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2016年5月27日 (金)

リスクと医療

患者主体の医療。これは現在の日本の医療現場で、ほぼ常識になりつつある運営理念だ。「患者主体」とはどのようなことをいうのだろうか。一つには、患者自身の自己決定権の尊重ということである。自己決定や患者自身の主権を守ると言えば、もともと他者に決定をゆだねる精神的風土が強い日本人の精神構造にはあまりなじまない考えであって、元はアメリカの医療現場から出てきた考えであり、それが先進的な思想を持った医師などにより日本に紹介され後押しされて慣行されるようになってきたものだ。

患者の自己決定権を支えるためには、正しい自己決定するための情報が必要だ。それが、患者に情報を伝えたうえで治療法を患者自身が決めるインフォームドコンセントと呼ばれるものだ。インフォームドコンセントは大きな病院であればほぼ100パーセント行われているであろう。もしこういう手続きを怠り医療事故でもあれば、それはたちまちマスコミで報じられ大きな非難を呼び起こすことになるだろう。医療事故や訴訟に対しては、病院側も委縮していて、丁寧に患者に事前に説明し患者やその家族が本当に医師の説明が理解できたかどうかいちいち署名を求めて次の過程へと進んでいく。しかし、これが今必要とされているプロセスなのだ。ぼくもこれは悪くはない過程だと思う。この過程を経るたびに、徐々に医療が自分自身のものになっていくのを促すと思うのだ。

ただ、自身で決断を迫られるのがリスクの説明だ。現在継続中の核発電事故でも、リスクと確率について考えさせられているが、リスクと確率の専門家でない普通の人は一体これをどう考えればいいのだろうか。専門家にとっては簡単な話だ。統計を取って、病気になったり副作用が出る確率が1万人に○○人とかの数字で語ればいいし、統計的に意味のある数字が出るだけの事例が集まっていなければリスクと確率は語れないだけだ。リスクと確率の解釈は素人には難しいし、専門家も時に悪意をもって数値を利用しようとする。核発電に賛成する素人は、反対派が言う通り核が危険であれば今頃現地では病人だらけになっているはずだが、なっていないのだから反対派は頭がおかしいと言う。これなどはリスクと確率について考え違いをしているし、専門家でも、核発電所から出る放射線でたとい死亡リスクが高まったとしても、一人あたりに直せばほんの数十分余命が短くなるだけで、そのほんの数十分と核発電がもたらす巨大な便益とを比較して、核発電をやめてしまうのはナンセンスだなどという。これも、根本的にどこかが狂ったおかしな議論だ。

さて、病院の治療でも必ずリスクと確率は重要説明事項になっている。そしてそのリスクを引き受けるのは医師でもなければ病院でもなく、絶対に患者なのだ。しかし、専門家でない人にリスクと確率をどう考えればいいのか、自己決定権とはいうものの考えようも判断のしようもないのでは、と思う。こういう時に寄り添える医療関係者以外の人がいたらいいと思うし、その点について後悔していることもある。若いころから文学書・哲学書・宗教書などを読んできたがそのせいかなかなか具体的に社会に貢献してきたという実感もないし、社会から評価されてきた実感もない。でも自分のできることで社会に貢献できればという思いはある。

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2016年5月12日 (木)

忘れられた思想家・安藤昌益

江戸時代の思想家安藤昌益の「統道真伝」を読む。彼は東北ゆかりの人物だ。秋田生まれで、青森の八戸に在住していた。長らく忘れられた無名の思想家であったが、彼の遺作が発見され、歴史家のH.ノーマン氏が昌益を紹介したことなどで有名になった。

 

彼はなぜ無名だったのか。それは彼が過激な思想の持ち主で、江戸時代にもし彼の著作が刊行されていれば間違いなく発禁処分で、著者は逮捕・投獄だっただろう。というのは、彼は階級制度を徹底的に否定し、万人が農耕に携わる理想社会を提唱していたからだ。今の言葉で言えば、原始共産主義を主張していたことになる。農業中心の原始共産主義は、ポルポト政権の失敗や中国の文化大革命の失敗で、すこぶる評判が悪いが、彼の思想史的な価値と言えば、江戸時代に誰もそんなことを考え付かなかったことを独自に考え出したことだと思う。そして、農業、特に米に彼が徹底的にこだわったのは、東北人らしいなと思うのだ。

