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2016年7月30日 (土)

炎上の研究

インターネット掲示板やブログ、SNSに書き込みが殺到する状態を「炎上」という(らしい)。新聞を購読する人が減り、テレビの視聴者も減っていく中で、インターネットの言論空間は重要性を増しつつある。その影響力は選挙の結果などにも影響し現実的なものとなりつつある。「炎上」による、世論形成や世論が誘導される方向性には以前から興味を持っていたところ、注目すべき研究結果が発表された。(参考:河北新報2016年6月28日付け)

国際大学の山口真一講師らの約4万人のネット調査により分かったことは、「炎上」状態になる際はごく少数の人が繰り返し書き込んでいるということだ。これは、過去1年間の書き込み経験者のうち同じ炎上に2回以上書き込んだ人が65%に達し、11回以上に達した人が10%いたことにより分かった分析結果だ。山口講師はコメントして「声が大きい一部の人によって炎上している実態を示す結果であり、過度の批判が行われればネット上の言論が委縮する、よって対策を検討すべき」という。

また、書き込みをした理由として「許せない」「失望した」が解答の半数以上を占め正義感に駆られれての行動であり、「楽しい」「ストレス解消」などの愉快犯的な動機が少ないことにも注目だ。

さらに注目すべきは、世帯年収が高いと、炎上への参加率が上がり、子どもがいない人よりもいる人で効率であり、役職のある会社員の方が、無職の人や主婦、学生よりも高かったという調査結果だ。これは、従来のネット住民やいわゆる「ネトウヨ」に対する見解を大いに改める必要がある社会科学的調査の結果である。従来は、非正規社員など社会的に恵まれない環境にいる人たちが、攻撃の対象を見つけ過激な発言をし、また極端な発言をする政治家をネット上で熱烈に支持しているというのが半ば通説だったからだ。今後は、憲法改正の国民投票もあるだろうから、ネット上における世論形成がさらに重要になる。従来通りの認識で、ネットの言論に対処しようとすれば、護憲派は敗退するだろう。まずは、ネットの言論をどのような人たちが形成しているのかを、客観的な分析が必要だろう。

最後に、河北新報は「炎上」についての論点をまとめてくれている。それも大いに参考に成る。
・悪い点…ターゲットとなった人物の個人情報をさらすなど、事実上の私刑が行われたり、激しい批判を恐れてネット上の言論が委縮する。(すでに、日本ではテレビ、新聞の言論は委縮しているのではないだろうか)

・良い点…企業の不正が暴かれたり、著名人の暴言が公にされたり社会的に意義が認められている事例もある。

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2016年7月23日 (土)

新たな環境問題マイクロプラスチック

新聞が小中学校に教育に利用されている。その活動をNIEというのだそうだ。宮城の地元紙河北新報にも小中学生向けにわかりやすい解説記事が載る。大人が読んで悪いわけではない。むしろ勉強になる。むしろ大人こそもっともっと勉強するべきだろう。7月12日付の記事にマイクロプラスチックという新たな環境問題が紹介されていた。

マイクロプラスチックとは、大きさ5ミリ以下のもので、人間が使ったプラスチックが目に見えないほどの粒となり、海の中に広がっていて、これが新しい環境問題となっている。海に入ってしまった原因として、私たちが毎日使っているペットボトルやレジ袋などが海に流され、太陽の光に当たったり波や風に揺られたりしているうちに壊れて細かくなったと考えられる。台所でよく使われているスポンジも原因の一つと言われているのだから、私たちの日常生活や購買行動も考え直さないといけない。

その他、人間がわざと小さいプラスチックを作ることもあるという。例えば化粧品だ。肌の汚れを取りやすくするために小さなプラスチックの粒を入れて作っているものもあるという。化粧品を使って一見するときれいになったと錯覚しても、プラスチックで顔を磨いているとなると、考え直してしまう。

マイクロプラスチックは現在どこまで広がっているのか。記事によると、鳥や魚が餌だと思って食べてしまったり、貝が水と一緒に体内に取り込んでいしまったりしているのがわかったという。そして、その生態への影響は?記事には実験が紹介されていた。マイクロプラスチックを入れた水の中でカキを育てると、入れていないカキと比べると、育ちが悪くなり生まれる子供の数も減ったという。魚の実験でも、卵からかえる子供の数が減ったり、敵から逃げる力が弱くなっているという結果がわかったという。実験室段階では、プラスチックが生物に与える影響、特に生殖に与える影響が出ている。

