大学生活の迷い方
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3月11日付の河北新報に前ニューヨーク・タイムズ東京支局長のマーティン・ファクラー氏の評論が掲載された。その中で氏は5年前の震災で日本が得た教訓が、いま私たちの手から滑り落ちようとしていると述べている。それは具体的には、福島第一核発電所の失敗を理解することなく、核発電所が再稼働していることだったり、高波が襲った同じ場所に家を再建していることだったり、1兆円ものお金をかけて400キロもの海岸線に防潮堤を築いていることだったりする。
氏は「どんなに壮観な壁を築いたところで、自然の力には及ばない」ということを述べていた。この氏の言葉がぼくに、ぼくがいま感じている「復興」の無力感と相まって、心に大きな印象を残した。自分は宮城県内に住んではいるが、あまり海岸沿いの方に行って様子を見てきたいとは思わない。何よりそこは多くの人が命を落とした厳粛な場所だ。見学がてらなんていう気楽な気持ちではとても立ち寄れない。だから、宮城の海沿いの復興状況については、他県の方で足しげく奉仕活動で通われている方の方がよほど現状をぼくよりも詳しくわかっている。
そんな中で先日、被災地に関心を寄せる知人が宮城を訪問してくれて、彼を案内するというか、彼に連れられて名取市の閖上地区を訪れた。巨大防潮堤はなかったが、ここは巨大な土地のかさ上げ工事の真っ最中で、道路には大型ダンプカーが何台も連なり砂ぼこりをもうもうと蹴立ててひっきりなしに走っていた。復興とはまさに巨大公共工事なのだということが実感できた。しかし、工事をする人以外の姿はそこに誰も見出すことができなかった。土地をそもそも造成中なので家などを建てるのはまだまだその先なのだろうけど、「力強い復興」を感じるよりもぼくには復興のむなしさというか無力感を、この巨大公共工事の現場に感じてしまった。多分そこには、人の暮らす姿が全く見えないということもあったのだろう。
マーティン・ファクラー氏の防潮堤を批判的にとらえるこの評論にはもちろん反対意見や抗議もあったのだと思う。もしかしたら「外国人で現地のことをわかりもしないくせに」とか「どうせ日本にずっと住むわけでないんだから命に関わることもなければ利害にかかわることもないくせに」などという抗議もあったのかもしれない。今、反対意見や異論は許さない翼賛的な時勢の体質が強くなっているので、「異論」を掲載する河北新報の勇気もたたえたいと思う。そしてこういう時だからこそ、外国人の視点でもいいし、内部の異質な者の視点でもいいし、複数の視点を持つ大切さをぼくは強調したいと思う。
ちょうど宮城県の村井知事の政治的手法は安倍首相と似ている。両者とも、選挙では圧倒的な差でもって勝利するし、国民・県民からの支持率も高い。そして「この道しかない」と力強く政策を進めていく点も似ている。ぼくには宮城の復興のために何かを付け足す力などはない。自分の無力感も含め震災から5年目に感じるままを書きつけてみた。
河北新報に「プリズム」という欄があり、主に東北大の理系の先生たちがコラムを書いている。電気通信研究所の末光氏の連載がいつも面白いと思って読んでいた。連載第18回でこういうことを書いていた。
高温に熱したシリコン結晶の表面に酸素ビームを照射する。酸素ビームが高温・低温の時と違って、中温にしたときは、反応が最初何も起こらない。だが辛抱強く当て続けていけばある時から急に酸化膜が基盤全体に広がる。何も起こっていないように見えて、水面下では「ブレークする」準備ができていたのだという。
これは専門的には「自己触媒反応」というそうで、反応の産物が再び反応自体を促進する、すなわち自己が触媒になっているのだという。
末光氏がこのことをいろいろな人に話すと、ああそれはこれに似ていますね、という反応が返ってきたという。ぼくが興味深く思ったのは教育学でも似たようなことがあるという話だ。
それは成績の上がり具合を示す学習曲線。勉強し始めてもすぐに成績は上がらない。めげずに勉強を続けているとあるところから急に成績が伸びる。上がらないと思っていても脳のなかでは必死にブレークする準備ができているというわけだ。おそらくそれは専門的には脳のニューロン細胞間のネットワークのようなものだろうが、成果を上げる・成績を上げるということの中には、もちろんどれだけ知識があるかとか、どれだけ知的で賢いかということもあるのだろうが、この「めげずにやり通す力」、このこと自体が大事な「資質」なのだということだ。
末光氏は理系の専門家だが、いつも文理融合というか、懐の深い話を書いているので、ぼくはいつも注目して読んでいる。
