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2016年1月28日 (木)

自民党憲法改変案・第13条

自民党憲法改変案の13条を引き続き考察してみたい。まず、現行13条は「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」そして改変案では「個人として」が「人として」に、「公共の福祉に反しない限り」が「公益及び公の秩序に反しない限り」となっている。

さて、「個人」が「人」となっている、その心は何だろうか。安倍さんや自民党の人たちの考えをぼくは知りたいと思うし、同じ考えの人からよりも、自分にないものを得られるという意味でも、異なった考えの人から得ることは多いと思う。ウイキペディアでは「要明示出典」扱いになるだろうが、安倍さんたちの考えは、報道等で漏れ伝え聞くと、「戦後は個人がわがままになりすぎた。権利ばかり主張し、義務を果たそうとしない。社会全体のために奉仕すべきだ」というものだろうか。だから、わがまま、自分勝手というイメージがある「個」という漢字を外したというところなのだろうか。

個人の自由は民主主義の基本であるが、ただ例えばいくら自分が音楽が好きでそれを聞けば幸せになれるからと言って、真夜中の人が寝静まった住宅街や満員電車の中で大音量で音楽を聞く自由があるかと言ったら、その自由はどこかで制限されなければならない。欲望や幸福を無限に追及する自由があるわけでなく、社会の他の構成員の自由との兼ね合いということであろうが、これは民主主義の抱える葛藤である。でも、その葛藤をどう解決するのかは、それぞれの時代、社会の課題であり、何しろ私たち国民一人一人が考え実行していく必要がある。

そしてもし、それをしなければ、安倍さんや自民党の政治家たちが代わって考えてくれて、「個人」で自由を追求したらわがままになるので、集団で追求しましょう。集団であれば、個という様々な性格や個性を持った部分は捨象でき、残った共通部分はどんなひとであろうと「人」でひとくくりに表せるので、「人」で考えてください。そして自由の追及はどこでストップするかというと、「福祉」というと弱者に寄り添うイメージがあるので、やはり自由とぶつかるのは国家の秩序ですから、国家の秩序を最優先して、秩序とぶつかったら自由はそこでストップしましょうということなのだろうかと忖度する。

とここまではあくまでもぼくの忖度に過ぎないが、しかし、安倍さんたちが推薦する育鵬社の教科書に曽野さんの文章が載っていて、「まず国家があって人があるのです。その逆はありません」と言って、国家の独立と国の自存があって、初めて国民も生きていられる、国が滅んでしまえば国民はどこにも行くところ住むところもないという趣旨のことが書かれていた。確かに、旧約聖書などを見ると、国を失ったユダヤ人が強国に翻弄される姿が書いてあり、歴史的にも安倍さんや曽野さんの言うことも一理ある。しかし、満州国瓦解の時(安倍さんのおじいさんが官僚をしていた)、国家は国民を決して救わなかったし、国家権力の体現の軍隊だって国民を救わなかったけれど、それでも国民は生き延びなければならなかった。核発電事故後の棄民政策を見ていても、国家の延命や寿命よりも、もっと長く生き延びなければならないのは国民の方ではないかとも思う。

民主主義における個人の自由の問題はとても難しく、きょうは考えがまとまらず、自民党改変案に対して対案は提案できなかった。でも、考えるきっかけをくれた安倍さんや自民党に感謝している。われわれ国民も、しっかり自民党改変案を読ませてもらって、どういう考えで改変しているのか、安倍さんからも考えを聞かせてもらい、こちらの考えや気持ちも聞いてもらって、対案が出せるときは出していきたいものだ。


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2016年1月27日 (水)

滋賀の「憲法カフェ」に学ぶ その2

安倍首相・日本会議と自民党が特に変えたいと思っている憲法13条を見てみよう。まずは原文「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」。この文言で安倍さんたちが、問題視しているのは「個人」という部分と「公共の福祉」だ。そこに安倍さんたちの考えや、憲法を変えた後に目指す国の形、国家と国民との関係が見て取れる。そう、安倍さんたちが言うように、「反対、反対」と唱えるだけではだめだ。それには、まず安倍さんや日本会議・自民党の考えをしっかり教えてもらい、私たちもそれを勉強して、そして実践や言動で「対案」を出していかなければならない。