さて、記事の最後は「私たちが軽い気持ちで捨てているプラスチックが海の生物を傷つけていることを忘れないようにしましょう」と結ばれているのだが、何よりまず大人こそが事実を知り具体的な行動をすべきではないだろうか。


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2016年7月17日 (日)

読書ノート「因果性と相補性」(ニールス・ボーア)

フクシマの核発電事故以来、物理学を素人なりに理解しようとしている。専門家に牛耳られ『事故の影響は何もないのだから、素人がわかりもしないくせにヒステリックに騒ぎ立てるな」と言われるのが悔しいというのが動機の一つだったが、学び始めてみるとなかなか物理という学問も面白い。

哲学などの文系学問とは違う人間の世界理解に対するアプローチの仕方だが、目に見えるものから見えないもの、地球上から宇宙全体まですべてが物理が相手にする学問領域だ。物理学の世界に対する理解はなかなか深淵だ。数学を用いて、統一的に世界を説明できたらなんて素晴らしいのだろうという、物理学者の美意識はなんとなくぼくもわかるようになった。

でももちろん、そのことと核発電や核兵器は別問題だ。物理界のスーパースター、アインシュタインもそして量子力学の大立者ボーアも純粋に物理の世界にだけこもることは出来なかったししなかった。時代の要請が政治的、というか人間であればするであろうまともな発言や行動を世界に向けてせざるを得なかった。

岩波文庫で出ているボーアの論文集「因果性と相補性」についても第2次世界大戦直後、国連での核兵器に関する彼の提言が載っている。この時、核兵器はアメリカとイギリスだけが独占していたが、この技術を世界中に公開し、アクセスを求める国家にはすべて平等にアクセスさせ、その代わり兵器転用ができないように査察を厳しくするという提案をしている。とても先見の明がある提案だと思う。戦勝国だけの独占にすれば、締め出された他国と開発競争になり泥沼化する。そうならないためには、情報公開が大切だ。情報公開して、ならずもの国家が兵器を作ったらどうするんだという問題が必ず出てくるが、基本的には全世界中が富や資源に平等にアクセスできるようにして、その中で悪用しないようにしていくのが世界規模で平和を達成する道だと思う。

さて肝心の量子力学についてはぼくに解説する力量がないのだが、量子力学のその当時における斬新さと世界理解に与えた、そして今も与えている大きな影響はこの文庫本のタイトルにある通り「因果性と相補性」だろう。古典物理学の世界では、ある物体がある時点である位置にいて、ある速度で移動していれば、ある一定時間後の位置は必ず決まる。運動方程式が建てられるのだから、その方程式を解くだけで答えは一つで、ある物体は一定時間後に必ず予測されたところにいる。これが物理の世界で揺るがない因果関係だ。ところが量子力学の世界では、ある一定時間後にその位置にいるかどうかは確率的にしかわからないのだ。つまりそこにいるかもしれないし、いないかもしれないし、いるとしたら何パーセントの確率でということになる。

深淵で面白い世界観で、文系人間のぼくにはそういう世界の方がなんだかおもしろい気もする。だが量子的世界観が通用するのは原子や電子と言った極小の世界であって、我々の日常生活の世界では、以前の通りの因果関係が続いていると思って間違いない。原子や電子の世界が想像の世界だけではないとわかってきた20世紀の初頭に量子力学は誕生した。

極微の世界では、位置を正確に測ろうとすればエネルギーが測れず、それが持っているエネルギーを正確に計ろうとすれば今度は位置が測れないというように、相反する世界が広がっている。それでは正確な観測をあきらめなければならないかというと、それをうまく解決するために出された考えが量子力学の世界観だ。そこで相補性という考えを用いるのだが、ボーアの論文集も、数式を駆使したものではなくて、哲学書のように「どう考えるのか」が説かれている。そういう世界観や考え方の基礎を作ったからこそボーアは量子力学の中心人物としてこの分野の確立に大きな貢献をしたのだ。相補性という考えをぼくはうまく消化して説明できない。しかし、印象に残っている比喩表現は人間の心理学だ。人間が人間の心理や感情を研究する。研究対象である「心理」や「感情」は客観的で独立した存在だと言えるだろうか。観測者である「人間」が何らか測定結果に影響を与える。だからと言って、研究できないものでもない。それが物理学者=観測装置とその観察対象との関係と同じだというのだ。


