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2016年2月25日 (木)

『量子力学と私』 朝永振一郎

学校で習う教科で一番嫌いだった「物理」。でも、今はその面白さがわからなかった愚かさを後悔している。その時は、物理の知識や勉強が、入試科目に関係なければ、日常生活や仕事で関係してくるなんて思いもしなかったのだ。ぼくが物理に目覚めたきっかけは、福島原発の核事故。起きていることを理解したかったし、今も身の回りにありこれからも長く共存していかなければならない核廃棄物や核汚染物質。核事故は大したことはない、健康被害もないし、放射線は十分安全、さわぐ人が風評被害を起こしているという言説が本当なのかを知るために、少しでも物理の基本的知識があった方がよいと思い、高校の物理の教科書から始めて復習し始めたら、物理そのものが面白くなりその関係の本を何冊か読み進めてきた。今日はノーベル賞を受賞した朝永振一郎さんが書いたものを編集して岩波文庫から出されている『量子力学と私』の読後の感想を書く。

 

ちなみに『20ミリシーベルトは何ら科学的根拠はない』という、核発電擁護派の人で、特に国家の政策を推進する立場にある先生方は、ちゃんと「科学」とか「物理」のことや、発電設備や安全技術については、無知なわれわれよりもよく知っているし勉強もしてくれていると、信じたいものだ。悔しいけれどそう言う先生方にわれわれの運命は委ねられているからだ。船から降りようにも降りようがない。沈没する船でないことを祈るばかりだ。

 

さて、朝永氏の著作と言えば『物理学とは何だろうか』が岩波新書として出版されている。文系・理系のどんな専門も問わず読んでほしい名著だ。『物理学とは何だろうか』は物理を切り開いてきた人物や仕事の歴史を通して『物理学』という学問の本質に迫る。この著作がちょうど20世紀の初めのところで終わっているのだ。20世紀の初めのところからアインシュタインの相対論やそして『量子力学』が出てきて、いよいよその学問の成果が原子爆弾や核発電につながってくるのだ。なぜ朝永氏が『物理学とは何だろうか」を量子力学のまえでやめたのか、その一つの理由は、朝永氏自身が量子力学という発展途上の学問の中にいて、それと苦闘している歴史の証人というか本人そのものだろうからだ。

 

そういうわけで『量子力学と私』という題でまとめられたこの書物は、朝永氏が量子力学の発展を顧みて、それを例のように専門外の人にも興味が持てるよう大変わかりやすくまとめてくれたものが採録されていたり、日本にそれを教える先生すらいない時代に京大で量子力学を専攻することにしたことや、仁科研究所や理研で働いたこと、計算しても結果が出ない苦悩など、伝記的な文章が採録されていたりと、読者自身も20世紀の物理学の発展を追体験できるのだ。

 

興味深いのは1930年代にドイツに留学した日記が採録されていることだ。日本はナチスと同盟国だったので、ドイツでは優遇されたのではないかと思う。ナチスの青年がヒットラーのためなら死んでもいいと思っていると言ったなどとの興味深い記述を読むこともできる。だが、学問の方は遅々として進まず苦悩は深い。いわば、こんなかっこ悪い面をさらしたのは、やはり物理という学問がかっこよくエレガントに進むわけではないということを、後世に示したいと考えた編者の意図もあるのだと思う。思うに、我々が享受している「現代」という時代は、必ずそれ以前の世代の人たちが苦闘してきた跡なのだ。そういう先人の苦悩に思いをいたせば、もっと我々は謙虚にならなければいけないと思う。

 

歴史好きのぼくとして朝永氏の日記の興味を感じたところは、インドの青年がドイツに留学している記事だ。この青年はドイツで不幸な死を遂げる。そこに朝永氏は、ヨーロッパ人のアジア人に対する偏見を感じる。そしてそういう偏見に負けじと学問の道に頑張っていたインドの青年に深い同情の意を示している。このあたりの記述に1930年代、つまり第二次世界大戦前夜の微妙な国際的雰囲気を感じる。朝永氏はその後の戦争時代も含めてすべて自分で経験しているのだ。

 

朝永氏は、戦争中に着想を得た「繰り込み理論」を、戦後発表して、その功績により1965年にノーベル賞を受賞している。氏はその受賞講演で「私は量子力学の発展のごくごく小さな一部を担ったにすぎない」と言っているが、もちろんそれは謙遜だ。(本文中に英語の受賞講演が採録されている)。朝永氏のような学問的な良心のある人が発展を築き上げてきたのだ。それを忘れてはならないと、つくづくそう思う。

 


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2016年2月24日 (水)