さて、滋賀の憲法カフェに学ぶべきは、その会が堅苦しいものでなく、クイズ形式で改めて憲法について学びながら、という姿勢だ。そこで、滋賀で出されたクイズをここで引用。

「国民は、憲法を尊重し擁護しなければならない。○か×か」

ぼくは、当然、日本国民たるもの、法律に従う、ましてや憲法を尊重するのは当然だと思っていたので○と答えた。

ところが憲法そのものには、国民が憲法を尊重・擁護すべきという条文がないので答えは×なのだ。

条文にあるのは、天皇・摂政・国務大臣・裁判官・公務員の憲法に対する尊重・擁護義務なのだ。

これが何を意味するのかというと、もともと憲法というには、国家の強大な権力が、個人の自由や尊厳を脅かし犯しがちであるという力関係にかんがみて、国家権力から個人を守るというものなのだ。

これはぼくも盲点を突かれたというか、改めて驚いたが、安倍さんのように「こんな情けない憲法はないですよ」と憲法を貶める国務大臣・国会議員が出てきて憲法が攻撃される事態になっているのであれば、ぼくは憲法改正の対案として「民主主義や国民の基本的な人権を擁護し条文化している憲法を脅かす動きに対しては、国民自身が自ら民主主義・基本的人権を擁護するために努力奮闘する義務がある」と付加する、あるいは改定する、というのはどうだろう。憲法でこういう条文があれば、例えば民主主義の大事な要素である「投票」を放棄する人に条例等で罰則を科しても憲法違反にならないだろう。

もちろん、選挙に行かないというのも、これも立派な『個人の自由』だと言われれば、ぼくも考えてしまう。個人の自由と公共の福祉がどこでぶつかり、どこで線引きされるのか、それが最初に掲げた「憲法13条」の問題だと思う。安倍さん・日本会議・自民党の皆さんも、そこをついてきているのだと思う。だから、ぼくたちだってこれはきちんと「個人の自由」と「公共の福祉」つまり「個」と「全体」の関係について考えて行動し、それで安倍さんたちに対案を示しておくべきだと思う。ちなみに自民党憲法改変案では「個人として尊重される」が「人として尊重される」。「公共の福祉に反しない限り」が「公益及び公の秩序に反しない限り」となっている。

「個人」と「人」たった漢字一文字の違いだが、そこには大きな深淵が横たわっている。子どもたちの世代が、戦後享受してきた民主主義をこれまでと同じように体現できるかどうかの大きな別れ目だ。次回は、憲法13条を考察してみたい。


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2016年1月24日 (日)

滋賀の「憲法カフェ」に学ぶ その1

震災と核発電事故のあと、滋賀県の方と縁ができた。核発電事故と放射能汚染について自分たちの問題として考えてくれて、「保養」の受け入れなど、支援をしてくれている人たちだ。滋賀では、そのように震災や核発電事故のあとで、「おかしいと思えば疑問の声を上げてもいい」「わからないことは自分たちで調べる」という人たちが、政治家を呼んで話を聞いたりという活動をしていて、そんな中からこの人であれば仕事をお願いできるという流れから県知事も誕生している。本来の民主主義はお任せであってはならず、主体はあくまでも私たち市民のはずだ。政治家や議員さんたちは、市民の代表として仕事をお願いされているはずで、そこに上下関係はない。

そういう滋賀県の方たちという土壌の中で、滋賀の方たちが「明日の自由を守る若手弁護士の会」から講師を呼んで、「憲法カフェ×くらしとせいじカフェ」をおこなった。その記録を送っていただき、ぼくもあらためて憲法のことを勉強してみたり考えたりするいい機会をいただいた。そもそも「くらしとせいじカフェ」というネーミングもいい。政治は特別なこと、特別な人(=へんな人)だけが話していることではなく、私たちの生活にとても密接にかかわっている、だからカフェのような気軽にお茶を飲める場所で、肩ひじ張らず政治について話してみようよ、という考えが表れている。政治家も議員さんも特別な人ではなく、単に私たちから思いを付託され、私たちの代理で意思決定に参加しているだけという考えが表れている。