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2016年7月13日 (水)

政治的寛容と少数意見の大切さ

今となっては参議院選挙の結果が出る前になってしまったが、7月5日付の河北新報に在日韓国人姜誠(カン・ソン)氏の論考が掲載されていた。それは18歳になって新たに投票権を得た若い人たちに対するメッセージだったが、日本社会の今後の方向性に対する少数派に属する人からの貴重な提言でもあった。

氏は選挙に行かないかもしれない新有権者に対して、それはもったいないと呼び掛ける。なぜなら、日本に居住し選挙に参加したいと思いながらもできない、無権利者―外国籍住民や無国籍者がたくさんいるからだ。姜氏もそういう無権利者の一員で、「自らの意志で政治代表を決めるすべを持たない人間は果たして、民主主義社会で十全たる個人と呼べるのだろうか」と自問したのだという。

こういえば、ヘイトスピーチや嫌韓・嫌中国が日本社会を上から下まで席捲している昨今なので、そんなにいやならとっとと帰れとの声が聞こえそうだが、ぼくが姜氏の主張に共感するのは、健全な民主社会には多様性が必要であり、その多様性を生むのは少数派や異質な人たちだと思うからだ。その多様性や少数派を排除した社会は一見一枚岩で強そうに見えるが、それは弱さの裏返しの強がりのようなものでもろくも崩壊してしまう。

氏が18歳の若者に選挙を勧めるのは、投票してときに死に票になり自分の意見が政治に反映されない時、少数派や弱者が置かれている立場に気付くこともあり、それによって目が開かれるからだという。

日本では国家は同質な文化を持つ民族の共同体であるべきだとの規範意識が強い。親から日本人の血統を引き継ぎ、その文化圏で生まれ育たないと日本国民足りえないという考えが強い。だから、外国人を排除する気持ちも強い。さまざまな歴史的経緯を持つ理由から日本への同化を良しとしない民族的マイノリティーを排除してしまう。彼らのほうもあえて外国籍を維持する。

しかし、彼らだって自分が住んでいる地方に対して、貢献したいという気持ちがあるのではないか。国防や外交政策に影響するので、国政の参加権を付与することは急には無理だが、地方選挙の参加を通じて自己の文化特質や資源に応じた社会貢献をすることで、多様性と活力に富む地域社会を作り一員になりたいとの願いが在日外国籍住民の中にもあると氏は言う。

私も、日本に来てくれる外国人や日本在住の外国人は「人の宝」だと思う。ともに今後の日本社会を作っていってもらわなければならない大切な人材だ。今回の参議院選挙は東北と沖縄だけが全国と結果が違った。たぶんこの2地域は日本の違う現実を見ているのだろう。

東北の人たちが見ているのは20年後、30年後の衰退している日本だ。人口そのものが減り、高齢化が進み、医療と福祉が崩壊し、地場産業は衰え雇用の場所がなくなる。そういう意味で最先端の日本を体現しているのが東北だ。他の地区の10年先、20年先を行っている。ぼくは決してこのことが悪いとも思わないし、今までになかった新しいことをやる無限のチャンスが広がっていると前向きにとらえている。だが、そこで力を合わせて働くのは文化的・血縁的に限定された日本人だけではないはずだ。そもそもそういう意味の日本人が少なくなっていくのだから。誇れる日本というのは、社会的、文化的にも寛容で、多様性を重んじ、それが社会の活力となりダイナミックな変化をして時代の変化に対応できるそういう社会であると思う。

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2016年7月 6日 (水)

18歳選挙権

18歳から投票できることが今回の参議院選挙では一つ大きな話題となっている。果たして若者の投票率は、そしてそれが全体の投票率の底上げにつながり国民の政治への関心は高まるのか、そんなことが注目されている。河北新報6月22日の記事に、18歳選挙権先進国のオランダの総領事ウオルスさんのインタビュー記事が載っていた。18歳選挙権を巡る論点や視点を提供してくれて私はこの記事に関心を持った。

まず18歳という年齢が早いか遅いかについて。氏は「18歳は大学進学などで社会に出ていく時期なので、政治参加には早すぎない」という。ただ日本の若者の印象については「大人に守られながら育ち幼い印象を受ける」という。若いうちから自分の意見を探す訓練をさせるオランダに比べると、年長者から万学んで行く傾向が強い日本との違いが出ている、という。

日本では、政府の公式見解以外は教えてはいけないと、高校の現場では委縮が起きている。萎縮というか世間の動向を先回りして気にする自己規制であるが、これでは高校生が政治について学ぶ機会はなく、何を判断基準にして候補者や政党を選んでよいかわからない。それに対して氏は「上から目線で子どもに教えるのは間違いで、子どもたちに議論の仕方や政策の比較の方法を教え、彼ら自身で検討するように仕向け、自分で考える力を引き出すようにしてほしい」という。

私も氏の考えに賛成だ。何も学校の先生たちだって、特定の候補者や政党に投票するよう誘導しているわけではないだろう。肝心なことは、この民主主義社会では、国民の一人一人が主体なのだから、自分で判断し行動することだ。でも、その力というのは育てなければ育たない。自分で考える力がある国民こそが民主主義社会には必要だし、そうじゃない社会では、自分で思考しない国民は大歓迎だ。オランダではどうしているのだろう。

1つには、オランダの小さな都市ではごく普通の住民が議員を務めそれが政治を身近にし、多様性を生んでいるという。ウオルス氏も小さな町の議員を勤め、道路一本作るだけでも、自分たちの生活がどのようなシステムに支えられているか、問題がどのように解決していくかを知ることができてよい経験だったと言っている。民主的な社会というのは一朝一夕にはできず、こういう小さなことの積み重ねが、民主的な社会を支えているのだ。だが、民主的な社会が簡単に崩壊してしまいうるというのは歴史を見ても明らかだ。

日本の場合、投票を棄権する人の理由で「自分が投票しても政治は何も変わらないから」というのが多い。政治は自分の生活とは全く無関係で、知らない別の世界の人が行うものだと思っているし、また何を言ってもしても変わらないという政治不信が人々を政治、つまり民主的な社会参加から遠ざける。人々が絶望するその原因の一つには、立候補する供託金が世界水準からすると異常に高く、これでは2世議員などの恵まれた家柄のものしか政治にかかわれないといった問題も様々にあるのだが。

私もこう言っているだけでは世の中変わらないので、何かしたいとは思っているのだが…。とりあえず、選挙権は行使したいとはいつも思っている。

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2016年7月 3日 (日)

運動の必要性

医学の論文のちょっとした抄要が新聞に載ることがある。世界各地で膨大な資金が投入されているであろう医療研究の成果が地球市民に還元されるのは良いことだ。ぼく自身もそのような医療研究やその知識には興味があるので、新聞のそんな小さな記事でもなるべく見逃さない。

6月22日付の河北新報によると、10代後半の時期に体力が低いと2型糖尿病を発生するリスクが高まるという研究結果をスタンフォード大とスウェーデンのルンド大の共同研究グループが発表したという。

研究方法はこうだ。1969~97年に18歳で徴兵されたスウエーデン人男性を追跡調査し、徴兵時に測定した有酸素運動能力と筋力と、2型糖尿病との関係を調べた。結果は、18歳の測定時に有酸素運動能力と筋力の両方が低いと2型糖尿病を発症しやすく、そのリスクは約3倍だという。

この研究結果は、若い人に(高校生や大学生に)運動をやっておけば、将来も健康に暮らせる可能性が高くなると勧める科学的根拠になる。高校生の部活動は、顧問の先生の負担や加熱しすぎという問題点もあるが、運動系の部活動を奨励すれば、将来国家的にも医療費の削減に役立つし、何より健康な市民生活を送ることができる可能性も高まるということだ。スポーツをする意義、特に若い時にする意義を考えるいい機会だ。

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