命福祉研究所の調査によると、20代独身男女のうち、結婚したい人の割合が男性で38.7%(3年前の調査では67.1%)、女性で59.0%(3年前は82.2%)だったという。独身でいる理由の最多は、男性で「家族を養うほどの収入がない」、女性では「結婚したいと思える相手がいない」だった。20~30代の未婚女性の半数以上が結婚相手に年収400万円以上を望む一方、実際にこの収入がある20代男性は15.2%、30代男性は37%だったという。調査の担当者のコメントは「このギャップが男性が結婚に前向きになれない一因とみられる」とのことだ。

さて記事はここで終わるので、ではどうしたらよいかは各自考えなければならない。いろいろな考えがあるだろう。「女性の意識を変える」「男性が女性の期待に応えられるようもっと頑張る」など。わたしとしては、これは個人の問題ではなく社会の問題であると思う。数年前までは「結婚したくてもできない」ということだったのかもしれないが、今年の調査では「結婚をはじめからあきらめている」。こんな絶望感が若い人の間にある社会が果たして幸福な社会なんだろうか。非正規雇用の拡大・増加を含め、社会の安定した基盤がどんどん切り崩されていく。若者だけの問題に限らずすべての世代の人たちにとっても幸せな状況とは言えない。そのしわよせは、日本社会の場合特に若い人たちに向けられているように思えてならない。

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2016年8月 5日 (金)

スポーツ考

オリンピックが始まった。今回はロシア選手団のドーピング問題が直前に起こり不可解な妥協的な解決となったり何かと話題に多いオリンピックである。これを機会にスポーツについて再考してみるといいのではないだろうか。読売新聞で特集をしている。8月3日付の記事で文化人類学者今福龍太氏が近代スポーツの歴史を振り返り、有益な提言もしているので要約してみる。

考えてみると昔人類には「スポーツ」なんてなかった。生活に密着して生活のために体を動かすという営みしかなかったはずだ。スポーツは、19世紀後半西欧の国家主義の台頭とともに生まれた。つまり西欧列強の世界侵略や植民地主義と無縁ではないということだ。スポーツは戦争の代替物であり、戦争による勝ち負けを、洗練した形で昇華させたものと言える。しかしというか、だからというか、スポーツの競技には敵対性の原理を持ち、勝者と敗者を分けるシステムがあり、勝敗原理に縛られている。

出典を忘れてしまったが、文化人類学者の記録をぼくは読んだことがある。西欧人から見たどこかの未開地でサッカーを現地の人に教えてやらせたところ、現地に人は、得点が多い方が勝ちというルールにとまどい、必ず相手と同点になるように相手に気を遣ってやるので西欧人の眼から見ると勝負にならなかった、でも現地の人は楽しそうにプレーしていたという記録だ。本当は人類の価値観は「勝ち・負け」だけでなく、「分かち合い・平等」という価値観を持った文化的集団も多いはずなのだ。

さて、今福氏によると、オリンピックは当初先進国のエリート階級の男性だけが参加できた。特権的な階級意識を確認する装置でもあったのだ。このように、オリンピックは偏狭なナショナリズムと結びつき、経済的な利益を体現する場となり、誘致に多額の費用が掛かる背後に膨大な利権が存在するようになった。なぜドーピングが起こるのかも、そうまでして勝利にこだわる、そして勝てば生み出される経済的価値があるからこそだ。薬物使用や商業主義などオリンピックは無垢ではないが、人々は過剰な正しさや純粋性を、スポーツだからこそ求める。これは幻想だろうし、近代の矛盾だと今福氏は指摘する。

ではスポーツに未来はないのか。今福氏は2つの可能性を指摘しとても興味深い。1つは勝敗原理の克服。これはスポーツの歴史そのものに対する反逆でもあり難しいが、勝敗原理が行き過ぎると、結局スポーツが政治と経済の道具になり果てる。しかし、身体運動の美や快楽は勝敗原理だけで実現できるものでなく、例えばサーフィンのようなスポーツは敵に打ち勝つことを本来目的にせず、自然物を相手に身体感覚を鍛えるスポーツである。こうした方向に未来のスポーツはあるという。

もう一つは、スポーツを家族や地域社会の連帯を作り出すコミュニケーションとして位置づけることだという。例として、ブラジルのサッカーは家庭や地域を結ぶ生涯スポーツ的なクラブが底辺にあることを挙げている。仙台で言えば楽天などのプロスポーツが、子ども野球教室などを開いていることなどもその例として、今後のスポーツの在り方を示唆しているのだろうか。それにしても、楽天の勝敗に一喜一憂しない、勝利至上主義からの脱却を、ファンとしてぼくも果たしたいと思う。何しろ一喜一憂していると大変ストレスのかかる負け方をしているので。

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