さて、これまでの安倍首相や自民党・日本会議から受けている「民主主義への挑戦」や「憲法改変への挑戦」は、これは一種とてもありがたいことだと思う。民主主義も平和も、不断の努力がないと達成されないのであって、もし日本に民主主義がなくなり全体主義にとって代わったとしたら、それは日本の民主義の力は弱く、しょせんは名目のみ外国から借りた(もしくは、押し付けられた)ものに過ぎなかったということだろう。そんな挑戦を受けている民主主義とと憲法だが、やはりまずは、自民党改憲案をじっくり勉強するところ始めるべきだろう。

その自民党改憲案は次回からぼくもじっくり勉強させてもらうことにして、滋賀の「憲法カフェ」の楽しそうな雰囲気が伝わってくるクイズを一つ。話し合いと言ってもそう固くならず、こんなふうに弁護士さんがクイズを出しながら楽しく進行していったのかなという雰囲気が伝わってくる。そのクイズは「日本国憲法の中に「愛」という文字は入っているでしょうか?」

ぼくはこのクイズ自分でやって、法律のような堅苦しいものに「愛」はそぐわない感じがしたので「×」と答えた。だが正解は、憲法前文の中で「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」という文言があるので「○」なのだ。「愛」がある憲法って素敵だな、と感じた次第である。


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2016年1月17日 (日)

安保カフェ

「火星の庭」という仙台市内のカフェで、東北学院大の先生が話題提供をしてくれ、それを受けて市民が気軽におしゃべりをするという集いをやっている。「安全保障法」について、いろいろな角度から語ってみようということで「安保カフェ」と銘打っている。こういう「カフェ」は、たぶん鷲田先生が始めた、哲学は本当はもっと生活や人生に即した「臨床的」なものだということで、市民に参加してもらって気軽に話し合う「哲学カフェ」あたりから始まり、その流れをくむものだろう。

いろいろな「○○カフェ」があるのだろうけど、政治問題を市民が自由に語れる、そして自由に語るために集まれる、そしてその集会で自由に思ったことを言える、というこんなありがたいことが可能だということを考えながら、ぼくも先日のカフェに参加してきた。幸せになれるための心理学に、「今あるものを、無いと想像してごらん。そうすれば、そのことのありがたさに気づける。そして、そのありがたさに感謝できれば人の幸福度は増す」という、調査や実験結果がある。今年の夏が来れば、もしかしたら「緊急事態条項」が制定され、首相が判断した国益に反する基本的人権は停止されるのかもしれない。そう、想像したら「安保カフェ」は、なんとありがたい企画なのだろう。

さて、先週のテーマは「安保と移民問題」。安保法案と移民問題はどうかかわるのだろうか。安倍首相の側からすれば、ISや某ならずもの国家がいるような世界情勢だから、積極的に海外に軍隊を派遣するということなのだろう。ぼくらのテーブルで出た話題では、もしぼくたちが本当の意味で憲法9条の精神を生かし、本当の意味で「積極的平和主義」を展開するのであれば、貧困・差別・飢餓などの戦争につながる原因を取り除くことをしなければならない。それは国外だけでなく、国内においてもであって、日本国内で外国人が差別されたり無権利状態で置かれていたりすれば9条の精神は実現されないということだ。

そういうわけで、ヘイトスピーチの話も出た。ヘイトスピーチに対抗してそれをやめさせる運動を「カウンター」というのだが、この「カウンター」運動でも、「死ね、殺せ」などの非理性的な言動が出ていて、今の時代は理性に訴える言葉は響かず、感情に訴える言葉の方を人々は聞き入れる、という話題も出た。なるほど、安倍さんの国会での質問の受け答えなど、質問の答えに全くなっていず、論理の道筋はなく、都合の悪いことを聞かれれば逆切れするというものだが、そういう「言葉」が「力強い」ものとして国民から高く支持されているのだろう。「カフェ」でおしゃべりをしていても、何も世の中は変わらないという無力感はあるが、どういう社会を作っていくのか、どういう社会を目指すのかというこういう議論は、敗れ去った廃墟の中からでもそれを継いでいってくれると、ぼくは信じたいと思っている。次回のカフェは1月28日(木)だ。


