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2015年11月29日 (日)

西谷修氏の憂色

2015年11月17日付河北新報に掲載された西谷修氏の論考から、沖縄基地問題に関する部分をまとめる。

沖縄・辺野古の新基地建設強硬について、西谷氏は政府の法的手続きの異常さを指摘している。港湾埋め立て許可を取り消した翁長沖縄県知事に対し、国は知事に代わって処分を撤回する手続きを始めている。この法律手続きは、本来私人の権利を保護するはずの乱用であるとの法律学者の声を西谷氏は紹介する。

また、辺野古で抗議の座り込みをする人たちを排除する方法の異常さ・卑劣さを指摘する。それは、地元の沖縄県警では、地元同士で情が移ってだめだろうから、遠方から警察隊を導入し沖縄の人たちを排除することだ。東京・警視庁の機動隊が導入され、基地建設に反対して座り込みをする人たちを強制排除している。

その一方で政府は反対派の県や名護市を無視して、辺野古周辺地区の住民に振興費という名目で金を渡している。まつろわぬ民を力で排除し、恭順を示しなびき従う民には露骨に金銭を渡す。あまりにも品性が下劣なやり方だ。どこまでも沖縄の民意を踏みにじった行為であるが、民主主義と地方自治を重んじる現行憲法の精神は、もちろん現政権によって守られるはずがない。

このような事態に西谷氏は自分の心情をつづり「秋の暮れの憂色は深い」としている。ぼくは三島由紀夫も使った「憂国」という言葉も思い出す。本当の愛国者だからこそ、憂えるのであって、どうにでもなって構わないと思えば憂えたりはしない。中国戦国時代の楚の屈原よりこの方、愛国者の憂えはとまることがない。


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2015年11月28日 (土)

西谷修氏の論考を読む

11月17日付河北新報に西谷修氏の「論考2015」が掲載された。氏が指摘している問題点を考えてみたい。

まず安倍首相の、軍事強化こそが平和を守るという思想のあらわれとして、社会の様々な面で軍隊が前面に出ている側面を指摘する。例えば渋谷駅の大型ビジョンでの海上自衛他のPR画像や、安倍首相の米軍原子力空母への乗艦あいさつなど。そして、国家の方針が叙勲にも表れていることを指摘している。ラムズフェルト米国防長官やアーミテージ米国副長官に政府は勲章を与え感謝の意を示したが、この人たちは別の面から評価をすれば、イラク戦争を強引に推し進め今日の泥沼の状況をもたらした人であり、湾岸戦争以降日本の軍事貢献をずっと求めてきた人たちである。

もちろん物には必ず二面性があるから、こちらが悪い人だと思う人は、あちらにはよい人であり、またその逆も真である。そういう二面性が表れていることの指摘として西谷氏は重要なことを述べている。政府は、私たちにとっては混乱する世界情勢の元凶のような人を顕彰し感謝を表しているのに対し、例えばペシャワール会の中村哲氏のような人は無視する。そこに政府の姿勢が表れていると。

中村氏率いるペシャワール会はアフガニスタンで20年以上も丸腰の支援、つまり非軍事的国際貢献活動を続けてきた会だ。病院を立て、井戸を掘り、農業用水を開き、人々が武器を捨て平穏な暮らしを営めるような支援をしている。こういう支援こそが平和と自立を促す活動としてPRされるべきであるが、もちろん現政府にはそういう気はさらさらないということを、西谷氏は指摘する。

安倍さんや自民党の政策に反対して、街頭でビラまきをしていると、よく「反対するなら対案を出せ」と言われる。一見するともっともな論のようであるが、権力的に、財政的にもあまりにも非対称な状態で対案を出せというのはフェアでないと思う。何しろ実現できる力は安倍さんと自民党にしかないのだから。そのようななかで、非軍事的な方法で平和を作る対案として、実はペシャワール会だけでなく日本でも世界でも活動・行動している個人や団体がたくさんいるのだ。お前はじゃあ何をやっているのかと言われれば、確かに直接アフガニスタンで井戸を掘ったことはないけれど、そういう活動に寄付をしたり、口伝えでその活動を人に伝えたり、関連する商品を購入したり、その人たちの講演会を聞きに行ったりと、小さなことでだれでもできるようなことがあるのだ。ただ、あまりにも小さなことだから、安倍さんや自民党からはとても対案などと言えるものでないと一蹴されるだろうが。だが、そこに力や財政力の非対称性があることは忘れてはいけないと思う。

近頃は、むなしくなってあまり街頭に出ることもなくなった。なにしろ、核発電事故があっても、戦争法案が成立しても、6割から7割の人は選挙に行かないのだ。エネルギー政策や安全保障政策、こういうことは人々を動かす力にはなっていないということだ。毎日の自分たちの生活や昨日やったテレビの娯楽番組のようなものの方が、人々にはるかに多大な影響力与えているのだ。ただ、国には認めてもらえない活動こそが、面白いしやりがいがあると思うようになって楽しい。こういう活動は「国家」の枠を超えられると思うし、先に未来に足を踏み入れているのは「国家」の枠の中に残っている人たちではなく、国家の枠組みを超えて活動している人たちだからだ。


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2015年11月27日 (金)

平田篤胤「古史徴開題記」

今、国学関係の本を読んでおきたいと思う。いわゆる右寄りの思想、神道や国粋主義について考えておきたいからだ。もし、自衛隊員が海外でアメリカと一緒に戦争し万が一戦闘で死亡するようなことがあれば、その死について一切の言説は許されない、というような時代が来ないとも限らない。そういう狂熱的な国粋思想をもたらした『国学』とは何なのか、それを今のうちに考えておきたい。

桜のように潔く散るのが大和魂だ、と本居宣長は言い、その本居宣長の弟子が平田篤胤だ。平田氏は秋田出身であるので、東北とはゆかりの深い人だ。国学の、ぼくが良いと思う点を客観的にも述べておきたいが、やはり最大の学問的功績は、「古事記」や「万葉集」を日本語で読めるようにした、その実証的なところであろう。「古事記」「万葉集」は、漢字の音を日本語表記に当てはめた万葉仮名で書かれており、書かれてからしばらくたつにつれ、日本語でどう読めばいいのかわからなくなってしまったのだ。それはもちろん、言葉が古すぎてわからなくなってしまったということもあるが、江戸時代の国学者たちの国粋的な思想のおかげで、つまり中国文明や仏教が入ってくる前の本当の日本人の思考とは何かを探求する過程で、新たに発見され解明されたのである。

「古事記」「万葉集」がいま私たちが読めるのは彼らのおかげなのだ。彼らは実証的に仮名遣いを研究し、その法則を見出した。そして仮名遣いをきちんと分けていることは、古代の日本語の音は現在とは違って種類が多かったことなども発見した。何より、内容がわかるようになったことで古代日本人の豊かな精神生活も明らかになり、特に万葉集などは、後世のものがここから新たな文芸の発想の泉を得て和歌や俳句の改革の原動力ともなった。

その半面、中国に対するいわれなき反感・嫌悪感は現在にも相通じるところがある。国学者の主張は「中国はさかしらをする国だ」ということだ。「さかしら」というのは「利口ぶる」「理知を働かせる」ということだ。古事記に対しての「日本書紀」のように、圧倒的な先進文明である中国文化を日本は取り込み、政治、文化あらゆる面で中国の文物を取り込んだ。だから、日本正史である「日本書紀」が中国語で書かれる羽目になってしまったのだ。そういう理知的なもの以前の素朴で神々がいたころの日本の真の姿を探るというのが『国学』の命題なのである。これによって、「古事記」や「万葉集」が研究され、その学恩をぼく自身もこうむっていることは事実だが、一方でその狭隘な中国排斥は現代にも通じるものがあると思う。人間心理の「嫌い」は、たまらなく惹かれることの裏返しだ。中国文明に対する劣等感や、振り払っても振り払っても心から去らない固着が複雑な形で表面に浮かび上がったものだ。

平田篤胤は「古史徴開題記」で『新選姓氏録』という資料も取り上げている。これは古代大和朝廷の「姓氏」の出自を明らかにしているものだ。当然、大陸・半島と大いに交流のあった時代だから、たくさんの渡来人の出自が書かれている。こういう「ウチ」「ソト」を問題にし、国粋的なものは何かを探求していかざる面が国学にはある。これが、現在の在日外国人に対する嫌悪感やヘイトスピーチにもつながると言えば、牽強付会かもしれないが、『国学』のこういう面が現代にいつ復活しないとも限らない。そもそも純粋な『文化』とか、純粋な『民族』とかはあるのだろうか。ナチスの時代がそうであったように、ある時代の曲目に、なぜか人はこういうことにこだわりを持ってしまい、今の日本がそういう時代でないとは言えない。国学者の学問的な成果に感謝しつつ、現代の私たちは、日本的なこと、日本人とは何かを考えてみるべきだろう。


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2015年11月26日 (木)

希望の牧場・ふくしま

他のところにお住いの人はなかなか問題が見えてこないだろうが、福島核発電の事故がいまも継続し影響が解決されていないものに、「汚染稲わら」という問題がある。ちょうど核発電所が爆発したあの3月に、宮城県の畜産農家さんたちは田んぼに稲わらを刈って干しておいた。牛のエサにする貴重な資源だし、循環型農業としても素晴らしい取り組みである。ところが、放射性物質が上空から降り注ぎ、貴重な資源を汚染してしまった。宮城県では知事や県の方針もあって、放射性物質は飛来していないという立場だったので、畜産農家さんたちは汚染稲わらを牛に食べさせる。そして、肉を検査してみて初めて高濃度の放射能汚染がわかり、貴重な稲わらは行き場所のない汚染物質となってしまった。

稲わらをまとめてロールというものにして農家さんは保管しておくのだが、ぼくもそのロールのすぐ近くで放射能測定器を当てさせてもらったことがある。計測器はけたましい音の警告音を鳴り響かせる。稲わらはどこにももって行きようがない。環境省や宮城県知事は、宮城の山中に一か所に集めて処分場を造る予定でいるが、そこは貴重な水源があるところで、地元の住人たちをはじめ、そんな環境汚染はぼくも許し難い。そこで、やはり核発電には許容的な仙台市では、一般ごみと一緒に焼却し始めている。もちろんこれも大問題だ。市民派の測定では、焼却場の煙が流れてくる地域では、放射性濃度があがっている。どうして私たちが余計な被ばくをしなければならないのか。推進派の人たちは、本当に「ちょっとの放射能であれば健康に良い」とでも考えているのか?

さて、福島に希望の牧場というところがある。本来、放射能に汚染された福島の牛は殺処分だ。ところが、牛を大事にしてきた農家さんの気持ちがそんなこと許せるわけがない。国の指示に抵抗して、牛を殺さず飼い続けている牧場が希望の牧場だ。牛を売って餌代を回収するわけにもいかないので、牛を買い続けるためのコストやえさで困っている。だが、牛を飼い続けるのは、核発電事故によって生物にどういう影響が出るのかを調べるためにも、貴重な学術的研究という面からも大事なことなのだ。

問題を解決するよいアイディアは、宮城にたくさんある稲わらを希望の牧場に送ることであり、牧場主もそれを望んでいる。行き場のない稲わらを宮城県の白石市が牧場に送ったところ、牧場が位置する浪江町の町長が白石市に抗議した。「汚染廃棄物を町内に持ち込まれると、町民の帰還の妨げになる」というものだ。貴重な自然の恵みである稲わらが「汚染物質」に成り下がってしまうのが、核発電事故だ。原発立地地帯の方や、日本全国の方にもこのことを知っていただきたい。そして白石市の方の言い分は「稲わらは廃棄物でなく飼料である」というものだ。本来対立するはずもない立場の人たちを、分裂させ不幸にするのが、核発電だ。核発電をやるのであれば、こういうことがついてくるということを知ってもらいたいのだ。


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2015年11月23日 (月)

市民による女川原発の安全性を問うシンポジウム

仙台市情報・産業プラザにて、原子力市民委員会共催の「市民による女川原発の安全性を問うシンポジウム」が開催された。元東芝の技術者で原子炉を設計していた後藤さんや、小倉さん、金属工学の専門家井野さん、高木仁三郎基金から菅波さんらが来仙し、市民とともに女川原発の再稼働問題を考えた。

宮城脱原発・風の会の篠原さんの話から、ぼくは改めて宮城県知事村井さんの原発事故対応の失政を思った。篠原さんたちの申し入れにもかかわらず、原発なんてものは発電所の3~6キロくらいまでの事故を想定していればよいから、県所有の放射能測定機は全部女川発電所の県のセンターに置いておいた。そして地震や津波の想定ももちろん甘いので、県のセンターは海抜の低い所にあり津波で流されてしまった。だから、福島核発電が爆発してから宮城県は放射線量を測定することができていない。本来ならば、県民の安全を第一に考えれば、いま放射線量が急に高くなっているので、ここから立ち退いてくださいなどと誘導すべきだったのに。そして、稲わら汚染や畜産農家に的確な指示を出せたはずなのに。それなのに核発電爆発後の10日後にすぐ、農産物の放射線量は測定する必要がないと宣言している。これが、結局今でも問題を複雑に大きくしている。結局、国も県も国民や県民を守るという姿勢があるかないかだ。もちろん、国民や県民よりももっと大事なものがあるという姿勢の政治信条を持つことは、自由だろうし、実際そういうかたも多いだろう。いくらぼくがそういう人を支持しないといっても、圧倒的多数決で信任されれば、いたしかたない。

さて、核発電の再開だが、福島については原因もわからず、事故の責任を問われた人もいない。そういう倫理的な問題も解決されていない。そして、再開にあたって安倍首相は、規制委員会が科学的に安全であると言えば運転していいと言っている。でも、規制委員会では、検査に合格したからといって安全というわけではないと言っている。では、結局安全性は保証されていないし、誰も私が責任を持ちますと言っていないわけだ。

元東芝の技術者のかたの話は興味深かった。ぼくは根っからの文系人間だが、仕事をして何かを作っていくときの技術屋さんのワクワクする気持ちがちょっとわかった気がする。自分が取り組む対象の物性に対して、どれくらの圧力だったら耐えられるか、方程式を立てシュミューレーションを作る、そして実験をして、データを収集する。そして、それを設計に生かして作っていく。こうやって巨大なプラントや複雑な機械ができていき、そこに自分の知力や技術・経験が注がれていれば、とても愛着がわき、最高に誇れる仕事だ。工学を学び技術屋さんになる喜びが、ようやくぼくにもちょっとわかってきた。でも、そんな技術屋さんである後藤さんや小倉さんが、核発電は制御できない技術だ、やめるべきだというのだ。

素人のぼくでもわかるのは、核発電1基に、ポンプだけでも300くらい使われる。そして配管の延長は1700キロだ。ケーブルであれば17000キロメートルだそうだ。地震が来て、そのパニックの中で、どこかで配管が壊れたといっても、どうやってそれを探し出し補修するのだろう。できっこないと思う。また、新基準で再開を認めるために、安全対策がたくさん施された。だからさ-安心ですよというのが、核発電推進の自民党や官僚さんたちの見解だが、技術者の後藤さんに言わせれば、もしもの時には実に単純にスパッと止まってしまうようなのが、安全対策としてはいいということだ。パニックの中で、複雑な手順を何重にも踏むようなことは決して安全ではないという。女川核発電所に再開に向けて巨額な費用をかけて「安全対策」なるものが施されているが、核発電所は再開すればやっぱりどこかで事故は起きるのが理の当然だ。

核発電推進派の人は、飛行機事故のことをよく持ち出される。今日も会場から、何も複雑で巨大なメカニズムは核発電だけでなく飛行機だってそうじゃないか、それなのになぜ核発電にばかりに厳しいのか、という質問が出た。なるほどと一瞬思ってしまうが、よく考えるとやはり違う。核発電は、動いてない時でもずっと制御が必要で、制御してなければ破滅的結末が待ち構えている。そして、いったん事故が起こればその影響力は時間的空間的にも飛行機事故の比ではない。破壊的兵器を作ってしまったアメリカの言い訳や核兵器を独占するための口実として「核の平和利用」なる幻想が作られただけだ。その幻想から目を覚ます必要もあるし、歴史的事実も直視する必要がある。

なお、原子力市民委員が計算した核発電で事故の確率は約8年に1回である。これは、核発電が始まって以来世界に何基の炉があり何年稼働しているかを数え、これまでの事故の回数と比較したものだ。フクシマから5年。どうすれば私たちは次回の事故にあう確率を低くすることができるのだろうか。それはやはり稼働する炉の数を少なくしていくしかない。


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2015年11月22日 (日)

『オテロ』続き

名作は、文学、演劇、音楽何度繰り返して見たり聞いたりしても、いいものだし、そのたびに新たな発見がある。メトロポリタン歌劇場ライブビューイングでシェークスピア原作・ベルディ作曲『オテロ』を見た。第1幕の冒頭は、ベネチア共和国の将軍オテロがイスラム教徒を撃破して凱旋してくる場面だ。シェークスピアは、非常に無邪気に、正義のキリスト教徒、悪のイスラム教徒、キリスト教の勝利万歳と、群衆に叫ばしているが、パリの銃撃事件があったばかりでこれを見て、どきりとした。現在上演するのであれば、非常に繊細な問題をはらんでいる。しかし、だからと言って古典を勝手に筆削してしまうのは、問題の本質ではない。

そもそもシェークスピアの時代、彼はイギリスの限られた観客に向けてだけ書いていたのであって、イスラム教もイスラム教徒も彼の劇の背景の書き割りほどの価値しかなかったはずだ。そして、『オテロ』がさらに深遠な問題をはらんでいるのは、オテロがムーア人(アフリカ系黒人)だということだ。「人種」という問題がまた現代的に微妙な問題をはらんでいる。『オテロ』当時のベネチアが自由な国で、能力さえあれば認められ肌の色など関係なかった言うことなのであろうし、しかし、その肌の色がやはりイアーゴから妬みを買った一因でもあろう。が、今回のメトロポリタン歌劇場の演出は、オテロを黒人ふうにメイクせず、ムーア人ということは意識に入ってこないようになっていた。

シャークスピアの戯曲を振り返って改めてすごいと思うのは、ヨーロッパという限られた範囲ではあるが、その国際性だ。イギリスの作家が、イタリアの出来事を取材して書いている。イタリアだけでなく、「ハムレット」なんてデンマーク王子だ。取材したというよりは、話題となった事件や話題となった演劇をパクって、現地イギリスで上演したというのが本当だろう。当時はもちろん今と違って『著作権』という概念がない。いいもの、面白いものはどんどん吸収して換骨奪胎する。本当はシェークスピアと同じくらい才能のある作家が各地にいてそれなりに面白い劇が上演されていたのだろうが、そもそも自作に「署名」して権利を主張するなんてこともなかったのだろうから、自然と作家の名は忘れられてしまったのだろう。

そう考えると、「シェークスピア」はいなかっただとか、「シェークピア」は覆面作家だったというのはありうることだと思う。一人の大天才がいたのではなく、当時のヨーロッパの合作、集合知だったのかもしれない。ベルディのオペラにしても、イギリスの劇をイタリア人が作曲している。今風に言えば「コラボ」が傑作をさらなる傑作にしたのだ。東アジアだって、「史記」や「三国志」は日本を含めみな大好きで、そこからいろいろな作品群が生まれている。政治家の思惑なんて無視して、無意識の「コラボ」がこの先もどんどん生まれて、民衆に愛されるようになれば東アジア地域も、ますます熱く面白くなると思うし、それをぼくは期待する。


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2015年11月21日 (土)

メトロポリタン歌劇場ライブ・ビューイング:ベルディ作曲・歌劇『オテロ』

シェークスピアの3大悲劇のうちの『オテロ』。ぼくには『オテロ』とこんな付き合いがある。20代、初めてオテロを読んだ。新潮文庫で福田恒存さんの訳にお世話になったと思う。表記は「オセロー」だ。そのころとにかくシェークスピアの劇は面白く、オセロー以外にも何冊か読んで素晴らしいと思った。原文を読むのは無理だと思ったが、だがその原文には滔々とした豊穣のセリフの世界が広がっているのだと思った。オセローがどんな話であるか細かいことはあまり覚えていないのだが、とにかく怖い話、そして何が怖いかと言えば、ぼくが印象に残ったのは、オセローを陥れる悪漢イアーゴの底なしの「悪」。

その印象を強くしたのは、その後30代で見た映画プラシド・ドミンゴ主演の映画『オテロ』。この映画も素晴らしかったが、映像の演出のせいで、やたら『真っ赤』であったような気がする。つまり血なまぐさかったのだ。ぼくが怖いと思ったのは、悪いことをするのであれば、それなりの理由があれば納得できるのであるが、この真っ赤な演出のせいでイアーゴは、特にわけもなく純粋に悪のためにだけ悪を行うと思っていて怖かったのだ。

そんな思いもあって、METライブビューイングのラインアップに上がっていた『オテロ』が見たかった。人生3度目に『オテロ』を見てみるとイアーゴにもちゃんと悪いことをたくらむだけの事情があるということが脚本にも書かれていたことがわかった。そう、この悲劇の根本は「男の嫉妬」なのである。イアーゴの、そしてオテロの。イアーゴ役のジェリコ・ルチッチがとてもいい。というか、とても怖い。当てろの背後に囁くように立って歌っている。オテロ役のアレクサンドルス・アントネンコも熱演していた。彼が幕間でインタビューで答えていた声は、役の重厚な歌声とは違って、なんかかわいくて愛嬌があった。プラシド・ドミンゴのオテロとはまた違う味わいがある。

ソニア・ヨンチェーヴァが悲劇の妻デズデモーナを演じているのだが、彼女はインタビューで「デズデモーナは、無垢な犠牲者というだけではない。彼女は強い女性なんだ」と言っていた。その通りの思いをソニアは歌で我々伝えてくれた。自分がオテロに殺されるとわかっている最後の晩のデズデモーナの、従容として死に向かう強さを演じていた。演劇の良いところは、台本だけでなく、演出家、役者、そして観客のそれぞれの思いがすべて反響されて総合的に作り出されるというところだ。

そして、なんといってもベルディの音楽。劇的としか言いようがない。シェークスピアの人間ドラマという大きなうねりと共振するベルディの劇的な音楽。『椿姫』の乾杯の歌や、『アイーダ』の凱旋行進曲のようなポピュラーな曲はないが、円熟味を感じさせる音楽は、ベルディの中では『オテロ』はやはり最高傑作なのだろう。堪能しきって3時間があっという間だった。


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2015年11月12日 (木)

育鵬社の教科書を考える・続き

育鵬社の教科書は、宮城県だけでなく、東大阪市の中学校の皇民科でも採用された。東大阪で育鵬社の教科書問題に取り組まれている方の活動報告を読む機会があったので、その方が指摘していて、そこから触発された「育鵬社の教科書問題」の本質を、ぼくなりにまとめてみたい。

まず、教育とは何かということを考えさせられた。以下に述べるような教育という形も確かに存在するだろうし、過去にも確実に存在した。すなわち「親や教師を尊敬し、進んで従う子供を作るために、目上の人が言うことに対しては絶対に疑問を持たないように子供を教育すること」。自分の頭で考えない習慣を作らせることであるが、この教育が進めば、子どもは「親や教師の過ちを指摘する人に対しては、そんなことはあり得ないといい、その過ちを指摘する人に対しては憎しみをいだくようになる」。このようにここから考察することで、育鵬社の教科書とヘイトスピーチとのつながりをその方は鋭くも指摘していたが、それは最後に。

育鵬社の教科書は、

・基本的人権の尊重よりも制限

・国家と企業の思惑通りに動く従順性の涵養

・国民主権の日本国憲法よりも、天皇主権の大日本国憲法の重視

・男らしさ、女らしさの強調

という特色があるが、これらは、「子供たちに目上の人、国家に対する批判的な目を養わせない」、そして目上の人、国家が間違っているという人に対する憎悪を涵養するものだ。すなわち、「私たちの父母、祖父母、祖先は間違っていない。すばらしい。絶対に正しい」という信念を植え付けるものだと、指摘している。

東大阪では、育鵬社の教科書採択を求めたもののなかに、ヘイトスピーチをする団体もあったということだが、育鵬社の教科書と、ヘイトスピーチをする人たちとの共通点として、慰安婦問題、南京大虐殺についても「事実と違う。むこうが言いがかりをつけているだけだ。私たちの父母、祖父母、祖先はそんなひどいことはしない、間違っているのはお前たちだ」という点が共通している。

「美しくて素晴らしい国、日本」ということを育鵬社の教科書は強調するが、どんな人間だって、国家だって、美点だけで成り立っていることはないだろう。美点と欠点とで織り交ざっているのが、事実で、自分や自国の短所を知っているからこそ、美点だって認識できるとぼくは思う。ちなみに、育鵬社の教科書には曽野綾子さんの文章が載っている。「人は一つの国家にきっちりと帰属しないと人間にならない。地球市民なんて言うものは現実的にあり得ない」。曽野さんのこの言葉を超えるものをぼくらが提示できなければ、育鵬社の教科書採択はどんどん広がっていってしまうだろう。

ヘイトスピーチと育鵬社の教科書はどこでつながるのか。これは大阪で活動している方でなければ気づかない指摘だ。ヘイトスピーチは外国人、特に日本に住んでいる朝鮮人・韓国人に対する憎悪の言葉を投げかけるものだ。それはなぜかといえば、彼らの存在がいやおうなしに、日本人が彼らにしたことを思い出させてしまうからだ。記憶の中の美しい日本と矛盾する存在は、見ないことにして、目の前から消えていってほしいからだ。真実に向き合う勇気がなければ、次に進めない。育鵬社の教科書もヘイトスピーチも未来に続く力はないと、ぼくは思う。


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2015年11月 8日 (日)

育鵬社の教科書採択

宮城県議会では自民党と公明党が過半数以上をしっかりと確保しその後押しもあり、県立高校である二華高、古川黎明高の皇民科で育鵬社の教科書が採択されてしまった。宮城県議会選挙がついこの間あったが、自民党と公明党の勢力は相変わらず強く、ますます育鵬社の教科書採択の圧力が強まる。

教科書問題では、ぼくは強い危機感を抱いている。自国の文化や歴史に誇りを持つことは良いと思うが、自分たちが無謬で、相手が100パーセント悪いという態度では、この国際社会で生きていく市民として他者と協調してやっていけるとは思わない。国内だけにとどまっているつもりだとしても、結局「夜郎自大」で、核発電事故等の無謬神話や戦前と同じ、神の国の不敗神話に陥るだけだ。

自国も他国も客観的に良いところ・悪いところを判断し、そういう観点から行動できないものだろうか。ぼくは、安倍さんや日本会議のような人たちから、「貴様のような非国民は…」といわれてもかまわないが、日本のいいところと悪いところとを客観的に常に考えたいと思う。そこで思いだす話は、ニム・ウェールズというジャーナリストが戦前の朝鮮独立運動家を取材した話だ。独立運動なんてするのは、日本政府から見たらとても許し難い存在だが、その独立運動家は、捕まるのであれば日本で捕まった方がいいと言っていた。理由は、もし中国などで捕まれば裁判もなしで死刑になってもおかしくないが、一応日本ではちゃんと法律の手順を踏んで裁かれるからだと。こんなふうに、戦前のアジアでは、曲がりなりにも日本は民主主義的制度が整った先進的な国だったのである。もちろん、今の基準から見れば戦前の日本の法律などには欠陥も多いだろうが、客観ということは相対化して見るということだ。育鵬社の教科書が自分自身を相対化して見る視点を養う教科書とは思えず、日本の将来のためにもとても危機感がある。

震災と核発電事故以降、関西の人たちとのありがたいつながりができた。大阪の方でも育鵬社の教科書に危機感を持って活動している方たちがいる。大阪は、在日朝鮮人の人たちの数も多く、同和問題などもこちら仙台とは比べ物にならないくらい先鋭化しているところだ。そういうところで育鵬社の教科書の問題を考えている方の活動やお考えの一端を知る機会があった。次回、機会があれば育鵬社の教科書の何が問題なのか、大阪の活動から示唆を受けたことを記してみたい。


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2015年11月 2日 (月)

メトロポリタン歌劇場・ライブビューイング『イル・トロバトーレ』

2015-2016シーズンのメトロポリタン歌劇場ライブ・ビューイングが始まった。その第1作目は、ベルディ作曲の『イル・トロバトーレ』。同じベルディ作曲でも『椿姫』『アイーダ』ほど有名でないこの作品、聞いたことがある曲は鍛冶屋での合唱くらいだが、ベルディは合唱曲が素晴らしいと思う。そんな中で、ぼくはその台本が興味深かった。内容は悲劇である。これはライブビューイング第2弾の『オテロ』を意識したつながりとしたのだろうか。オテロはもちろんシェークスピアの一大悲劇。オテロはもちろん偉大な悲劇だが、『イル・トロバトーレ』もよくできたドラマだったと思う。伯爵に殺されたジプシーの老婆が娘に復讐を頼む。娘は復讐をやり遂げる。だが、その復讐はどのようになされたか。こんなに残酷な復讐のやり方はないだろう。肉親が肉親を殺めるように仕向けるのだから。それも何十年の歳月を賭して。

というわけで、主人公の美男美女役を差し置いて、ぼくが印象深かったのは、ジプシーの老婆アズチェーナ役のドローラ・ザジック。狂気や執念のほかに母性愛のような様々な感情を表現していて迫力があった。もちろん人気があり拍手喝さいを受けていたのは、レオノーラ役のアンナ・ネトレプコ。そしてルーナ伯爵役のホヴォドロストフスキーは、病気からの復活ということで観客・オーケストラからも温かい拍手を受けていた。

レオノーラと相思相愛で、実はルーナ伯爵弟マンリーコ役にヨンフン・リー。若手で新鋭の東洋系のテノールだ。東洋系を主役級に抜擢したのは劇場側の世界戦略があると思う。成長と人口が多いアジア市場への思惑だ。ただ、毎回METのライブビューイングを見ていて思うのは、ニューヨークという場所を反映してか、多様な人種が舞台に登場しているということだ。それはやはりニューヨークの多様性を反映してのことだと思う。人種的偏見はこの日本でも強いが、昔はそんなことを気にしていた人もいたな、と早く笑い話になってくれるとよい。ただ、東洋系の顔は、我々日本人も含め、良くも悪くも平たい。オペラはやはり濃い顔立ちの彫りの深い人たちの国が発祥なので、東洋系の顔は京劇や歌舞伎で映えるのかと思った次第だ。

アジア市場を意識していると思ったのは、今後に続く演目を見てもそう思った。ビゼーの『真珠採り』(舞台はインド)、『トゥ―ランドット』(中国)、『蝶々夫人』(日本)という具合だ。さて、『イル・トラバトーレ』が拍手喝さいの中で終演を迎え、カーテンコールのさなか、最前列に着物姿の日本人が映っていた。ニューