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2015年12月31日 (木)

糺の森にマンションは似合わない

京都の下鴨神社の糺の森に、マンションが建設されようとしている。貴重な自然環境を後世にそのまま残すべきであり、マンション建設はそぐわないと思う。金になることであれば、何をしてもいい、すべきだという世の中の動きを象徴するものだと思うが、さすがにそこまでやったらおしまいだというたぐいのものに、ぼくには思える。金を稼ぐ大切さについては、ぼくだってわかっているつもりではある。しかし、商売には商売の道徳がある。そんな道徳や人倫は無視してもいいというのが、安倍さんや自民党の政権が力を得てからはどんどん強くなっている気がして、そういう世の中のつながりを壊すような動きに、この1年、ぼくは反対してきたつもりだ。

糺の森が貴重な理由はいくつかある。一つは、都会の中に古代から残る貴重な植物相だということだ。何百万と人が暮らす都会の真ん中に森はある。市民も観光客も自由に散策できて、その貴重な自然に自由に触れられる。そしてもう一つは、古代からの信仰や文化と強く結びついていることだ。下鴨神社の葵祭は皇室との結びつきがとても深い。源氏を読んでも枕草子を読んでも、祭りと言えば葵祭で皇室の方々やゆかりの人たちがたくさん登場する。糺の森がなくなることは、そういう信仰や文化など、無くなってもいいと言っていることだ。こういうことがあるたびに、本当の愛国とは何だろうと考える。美しい日本の伝統文化とは、自然に対する日本人の畏敬の念や、それを形で表した祭祀などのことではないか。本物の愛国右翼の人たちはなぜ、安倍さんが作り出している風潮に抗議して立ち上がらないのかと、いつも不思議に思う。

糺の森や下鴨神社はユネスコの世界文化遺産だ。いったん指定さえ受けてしまえば、あとはこちらのもの、どう改変してもかまわないというのも、政権党が勢いを得てからこのかたの世の中の流れのように思える。川内原発がいったん稼働してしまえば、安全対策は取りやめることにしましたというのも同じことで、安倍さんや自民党の強い支持があるからこそ、九州電力も強気で押せるのだ。万が一、糺の森にマンションが建つようなことがあれば、世界遺産は返上したほうが良い。美しい日本の伝統文化を称揚するのであれば、「恥を重んじる」ということこそが、日本人の誇りであろう。


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2015年12月30日 (水)

和解の科学 その4

有効な和解を引き出すために、どのように謝罪をすべきなのか。これは、「経験」ではなく、「科学」になりうることだ。日本は本当は、こういう「社会科学」が遅れていて、本来であれば実社会に大いに役立つ情報・知識を提供し、人々もその成果のおかげをこうむることもできるはずなのに。和解の科学の最終回は、石巻市の小学校で児童が津波の被害に会い命を落とした事件を通して、市当局・教育委員会と遺族との和解がなぜ失敗し、感情の対立・縺れが解け切らないのかを考える。河北新報に連載された12月15日付、および16日付の記事を参考にしている。

2011年震災から30日目の第1回保護者説明会に、校長が出席。校長は事故の当日は不在で、学校の被災現場に戻ったのは6日後。これが保護者からは、責任者の緩慢な対応は他人の子としか思っていないと映った。第2回目の説明会で、石巻市長が「自然災害における宿命」と発言し、遺族は耳を疑う。教育委員会は、一方的に説明会を打ち切り、今後は開催しないと宣言する。生き残った児童から、山に逃げようと訴えていた生徒がいたにもかかわらず、津波の来る北上川に向かって避難したという証言が出たが、教育委員会の聴取記録にその証言はなかった。下書きメモが廃棄され、記録の正確さを確かめる手段がなくなった。地震から津波到達まで50分。避難経路が特定されたがその50分間児童たちは180メートルしか移動していない。それを教育委員会が認めるまでに1年5か月かかった。

結局、対話が深まらず、対立が先鋭化し、信頼関係が修復困難になった。そこで、市は事実解明を第三者に委ねた。震災から2年目に第3者委員会の第1回会議が開かれたが、華やかな会場の雰囲気に遺族は違和感を覚える。第3者による客観的な検証に真実が明らかになるときたしていた遺族も、検証委の中間発表、そして最終報告にも知りたいことを知ることができないとして納得できず、ついに真相を明らかにするため法的手段を検討するというところまでになった。

和解の科学で言えば、石巻市長の「自然災害における宿命」というような発言は、「侵害を認めること」という原則に違反しているだろう。立場がある人の発言として、もし責任や事実を認めてしまえば「賠償」責任と結びつくという懸念が付きまとうのであろうが、結局、侵害を受けた側との感情のもつれは解きがたくなる。そして、和解の科学の第2の原則「事実の説明」においても、事実を認めしっかりと説明できなければ、やはり両者の関係性が損なわれ、修復が不可能になるということであろう。

 


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2015年12月25日 (金)

映像の世紀

ヒトラーがどのように政権を取り、戦争を起こし敗北していったのか、映像資料を駆使して描くNHK特集が先日放映された。未来のためにも、今、歴史の真実を子供たちや若い世代に伝えていくのは、自分の義務のようにも思え、子供たちを誘って一緒に見た。

ヒトラーが政権を把握して過程にはいくつかのポイントがあった。一つは「経済政策」。アウトバーン(高速道路)建設による公共政策による失業者対策。そして、軍事産業を盛んにして労働者を豊かにすること。社員食堂を作らせたり福利厚生を充実させ、労働者を大切にしているという姿勢を見せ、国民の支持を得る。

次は、ユダヤ人への憎悪をあおり、ユダヤ人の人権を剥奪していく。そして、国会放火事件をでっち上げ、宿敵の共産党員を逮捕し、反対派を鎮圧する。そして、「全権委任法」。憲法にのっとり、法的手続きを巧みに踏んだ形で、ヒトラーにすべての権力を集中し、ナチス党以外を全部禁止する。

悪夢の歴史は繰り返してほしくはないし、ナチスの成功をどこかの国のどこかの政府が学んでいるとは思いたくない。しかし、いま日本でも、ちょうど安倍さんが盛んに経済政策を行っている。「3本の矢」の次は新たな「3本の矢」だ。しかも、消費税まで「軽減」してくれるのだという。国民大衆を考えた本当にありがたい思し召しだ。だが、「軽減」の財源は、弱者の福祉に充てるはずのものから横流しするだけなのだから、弱者はますます苦しくなる。生活の苦しい年金生活者には「1万円」を配るということらしいが、もしこれを個人の政治家がやれば、「買収」だが、国がやれば問題ないのだろうか。株価も上がっていて、安倍さんの経済政策のおかげであるが、将来の年金原資を費消してのことだ。

在日外国人に対する憎悪発言は止まらない。東京の大久保の韓国人の商店が破壊されるようなことがなければいいが、憎しみの対象を作ることで、求心力はますます高まる。自分に反対する人たちには、圧力をかけて、自由な発言が許されないようにする。そして、悪夢の完成は来夏以降の憲法改正による「緊急事態条項」の導入だ。安倍さんが、ひとたび「緊急事態」を宣言すれば、国民の権利は停止される。そんな事態は起こりえないというかもしれないが、アメリカ支援政策により、テロの危険性や核発電所事故の可能性が高まっている。そんなちょっとしたことで「緊急事態」になり、国民の権利は簡単に停止される。

ナチス時代を振り返ってこんな詩が作られたと紹介されていた。

「ユダヤ人が捕らえられた時、私は声をあげなかった。
なぜなら、私はユダヤ人でなかったから。
共産主義者が捕らえられた時、私は声をあげなかった。
なぜなら、私は共産主義者でなかったから。
私が捕らえられた時、誰も声をあげなかった。
なぜなら、声をあげるべき人はだれも残っていなかったから」

連合国が反撃に出て、ナチスは敗北する。連合国は各地のユダヤ人収容所を解放していき、そこで行われていたことを知り、愕然とする。連合国の将校は、この現実をドイツ人にも見せなければならないといって、ドイツ人に収容所を見学させる。もちろん、目をそむけるような惨状だし、涙を流して「知らなかった、知らなかった」という人たちもいた。だが、ユダヤ人収容者はこう告発する。「いいえ、あなたたちは、知っていた」。そう、今の日本でも、「知らなかった」「自分には関係ない」という言い訳は、未来の自分たちに対して許されない。

2015年12月21日 (月)

広益国産考

「広益国産考」は江戸時代の大蔵永常という農学者が書いた本だ。この本を読みたいと思ったのは一つにはTPPという現在の問題に触発されてのことだ。TPPは異常な交渉だ。条約に加盟し、条約が履行されれば生活に大変な影響を受ける国民には、その交渉の内容が知らされていない。国民の代表である国会議員にも交渉の内容が知らされていない。TPP加盟国が、協定に違反するような「障壁」を設ければ、その国は企業から訴えられ賠償を取られ、その「障壁」を削除し、国際平準に合わせるよう要求される。ぼくがとくに心配しているのは、その訴える企業というのが主にアメリカのモンサントのような企業で、訴えられる障壁というのが、例えば食品の「遺伝子組み換え食品を含むかどうか」「国産原料を使用しているかどうか」「添加物を使用しているかどうか」のような表示であることだ。

「広益国産考」には、農業や食べることが生活の根本という思想がある。現在でも日本では貧困層が増え続け、「食べる」ことすら困難な世帯が増えている。そういう家庭に食品を届ける「フードバンク」という事業が行われている。食べ物があるということがいかに、安心できることなのか、生活の基本は「食」だということを感じる。その根本である「食」がTPPによって荒廃するのではないかという懸念がある。根本すら支えられない国が独立を保つことができようか。「広益国産考」は、農業物産によって国を富ましめるいろいろな方法を紹介している。空いている土地があるのはもったいない。いろいろ工夫すればそこは「黄金」を生みだす土地になるのだと言って、果樹、園芸作物、木材や生活必需品に加工できる作物の栽培を勧める。

「広益国産考」は、江戸後期の著作だ。貨幣経済がものすごく進展していて、物資の流通もとても盛んにおこなわれている時代だ。永常が勧めている作物を見ると、もうすでに現在の特産が各地で行われていることがわかる。山梨のブドウ、奈良の柿、土佐の紙、薩摩のサツマイモ、吉野の杉、紀州のミカンなどもうすでに営々とその時代から人々はその土地土地に働きかけ、そこに合うものを作り出していたのである。

また、「広益国産考」を読むと、西日本と東日本の農業経済の差というものを感じさせる。やはり進んでいるのは西日本なのだ。技術や積極性にしても西日本では換金作物に対する意識が格段に強い。それに比べて東日本のことが言及されるのはごく少ない。庄内の紅花くらいだろうか。ただ、これは照葉樹林帯の西日本では人口も多く、森を切り開き畑作をしてきたが、東日本ではブナ林のもと、自然の恵みをいただく縄文的な暮らしが色濃く残っていたからかとも思う。