福祉の現場の問題点

川崎・老人ホーム転落死事件を受けて、高野龍昭氏(東洋大準教授)が論考を寄せていた。(河北新報2016年2月18日付)これはひとり福祉の現場の問題点を考えるだけでなく、日本社会全体に対する問題点の指摘だと私には思えた。大きなことは小さな積み重ねで起こる。すべての小さな部分に、全体が反映されている。小さな兆しをとらえる力がなければ大きな歴史の流れは、加速度がついて動き出してからは止めようがない。高野氏のような専門家で慧眼のある人の指摘に耳を傾けるべきだと思う。それは為政者も、そしてこの国の方向を決めるべき私たち国民もだ。

さて氏が指摘する問題点を要約してみる。まず氏の主張はこうだ。

「川崎市有料老人ホームの転落死事件は、まだ全体像が明らかになっていない。多くの論評は運営会社の体制や容疑者本人の資質を責めるが、会社や個人の問題としてこの事件をとらえるのではだめだ。介護サービスの運営やその仕事の特性や現場が抱える本質的な課題を考えるべきだ」

私たちはつい、犯人を探し出しその人を「犠牲の羊」として捧げものにして、個人的な溜飲も下げ、被害者の仇を打ったような気にもなるがそれは戒めるべきだ。それは問題の本質を見えなくさせるし、真に責任を負わすべきところから、その責任を免責してしまう。たとえば「核発電所事故」のように。

氏は介護という仕事をこのように言う。「介護は肉体的な負担が注目されがちであるが、しかし「感情」が大きく揺さぶられる仕事である。特に高齢者介護は一時的なかかわりでなく、人生晩期を共に歩む。利用者が喜んだり心身の状態が改善すれば介護者も前向きになれる。しかし、利用者が介護に抵抗したり状態が悪化すれば介護者の気持ちも苦しくなる。介護がこうした「感情労働」であることに対して官民ともにあまりにも無策であったため、職員の悪化した感情が利用者に向かうこともありうる」

氏の「感情労働」という指摘は注目すべきだ。すべての世の中の仕事は「感情労働」だと言える。仕事を人はなぜするのか?第一義的には、「金」のため、すなわち生活費を稼ぐためだと言えるが、しかしまさに「人はパンのみのためならず」だ。すべて働く人は「やりがい、すなわち自分の仕事を通して社会の良きことのために役立っている」という自覚、そしてそれに伴って「仕事がどう社会に生かされているのかを知り、その結果を自分にフィードバックされること、すなわち感謝されること」を求めて働いている。アメリカなどでは心理学の研究が盛んで、すでに「感情労働」の研究や、経済学において人が働く動機が決して自己の利益を最大限にするためだけでないことなど刺激的な研究結果が出ている。大学の文科系を不要だとするこの国では、労働者の生きがいややりがいは無視された政策がとられるのは当然の流れだ。

氏の二つ目の指摘は、「介護は職員それぞれの方法や個人の判断で実施される場面が多いが、それを再考すべき」というのだ。医療や福祉の業務は専門教育だけでなく、現場実践の教育が重要なのは言うまでもない。しかし、特に介護の現場では現場実践教育が弱い。実践教育がないので、スキルの低い職員は自分なりのやり方で介護を行いやがて行き詰る。密室性の高い介護施設で行き詰った職員が自分だけで悩みを抱え込めばどうなるだろうか。驚くべき行動に出ることも予想できる、というのだ。

「人を育てない」これは介護労働の現場だけではない。日本全体の職場や会社で言えることだ。企業から見れば、そんな余裕などはなく、利益を上げて株主還元をすることに忙しいということなのだろうが、おそらく日本の労働界全体に蔓延する思想は、「人はコストであるから、利益のために削ればよい。だめな奴は代替する。派遣でもパートでもいくらでも補充が利く」という思想だろう。人を大事にしない社会は、その社会自身が痛いしっぺ返しを受けると思うのだ。さて、私たちはどういう社会を望むのか?どういう社会を選択するのか?まだ今なら自分たちで選択する力は残っている。「人を大事にする社会か?それとも人を切り捨てる社会か?」


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2016年2月19日 (金)

シネマ歌舞伎「喜撰・棒しばり」

名優の坂東三津五郎さんが亡くなった。その追悼でもあるのだろう。「喜撰」と「棒しばり」の演目を、映画で見ることができる。生の舞台ももちろんいいだろうが、歌舞伎を気軽に楽しめる、いや本物の舞台以上に満喫できる『シネマ歌舞伎』、ありがたい企画である。

演目は、まず狂言の「棒しばり」から。ハチャメチャな内容ではあるが、素直におかしい。何より、勘三郎さんと三津五郎さんのコンビ次郎冠者と太郎冠者が面白い。だが、さりげなく笑わせているようであるが、本当に二人とも芸達者なのである。芸達者というか、伝統芸能をきちんと厳しく会得してきているからこその至極の芸なのである。二人の共演がもう見られないなんて本当に残念だ。主人役の坂東彌十郎さんもちょうど背のバランスが良くて笑えた。

「喜撰」は舞踊劇である。棒しばりもそうであったが、歌舞伎俳優さんたちはきちんと日舞ができて芸道を極めているのである。喜撰法師を三津五郎さんが演じる。三津五郎さんの踊りはもちろん素晴らしいが、祇園のお梶を演じる中村時蔵さんの女形が素晴らしい。手とか素足にまで色気がありぞくぞくしてしまう。歌舞伎を見る楽しみは古典を見る楽しみだ。話の筋は誰もが知っている名作。でもそれをどう演じるかで全然違ってくるし、同じ解釈はない。だから、一度見たからいいやとならない。あの役者がやるなら、今度はどうなんだろう、とまたワクワクして見たくなるのだ。

名優たちがいなくなっていくのは寂しい。でも今歌舞伎界は若いいい役者さんたちもたくさん出てきているし、そうした若い役者さんが古典をやった時、先代とはどう違うのかなんて、見るファンの方はますます興味は尽きない。生きた伝統芸能、日本文化を支えていくのは、演じる役者さんたちやその裏方さんたち。でも、私たち日本人が楽しく見続けないと続いていかない。次回の演目も楽しみだ。


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2016年2月18日 (木)

自民党憲法改変案:国防軍の創設 その2

現行日本国憲法の9条は2項までだが、安倍首相の意を汲んだ自民党は9条3項を新たに設ける。それは『国防軍の創設』だ。安倍さんを最高指揮官とする『国防軍保持』を高らかに謳い上げる。

さて、憲法を改変して「自衛隊の名称を単に『国防軍』と変更する」のか、それとも「自衛隊を解散して、新たに国防軍を開設するのか」そのあたりは、ぼくも不勉強でよくわからない。その不明を恥じたいと思うが、「自衛隊」という呼称と「国防軍」という呼称の間に横たわる、その深淵、つまり私たちの平穏な生活にどれほど影響があるのかを考えてみたい。と言っても、日本だけ、日本人だけが平和であればいいという「利己的」な考えで言っているのではなく、世界の平和なくして日本の平和はあり得ない、とぼくも思っているのだが、その平和を達成する方法論が安倍さんとは意見が違っているだけだ。とまれ「自衛隊」と「国防軍」では、どう違うのだろうか。

どちらも「守る」とか「防ぐ」という意味の漢字が入っているのだが、「自衛隊」はやはり「個別的自衛権を行使するための最小限やむを得ない戦力保持」というイメージがする。このことこそが(自衛隊の災害救援活動などと相まって)、国民の間に自衛隊に対する許容感や支持を生んでいるのではないだろうか。白と黒をはっきりつけない、日本および東洋の知恵で、憲法上はっきりその存在がない自衛隊を、現状維持のままにするというのも悪いことではないというのが、ぼくの考えだ。

さて「国防軍」の方は、ぼくのような人間にはどうも胡散臭く感じられる。まず「国防、国防」とヒステリックに叫ぶ人たちは、自分たちの体制や権益を守りたいだけの人たちで、国全体の、もしくは「公の利益」、もしくはぼくは本当はこういう言葉を使いたいのだが、「国民一人一人の幸福」は考えていない。体制から、何のおこぼれ(アベノミクスの専門用語では「トリクルダウン」)を受ける当てもない、大多数の庶民は、なぜ彼らのために「国防」してやらなくてはいけないのか理解できない。そして、戦前の日本でも、第1次、2次大戦前後のヨーロッパ諸国でも、「国防』を理由に、外国にある自国権益を守るため、その外国に侵入・進駐したり、国防費と国防装備は必ず膨れ上がる一方で、庶民の生活を圧迫してきた、という歴史がある。

何で、このおれが自民党の先生たちの利益や安倍さんのおじいさんの名誉を回復するために「国防」しなくちゃならないのだ、と馬鹿らしく感じれば、国防を担う人がいなくなってしまうので、「国防軍創設」の最大の問題は「防人」をどうするかだ。つまり「徴兵制」は復活するのかどうかだ。こういうとまた自民党の先生方からは「利己的だ」と批判されるかもしれないが、じぶんが、もしくは子どもたちや大事な日本の若者たちが「徴兵」に取られるかどうかは、ぼくにとっては一大関心事だ。万葉集に収録されている防人の歌を見ても、そして旧「帝国陸海軍」の体験談を読んでも、徴兵は「苦役」だ。「自衛隊」は、志願して入隊を希望するというイメージが定着しているが、国防軍では強制的に徴発できそうだし、なにしろ憲法に国防軍を規定して、国民の権利を大幅に抑え、国家に対する国民の義務を大幅に強化している安倍さんの憲法であれば、「徴兵」はやすやすと行えそうな気がする。

レッテル張りをするなと、安倍さんから叱られそうであるが、そもそも法律の法律である憲法を自分のいいように解釈改憲する安倍さんであるから、どのようなことも可能になってしまうのではないか。多くの憲法学者の間では徴兵は憲法が禁じる苦役であるから徴兵はできないとなっているが、憲法を決めるのは学者ではないという安倍さんである。だから、今から、心配して検討しておくのも損はない。そして、心配しておくだけの根拠はあるのだ。安倍さんや安倍さんのお友達のたけちさんなど多くの力ある方々は以前から、「だらしがない若者を鍛えるには自衛隊に入隊させるのが一番。だから全員一定期間、自衛隊で鍛えるべし」と発言してきているし、今もその信念は変わらない。

本当にこの国は若者がかわいそうだ。人間だれしもそうだが、ほっておかれて勝手に伸びたり成長していく人などいないのだ。18歳で、もし社会に出るとしても、何もできなのが当たり前ではないか。仕事場で、地域で、教えられ、支えられ、励まされ少しずついろいろなことを覚えて一人前になっていくのが普通だ。だが、今の若者たちは高校以上の学歴や専門訓練を受けようにも、経済的な自己負担が重く進学を断念する人も多い。大学を卒業して、若者を育ててきちんと仕事を教えてくれるそんないい企業に就職できる若者なんて、またほんの一握りだろう。企業は人を育てることなんかしない。だから経験のない若年労働者は採用しない。働けないから経験が積めない、経験がないから働けない、の悪循環に陥る。これが安倍さんが自慢している「世界で一番企業活動しやすい国日本」の実態だ。「一番企業活動がしやすい」とはつまり「一番人が暮らしにくい」の意味なのだ。

安倍さんは今のところ「徴兵制」は考えていないと言っているが、労働者派遣業をどんどん増やすことで、人々を困窮状態に置けば、軍隊の補充などいとも簡単にできるという深慮なのか。これを「経済的徴兵制」という。安倍さんの経済政策は、やはり国防政策と一体となっている素晴らしく良く練られたものだ。


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2016年2月17日 (水)

自民党憲法改正案:国防軍の創設

安倍首相のお考えを勉強させていただきたいと思う。それは、今後の私たちが進む道、いや引っ張られていく道を考えるよすがともなるだろうから。安倍首相の持論では、日本国憲法9条がいちばんお気に召さない。「時代にそぐわない」そうだ。ぼくのような少数派、「非国民側」の人間には、憎悪と戦争がますます募るこのような時代こそ、平和の理想を掲げた憲法は世界中の人へも勇気を与えると思うのだが。

では見させていただくと、憲法9条は現行では「武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」とあるが、それを自民党は「国際紛争を解決する手段としては用いない」に変更している。意味深長である。やはり改変された文言を読むと「Aという条件では戦争は行わないが、それ以外のBやCであった場合は行う」というそういう論理式に読め、戦争ができる国への大きな準備と映る。例えば、アメリカの軍艦護衛のためとか、アメリカに命じられ戦闘参加する場合は、武力行使がありうるというか、武力行使は出来るのだという解釈のように見える。そもそも、アメリカは他国に仕掛ける戦争すら『正義』と称しているし、彼らが主張し安倍さんも同調する『テロとの戦い』「ならず者国家に対する一撃」は、彼らや安倍さんの眼には「国際紛争」のカテゴリーに入らないとすれば、外国の領土にわざわざ侵入して、これらの戦闘に武力参加することは可能になってしまうだろう。

次に現行の9条2項は「戦力はこれを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」とある。安倍さんも自民党もこれを問題視している。憲法を素直に読めば、自衛隊は違憲ということになってしまい、安倍さんも改憲を訴えているのは「お国のために尽くしてくれる自衛官たちの存在が否定されるなんてことはとんでもない。だからはっきり自衛隊の存在を定義したい」ということだ。一理はあると思う。だが、閣僚の大罪をうやむやにするのが得意な安倍さんや自民党さんたちなら、こういうときだけうやむやな解決を嫌うのも都合が良すぎると思う。確かに、自衛隊は憲法上はうやむやな存在ではあるが、しかし数々の違憲訴訟を経て、それなりに法律的な決着が積み重ねられてきているし、何より自衛隊の災害救助活動など隊員たちの努力によって、その存在は大多数の国民に認知されている。