 

さらに彼は儒教や仏教など江戸時代に支配のために重要視された思想を、それらが自分たちに利得がめぐってくるように民衆を洗脳し、支配層のために奉仕する欺瞞だと激しく攻撃したことは、昌益独特の先駆的な思想だと言ってよいと思う。

 

しかし、一方で彼の論理は陰陽五行説に基づいていて、五行説の範囲内では一応整合性があり論理的で科学的な態度をとっているように見えるが、そもそも五行説の科学性が現在では認められていないので、結局彼の全理論はこじつけで滑稽というふうになる。(将来、陰陽五行説が、科学的にも裏付けされれば、また話は別ということになろうが)。

 

同時期のヨーロッパでは科学が発達しつつあった。日本はじめ東洋では陰陽五行説である。その差は何かと考えると、科学には実証主義や観察・観測の重視というのがある。もし疑わしいことがあれば、実験して証明すればいいのだ。誰がやっても結果を再現できる実験であれば科学的に正しい。また、精緻な実地観察を続け、理論と観測結果が合致しなければ、真実と言えない。所が東洋では、2000年前に出来たり論が絶対的に「新」であり、その理論によってすべての現象を説明しようとするから、その説明は実地の自然現象と合わなくなるし、合わなくなればより荒唐無稽な説明をこじつけなければならなくなる。

 

ぼく自身は決して東洋思想を否定するわけでなく、「易」や「陰陽五行説」も、この科学万能の現代社会に何か意義があり極めてみたいとは思っているが、安藤昌益の思想のなかでは彼我の差を思わずにいなかった。だから、昌益は言葉の語呂合わせによって自説を主張しようともする。「命(いのち)」とは「飯(いい)の内(うち)」だから、米のなかにすべてがあるというようなことを言う。これは、現在でもいわゆる似非科学の伝道者と言われる人たちがよく使う手だ。言葉の語源が本当に同じかどうかは、文献を調べて過去にさかのぼって見たり、さらには音韻学的に変化の確率等を計算してみて初めて同じ語源であるかはわかろうというものだが、こういう語呂合わせの中にも何か神秘的な符合を感じるというのは、昔も今も変わらない人間の弱点なのかもしれない。

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2016年5月 9日 (月)

METライブビューイング「蝶々夫人」

プッチーニのオペラ『蝶々夫人』。オペラの演目のなかでも1,2を争う人気の演目だろう。4月2日にニューヨークメトロポリタン劇場で行われた公演では後ろの方で立ち見客が出るほどだ。だが、日本人にとってはこの有名なオペラのおかげでずいぶん誤解されていてはなはだ迷惑であるというのが、これまでのぼくの見解だった。いわく『日本人女性は忍耐強い・尽くす・自己犠牲精神に富む』。加えて日本人役の名前が「マダムバタフライ」はまだいいにせよ「スズキ」「ゴロ-」「ボンザ(多分坊主のことだろう)」「ヤマドリ(蝶々さんに求愛する武士の名である)」ときたら、時代錯誤に異国趣味でヨーロッパの観客を魅了して人気を博したものとの偏見がぼくにはあった。おまけに「さくらさくら」のメロディーもうまく取り入れている。

だが、初めて本物の「蝶々夫人』を見て聞いて、多少日本人の眼からはおかしいところがあるにせよ、これはやはりオペラのなかの傑作中の傑作で今でも人気があるのはわかると感じた。まず、圧倒的にプッチーニの音楽が美しい。感情を増幅し揺さぶられる。歌ももちろん、あの有名な「ある晴れた日に」をはじめ素晴らしい。そして蝶々さんを演じたクリスティーヌ・オポライスの歌声も素晴らしい。見てるうちに純真な愛の物語、一人の女性の悲劇だと納得できるようになるのだ。そして、METのライブビューイングでいつも感心するのは、その斬新な演出だ。