常は藩に雇われ、農業・産業顧問のようなこともしていた。だから、どうやって国産事業を切り開くかということについても言及している。始めは、ある程度藩の事業として「公共事業的」にやるべきだと永常は言う。そうでないと、最初の投資は大きいし、技術的な失敗ということもありうる。個人では、リスクも負えないので、様子見にもなる。しかし、ある程度うまく行きだしたら、藩の仕事はどうしても官僚的になるので成功しない。そこであとは百姓どもに任せればいいという。現代にも通じる話だと思った。


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2015年12月19日 (土)

和解の科学 その3

和解と謝罪の科学的研究の専門家エイロン・ラザレ氏の著作に触発されて、もう少し考察を続けようと思う。

こういうことは我々はとかく「経験」がものを言うと思いがちであるが、その「経験」を一つの研究対象や事象として扱い、そしてその数多い事象から、共通することを抽出することが「科学」なのだ。こうして科学や学問になりえないと思われていたことも、実は立派な「科学」や「学問」であるし、科学や学問になれば、それは時と場所の制約を超えて、現実問題に応用可能であるし、これから起ってくる事象や問題に対しても、対処の一助に大いになりうるのだ。

そういう科学を軽視したことが、70年前にアメリカに無謀な戦争を挑んだ原因だろうし、今また安倍さんやそのグループにより文系学問が軽視され、そこから日本社会の荒廃が予想されるゆえんでもある。

さて、エイロン氏の謝罪の4原則を当てはめて、なぜ、日本はいつまでたっても中国や韓国と和解できないのかを考えてみる。すると原則1の「侵害を認めること」がまず達成されていないことがわかる。

事実を認めずに「あの戦争は、植民地解放のための、もしくは自衛のための戦争だった」とか「従軍慰安婦に国家や軍隊が組織的に関与した事実はない」とかいうのは、ポイントをずらしていて全くの謝罪になっていない。ぼく自身も、20世紀の戦争は主に欧米列強の過酷な植民地主義や帝国主義が引き起こしたものと思っているが、だがそれが中国や朝鮮半島の犠牲者にとって何の意味があるのだろうか。日本によって侵害された事実を全面的に認めてこそ、相手からゆるしと和解の感情を引き出すことができる。欧米列強の罪を糾弾するのは全く別の話であり、それは欧米列強ご本人たちに(とくにアメリカに)堂々と彼らの罪を問えばいい。

エイロン氏は、被害者の傷が癒えていく過程に4つのステップがあるという。最初に、「尊厳の回復」。とくにこれは、傷つけられたものが名誉などの場合だ。中国は、世界でナンバーワンの文化を誇る歴史の古い国という彼らの尊厳を傷つけられたし、韓国は独自の言語と文字を持つ歴史の長い国という彼らの誇りを傷つけられた。日本が謝罪によって彼らのプライドを回復させなかったからこそ、今、問題がもつれているのだと思う。今の中国が対外膨張の「大中華主義」があるとしたら、それは日本にもその責任の一端がある。謝罪によって彼らの気持ちの癒しの過程に、日本がかかわらなかったことで、彼らはその傷の痛みを別の形で代償しているのだ。

次の過程は、「加害者と被害者とで価値を共有し、犯された害は間違いであったと確認すること」。残念ながら、現在でも日本は中国・韓国と共通の価値観を持てていない。

第3に、「被害者に一切落ち度はないこと」。エイロン氏はこれは特にレイプや児童虐待の被害者にとって重要なことだとコメントしている。慰安婦問題でもそうだ。女性の尊厳が傷つけられたことには間違いない。それを、「強制ではなかった」とか「生活のために自ら行った」とかいうようなことを、安倍さんの支持者は主張しているが、こういうことは被害者が認めてほしいこととは一切関係ないごまかしだ。

被害者からゆるしと和解の感情を引き出す第4の癒しの過程は「被害者が二度と同じような被害には合わないという安心感」。安倍さんは、日本人、特に若い世代の人たちが一体いつまで中国や韓国に謝罪し続けなければならないのかといらだっているようであるが、戦後生まれで直接に戦争加害に手を下していない日本人がし続けなければならないことは、私たちが、無謀な軍事的暴力であなたたちを傷つけるようなことは二度とない、ということを保証し続けることだ。それには、いろいろなやり方があるだろう。たとえば、日本は透明な民主主義的国家だから、軍隊や官僚が戦前のように暴走することはないという、安心感を与えることだっていい。中国や韓国と和解に至らないのは、彼らの不安がぬぐいきれないことが、彼らの頭に時々ふっと横切ることがあるからだ。

さて、学問レベル科学レベルとなれば、いろいろなところにそれは適用可能であるはずだ。エイロン氏の謝罪と和解の科学を、日本と中韓関係に当てはめて考えてみた。そしてこれは、東日本大震災で学校にいて津波で亡くなった児童の遺族と石巻市・教育委員会との関係にも、当てはまるところがある。宮城の地元紙『河北新報』で昨日まで、津波で3人のお子さんを亡くした両親の記事が連載されていた。ご両親にどれほどの葛藤があったのだろうか、そして良いことも悪いこともすべてを書いて記事にした記者にもどれくらいの心の葛藤があったのだろうか。『河北新報』らしい、考えさせる素晴らしい連載だった。その連載記事から謝罪と和解の科学に関係するとぼくが思ったところを、機会があればまた今度紹介したい。


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2015年12月18日 (金)