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2016年1月13日 (水)

TVゲームと脳の関係

河北新報1月7日付にテレビ・ゲームと脳の関係に注目した研究結果が載っていた。東北大加齢医学研究グループの研究結果である。

それによると「ゲームに興じる時間と脳の発達の遅れは比例する」とのことだ。

調査は宮城県内の5~18歳の子供たちを対象に、脳画像解析と知能検査を実施したという。磁気共鳴画像装置で脳を調べると、テレビ・ゲームで長時間遊ぶ子供は、物事を認知したり記憶したりする領域の発達が遅れ、また、快楽を感じるときに出る神経伝達物質であるドーパミンの過剰放出により、意欲をつかさどる領域にも悪影響があったという。

そのほかにも、ゲームをする時間が長いほど、言語能力が低く、類似する言葉を見つけたり、読み上げられた算数の文章題に暗算で答える検査の成績が劣る、という結果が出た。3年後の追跡調査でも、テレビ・ゲームが習慣化している子は脳の発達がさらに遅れていることが分かった。

ぼく自身もこの調査結果についてもさらに詳しく知りたいと思うし、脳科学等詳しく勉強して効果的な学習法などの探求に結び付けていきたいと思っている。

後日談というわけではないが、先日、この研究グループがさらに調査に協力してくれる子供たちを募集していた。わがやの娘は、協力費として支給される図書券に惹かれていたが、母親の方は親子ともに採取される遺伝子情報に引っかかっていたようだ。今後の研究課題としては、知能に遺伝はかかわるのか、知能や学習にかかわる遺伝情報は遺伝子の中のどの位置にあるのかということなどが研究されるのだろうか。研究結果には興味のあるところだ。

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2016年1月 8日 (金)

物理学とは何だろうか

朝永振一郎さんが書いた『物理学とは何だろうか』が岩波新書から出ている。これは傑作だ。私は多くの人にそのことを伝えたいと思う。ぼくの世代では湯川さんや朝永さんと言えばノーベル物理学賞を受賞した有名な物理学者だということは知っている。でも、今の若い人たちは朝永振一郎を知らないかもしれない。まして、その著作だったりその思想に触れることはないと思う。だが、これからも長く朝永氏の学問や思想は読み継がれていってほしい。特にこの岩波新書の『物理学とは何だろうか』のような名著は。

根っからの文系人間であると自負しているぼくが物理の本を読んでいるのは、それは核発電の事故がきっかけであることは間違いない。こんなふうに、文系だからと開き直って、核発電のことなどよくわからないと言って大して行動もしてこなかった反省・自戒を込めて物理を勉強している。今ぼくは、核発電に反対の立場を取っているが、反対するにしても核発電の原理やそれを支える物理のことを多少はわかったうえで反対したい。そうでないと、推進派の安倍首相からは、何でも反対と言ってるだけじゃ明るい未来は来ないと言われてしまう。そうであれば、賛成派の人、特に権力と決定権がある方々もちゃんと核発電や物理のことを知ったうえで、賛成していると信じたい。しかし、川内原発を再稼働させた鹿児島知事さんが、数学なんて日常生活に関係ないなんて言う考えの持ち主であるのを知ると、推進派の人たちだって大して物理を知らないくせに安全であるはずだというのをうのみにして、賛成しているだけではないのですかと思ってしまう。朝永さんの『物理学とは何だろうか』を読むと、物理と数学の強い結びつきがわかる。学問や技術に対して真摯に向き合おうとせず、川内核発電を再稼働させた鹿児島知事のような姿勢では、そしてそのような姿勢こそ、事故を誘発させるものだと、私は思う。そもそも事故が起きても、偉い人は特権ですぐに国外に退避できるから別にいいやと思っているのだろうか。

