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2015年11月22日 (日)

『オテロ』続き

名作は、文学、演劇、音楽何度繰り返して見たり聞いたりしても、いいものだし、そのたびに新たな発見がある。メトロポリタン歌劇場ライブビューイングでシェークスピア原作・ベルディ作曲『オテロ』を見た。第1幕の冒頭は、ベネチア共和国の将軍オテロがイスラム教徒を撃破して凱旋してくる場面だ。シェークスピアは、非常に無邪気に、正義のキリスト教徒、悪のイスラム教徒、キリスト教の勝利万歳と、群衆に叫ばしているが、パリの銃撃事件があったばかりでこれを見て、どきりとした。現在上演するのであれば、非常に繊細な問題をはらんでいる。しかし、だからと言って古典を勝手に筆削してしまうのは、問題の本質ではない。

そもそもシェークスピアの時代、彼はイギリスの限られた観客に向けてだけ書いていたのであって、イスラム教もイスラム教徒も彼の劇の背景の書き割りほどの価値しかなかったはずだ。そして、『オテロ』がさらに深遠な問題をはらんでいるのは、オテロがムーア人(アフリカ系黒人)だということだ。「人種」という問題がまた現代的に微妙な問題をはらんでいる。『オテロ』当時のベネチアが自由な国で、能力さえあれば認められ肌の色など関係なかった言うことなのであろうし、しかし、その肌の色がやはりイアーゴから妬みを買った一因でもあろう。が、今回のメトロポリタン歌劇場の演出は、オテロを黒人ふうにメイクせず、ムーア人ということは意識に入ってこないようになっていた。

シャークスピアの戯曲を振り返って改めてすごいと思うのは、ヨーロッパという限られた範囲ではあるが、その国際性だ。イギリスの作家が、イタリアの出来事を取材して書いている。イタリアだけでなく、「ハムレット」なんてデンマーク王子だ。取材したというよりは、話題となった事件や話題となった演劇をパクって、現地イギリスで上演したというのが本当だろう。当時はもちろん今と違って『著作権』という概念がない。いいもの、面白いものはどんどん吸収して換骨奪胎する。本当はシェークスピアと同じくらい才能のある作家が各地にいてそれなりに面白い劇が上演されていたのだろうが、そもそも自作に「署名」して権利を主張するなんてこともなかったのだろうから、自然と作家の名は忘れられてしまったのだろう。

そう考えると、「シェークスピア」はいなかっただとか、「シェークピア」は覆面作家だったというのはありうることだと思う。一人の大天才がいたのではなく、当時のヨーロッパの合作、集合知だったのかもしれない。ベルディのオペラにしても、イギリスの劇をイタリア人が作曲している。今風に言えば「コラボ」が傑作をさらなる傑作にしたのだ。東アジアだって、「史記」や「三国志」は日本を含めみな大好きで、そこからいろいろな作品群が生まれている。政治家の思惑なんて無視して、無意識の「コラボ」がこの先もどんどん生まれて、民衆に愛されるようになれば東アジア地域も、ますます熱く面白くなると思うし、それをぼくは期待する。


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