和解の科学 その2

「和解」や「許し」を科学しているエイロン氏によれば、有効な謝罪の構造には4つある。1.侵害を認めること 2.説明 3.遺憾の意の表明 4.補償。

前回は、ブッシュ大統領の捕虜虐待に関する謝罪で、1が失敗したことを見た。では2についてはどうか。

2の「説明」については、侵害が故意でもないし個人だけに責任を帰す問題でもなく、このような侵害が2度と起こらないということを有効に説明できれば、被害者の感情を和らげることに役立つが、虚偽の説明や通り一遍の説明は当然逆効果で、被害者の心をかたくなにする。しかし、ブッシュ大統領の説明は、捕虜虐待が一部の不届き者が行ったということのせいにして、「これは本当のアメリカの姿でない」と言い逃れをしている。謝罪の際の説明では、「まったく、言い訳ができないことだ」と認めてしまうほうが、よほど尊厳を保てる。

3の「遺憾の意の表明」には、「被害者が苦しんでいるということを、加害者もきちんとわかっている」「こういうことは2度と起こらないということを、被害者に知らせ安心させる」等の効果があるが、ブッシュ大統領の謝罪は、アメリカを批判する者に向かって、「彼らは本当のアメリカの姿を知らない」などと言っている点で、謙虚な気持ちで、被害者に同情の気持ちを表すことに失敗している。

4の「補償」は、もちろん損害されたものが具体的な『物』であれば、弁償するということであるが、難しいのは傷つけられたものが「感情」や『名誉』といった目に見えないものや「命」と言った取り返しのつかないものの場合だ。もちろんこれにも「金銭的補償」ということがあるが、当事者を具体的に罰するという「補償」の仕方もある。しかし、ブッシュ大統領は、地位を辞任するなどといった「補償」の方法は採らなかった。

なぜ、ぼくがエイロン・アザレ氏の、和解とゆるしの科学に興味を持ったかというと、有効な謝罪は、もし被害者が持つ心理的要求を満たすことができるのならば、ゆるしと和解を生み出すことができるからだ。そしてこれをいろいろなところに応用していけば、例えば戦争や民族的・宗教的な対立を乗り越え世界平和に至る道にもなるからだ。こういう科学を知らないことはあまりにも惜しい。それで損をすらしている。なぜ、日本は、韓国・朝鮮・中国と和解できないのだろう。それは、和解の科学を知らずに、謝罪することを恐れているからだ。

東日本大震災と核発電所の事故は様々な悲劇を生んだ。ぼく自身も、生活の変化を余儀なくされたが、政府も東京電力も誰一人として「謝罪」してくれず、責任も取らないし、誰も罰せられた人もいないということに傷ついている。また、石巻の小学校の児童が、津波の方向へ避難したことによってなくなった痛ましい事故は、石巻市や教育委員会が、一番初めに遺族に接したときに掛け違えてしまったボタンで、遺族は今も苦しみが癒されないままになっている。こういうことが、ぼくに和解の科学を考えさせたきっかけである。


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2015年12月17日 (木)

和解の科学 その1

On Apologyを書いたエイロン・ラザレが有効な謝罪とは何かを示唆してくれる。そのために彼は「相手に受け入れられなかった」失敗した謝罪について解説してくれる。それは、アメリカのブッシュ大統領の謝罪だ。ブッシュ大統領は、イラクに大量破壊兵器があるという疑惑で戦争を仕掛けた。だが、この戦争の大義についてはここで語らない。問題は、捕虜にしたイラク兵をアメリカ人が虐待していたことが明らかになったアブ・ガライム刑務所事件のことだ。裸にされ積み重ねられた捕虜を見て、アメリカ兵がにやにや笑っている。そんな衝撃的な写真が暴露された捕虜虐待事件のことだ。ここには、絶対にアメリカの大義はない。明白な人権侵害である。

そこでブッシュ大統領は謝罪した。相手はまずヨルダン国王に対してである。「イラクの捕虜がこうむった屈辱に対しては済まないと思う。この写真を見た人が真のアメリカの姿を誤解してしまったことを済まなく思う。人々がこれでアメリカに対して誤った印象を持ったのは残念だ」

さらに、イラク国民に対しては、テレビを通じて「私がこれを憎むべき行為だと思っていることをイラク国民は理解すべきだ。起ったことは私が知っている真のアメリカの姿を反映したものではないということをイラク国民は理解しなければならない。過ちは調査されるであろう」

もちろんブッシュ大統領の謝罪は被害者の心に届かない。相手のゆるしを引き出すことはできなかった。それどころか、イラク国民及びイスラム世界の怒りや憎悪を掻き立てた。

では、何がいけなかったのか。何十年も謝罪と和解について科学的な研究に従事してきたエイロン・ラザレはまず、『謝罪』には4つの構造部分があることをまず指摘する。それは、1.過失を認め受け入れること 2.説明 3.遺憾の意の表明、恥ずべき事をしてしまったという意思表示 4.補償 であるという。

さて、1の「過失を受け入れること」の効用には、誰が加害者で誰が被害者であるかをはっきりさせる役目があるという。ブッシュ大統領の謝罪が有効でなかった理由は、ひとつはこれほどの犯罪に対しては国家を上げての謝罪をすべきであったが、ブッシュ大統領だけが表に立って謝罪した、もしくは政府高官も発言したが、かえってそれがブッシュ大統領を擁護するような形になってしまったこと。次に、被害者に対して直接謝罪すべきであったのに、ヨルダンの国王に謝罪し、またイラク国民には、アラビア語圏のテレビを通して間接的にしか謝罪していないこと。次に、謝罪は、過失の責任を直接に負わなければならないが、ブッシュ大統領は「申し訳ないと思う」というだけで責任を取らなかったこと。最後に、全軍を指揮統括する者として責任を負うべきであるのに、「過失は調査されるであろう」のような受動態を用いて、責任を取ろうとしていないことである。