さて、読んで感動したこの名著の紹介をしたい。まず、朝永さんは冒頭で物理学の定義をしている。それは「われわれを取り囲む自然界に生起するもろもろの現象―ただし主として無生物に関するもの―の奥に存在する法則を、観察事実によりどころを求めつつ追求すること」が物理学というものだとしている。このように定義することで、物理という科学以前の魔術、錬金術、占星術とを区別している。そしてこの物理以前と、物理を画する偉大な物理学者としてケプラーから上巻を始めている。この上巻第1章がぼくはすごいと思ったのだが、本巻の解説者によれば本当にすごいのは下巻の第3章だそうだ。でも物理学の基礎がどうできてきてそれがどう関連しているのかというのが初めて何となく理解できたのでぼくはこの上巻第1章もとても感動した。第1章は、ケプラーの宇宙観測から始まり、ガリレオとニュートンを取り上げている。この有名な3人は誰でも名前を知っているし、どの教科書にも出ている。しかし、この3人の考えたことがどうつながり、どのように発展してきたのかという内的な連関や有機的なつながりを、どの教科書だってこんなに鮮やかに示してくれることはできないだろう。やはり、朝永さん自身が一流の物理学者だったからだろう。ニュートンが偉いのは本当に誰だって知っているが、ぼくは、朝永さんのこの本を読んで初めて、ニュートンが物理学という学問において真に偉大な人だったというのを感じ取ることができた。

第2章そして下巻の3章は熱科学の進展を取り上げる。物理というと、素人のぼくなどは一足飛びに「核」に考えが行ってしまうのだが、熱科学や分子の格闘や取り組みがあったからこそ20世紀の核物理学へとつながるのだ。もちろんはじめは読んでいて気づかないし、熱科学の話は案外難しい、そして出てくる学者もガリレオやニュートンほどは、素人には有名な名前でないので、理解に苦労することもあるが、そのうちに朝永さんが描く『物理学』の構想の大きさに圧倒されてくる。「物理学」がいかに偉大な学問なのかということ、そしてその偉大さを伝える雄大な朝永さんの執筆構想。本当にスケールが大きい。しかし、残念なことに朝永さんの絶筆となり、第3章で終わってしまい20世紀の入り口までしか来なかったのである。そう、これから物理界のスーパースターであるアインシュタインが登場するところというその前で終わってしまったのである。本巻解説者によると、20世紀の量子物理学などについては、他の講演や著作で朝永さんはすでに十分取り組んでいたので、亡くなる直前まで力を入れていたのは第3章で、これは今まで物理学の歴史を描く著作ではこんな風に書かれたことはない傑作だということだ。第2章、3章はぼくなんかには難しいが、それでもこの章が傑作だということはなんとなくわかる。そして物理学の歴史としては、熱や分子に取り組んできたからこそ原子にたどり着くことができた絶対に必要な過程だということも理解できた。

つたないながら、2章、3章を紹介しよう。2章はワットの蒸気機関から入る。ワットは厳密には物理学者ではないが、ワットから入ったのは科学とその原理の応用について考えたいという朝永さんの大きな構想があったのだろう。2章ではカルノーの熱科学とエントロピーが話されている。エントロピーという概念は難しいが、エントロピーは必ず増大する一方だというのは生命ともかかわりがあることなのでこの概念についてはもっと今後知りたい。朝永さんは、カルノーの原理からどうやってエントロピーが導かれるのか、その内的関連を見事に説明してくれる。そして第3章ではドルトンの原子論から始まり、ボルツマン、マックスウエル、クラウジアスが登場してくる。マックスウエルと言えば電磁気の人かと思っていたが、分子の運動論にも大きな足跡を残した人だったのだ。この章では、ボルツマンが結局最後に自殺してしまうという話が印象的だった。物理の理論を作るのがそれほど苦悩を伴うものだということなのだ。ただし朝永さんが歴史家のように単なる発見の歴史や偉人のエピソードを紹介しているのではなく、あくまでも物理学を彩る綺羅星のようなスターの探求したことや彼らの苦闘を通して、『物理学とはどのような学問なのか?その本質はどのようなことなのか?』それを探求しているところが、この著作の偉大なところなのだ。