METライブビューイングは、オペラの生の舞台を見せてくれるだけでなく、リハーサルの様子や出演者や演出家へのインタビュー、舞台裏の転換の様子なども見せてくれ大変興味深い。先日河北新報を読んでいたら、ドナルド・キーンさんもMETライブビューイングのファンだということを知った。キーンさんは本場ニューヨークで実際の生の舞台も数多く見てきたが、それでもライブビューイングは歌手の表情等もよく見えて優れものだと絶賛していた。ところで去る1月に行われた大学入試センター試験の英語でオペラを題材にした長文が出題された。センター試験の問題などご存じない人も多いだろうから、そのほんの要約を紹介する。
ちなみに読解問題では、読む人の持っている背景知識の差が本文の理解度に影響する。ぼくは、オペラの話が出題されて『やったー』と思ったが、18歳前後の人でオペラの背景知識を持っている人はごくごくまれだろう。というわけで、もちろんセンター試験は特別の背景知識がなくても、ただ英語で書かれた情報を読み取り、正誤問題に答えればいいだけになっている。英語自体は平易だが、高校卒業時の英語力では、大体6割程度が平均得点となる。
さて、センター試験では、オペラの抱える問題点が指摘されていた。一つは経済の問題。オペラ歌手は、スターであるが、リハーサルやトレーニングの費用は全部自前だという。公演が終わった後に、出演料が支払われるため、リハーサルやトレーニングが終わった後に万が一、病気やけがで休演したら、かかった費用は保証されないという。もちろんスターともなれば自家用ジェットに乗れるくらい金持ちなのだろうが、不安定な身分や保証のない生活というところが身につまされた。
もう一つの問題点は、現代文化が観客に与える影響。現代の観客は映画やテレビの影響で、出演者の容貌に対する要求が厳しい。しかし、オペラの歌手はマイクロフォンなしに劇場中に声を響かせるために、どうしても体格が大きくなければならない。(つまり太っている)。現代の観客の要望にそっていたら、オペラ本来の魅力である歌の魅力がなくなってしまうと、センター試験の英文では批判していた。
ところが、今のオペラでは、歌もうまいし容貌も超一流という出演者たちが増え始めている。センター試験が指摘するように、現代人の嗜好に迎合しすぎた結果なのかもしれないが、やはり耳で聞いても目で見ても楽しめるというのはオペラの魅力であるし、ライブビューイングは映画と同じ視点で、歌手たちの演技力まで楽しめる。ちなみに、METライブビューイングで次回公演が予定されている「マノン・レスコー」のタイトルロールはハリウッド女優に見まがうほどの容貌だ。そのうえ声量もすごいし歌ももちろんうまい。オペラは進化しているのだと思った。
メトロポリタン歌劇場で上演された生の舞台を貴重な特典映像とともに映画館で観れるライブビューイング。今回の演目はプッチーニの歌劇『トゥランドット』。彼の遺作だという。劇的な音楽や合唱を堪能できた。舞台は中国。西洋人から見た東洋趣味ってどうなんだろうと思っていたが、舞台装置が豪華で本物。なんと30年前の同じ演目の舞台装置を大事にとっておいて今回使用したという。違和感なくぴったり収まっている。そして京劇経験者の台湾人に演出を手伝ってもらっているので昔の中国の王朝は本当にこんな感じだったのだと楽しめる。音楽もいいが、舞台だけでも目を見張るすごさに圧倒される。
物語は世界中に流布している「王様、または娘が若者に試練を与え、試練を潜り抜けた若者が娘と結婚する」という類型のおとぎ話を基に作成。我が国の「かぐや姫」と同様、中国の姫君トウ―ランドットは求婚者たちを次々と拒否する。しかもトゥランドットは「氷の女王」で、謎解きに失敗した求婚者の首を次々とはねてしまう。そこへ、流浪の王子が中国に登場し、トゥランドットが出した3つの謎に挑むという話だ。
王子役はマルコ・ベルディ。声量豊かなテノールは素晴らしい。トゥランドット役ニーナ・ステンメ。どうしてトゥランドットが氷の女になってしまったのか、その心理を描くのはとても現代的な解釈だと思う。王子を慕う女奴隷役アニータ・ハ-デュック。彼女はルーマニア出身だそう。本物のルーマニアの民族衣装のような意匠の服で登場。純愛からあふれる心情を謳い上げ感動させてくれた。彼女はほかのキャストに比べるとずいぶん小柄そうだがどうしてあれほどのエネルギーを出せるのか。最後は二人が結ばれての大団円。有名な「誰も寝てはならぬ」のメロディが引用されて舞台は大盛り上がりの中で終わる。
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