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2015年12月16日 (水)

和解の科学

アメリカはぼくにとって心情的に嫌いな国だが、一つかの国が偉いと思うのはアメリカが「実証主義」の国だということだ。

日本と違って、歴史もなければしがらみもない。だから前例に縛られることもない。いいと思えばやってみなされという進取の気性もあるし、そして「昔から、そうやってきたから」という言い訳が通用しないので、「本当にそれは効果があるのか?」「科学的に立証できることなのか?」という関門をくぐらなければ相手にされない。

そういう実証主義がアメリカで大いに発揮されるのは、実は『理系』学問ばかりではなく「文系」学問もなのだ。日本では、安倍首相の方針で、大学の文系学部を廃止するということだそうだから、またこれでアメリカと差がついてしまう。太平洋戦争にしても負けるべくしてアメリカに負けたわけだ。

さて、そんなアメリカの実証的学問の成果に『謝罪について』(エイロン・ラザレ著)という本がある。アメリカでは、「心理学」は大金をかけて研究されているし、心理学は実験が可能でその実験結果の追試も可能な実証科学なのだ。そしてその成果は、広く社会に人々に還元されるべき大変有用なものなのだ。文系は無用という近視眼的な国には、あまり望みはかけられない。だが、学問の成果は、いまインターネット上で広く一般公開されているので、『謝罪について』の興味深い点を少しずつ紹介したいと思う。


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2015年12月15日 (火)

多様な高齢者

世界保健機関(WHO)の報告書を10月29日付の河北新報が紹介していたのを思い出してまとめてみる。もちろんこれからの日本は超高齢社会という人類史未曽有の時代に突入していくわけであるが、新しいことに挑んでいくときは「偏見」「ステレオタイプ」から脱することの重要性を、改めてわからせてくれる。

WHOの報告書は、高齢者に対する様々な思い込みを改め、高齢者の多様性を理解した政策を各国政府に求めている。思い込みと言えば第一に「高齢者は他人に頼る」「か弱い」というものだろうが、報告書では介護が必要な人がいる一方で20代の若者に匹敵する体力、精神力を備えた人がいるというのが、現実の姿だと指摘する。そして、古い画一的なイメージがあるせいで、高齢者による社会貢献が過小評価されるとしている。

WHOが引用する研究にイギリスで行われたものがある。高齢者にかかる年金や医療などのコストと、税金や個人消費、経済価値がある活動を通じた貢献を差し引きした結果、貢献がコストを大幅に上回ったという。また、米国の研究を引用して、高齢化で医療費が増大するという指摘に対して、「増加はするが、医療費への他の影響はほかの要因よりはるかに少ない」という。

自分自身が高齢者と呼ばれるようになった時、ひとくくりにされることには違和感があるだろう。多様で自由な働き方で社会貢献したいと思う。要は、個人差の問題であるが、WHOは、生育環境の格差が年を重ねた後の健康状態に影響している傾向があると指摘し、格差を縮小する政策の推進を提言した。ぼくのような鈍な人間は、「馬齢を重ねる」という言葉好きだ。これは、ぼくのように「ただ、生きてきただけ」という言葉だが、しかし、ただ生きてきただけでも、年を重ねるごとに、年を重ねただけ、見たり、聞いたり、体験してきたことは積み重なるわけで、健康もそのような環境要因に左右されやすいというのは、格差社会の日本では、民間や有志が差のつかない活動を行っていく必要があるだろう。


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2015年12月14日 (月)

ベン・ハー

「ベン・ハー」を見る。なぜ映画を見ているかというとレンタルビデオのツタヤの会員は年に一度カードを更新しなければならず、更新に手数料なにがしかはとられるのであるが、更新の記念に1本レンタル料を無料にしてくれるのである。どうせなら見ておきたいと思っていた「名画」をということで「ベン・ハー」である。そして今は昔の映画の「デジタル・リマスター版」が出回っている。通に言わせると昔の映画の方が味わい深いのかもしれないが、きれいな画面で色もくっきり見え、古さを感じさせないので、単純にすごいと思う。

さて「ベン・ハー」と言えば、4頭立て場所の戦車による競争シーンが有名であるが、レンタル店で借りるとこの名場面はどうやって撮ったのかなんて解説もついている。この映画実はイタリアで撮影したアメリカ映画なのであるが、あの有名なシーンの観衆役のエキストラは数千人。イタリア人はアメリカ人の5分の1ぐらいで雇えるので製作費が抑えられたなんて解説されていたが、観衆のイタリア人が本当に興奮してベン・ハーが勝利した場面で競技場になだれ込んできて、それで迫真の場面が取れたのだという。ベン・ハーのライバルが戦車から振り落とされ、瀕死で横たわっていてヘルメットが脱げ落ちる。その脱げたヘルメットを拾って走り回る観衆の演技は、実はエキストラの思い付きで勝手にやったそうだが、ワイラー監督も気にいって残したということ。さすがイタリア人。でも、イタリア人エキストラは、コスチュームを着たまま家に帰ってしまい、二度と現れないので苦労したとか、撮影が順調に行き過ぎてこの名場面の撮影が2日ですんでしまったので、1か月くらいかかると思って当てにしていたイタリア人エキストラたちが暴動を起こしそうになったとか、そんな制作秘話も。

