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2016年3月31日 (木)

大学生活の迷い方

蒔田直子さんの「大学生活の迷い方」(岩波ジュニア新書)を読む。どんな内容かというと、著者の蒔田さん、この方は同志社大学の女子寮で30数年間寮母さんをしていた。その間、蒔田さんがどうして寮母さんになったのかというそのいきさつやら、30数年間に出会ってきた寮生の紹介や思い出だったりが書かれていて、寮生の何人かには寮生活の思い出や現在の自分の生活について自ら書いてもらって、その文章も読めるという、非常に変化に富んだ、そしてその寮生活と同じように「混沌」とした内容の本なのかもしれないが、寮生活の何たるかや、その30年間の歩みや変化やら、全体もじわじわと納得できて、編集も素晴らしい内容になっている本なのだ。

蒔田さんが寮母さんになったころは、安保闘争や学生運動が盛んだったころだ。1970年前後の学生運動は何も変えなかったと否定的にとらえる人もいるだろうけど、あの頃の熱気や「自治」や「自由」に対する熱い思いが読むと伝わってくる。同志社大松陰寮は、そのころ新しい寮生は、寮生たちが面接で決めるという方式で、自治会組織があり、毎晩寮委員会では夜遅くまで熱い議論が戦わされていたという。時代の雰囲気がそうだったと言えばそうなのかもしれないけど、こういう中で育ってきて過ごしてきた人は、「自分の頭で考え、行動できるようになる」。本に登場してくる寮生たちは、こうした自治や自分で考えるという伝統を受け継いだ松陰寮のおかげで、みんなしっかりして地に足をつけてその後もしっかり生きているように思える。もちろん、ベッドの床が腐れ落ちるほど片付けが上手じゃない猛者のエピソードなども楽しく紹介されているが。

この本の魅力は、もちろん著者の蒔田さんの人柄によるだろう。蒔田さんは、寮生たちから恋愛相談を受けたり、「今から自殺するところです」というSOSの連絡を受けたり、寮生の身柄を警察に引き取りに行ったりと、いろいろ大変なことも経験しているが、なんといっても寮生たちから信頼され、慕われているのがわかる。蒔田さんってどういう人なのだろう?これは、ぼくの勝手な想像だが、「どちらか迷ったときは、弱い方の人の立場につく」という信念を持っている人なのではないかと想像する。そういう何か体験からくる信念や、ご自身の宗教的信念に基づくものが土台にある方なのかなと思う。松陰寮は、留学生も受け入れていて、中国や韓国からの留学生が、寮や蒔田さんとの思い出を書いている。特に近年ヘイトスピーチなどで外国人に対する排斥の雰囲気が強い日本では、この本に書かれた心の通じ合う国際交流が行われているのを見るのはうれしい。もちろん、国際交流といってもそんなにきれいごとではない、そこには「涙」もありなのだが、蒔田さんの人柄なのだろうか、いろいろなものを乗り越えて希望が見える。

日本の高等教育に対する国費負担は、他国に比べて低い。つまり大学に行きたい人は「自己責任」で行くということで、経済的に行けない人に対する国家としての政策は貧弱だ。そういう中で、「寮」があるのは、一抹の希望である。楽しいけど大変な、大変だけど楽しい「寮生活」を、多くの人に知ってもらいたい。

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2016年3月28日 (月)

プリズムの連載終了

河北新報に連載されていた末光氏の「プリズム」というエッセーの連載が終了した。なるほどと考えさせる話題を提供してくれて共感することもままあった。振り返ってみると「理系と文系」という話もあった。

 

日本では大学の学部選びの時に文系と理系を厳然と分けてきた歴史があるが、それは明治政府が技術輸入と制度輸入を効率的に行うために便宜的に分けたもので、今は技術者が売れる製品を考えたり、営業が技術のことをわかっていなければ物が売れないといったように「文理融合」が進んでいる。そんな中で末光氏は、理系は「感性的」で文系は「論理的」というふつう考えられていることとは逆の観察をしている。

 

それは文系学問の多くは実験ができないため、ただ1回限りの事象の中に普遍性を見出すか(歴史学、社会学)、構築した世界の中で論理的整合性を保って帰結を追求するか(哲学、法学)だから。それに対して理系人間の相手は「自然」であり、自然は常に論理的にふるまってくれるので、自分自身はそれほど論理的であろうと身構える必要はないという、興味深い「逆説」で考察している。

 