蝶々さんとピンカートンの間に子供が生まれその子は3歳に満たないぐらいなのだが、その子役は人形が務めた。その人形は文楽の人形遣いを取り入れてのもので、表情のない人形が、見る者の目にその場その場に応じてとてつもなく豊かな表情を見せるのだ。日本の伝統芸能の底力がこういう所で行かされているのを見るのは、日本人として素直にうれしいし、逆にわれわれ日本人こそ伝統文化を継承し発展させ、それによって世界の文化を豊かにすることに貢献しなければいけないと気づかせてくれるのだ。文楽のふるさと大阪では、確か民衆に人気の政治家が文楽を軽視して補助金を削除したはずだが、古いものを守りつつもそこに息吹を入れて現代に生かしていく、そのやり方はメトロポリタン劇場のやり方が参考になるのではないか。

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2016年5月 8日 (日)

憲法を語ろう

5月3日の憲法記念日に向けて、河北新報紙上で「憲法を語ろう」というシリーズの記事が掲載されていて、憲法を改正したほうがよいという論者と、しない方がよいという論者、バランスを考慮して交互に登場させていた。ぼくは第4回に登場した五野井郁夫氏の発想が面白いと思い共感した。

五野井氏は、戦争法案への反対運動が非暴力を貫いていることから、そして平和的なデモが定着していることから、憲法の平和主義が国民文化に根付いていると評価する。憲法が、私たちの思考や行動に影響しているという点を重視している。そのことから、憲法は理想であって、現実そのものでないのに、理想と現実が混同されている改憲論に危機を覚えるという。

ここでぼくの考えを補足すると、個人の場合でもそうだが、理想の生き方や、理想や目標とすべき偉人や身近な人など、誰でもいるはずだ。今の自分が、ふがいなく、たとえそうなっていないとしても、その理想に近づこうと人は努力するわけだし、理想に不足しているところを恥ずかしいと思うわけだし、理想があるからこそ、「堕ちようよ」という甘い誘惑にも耳を貸さずに頑張ることもできるわけだ。スポーツ選手だって、理想のフォームやプレイがあるわけだろうが、現実の自分がそこに行っていないとしても、その理想の形を求めて見な努力するわけだ。だから、理想は、その人の思考や行動に大きな影響を与えると言えるわけだ。そういう「理想」を頭に描いて、そこを目標に出来る生き物は人間くらいだろう。

もちろんこれには良し・悪しがある。本来生き物は目の前の現実だけに生きるべきだ。食べ物がなくてひもじければ、食べ物を求めて満腹になるように行動すべきなのだ。だから、人間が抱く「理想」なんて、ちっとも役に立たない「空想」とか「夢想」と言って馬鹿にされてきた。しかし、人間だけが生物界の進化の過程でその道を外れ、空腹のときでさえ、満腹で幸せな状態を思い描くことができるようになってしまったのだ。

さて、五野井氏の主張に戻ると、現行憲法に「両性の本質的平等」が定めてあっても、現実は日本の女性の地位の交際ランクは100位以下であるし、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」が保障されていても、日本の貧困率や所得格差を示す係数はOECD諸国内でトップクラスである。では現実に合わないから削ったり変えてしまっていいか?そうではなく、それは進むべき理想でありそこに向かって努力するべきだと氏は言う。

それは9条も同じで、理想を引き下げるのはおかしい。もし理想を引きさげたら、私たちの生きてきた世界観はガラッと変わる。安倍さんたちや自民党が提唱する憲法改変を受け入れるのは、今までとは全く違った世界観を受け入れ、私たちの生き方・考え方も大きく変えることになることだと、ぼくは思う。それを受け入れるのかどうか、国民一人一人が問われている。


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2016年5月 5日 (木)

「チェルノブイリ」30年

チェルノブイリ原発事故から30年たった。4月26日付の河北新報には、スベトラーナ・アレクシエービッチ氏の発言を引用しつつ、核事故を振り返る記事が掲載された。氏は、チェルノブイリ原発があるウクライナ共和国の隣国ベラルーシの作家で、チェルノブイリ核事故の処理に当たった人や地元住民の証言を聞き取った作品がある。

氏によると、事故から30年たってもその本質を理解している人がおらず、人々は蚊帳の外に置かれ続けているという。政権は「チェルノブイリ」という言葉を使うことを事実上禁止し、事故を克服するのではなく、風化させてなかったことにしようとしているという。これは最大の被害を受けたベラルーシの現状であるが、まるで日本のことを言っているように思えるではないか。