ベン・ハーはやはり、歴史好きな人が見るとたまらないところがある。ベン・ハーその人自体はアメリカ人作家の創作した架空の人物だということだが、キリスト誕生からその磔刑の30年間のローマに支配されたユダヤの人たちの歴史をベン・ハーというユダヤの名門に生まれた人の目から見た映画だ。キリストは象徴的にしか出てこない。一度も正面から顔を写さない。福音書で有名な『山上の垂訓』の場面が出てくるが、当時の人はこんなふうに山の上に集まって、キラキラした目で若きラビのことを眺めていたのかなと思わされる。

この映画の主題は何だろう。この映画が大ヒットしたのは一つに第二次世界大戦後間もない時期の映画だということが要因だろう。映画では軍事強国のローマがユダヤを抑圧・支配する様子と、ユダヤ人の間で反感が強まり愛国心が高まる様子が描かれている。これが、世界大戦で悪の枢軸国の軍事的支配を跳ね返し、独立や誇りを取り戻し、人々を解放するという時代的雰囲気と合った。今の日本人が見ても、他国の圧倒的な軍事支配下に置かれ独立を失うということはどういうことなのか、その中で愛国心を高め独立を達成するにはどうすべきか考えるきっかけを与えてくれるかもしれない。

ベン・ハーとそのライバルとの闘いやベン・ハーの復讐というテーマに隠れて、キリストの生涯や彼の思想は、ぼくには中途半端に描かれているように感じた。キリストの生涯がテーマであれば、重すぎてこれはこれだけで映画が何本もできてしまうだろうから。ただ、復讐や憎悪に燃えるベン・ハーは、ゴルゴダの丘に十字架を背負って歩むイエスの後を追っていき刑場に至る。そこでようやくベン・ハーは、キリストの愛の思想が理解できる。だから、この映画は許しとか和解ということも主題なのかもしれない。そういう多面性・多重性があることが名画の条件なのかもしれない。


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2015年12月13日 (日)

ウエスト・サイド・ストーリー

ミュージカル映画の古典『ウエスト・サイド・ストーリー』を久しぶりに見る。高校の時以来だから、何十年ぶり。でも、こうして再度見てみると新たな発見がある。高校のときは、音楽の先生が『ウエスト・サイド・ストーリー』を紹介してくれて、授業でたくさん歌わせてくれた。だから、バーンスタイン作曲の音楽と主演の二人の恋物語とジェット団とシャーク団の対立だけはよく覚えている。

でも今見るとこの対立する若者たちは、ヒスパニック系と白人との人種対立という側面もあり、当時のアメリカ社会の事情を反映していた。移民の国、アメリカンドリームの国として海の向こうのプエルトリコからニューヨークにやってきては見たものの、そこで味わう差別や挫折というのもおり込んであったのだ。一方、対立する白人の若者たちも家庭の事情に恵まれなかったり、決して本人たちのせいでそうなったわけでないのに、社会からのけ者にされる疎外感を味わっているわけだ。なお、マリアと恋に落ちるトニーは、ポーランド系となっていて、白人の中にも序列や侮蔑感があるようで、そんなセリフも潜んでいたことに気付く。 

原作の『ロメオとジュリエット』では、ひょんな勘違いから悲恋のジュリエットが先に自殺してしまい、それに絶望したロメオが後追い自殺する。『ウエスト・サイド・ストーリー』も最後の悲劇でよく台本が練られていて、ひょんないきさつ・勘違いから悲劇が起こるのだが、トニーの方が先に死んでしまうのである。ナタリー・ウッドが演じるマリアは、死なない。でも、最後は余韻を持った終わり方だ。シェークスピアのこういう名作が、形を変えて現代によみがえる。古典とか名作とは、生命力が強い作品やあらすじのことだ。現代的な著作権や創作観とは相いれないが、形を変えて輪廻し続け、500年も、1000年も生き続けるのが古典だ。

中国で生まれた怪異譚を、上田秋声が「雨月物語」という小説にした。それを溝口健二が映画にした。時代・国境を越えたこういう輪廻が東洋にもあるし、これからももっともっと出なくてはいけない。


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2015年12月12日 (土)

protest against discrimination

The reason why Okinawans and some of the people living in main land of Japan are against the construction of U.S. new military base in Henoko is that it will do the great damage to the marine ecosystem in the Henoko bay, destructing coral reefs and the habitats of dugongs, large mammals in danger of extinction. Moreover, Okinawa has a long history of being discriminated by Japanese central govornment and the main landers. This discrimination has led to the accumulation of military bases of U.S. troop in Okinawa islands, which is very small compared to main lands. 

The language of Okinawa is slightly different from the Japanese spoken by mainlanders, and so are the physical appearances. In fact, Okinawa language has the same root as Japanese language, and there is no evidence that Okinawan and mainland Japanese are different races. However, due to these factors, they have been discriminated by mainlanders. Furthermore, they have the independent history from Japan. They once were the people of independent kingdom. However, about 400 years ago, Okinawa was conquered by Japan, and since then, they have been the colony of Japan. So the democracy is not applied to Okinawa. Although they have expressed their will against the construction through local election, Japanese government can easily ignore their wish. Behind this government decision, there is discrimination against Okinawa, thinking that the colony must follow whatever the central govornment decides.      


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2015年12月10日 (木)

Democracy in danger

American military base is being constructed by Japanese government at Henoko beach in Okinawa, Japan. This is not only domestic problem but also the one that international society should be interested in or should interfere with.

It is not allowed in a totalitarianism state to express an opinion against the government or the ruling party in the state. However, in democratic states people have freedom to express their political belief. In Henoko, local people are sitting at the front gate of construction site to protest against the construction of military base. Their protest is very peaceful and non-violent, and furthermore, their opinion has been already reflected in the result of the local election for national diet in Okinawa, where all candidates who oppose the construction were elected.

However, the Japanese government have introduced police force and are trying to push them out. Police forces attacked them and force them to move away, while they were using offensive words to the local people.

In addition, Heneko is a beautiful coral beach. If the military base has been constructed, valuable marine ecosystem will have been damaged. If you want to see the picture of the local people who are protesting, the Internet address is here.


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2015年12月 8日 (火)

生物と科学技術

生物や自然環境を保全する重要性をどのように人々に理解してもらうのか。たとえば、倫理として考える。人間の命を奪ってはいけないのと同じように、多種の生物の生命を奪うことは倫理的に許されないというように。

人間の生産活動により地球環境自体が危機に陥っている今、環境や生物を保全する理由や説得の材料はできるだけたくさんあった方がよい。たくさんあれば、利害や関心の異なる人たちにも、何かしらその人の心の琴線に響き、行動を起こすきっかけになることが出てくるだろう。

さて、そんなことを考えていたら11月18日付の河北新報に「生き物を手本に新製品を作る」という記事があった。シャープでは空気清浄機に、空気との摩擦が少ないトンボの翅の形をしたファンを採用し、3分の1の薄さにしても風量は落ちず、従来品よりも奥行きが半分になりすっきりしたデザインになったという。

三菱レイヨンでは、蛾の目の構造をまねた透明なフィルムを開発した。蛾の目は光の反射を抑えて天敵に見つかりにくくしたり、夜のわずかな光を取り込んだりしているそうだ。この透明なフィルム「モスマイト」は、ショーケースなどの表面に張り、光の反射を抑え仲の展示物をくっきり見ることができるという。

日東電工では、微細な毛がびっしり生えているヤモリの足裏を模した粘着テープを商品化するという。粘着素材を使わず、構造のみで粘着力を生むため、つけたりはがしたりしても接着面が汚れないという。これなどは、こんな便利な商品があればいいのにと、多くの人が考えていたことであろう。

このように生物の体のつくりを参考に新しい製品を生み出す技術を「ネイチャーテクノロジー」という。もし、人間が現生種だったり未知の生物種を絶滅させるようなことがあれば、人間生活を利する技術は生まれないということになるので、「ネイチャー技術」は、人間が自然環境を保全するための「インセンティブ」(誘因)になりうる。また、生物の構造への理解が進めば、さらに新しい知見が生まれ「ネイチャー技術」は進歩するのだから、やはり生物種やその生息域全体を保全する誘因になる。


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2015年12月 6日 (日)

総員玉砕せよ!

水木しげるさんが亡くなった。水木さんは、ぼくの中ではヒーローだ。漫画家では手塚治虫さんも、偉大な芸術家で漫画を文化や芸術の域にまで高めた人だと思うが、ぼくにとってのヒーローは、水木しげるさんだ。それくらい水木さんの漫画、特に『ゲゲゲの鬼太郎』は、子供だった頃のぼくに、大きな影響を与えた。別に鬼太郎を見て、ぼくも水木さんのような漫画家になろうと思ったというようなそういう影響を受けたのではない。鬼太郎が住んでいる妖怪のいる世界が、この日本には当たり前に存在しており、そういう日本文化の背景をぼくも受け継いだし、鬼太郎の漫画の延長上に、ぼくの少年時代の生活には妖怪たちがやはり当たり前に潜んでいる、そんな影響というか、共感というものを鬼太郎に感じた。

大人になってから、水木さんという人物を、やはり彼が書く自伝漫画等から知った。彼は、鳥取から都会に出てくるが学校も仕事もうまくいかず、そのうち兵隊にとられて、南方戦線に送られる。戦争指導者たちや上官らの無理な軍事作戦のため、飢餓線上をさまよい、アメリカ軍に圧倒され、パプアニューギニアのジャングルの中をさまよう。そこで、水木さんは片腕を失ってしまう。そんな様子を描いた漫画が「総員玉砕せよ」だ。

「総員玉砕せよ」には、旧日本軍の暴力性が描かれている。それは現地のアジア人に対する暴力性だけでなく、軍隊内部の暴力性だ。不条理な暴力を上官が振るい、それに対して絶対服従を植え付けることで、軍隊の非人間性が形成されていく過程がよくわかる。そんな下で、ひょうひょうとしているような水木さんが、食べ物や生に執着して病気や飢餓や戦争をどうやって生き延びたかを描いている。「死ぬ」のが絶対命令で、虜囚の辱めさえ許さない、日本軍に対して、水木さんの生への執着は素晴らしい。水木さんの戦友たちはほとんどが命を落とした。そんな中で、戦争を「生きていいのだ」という水木さんの生の賛歌のようにも思える。今の、自衛隊の方も、外国の戦場に行かされることがあっても、ぼくは「死ぬな」「生きろ」と言いたい。どんなことがあっても、水木さんのように生きろと言いたい。

敗戦で復員してきた水木さんは、紙芝居や貸本の漫画作家になるが、極貧生活だ。そんな中で、書きに書きまくってついにゲゲゲの鬼太郎が大ヒットし、家も建てるしプロダクションも建てるしという成功をするのだが、こういう経歴の水木さんだから、人生で大事にしているというか執着しているものが「食」と「金」だ。その点でも、ぼくは水木さんが大好きだ。きれいごとを言う人(自分も含めて)は、そんなひ弱なことでは水木さんのようには生き残れない。この世で何しろ大切なのは「食」と「金」だ。食べ物さえあれば生きていけるし、金さえあれば、政治家に自分たちのしてほしい政策、例えば核発電所再稼働だとか、減税だとか、非正規雇用の増加を意のままにさせることだってできるのだ。「食」と「金」に執着した水木さんは、生き方でもぼくのヒーローだ。