ぼくにとっては第3章で終わってしまうのは残念で、この先さらに物理学がどのように進展していくか、朝永さんが生きていてご自身もその歴史を作った20世紀の半ばまでの物理学の流れが知りたかった。だが、3章で絶筆になってしまった代わりに下巻には「科学と文明」という講演が収録されている。ぼくは思うのだが、もし朝永さんが生きていてチェルノブイリの事故やフクシマの事故を見たらなんと言うだろう。そんなふうに思わせるのは、朝永さんがここで探求しているのことが、科学と文明社会、つまり私たちとの生活のかかわりを考えているからだ。物理は自然を知り、その自然の中に隠れた物理法則を知ることである。(そして知ったことを記述するのに、ふつうの人間の言語は用いず、美しい数学という言語を用いる)だが、知って記述することだけに満足せず、実験で使われた自然を変える技術をうまく使えば、我々の欲望を満たすために自然を変えることも可能なのだ。産業革命当初の、ワットの蒸気機関発明などはまだかわいい方だったのかもしれない。科学の実地への応用は、人々の生活を便利に豊かにしてくれたから誰もそれが悪いものだということを疑う人はいなかった。だが、やがて戦争で使う兵器に応用され原子爆弾を生むようになった科学はどうだろう。手放しで科学を礼賛できる人はいないだろう。朝永さんの科学者として問題意識は、彼が生きた冷戦時代の米ソ対立の核危機によるし、そして彼は科学者として平和行動もしていた。「科学と文明」の問題は今だって決して解決されてはいない。本巻の解説者も書いていたが、朝永さんはそれは「読者への演習問題ですよ」といたずらっぽく笑っていられるかもしれない。


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2016年1月 5日 (火)

「平時」の原発はこんなふうに動いていた!

寺尾沙穂さんのルポルタージュ「原発労働者」(講談社現代新書)を読む。寺尾さんの問題意識はこうだ。核発電所の是非を論じる場合に欠けている視点は、そこで現実に働いている人のことが置き去りにされたまま、表面的・観念的にのみ問題が扱われているといことだ。そこで、寺尾さんは核発電所で実際に働いた人や、終息作業に当たっている人と直接会い、話を聞くという手法を重んじて核発電の問題点を明らかにしようとする。政府関係者・官僚・現役の電力会社社員にインタビューしていないので、核発電の存続・推進には寺尾さん自身は厳しめの態度や意見を持っていそうであるが、インタビューされた原発労働者たちは必ずしも、核発電所に反対しているわけではない。やはり、核発電にかかわる仕事で生活をしていた、しているという現実的な視点があり、その点では私自身そんな実体験があるわけでもないし読んでいて新しい視点や考えに触れることができ、有意義な書籍だった。

核発電に反対している人たちを批判し揶揄する言葉に「頭の中だけで考えて東京で反対デモをしている人たち」というのがある。現場のフクシマでなく、安全で離れた場所にいてという意味の揶揄も含まれているだろう。私自身、核発電には反対だが、では私はどういう立場や体験から反対しているのかと言えば、現場で働いてきて生活をそれに頼り、さらには被爆から体調を崩してという人に比べれば『観念的』な反対には違いない。だが、現場の労働者(東電や東北電力の貴族社員ではなく、下請けの無権利労働者たち)のことを知らないのは、賛成派も同じだろう。だから、核発電の問題は、現場の人だけに発言権があるというのも違う気がする。子どもたちの保養問題に立ち上がってくれ受け入れ態勢を作ってくれたりしたのは、関西の人であるが、フクシマからの距離に比例して現場から遠くなるので核発電についてはそれだけ発言権がないとすれば、関西の人たちの問題のかかわり方はどう評価されねばならないのだろう。こう留保だけはつけておくが、寺尾さんが『原発労働者』で強調した核発電問題における労働者の視点というのは大切なことだと思う。

