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2016年4月24日 (日)

2日にまたがる新聞記事

先日4月20日の河北新報には、国連のデービッド・ケイ特別報告者が来日し、日本における言論・表現の自由の調査結果を発表したとの記事が載っていた。それによると、
・特定秘密保護法で報道が委縮している。
・メディアの独立が深刻な脅威に直面している。
・政府が放送法を盾にテレビ局に圧力をかけている
・多くの記者がケイ氏の聞き取り調査に対し『政府に批判的な記事の延期や取り消し』が起きていると答えた。記者たちはケイ氏の聞き取りに対して身を守るため匿名を条件に答えた。
とのことだ。

もちろん当の政府は日本には報道の自由があるという立場だから、ケイ氏が面会を求めた高市総務大臣は面会をしなかった。これは近くは、フクシマ核発電所事故後に、国連の調査官が出した日本では人権が守られていないという報告を政府が無視したことや、遠くは、満州国独立に関して、国連のリットン調査団が日本に不利な結論を出したため日本が怒って国際連盟を脱退したことをほうふつとさせる。自分に不利なことは怒って無視するというのは安倍首相の個人的な資質とも似ている気がするし、ロシアや中国のようなわがままな大国のエゴが国際協調を無視して我が道を行くという路線を取っているのとも似ていて、中国のことなんか批判する権利はないと思う。

ちょうど翌日、小さな記事だが「国境なき記者団」が出した世界各国報道自由度ランキングというのがあった。特定秘密保護法の影響で自己検閲状態に陥っている日本は72位という数字だ。1~3位はフィンランド、オランダ、ノルウェーの北欧諸国。英国38位、アメリカ41位、フランス45位、ロシア148位、中国176位、北朝鮮179位、そして最下位はエリトリア180位だ。アジアで日本よりも報道が自由なのは台湾51位、韓国70位だ。

北欧諸国というのは福祉や国民の満足度・幸福度、そして報道の自由度など、あらゆる指標で上位を占めている。小国で人口も少ないので日本の参考にはならないという意見もあろうが、北欧諸国のような世界への貢献方法もあるのではないかとぼくは思う。すなわち存在そのものが世界への貢献だ。なかなか他国はまねができないとしても、そういう営みが世界のどこかには実在するということや他国の目標やあこがれになること自体、人々の気持ちを高め行動を促すこともある。

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2016年4月21日 (木)

2つの記事を合わせて読むと

4月14日付の河北新報の報道で気になったのは、国連ユニセフの調査で、子どものいる世帯の所得格差を数値化したところ、日本はOECD諸国やヨーロッパ諸国と比べて格差が「大きい」と出たとの記事だ。調査対象となった41カ国の中では日本は格差の大きさで上から8番目だ。日本より格差が大きい国としてはメキシコ、ブルガリア、ルーマニアなどが挙げられていた。格差が小さい優等生は、相も変わらず1位ノルウエー、2位アイスランド、3位フインランドと北欧諸国だ。ちなみに韓国もアメリカも、日本よりは格差が小さい。

調査結果だけの事実報道だが、一つだけ識者のコメントがあった。貧困問題に詳しい阿部彩氏だ。それによると「日本は子供の格差が大きい。日本とよく比較されるアメリカでも、日本より貧困の度合いが浅い」とのことだ。

そしてこの記事とは関係ないのだろうが翌日15日には自民党赤坂議員の「女の子はキャバクラに」という記事が掲載された。赤坂氏は「高校や大学は自己責任でいけ」というのが持論の方だということだ。政府が個人を援助する政策は、個人を怠けさせることになるのでやらない方がよいという、こういう「新自由主義」的な政策や考え方は、世界や、そして特に日本では主流的なものだろう。アメリカのフリードマンが唱え、日本でも公共部門の民営化や、労働者の非正社員化政策などに受け継がれてきて、こうすることが個人の創意・工夫を刺激し起業を企てる人が最初に豊かになり、その人のおかげで社会の下の方も潤う、という考えで、日本に根付いている。「女の子はキャバクラに」というのは、貧しい家庭の子はキャバクラに行って学費を稼いで、自己責任で大学に行け、という意味ではなくて、「仕方なく親に言われて大学に行っても女の子はキャバクラに行く」というのが赤坂議員の発言趣旨だということだ。