そもそも9条2項は「自衛権」が問題になっている。戦争法案反対のビラまきの時に、市民の方に「おまえたちは北朝鮮や中国が攻めて来ても何もしないんだろう」と詰め寄られたが、「個別自衛権」と「集団的自衛権」をこういう方は混同していらっしゃる。「個別自衛権」があるかないかも、それなりに法律的議論が積み重ねられてきて、現行憲法も「個別的自衛権」までも放棄したというわけではないと解釈されてきている。大多数の国民も、なんとなく個別自衛権は、自然権のようなもので、あってしかるべきだと普通に考えているだろうし、ぼくもあっても問題はないと思っている。個別自衛権すら放棄する崇高な考え方もあるだろうが、でもそうなればこれは宗教的な次元になってしまい、おそらくイエスとか仏陀のような人類の一般的な道徳的水準をはるかに超えた偉人達のレベルという話になるだろう。

さて個別自衛権はどんな時に発動されるかと言えば、日本国民の自由が理不尽に脅かされるような、武力行使を直接受けた場合であろう。安倍さんや自民党が、自分たちが原因を作っておきながら、やたら外国の脅威をあおって、自分たちの立場を有利にしたり兵器産業を隆盛させたりというそういう「宣伝」には、ぼくは乗りたいと思わないが、しかし万が一、そういう事態になれば、ぼくも自由のために戦いたいと思う。しかし、そもそも日本国政府が国民の自由な生活を抑圧し国民を苦しめているのであれば、外国の軍隊によって日本国政府が瓦解しても、ぼくは立ち上がらないだろう。おそらく、アメリカの日本に対する占領政策がこれほどもうまく行ったのはこんなことも原因だと思う。戦前鬼畜米英のアメリカは憎い敵だと教えられていたが、日本政府が自国民に行う抑圧もすごかった。戦争に反対、というだけで逮捕され死刑になるのである。こういう抑圧から、アメリカ軍は日本国民を救ってくれる『解放軍』だと日本国民が思ったから、多くの国民がアメリカ軍を歓迎し、アメリカが好きになってしまったのだろう。

そういうわけで、国民を恐怖で煽り立てても、国民は本当にこの国を守ろうなんて思わない。そもそも『国』って何だ?「国」イコール一部の人たちの利権体制であれば、利権に関係ない人たちが命を賭して「国」を守ろうなんて思わないし、協力もしないだろう。安倍さんは強がっているが、そういう人ほど心理的には不安の裏返しなのであり、その不安を打ち消し安心したいがために『国防軍』を創設して、自分たちを守りたいのではないだろうか。

そこで、ぼくの、自民党改変案に対する対案は「政府は普段から、国民自らが本当に守りたいと思う、放射能汚染のない美しい国土、公共工事や開発で汚されていない美しい自然環境、ほかのどの国よりも守れている人権、平等で豊かな国民生活、そのような価値あるものを維持する努力を怠らず、万が一これらの国民が誇りに思うものを破壊しようとする勢力に侵攻された場合、それを防ぐための政府の企てに国民からの自主的な協力が得られるようすべきである」。次回は『国防軍の創設』について考えたい。


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2016年2月14日 (日)

自民党憲法改変案・緊急事態条項

安倍首相が好き、だから彼から目が離せない。大好きな安倍さんの考えを知るために、自民党憲法改変案をしっかり見て、読んで、勉強をしたいと思う。

やはり被災地の住民として我々が最も怒るべきは「緊急事態条項」の設定ではないだろうか。どれだけ出しにして、食い物にすれば済むのだろうか。緊急事態条項とは、緊急事態が起こった時、安倍さんが国民の基本的権利を停止して、法律を超える命令が出せる、というものだ。そしてなぜ、こういうことを憲法に明記して安倍さんに全権を委任しなければならないかというと、一つには5年前の大震災がきっかけとしてあるというのだ。

当時憲法に緊急事態条項が明示されていなかったので、5年前の大震災の時に十分な対応ができなかったというのだ。どうだろう宮城県の人はもう一度考えてもらいたい。確かに、宮城県では津波で多数の人命が犠牲になった。でも、安倍首相が緊急事態宣言して、自衛隊機がスクランブル発進でもしたら、その人命が救えたというのだろうか。また、津波が来た後の混乱のなかや、避難所で暴動が発生し、政権打倒の策動でも企てられたというのだろうか。世界中の人が知っている通り、整然と秩序が保たれ、略奪・暴動など目立った秩序紊乱は見られなかったのではないだろうか。

では、福島県の核発電所事故はどうだろうか。緊急事態宣言をして人権を停止すれば事故は収束できていたというのだろうか。むしろ政府の情報隠しが、避難の混乱を招き、無用の被ばくに人々をさらし、体を傷つけたのではないだろうか。そもそも安倍さんや甘利さんが指摘されていた津波による電源喪失をありえないことと葬り去ったことが事故の原因で、事故責任者として処罰の対象として告発されてもよいくらいではないだろうか。

自民党憲法改変案・緊急事態条項とは、内閣が緊急事態を宣言すると、内閣が決めたことが法律と同じ効果を持ち、国民もそれに従わなければならなくなり、基本的人権も停止させられます。そこでぼくの対案として、憲法改正案「内閣は、天災、核発電所の事故等、未曽有の事態については、国民がパニックになるからと言って情報を秘匿してはならず、速やかに情報を公開し国民自身が判断できるようにしなければならない。また、天災、核発電所の事故等未曽有の事態を口実に、国民の基本的人権を侵してはならない。以上のことが達成されるように、国民は常に内閣の行動・言動に関心を持ち見守る義務がある」


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2016年2月11日 (木)

戦争は心の中にある

某年某月の国営放送ニュース。

1.尖閣列島を日本側が国有化宣言することに対し、アメリカが懸念を日本側に伝えていた。そのことに関する公文書がアメリカ側から出てきた。

2.体制強化のために、沖縄に新型戦闘機を導入することになった。

3.他人のクレジットカードの番号を使い、楽天のサイトから大量にものを買い取り人の住んでいないアパートに送らせる事件が発生している。中国人の関与が疑われる。

自民党安倍政権に恫喝されて以来、国営放送のニュースは、論評抜きで事実だけを伝えることが原則になっています。ニュースの背後にある踏みこんだ事態は、記者さんは頑張って取材しているのでしょうが伝えることができません。そこで、上に記した3つのニュースは本当にこのとおりの内容と順序で、某年某日伝えられました。

論評・コメント・掘り下げ一切なしですから、このニュースを聞く人はどう感じて、どう解釈してもかまわないのですが、ふつうは「中国を憎め、中国に警戒しろ、中国人は犯罪者集団だ」という観念を国民に刷り込んでいるのではないでしょうか。「公平・中立」な報道をしないと、自民党から放送免許を取り上げられるからと言って、事実を公正に伝えているつもりでも、結局は安倍さんや自民党に有利になっているのではないでしょうか。外に敵を作り、国内の政治的指導者が強硬な発言をすれば、国民は頼もしく思い、彼の支持者は増えるのですから。

尖閣諸島の国有化については石原慎太郎さんという政治家も大きくかかわっています。彼は「シナ」という蔑称を使います。石原さんに言わせれば英語表記chinaの日本式読み方で国際的にも通用する、決して軽侮の意味は込めていない呼称だということですが、中国本人がその言い方を嫌っているのに、他者の気持ちを配慮せず、やめてほしいという呼称を使い続けるのは、やはりそこに、中国に対する見下し・軽蔑の気持ちがあると思います。

江戸時代まで日本は中国を偉大な先進文明国として尊敬していました。明治からそれは変わりました。一つの理由は大陸進出のため中国と戦争しなければならなかったからです。尊敬する相手とは戦うことができません。だから、自分たちよりも劣ったものと認識する必要があったのです。戦前の政治的・軍事的指導者は「シナ」を使っていました。そして国民も何の躊躇もなく「シナ」を使っていました。

翻って、いま中国を脅威と思い、憎む心、それは実は私たちの軽蔑・差別の意識の裏返しです。私たちの心がそこに投影されています。私たちの軽蔑・差別の気持ちも相手に反映されて、自分たちにまた返ってきます。尖閣の領有問題は、問題はあるけど、それを棚上げにし、うやむやにし、後世・後代の人たちの解決に任せようという、アジア的な知恵がそこにあったと思います。ところが、蔑みの心、見下しの心が「国有化」という手段を取らせ、問題の原因となり、問題をよりこじらせてしまったのだと思います。

自分の心が、反映されるということを考えた時に、もう一つ思い浮かぶのは、関東大震災の時の在日朝鮮人虐殺事件です。震災の混乱直後の時に、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」というような流言飛語が飛び、在日朝鮮人が虐殺された事件です。事件の原因はさまざまに分析されるでしょう。もちろん現在のように情報・通信網が発達していなかったということもあるでしょう。でもぼくが思うのは、やはりここにも自分たちの心の投影があったということです。

当時の人は、ふだんから朝鮮の人たちを侮蔑していたでしょうし、大変な差別をしていたことでしょう。無意識の意識のどこかには、自分たちは大変ひどいことをしている、こんなひどいことをしていれば、いつか仕返しをされても当然だ、という気持ちがあったのではないでしょうか。そしてその意識の投影が、未曽有の混乱の中に表れたのではないでしょうか。

自分たちの心が、相手の行動や姿に反映されます。だから、究極的に戦争や争いごとをなくすには、まずは自分たちの心から、その原因となるものを取り除かねばならないと思うのです。


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2016年2月 3日 (水)

佐藤一斎「言志四録」

明治維新の志士たち、そしてその志士の思想や行動に大きな影響を持った江戸時代の思想家たち、こういう人たちの著作を読もうと思ったきっかけは、自民党総裁の安倍さんのおかげだ。こんなに安倍さんばかりが気になるというのは、ぼくも世間の人と同じで安倍さんが好きなのかもしれないが、とにかく安倍さんが唱える「美しい日本を取り戻す」「強い日本を取り戻す」の本質とは何かを知りたいと思うからだ。彼の唱えるスローガンは抽象的でわかりにくいところもあるが、それだけにヒトラーが自信を失い傷ついていたドイツ人たちの心をとらえたような効果をもたらしているのかもしれない。

とりあえず安倍さんのようなお方だから、帰るべき日本は、60年代の高度経済成長の時代というようなけち臭いことはないだろう。安倍さんのご先祖様たちの長州藩が雄藩となって、世界に飛翔しようとした『坂の上の雲』を目指すまでの日本こそが帰るべき場所だと思い、明治維新の志士たちの思想を知りたいと思っている。佐藤一斎の「言志四録」は、あの西郷さんも抜き書きを作り座右の銘としていた。一斎を読んでみると、なるほどあの西郷さんの高潔高邁な思想や言動はここから来たのかと、納得させられる。安倍さんは、「国家道徳」を国民教育へ導入することに熱心であるが、日本人の道徳や思想を鍛えてくれたのは、本当は孔子や孟子のような中国の儒教、そして宋代、明代の朱子学・陽明学だということがわかる。となると、NHKを誘導して日本国民に対して中国に反感を抱かせる戦略をとるのでなく、「美しい日本」の源流として中国文明に敬意を見せてもよいと思うのだが。まさか、安倍さんは漢文が苦手なのだろうか。「漢文」がいかに、日本人の頭脳と精神を鍛えてくれたかを思うと、安倍さんにはぜひ、国民教育の課程に漢文の学習時間をもっともっと増やしてほしいと願うものだ。

さて、佐藤一斎の思想の大きい背景には陽明学がある。陽明学と朱子学との大きな違いは、行動を重んじることだ。その有名なスローガンは「知行合一」。すなわち、知識と行動は一体、すなわち「知ったからには、行動しなければいけない」という行動を生み出す思想なのだ。世の中の不正や格差、こういうものは見えない人には見えないし、見ないふりもできる、しかし、いやしくも志ある者でそのような不正義を知ったならば、即それに対して行動を起こさなければならないのだ。「義を見てせざるは勇なきなり」だ。当然、これは危険思想である。体制側の体制維持には都合が悪い。体制側から見れば、「テロ」とレッテル張りをしたくなる。そこで、陽明学は徳川体制下では異端視され、朱子学が官製学問として奨励された。一斎も、陽明学者と目されては困るので、おおっぴらに陽明学を宣揚してはいず、平等に朱子についても褒めてはいるが、一斎の行動を鼓舞する思想が、維新の志士たちを奮い立たせたに違いない。

一斎の思想は、人を奮い立たせるし、いわゆる背筋をピンとさせる。こういう高潔さ、潔さ、高邁さこそが「美しい日本」の源流を形作っていると思うのだが、安倍さんたち日本主義者はちゃんと一斎を読んでくれているのだろうか。

「真に大志ある者は、よく小物を勤め、真に遠慮ある者は、細事をゆるがせにせず」

「学をなすの緊要は、心の一字にあり」

「名利はもと悪しきものにあらず。ただ己私のわずらすところと為るべからず」

「昨日を送りて今日を迎え、今日を送りて明日を迎う。人生百年、かくのごときに過ぎず。故によろしく一日を慎むべし」

「事をなすに誠意にあらざれば、すなわち凡百成らず」

「生はこれ死の始め、死はこれ生の終わり、生ぜざればすなわち死生ぜず。死せざればすなわち生ぜず。生はもと生、死もまた生」


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2016年2月 2日 (火)

火星の庭・安保カフェ第5回

去る1月28日、仙台市内のカフェ「火星の庭」で、安倍さんの安全保障政策と戦争について考える第5回安保カフェが開催され、参加する。

第5回の話題提供は尚絅の菊池先生で「安保法に反対するのは身勝手なのか?」というテーマだった。ぼく個人はシールヅの若者が、「普通に勉強して、バイトして、恋愛して」の延長上に「普通に政治について考える」というのは、とても可能性のあることで、素晴らしい若者たちが出てきたと思っていた。つまり、政治について発言したり、かかわったりすることや、そういうことをする人が決して特別なことや人でなく、生活の延長上で気負いもなくやる方が、そして自分の生活と来変わらせてそこから出てきた普通の言葉でやる方が、運動の継続性や強さに勝るのではと思っていた。

もちろん、そういうやり方には、自民党の議員さんからは自分の生活や自分のことを基準にして戦争に行きたくないというのは身勝手である=利己的という反対案も出されるのであるし、またぼく自身も、けっきょくそういう生活に根差して自分の小さな身の回りを大事にするという保守主義では、しょせん安倍さんのように公的な力を前面に押し出し一人一人の生活や思いを踏みにじる強大な力にはやはりかなわないのかなとも思ってきた。いろいろな思いはぼく自身にもあるのだが、菊池先生には、考えるヒントや話題提供をしていただき、気づかされたこともあるし、考えを整理するきっかけも得られた。

今回の安保戦争法案を考えるにあたって、過去の安保運動を振り返るという菊池先生の整理の仕方は面白かった。大きな転換点はやはり70年安保だ。このときは、安保に反対する側も、生活から遊離する抽象的な言葉を用いていたが、それが一般にも受け入れられて反対運動にも一定の支持が集まっていた。しかし、連合赤軍浅間山荘事件などで一挙に世間の支持を失い、その後大学のキャンパスにはそういう運動を見かけることもなくなった。この連合赤軍浅間山荘事件が何を意味していたかというと、「社会的なこと=安保廃止や革命の大義」が「個人的なこと=おしゃれをしたいとか恋愛をしたいとか」を抑圧してしまったこと。しかし、赤軍の破たんによって「社会的なこと」は語るのにくちはぼったいこととして、つまり政治をまじめに語るなんてかっこ悪いとされ、「私的なこと」が全面的・前面的になる。

その流れを受けて80年代に何が来たかというと、田中康夫氏の「なんとなくクリスタル」だ。この意外な整理の仕方が菊池先生の冴えで、大変面白かったし、ぼく自身も「なんクリ」には思い入れがある。安保カフェに来ていた、ぼくよりも下の世代の方はこの「なんクリ」が流行った時代の雰囲気も知らないし、バブルも知らないというのを話していて知って、それはそれはショックであった(自分はもう平均年齢を超えた上の世代の人間であると気づかされ)が、面白い発見でもあった。

ぼくは「なんクリ」は嫌いだった。でもそれはやっかみである。小説に出てくるブランドに身を固めている女子大生と、彼女と付き合うカタカナ職業の男の人の世界には、田舎者のぼくなどにはどうやっても入り込めないという反発だ。しかし、自分はそういう世界には無縁ではあったが、確かにそういう女子大生やカタカナ職業の人たちがいる同時代の東京を、ぼくは見ているし体験しているのだ。まあ、そういう経緯で田中さんと「なんクリ」は嫌いだったのだが、菊池先生が指摘するには、このブランドだらけの小説の中の一番最後に、田中氏は厚生省の出生率のデータを載せていて、誰も日本の将来が傾いていくなんて考えようともしなかった時にもうすでに田中氏は未来の予言をしていたのだという。だから、「なんクリ」の作者が政治家に転向するのは決して無理なことではなく理の当然だということであった。政治家としての田中氏には、ぼくは大いに賛同するし、彼の業績や手腕を尊敬する。菊池先生の話を聞いて、嫌いだった「なんクリ」を、まじめに読んでみたいという気持ちになった。

さて、「公的」「私的」の話でいくと、「なんクリ」は「私的」がもちろん前面に押し出されている。でもその中には、厚生省の少子化のデータがこっそりと載せてあったように、「公的」が胚芽している。では「公的」と「私的」の境目はどこだという話になる。「公的=国の安全保障や戦争ができる国家体制」と「私的=自分の小さな身の回りの生活や家族や自分が関係する人だけを大事にする」のバランスをどこでとって、どういう国にこの国をしていくのか。それはもちろんこのカフェで答えが出るわけでもないし、出たとしても、それを他者に押し付けるわけにもいかない。結局一人一人が持ち帰って自分の持ち場で考えようということ。


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