寺尾さんが明らかにしたのは、特殊な核発電労働という問題だけではない。貧困問題、派遣労働者の問題、下請け労働や構造の問題といった日本社会がいま静かに崩壊に向かっている大きな問題がここ核発電労働にも如実に現れているということだ。現場では人を育ている余裕はない。だから人を人と思わず使い捨てていく。そんななかでベテランの熟練労働者は減っていき、素人ばかりの寄せ集めになっていき、使えないやつはどんどん切っていけばいいやということになる。貧困が広がっているのだから、ちょっと金を出せば人は集まると高をくくっている。それにいざとなったら外国人労働者だ。高放射線量のプールや炉心に落ちたものを潜水して取ってくる仕事は1回でものすごい高額の金になるという。もちろん相当の被ばくをする危険な仕事だ。だが外国人にやらせれば、被ばく管理もしなくていいし、将来病気になっても責任を取って労災を払わなくてもいい。黒人を使っていたというところに、「差別」の意識が反映されている。そして皆さんも考えていただきたいのだが、同じ職場に様ざまな待遇の人たちがいて、そんな職場で士気が上がるだろうか。日本では「同一労働同一賃金」が実現されていないが、それも核発電所の労働に反映されている。

電力の社員はものすごいエリート意識丸出しで、その意識をぶつけられて下請けや派遣の労働者たちは反発する。上と下では防護マスクの質も違うのだそうだ。そういうやっかみから、労働者たちが、炉心に机や椅子など信じられないものを投げ込む。それを外国人労働者が潜水して取ってくる。福島核発電所の事故が収束してほしいと私は願うが、それにはまず現場で働く労働者たちの待遇改善をしっかりやらなければだめだと思う。それには、他の核発電所を動かしている余裕なんてないし、東京でオリンピックなんかしている場合ではないと思う。NHKのテレビを見ているといま日本には何の問題もありません、明るい未来が待っていますよという、年中新春のほほん気分に浸れるが、テレビを見るのは拒否して本を読んで、自分で問題を考えていったらいいのではないだろうか。


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2016年1月 1日 (金)

「わかる」の研究 その1

「わかる」とはどういうことを言うのだろう。学校教育の現場では、わかっているのか、わかっていないのかはテストの結果を分析すれば推定できる。そこで「わかる」研究の第一歩は、各種試験で求められている学力(学力観)を探るところから始める。そこには期待されるべき理解度や達成度が述べられている。そこから逆照射して「わかる」の本質に迫ることができないかと考えてのことである。

以下は、2015年度の全国学力テストの講評で、2015年8月26日付の河北新報に掲載されたものから、私の方で要約と抜粋を作ったものである。

小学校国語と中学校国語の講評で、ともに正答率が低くて課題だとされた事に、「的確にまとめたり、自分の考えを書いたりすること」「文の構成を理解すること」「自分の考えをまとめること」「理由や意図を具体的に説明する」がある。これらは主に知識の活用を問うB問題から課題だと指摘されたことである。知識そのものや知識の定着度を主に問うA問題の方がB問題よりも正答率が高い。よって、知識そのものを覚え、再現すること自体はそれほど重要視されておらず、知っている知識をどのように活用・応用していくかということが主眼になる。「わかる」についても、知識の活用・応用まで行って初めて「わかる」が達成されたと考えた方がよさそうである。

子どもたちのテストの結果で指摘された課題は「算数・数学」「理科」でも似た傾向がある。

「算数・数学」では「割合や基準量などの正しい理解」「理由を書く」「言葉や数式で説明する」。「算数・数学」では、基本的な概念を把握・理解すること自体が難しいということはある。そのうえで、わかっていることを消化し、自分の言葉で言い換えてこそ達成すべき「わかる」のレベルであることが推測出来る。

「理科」では「グラフをもとにした考察や記述」「数値化した表から規則性を見つけ出す」。国語は「言語」を相手にする。理科ではその相手が抽象化した数字やデータである。この対象に違いが「わかる」に及ぼす影響も考察の対象としては面白いが、やはり課題とすべきは他教科と同じで、まとめる力や説明する力ということだろう。そのうえで理科では、一見乱雑な実データの中に規則性を発見する力、ここまでのレベルが「わかる」の中に含まれている。


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