氏の本は母国ベラルーシでは出版できないが、ロシアから持ち込まれて少しずつ読まれているという。そしてこの流れを止めることはできないと氏は言っている。言論・出版の自由と言った民主主義が、そして情報公開や情報へのアクセスの自由が、事故の克服にはとても大切だということが痛感させられる。また、権力を持つ者は情報を隠蔽したくなるのは当然だとしても、それを知ろうとする民衆の要求は、どこの世界でも止めようがないだろう。

氏は、日本のことにも言及している。2003年に氏が講演で日本を訪れた時、核発電の関係者から「チェルノブリの事故はソ連人の怠惰からおこった事故で、技術大国の日本ではありえない」と言われたことが印象深かったという。「絶対に事故など起こらない」という傲岸な前提は、いまだに日本では根強い。今後の動向がまったくわからない九州の地震でも、「この日本で起こりえないものは起こりえないのである」。だがスベトラーナさんは、「2つの事故でわかったことは、科学技術が進んでも、真摯な態度で管理しても、核の事故は起こるということ。技術が進むほど大きな事故は起こる。人間が自然に勝つことはできない」と言う。

事故の被災国であるベラルーシで核発電所の建設が続くのも、どこか日本の今と符号する。どうして事故を経験しても推進するのか。ベラルーシの場合、反核運動も環境保護運動も禁止されているという。そして、困窮した国民は原発問題よりも明日の仕事を心配しているという。こんなところまでベラルーシと日本は符合する。権力側にとっては、国民の経済的困窮・貧困はありがたい。国民は強い権力を求めて政権にすり寄ってくるし、自発的に思考し行動する余裕がない国民ほど、権力側にとって可愛い国民はない。貧困を作り出すことこそが、安定した政権基盤を作れるのだ。

最後にスベトラーナさんは言う。「フクシマで何が起きているのか、日本の人々がどう考えているのか聞きたい」。もしかしたら、事故はなかったのだから、スベトラーナさんが日本人から答えを聞き出すことはできないのかもしれない。

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2016年5月 1日 (日)

姜尚中「思索の旅」

姜尚中氏が日本各地を訪れ近代日本の歴史を振り返る連載を河北新報紙でも読むことができる。日本近代の工業化をあらゆる意味で象徴化する三菱の軍艦島なども訪れているが、東京書籍という教科書会社の教科書博物館を訪れ、そこで氏が考えたことが興味深かった。教科書は国策を強く反映する。国家がどのような国民を求めているか、言い換えれば国家がどのような国民を作り上げようとしているのかが教科書から読み取れる。

近代国家の出発点は明治だが、その出発点の明治初期はまだ教育が混とんとしていて、教科書も教育も自由で、姜尚中氏によれば、上からの統制が緩んで自由闊達な時代であった。今までの鎖国政策を転換し、国を外に開いていく時代があれば、しかし必ず反動が来る。開いていけばいくほど、閉ざしていく力、つまり国家への求心力が強くなる。自由な教育と教科書の時代は終わりをつげ、国家に教育は従属し、国家に奉仕する人材を教育や教科書は作り出すための道具となる。

日本に再び自由な教育と教科書が訪れたのが日中戦争・太平洋戦争の敗戦後の混沌時代だ。あの文科省でさえ率先して「これからの民主主義」という、今読んでも感動する教科書を作ったのがこの時代だ。今、グローバル化の掛け声のもと日本は国を開いていく苦悩を再び味わいつつある。姜尚中氏が言うように、開いていけばいくほど、閉ざしていく力が強くなり、その中心となる求心力に国家が据えられる。ちょうど明治の自由な教育・教科書が終わりを告げ統制がは始まったたように、教育基本法が改正され『愛国心』「公共の精神」が鼓舞され、「国民」が主語であった憲法が「国家」を主語とする憲法に改変されようとしている。

今の時代だけに生きていたのではわからないが、歴史を振り返ってみれば、2度目の道を歩んでいるのである。国を外に開いていく苦悩とその反動としてうちに求心力を求める、そのせめぎあいと繰り返し、これは世界の辺地にある島国国家の日本の永遠の運命なのだろうか。

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