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2015年12月 3日 (木)

テロとの戦いに距離を

河北新報11月18日付けの識者評論に現代イスラム研究センター理事長の宮田律氏の投稿が掲載された。興味を引く内容だったのでまとめてみる。

パリでの銃撃事件に対してフランスのオランド大統領が報復を口にして空爆を進めているが、これに対して宮田氏は典型的な暴力の連鎖を生むことを指摘し、「暴力は暴力では阻止できない」ことを理解してほしいと訴える。

そして、日本政府が国際的なテロとの戦いの中でしっかりと責任を果たしていくと発言することで、日本は欧米側に立って戦争に参加するという印象をイスラムの人々に与えるのは極めてよくないと指摘する。

ぼくも宮田氏の考えに賛成する。だが、ぼくのような考えに対しては反論・指摘があるということも承知している。たとえば、「そんな甘ちょろい考えでは、弱肉強食の世界で日本の安全は守れない」「空爆や戦争協力がだめというのであれば対案を出せ」など。テロや暴力を根本的になくす良い方法、戦争以外の対案、それはぼくにはいいアイディアが浮かばないのだが、一つには、テロに訴えざるを得ない人たちの心情を理解し、その心情を解きほぐすことだと思う。そこで宮田氏の実践を紹介する。ぼくはこのような奇特な平和への努力が行われていたことは知らなかったし、出来れば多くの人に宮田氏の実践を知ってもらいたい。日本の安全保障にも資する、戦争以外の立派な対案である。

宮田氏は、アメリカが進めるテロとの戦い、つまり無人機による無差別攻撃で犠牲となったパキスタン人遺族を日本に呼んで市民との交流会を開いている。彼らは、テロとの戦いの美名のもと、人権無視にむごい攻撃が続きテロとは無関係の市民が虐殺されていることを訴える。理由もはっきりしないで始まったイラク戦争もしかりで、イスラム世界では膨大な数の民間人が巻き込まれ犠牲になっている。だが、そのような無辜の死は、世界では、つまり欧米社会では無視され、イスラム世界の人々は自分たちが見捨てられていると感じてしまう。国際社会からの連帯や寄り添う姿勢がなければ、自暴自棄な自爆攻撃にしか活路を見いだせなくなる。

宮田氏は「テロとの戦い」という抽象的な表現でなく、そこで起きている実像を知るべきだという。テロリズムにひかれてしまう若者を救うために教育や就業の機会を与えることが一番の解決になる、だから日本はこういう分野で貢献すべきだという。現場を知る氏の言葉は重いと思う。


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2015年12月 1日 (火)

スーパー歌舞伎「ヤマトタケル」

松竹シネマ歌舞伎で「ヤマトタケル」を見る。3代目市川猿之助さんが空中を飛んだりして話題になったスーパー歌舞伎を、今度は4代目猿之助さんが襲名公演で演じた。その新橋演舞場での公演を映像化したものだ。派手なアクションだけが話題になったものではないと思った。梅原猛さんの深いテーマを持った原作も、そして俳優陣の熱演・名演も含めて見どころがたくさんある名作である。俳優香川照之さんが、梨園入りして市川中車を名乗り、重厚な皇帝役をやっていたし、なにしろ4代目猿之助さんの演技が素晴らしい。歌舞伎は江戸時代から今まで名優を生んできたが、その時代時代の観客は、自分たちの時代の名優に出会え、その名優の演技を見る幸せを感じてきたことだろうが、ぼくらも4代目猿之助さんを目の当たりに見る幸せを得ることができた。猿之助さんが女形をやってきた人だから、クマソ征伐で、ヤマトの踊り女に扮するところなど、本当にあでやかで素晴らしかった。

さて、梅原さんの台本の深いテーマは、ヤマトタケルが蝦夷征伐に出かけたところに現れていた。ヤマト政権は自らを「天孫族」と名乗り、日本古来の土着民族を征服していく。天孫族、すなわち朝鮮半島から来て日本に上陸し、土着民を平らげながら近畿地方に本拠地を持った天皇家の先祖は、まつろわぬ民を従わせようと、征討軍を送る。たくさんいた征討軍の大将の一人がいつしか「ヤマトタケル」という一人の英雄に集約され、そしてヤマトタケルに父子葛藤の物語が背負わされたのが古事記の「ヤマトタケル」伝説であろう。ヤマトタケルの父恋や死んで白鳥になってなおヤマトに向かって飛び立っていく姿には哀れさを感じさせるが、東北に住むものとして虐げられる民の立場からも、深いテーマだと感じたのは、蝦夷征伐だ。

エゾの民を始めヤマト政権から「まつろわぬ民」扱いされて見下されているのは、その土地に住みその土地の神々をあがめ、自然の恵みをいただいて暮らしてきた民だ。大陸・朝鮮半島の優れた文明である鉄と米作を持ったヤマトの民は、その武器の優秀さと経済力=農業の生産性で、まつろわぬ民を征服していく。だが果たして、それが「正義」かということだったり、幸せな生活をもたらすのか、といった問いかけが梅原さんの台本にはあったのだと思う。ちょうど現ヤマト政権も沖縄のまつろわぬ民を圧伏しようとしている。梅原さんはこの台本で、クマソの宴会に琉球の民を登場させている。天孫族が日本列島に来るまえにすでに海洋国家があり一大交流圏を開いていたのだ、ヤマトは後からそこに来たのだという梅原さんの思想が垣間見える。

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