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2016年4月20日 (水)

脳学者 養老さん

何日か前のことだが、脳学者の養老さんのインタビュー記事が河北新報に載っていた。たぶん他の新聞社にも配信されて全国どこでも読めたと思うのだが、その中で養老さんが日本の民主主義について話していた。養老さんのインタビューは、難解で要を得ないものだったが、日本で投票率が高くないのは問題にすべきでなく、それで日本なりの民主主義は成立しているというようなことを確か言っていた。その例として、地方の市長選などでは投票率20パーセントなんてところもあるが、それはあいつに任せておけばよい、という民意の表れなんだそうだ。

これを読んだときは腑に落ちず、やはり選挙に参加することで民主主義は成り立つのではないかと思ったものだが、しかしまあ一つの考え方としては、投票に行かない人も含めて国民が政治家を信任するという形の特殊な政治形態もあるのかなと思うようになった。

例えば、TPPには反対するという、選挙公約(マニフェスト)を宣言して立候補して、信任されて当選したとする。しかし、当選後はTPPを推進するという立場に鞍替えしたら、ふつうは選挙民は怒る。しかし、怒る国民がいないのは、日本では選挙公約(マニフェスト)で競い合うのではなく、あいつに任せておけば大丈夫だ、が選ぶ基準だからだ。つまり。全権委任しているので、委任された人が態度を変えようとも、それも含めて認めているのである。つまり、どういう方針を取っても国民は追認するのである。これはなかなか興味深い「政治学」の対象であるが、養老さんが考えていたのはこういうことだったのだろうか。

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2016年4月16日 (土)

九州で大地震が発生

九州でまさかこれほどの震度の地震が起こるなんて。高々少ない自分の見聞や知識の範囲では、九州には火山はあるものの大地震などはないものだと思っていたので自分の不明を恥じる。余震もなかなか収まらないだろうし、他の断層が刺激され、また大きな地震が起こる可能性もあるだろう。九州地方の人たちがこのつらい時期を乗り越えてほしいと思うが、振り返ってみれば5年前の震災のときは1か月くらい余震が相次ぎ、いつもいつも地面が揺れていて、いつも酔っぱらっているような不思議なかんじだった。もちろん気持ちも収まらない。今回の九州の大地震も、まずは揺れが収まらないことには、家の片付けも始まらないだろうし、腰を据えての復興は始まらない。自然の神様、どうかお怒りを収めてくださいと祈りたい。

 

振り返ってみれば、戦後の日本はいろいろな偶然が重なって幸運だったのかもしれない。敗戦で軍国主義が崩壊し民主主義が空から降ってきた。アメリカの軍事力のもとで、経済活動にだけ専念すればよかった、そして何より戦後50年までは日本列島の地震活動はそれほど盛んではなかった。だが地殻活動についていえば、もともと地震の巣である日本で、地面の下でナマズが暴れないのは例外であって、いま日本列島は地震の活動期に入ったと指摘する専門家もいる。日本が置かれた幸福な偶然は全部状況が変わったのだ。これからは傲慢な現代人が想定もしなかったという未曽有の自然災害が常態になる時代かもしれない。こういう時代だからこそ、被災地の人の心のケアに寄り添うなど、力を入れるべき入れどころも変わってこなくてはだめだと思う。

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2016年4月 6日 (水)

メトロポリタン歌劇場ライブ・ビューイング「マノン・レスコー」

フランス文学の「マノン・レスコー」、むかし岩波文庫で読んだことがあるのだが、内容は全く覚えていない。でも「マノン・レスコー」という女性の名前は、ある種、代名詞のように使われている。「恋多き女」というかんじだろうか。このフランスの小説を基にしてイタリアのプッチーニがオペラに仕立てた。彼の最初の出世作だという。「マノン・レスコー」はフランス人のマスネも作っていて、ライブビューイングの中でも、どちらがいいのか、どう違うのかなんて話題が出ていた。

プッチーニの旋律だし、恋人たちの生き別れの切々たる場面など、非常に「濃い」時間を過ごせた。この「濃さ」は、やはりイタリアならではの人間関係だったり文化だったりするのだろうか。まあ、マノン役のクリスティーヌ・オプライスやデ・グリュー役のロベルト・アラーニャなどは素晴らしく、歌に演技に堪能できたし、演出家のリチャード・エアが舞台を1941年のフランスと設定した演出や豪華な舞台装置や群衆の合唱などは、本当に贅沢な時間だったと思う。

しかし、来シーズンのラインアップが映画の中で紹介されたとき、モーツアルトがあった。それを見て、小学生の男の子が好むような下ネタギャク満載のモーツアルトのオペラというのはやはり偉大なんだなと、ちょっと濃い味に食傷気味のぼくは思ってしまった。というわけで、メトロポリタン歌劇場ライブビューイングの今シーズンの残りのラインアップをできれば見逃さないようにしたいし、来シーズンのラインアップもなかなか魅力的だ。


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2016年4月 4日 (月)

末光 真希氏のプリズム

河北新報で連載されていた末光氏のプリズムという随想で、ぼくが面白いと思ったことをもう少し紹介したいと思う。連載第2回に「理学」と「工学」の違いというのがあった。大学の学部選びの時も「理学部」に行くか、「工学部」に行くかで迷う高校生もいるだろう。ぼくなどは全く愚か者だったので、大学も学部も、入ってみなくちゃわからないなんていい加減なものだった。すべてこの伝で、人生行き当たりばったりだったのだが、今の若い人にはもっと事前に調べて分かったうえで進路を決めてもらいたいとも思い、末光氏の随想を紹介する。

末光氏は「理」と「工」という漢字に注目してこう述べる。「理」は物事の筋目を意味し、この筋目である物の道理=ことわり、特に自然が持つ固有の性質を明らかにするのが「理学」。「工」は天地を表す二本の横棒を人を表す縦棒がつないでいる。だから「理」を応用して地上の生活が豊かになるためにする学問が「工学」。なるほど論理を追求し発見する「理学」と、それを応用して物を作るのが「工学」の違いだと理解していいのだろう。

さらに末光氏は、その違いからそこに集まる人たちの観察へと考察を移しているが、そこもまた興味深い。工学はモノづくりなので人と協力しなければならない、だから「常識人」が多い。それに対し知の探求を命題とする理学には個性的で(変な?)人が多い。さらにこういう見方もあると紹介する。「工学部出身の人は与えられた制約条件下で最適解を求める癖がある。理学部出身の人は与えられた制約条件そのものを疑う癖がある」。制約条件の話は面白い。会社でも社会でも、今自分がいる条件の下で、何とかいい結果を出そうとひとは苦しんだりしている。でも、その条件というのは絶対でなく、前代の人が作ったりしたもので、時代や国が変わればその条件は絶対のものではない。それに気づけば楽になることもあるのではないだろうか。

最後に末光氏はフクシマの核発電事故に言及する。事故は、核発電にかかわる人たちが「これは安全で、安全策に改良の余地はない」という考えを制約条件にして、その内側だけで対策をしてきたことで起こったのではないかと指摘する。だから技術の世界にも、制約条件そのものを疑う理学部的な「変な人」が必要な時代になったと示唆する。もとより、理系学問は苦手ではあったが、ぼくも世の人が常識とすることをつい疑いの目で見てしまう十分「変な、変わった人」なのでこう言われると、ちょっと嬉しい。


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