いずれにせよ理系と文系の区別は、ぼくも不毛だと思う。これほど科学技術が進んだ社会に住んでいるのだから、だれしもこの社会を支える科学や科学技術について知っていなくちゃいけないし、積極的に関わっていかなければならない。同時に、その技術を生み出し運用していくのは、「人間」なのだからいわゆる文系的知識や知恵を軽視したら、そこにはものすごい大きな陥穽がある。近頃、数学や物理、コンピューター工学、医学などがなんとなく楽しそうに思えるようになって来たバリバリの文系人間のぼくである。

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2016年3月23日 (水)

民主党サンダース候補

アメリカ大統領選の候補者選びは51番目の州としての日本も他人事ではない。ぼくが興味ある候補者だと思うのは民主党のサンダース氏だ。日本の読売新聞や産経新聞によると非現実な主張をする泡まつ候補ということだが、サンダース候補がちょっとでも受け入れられマスコミを騒がせたことに、アメリカ社会の底流の小さな変化の芽を感じる。もちろん「芽」だから、それで終わるかもしれないが。

2月13日付の河北新報にサンダース候補登場の意義が述べられていたのでまとめてみる。サンダース候補は「民主社会主義」を掲げているが、これが自由の国アメリカではそもそも異質。しかし、格差が拡大した結果、若者を中心に社会主義に対する抵抗感が薄れつつあるという。これは若者たちが世代的にも、米ソの冷戦という歴史的事実を知らないでそれが風化した結果抵抗感が薄れたのかもという分析がある。どこの国でも、戦争の歴史は風化するものなのだ。

若者に受け入れられているのは、最低賃金の時給15ドル(約1700円)への引き上げ、公立大学の授業料無償化などの主張だろう。もちろんこういう主張に対しては、労働者の賃上げで企業活動が衰え海外に企業が逃げてしまう、企業が儲かることが経済政策では大事だというアベノミクス的反論や、大学無償化の財源はどうするのだというような反論も出てくるのだろう。だが、日本でも普通の人では高等教育を受けられないような時代になりつつある今、大学の無償化はうらやましい。

アメリカは、金のある人しか医療を受けられない国であるが、サンダース氏は国民皆保険を主張している。日本では、病気になって医者にかかった時、つくづく国民皆保険制度があってありがたいと思う。だがTPPが実現すれば、アメリカの制度が日本に適用される恐れがある。しかしサンダース氏が大統領になれば、逆に日本から学ぼうではないか、なんてことになるのだろうか。今現在、サンダース氏が大統領候補に指名される可能性はとても低いが。

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2016年3月20日 (日)

熱田神宮参拝

名古屋の熱田神宮を参拝する機会を得た。ここは3種の神器の一つである宝剣が奉納されているところ。ヤマトタケルが東征の帰り、尾張の国にやってきて地元の姫と結婚する。ヤマトタケルの父は、ミヤコに返ってくる前に伊吹山のまつろわぬ民たちの征服を命じる。ヤマトタケルは、草薙の剣を姫のもとに置いたまま出征し、伊吹山で亡くなってしまう。尾張の姫がその剣を奉納したのが神社の縁起という。

もちろん皇室ともゆかりがあり、足利氏、織田氏など歴代の権力者も帰依したため、立派な社殿と広大な神域が今も維持されていて、参拝客も多い。仙台市民から見ればその規模2倍から3倍に感じる大都会名古屋市の中心に近いところにありながら、鬱蒼とした神の杜(もり)が広がる熱田神宮は本殿に参拝する前に参道をゆっくり歩くだけでも心洗われるものがあった。

日本文化の何を誇り何を後世に残していくべきか。ぼくは何といっても神様たちと社(やしろ)の森だと思う。それは森を経済的に無価値なものとみなすような、そして人々の生活を傷つけても経済的な利益を追求して工場や発電所などを建設すべきとするそういう思想への対抗にもなるからだ。熱田神宮の樹齢1000年が推定されるクスノキなど本当に神々しい。多くの人に参拝してほしいと思う。

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2016年3月13日 (日)

複数の視点を持つこと

3月11日付の河北新報に前ニューヨーク・タイムズ東京支局長のマーティン・ファクラー氏の評論が掲載された。その中で氏は5年前の震災で日本が得た教訓が、いま私たちの手から滑り落ちようとしていると述べている。それは具体的には、福島第一核発電所の失敗を理解することなく、核発電所が再稼働していることだったり、高波が襲った同じ場所に家を再建していることだったり、1兆円ものお金をかけて400キロもの海岸線に防潮堤を築いていることだったりする。

氏は「どんなに壮観な壁を築いたところで、自然の力には及ばない」ということを述べていた。この氏の言葉がぼくに、ぼくがいま感じている「復興」の無力感と相まって、心に大きな印象を残した。自分は宮城県内に住んではいるが、あまり海岸沿いの方に行って様子を見てきたいとは思わない。何よりそこは多くの人が命を落とした厳粛な場所だ。見学がてらなんていう気楽な気持ちではとても立ち寄れない。だから、宮城の海沿いの復興状況については、他県の方で足しげく奉仕活動で通われている方の方がよほど現状をぼくよりも詳しくわかっている。

そんな中で先日、被災地に関心を寄せる知人が宮城を訪問してくれて、彼を案内するというか、彼に連れられて名取市の閖上地区を訪れた。巨大防潮堤はなかったが、ここは巨大な土地のかさ上げ工事の真っ最中で、道路には大型ダンプカーが何台も連なり砂ぼこりをもうもうと蹴立ててひっきりなしに走っていた。復興とはまさに巨大公共工事なのだということが実感できた。しかし、工事をする人以外の姿はそこに誰も見出すことができなかった。土地をそもそも造成中なので家などを建てるのはまだまだその先なのだろうけど、「力強い復興」を感じるよりもぼくには復興のむなしさというか無力感を、この巨大公共工事の現場に感じてしまった。多分そこには、人の暮らす姿が全く見えないということもあったのだろう。

マーティン・ファクラー氏の防潮堤を批判的にとらえるこの評論にはもちろん反対意見や抗議もあったのだと思う。もしかしたら「外国人で現地のことをわかりもしないくせに」とか「どうせ日本にずっと住むわけでないんだから命に関わることもなければ利害にかかわることもないくせに」などという抗議もあったのかもしれない。今、反対意見や異論は許さない翼賛的な時勢の体質が強くなっているので、「異論」を掲載する河北新報の勇気もたたえたいと思う。そしてこういう時だからこそ、外国人の視点でもいいし、内部の異質な者の視点でもいいし、複数の視点を持つ大切さをぼくは強調したいと思う。

ちょうど宮城県の村井知事の政治的手法は安倍首相と似ている。両者とも、選挙では圧倒的な差でもって勝利するし、国民・県民からの支持率も高い。そして「この道しかない」と力強く政策を進めていく点も似ている。ぼくには宮城の復興のために何かを付け足す力などはない。自分の無力感も含め震災から5年目に感じるままを書きつけてみた。


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2016年3月 6日 (日)

努力は必ずブレークする

河北新報に「プリズム」という欄があり、主に東北大の理系の先生たちがコラムを書いている。電気通信研究所の末光氏の連載がいつも面白いと思って読んでいた。連載第18回でこういうことを書いていた。

高温に熱したシリコン結晶の表面に酸素ビームを照射する。酸素ビームが高温・低温の時と違って、中温にしたときは、反応が最初何も起こらない。だが辛抱強く当て続けていけばある時から急に酸化膜が基盤全体に広がる。何も起こっていないように見えて、水面下では「ブレークする」準備ができていたのだという。

これは専門的には「自己触媒反応」というそうで、反応の産物が再び反応自体を促進する、すなわち自己が触媒になっているのだという。

末光氏がこのことをいろいろな人に話すと、ああそれはこれに似ていますね、という反応が返ってきたという。ぼくが興味深く思ったのは教育学でも似たようなことがあるという話だ。

それは成績の上がり具合を示す学習曲線。勉強し始めてもすぐに成績は上がらない。めげずに勉強を続けているとあるところから急に成績が伸びる。上がらないと思っていても脳のなかでは必死にブレークする準備ができているというわけだ。おそらくそれは専門的には脳のニューロン細胞間のネットワークのようなものだろうが、成果を上げる・成績を上げるということの中には、もちろんどれだけ知識があるかとか、どれだけ知的で賢いかということもあるのだろうが、この「めげずにやり通す力」、このこと自体が大事な「資質」なのだということだ。

末光氏は理系の専門家だが、いつも文理融合というか、懐の深い話を書いているので、ぼくはいつも注目して読んでいる。


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2016年3月 3日 (木)

オペラがセンター試験の題材に

METライブビューイングは、オペラの生の舞台を見せてくれるだけでなく、リハーサルの様子や出演者や演出家へのインタビュー、舞台裏の転換の様子なども見せてくれ大変興味深い。先日河北新報を読んでいたら、ドナルド・キーンさんもMETライブビューイングのファンだということを知った。キーンさんは本場ニューヨークで実際の生の舞台も数多く見てきたが、それでもライブビューイングは歌手の表情等もよく見えて優れものだと絶賛していた。ところで去る1月に行われた大学入試センター試験の英語でオペラを題材にした長文が出題された。センター試験の問題などご存じない人も多いだろうから、そのほんの要約を紹介する。

ちなみに読解問題では、読む人の持っている背景知識の差が本文の理解度に影響する。ぼくは、オペラの話が出題されて『やったー』と思ったが、18歳前後の人でオペラの背景知識を持っている人はごくごくまれだろう。というわけで、もちろんセンター試験は特別の背景知識がなくても、ただ英語で書かれた情報を読み取り、正誤問題に答えればいいだけになっている。英語自体は平易だが、高校卒業時の英語力では、大体6割程度が平均得点となる。

さて、センター試験では、オペラの抱える問題点が指摘されていた。一つは経済の問題。オペラ歌手は、スターであるが、リハーサルやトレーニングの費用は全部自前だという。公演が終わった後に、出演料が支払われるため、リハーサルやトレーニングが終わった後に万が一、病気やけがで休演したら、かかった費用は保証されないという。もちろんスターともなれば自家用ジェットに乗れるくらい金持ちなのだろうが、不安定な身分や保証のない生活というところが身につまされた。

もう一つの問題点は、現代文化が観客に与える影響。現代の観客は映画やテレビの影響で、出演者の容貌に対する要求が厳しい。しかし、オペラの歌手はマイクロフォンなしに劇場中に声を響かせるために、どうしても体格が大きくなければならない。(つまり太っている)。現代の観客の要望にそっていたら、オペラ本来の魅力である歌の魅力がなくなってしまうと、センター試験の英文では批判していた。

ところが、今のオペラでは、歌もうまいし容貌も超一流という出演者たちが増え始めている。センター試験が指摘するように、現代人の嗜好に迎合しすぎた結果なのかもしれないが、やはり耳で聞いても目で見ても楽しめるというのはオペラの魅力であるし、ライブビューイングは映画と同じ視点で、歌手たちの演技力まで楽しめる。ちなみに、METライブビューイングで次回公演が予定されている「マノン・レスコー」のタイトルロールはハリウッド女優に見まがうほどの容貌だ。そのうえ声量もすごいし歌ももちろんうまい。オペラは進化しているのだと思った。


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2016年3月 2日 (水)

メトロポリタン歌劇場ライブビューイング『トゥーランドット』

メトロポリタン歌劇場で上演された生の舞台を貴重な特典映像とともに映画館で観れるライブビューイング。今回の演目はプッチーニの歌劇『トゥランドット』。彼の遺作だという。劇的な音楽や合唱を堪能できた。舞台は中国。西洋人から見た東洋趣味ってどうなんだろうと思っていたが、舞台装置が豪華で本物。なんと30年前の同じ演目の舞台装置を大事にとっておいて今回使用したという。違和感なくぴったり収まっている。そして京劇経験者の台湾人に演出を手伝ってもらっているので昔の中国の王朝は本当にこんな感じだったのだと楽しめる。音楽もいいが、舞台だけでも目を見張るすごさに圧倒される。

物語は世界中に流布している「王様、または娘が若者に試練を与え、試練を潜り抜けた若者が娘と結婚する」という類型のおとぎ話を基に作成。我が国の「かぐや姫」と同様、中国の姫君トウ―ランドットは求婚者たちを次々と拒否する。しかもトゥランドットは「氷の女王」で、謎解きに失敗した求婚者の首を次々とはねてしまう。そこへ、流浪の王子が中国に登場し、トゥランドットが出した3つの謎に挑むという話だ。

王子役はマルコ・ベルディ。声量豊かなテノールは素晴らしい。トゥランドット役ニーナ・ステンメ。どうしてトゥランドットが氷の女になってしまったのか、その心理を描くのはとても現代的な解釈だと思う。王子を慕う女奴隷役アニータ・ハ-デュック。彼女はルーマニア出身だそう。本物のルーマニアの民族衣装のような意匠の服で登場。純愛からあふれる心情を謳い上げ感動させてくれた。彼女はほかのキャストに比べるとずいぶん小柄そうだがどうしてあれほどのエネルギーを出せるのか。最後は二人が結ばれての大団円。有名な「誰も寝てはならぬ」のメロディが引用されて舞台は大盛り上がりの中で終わる。


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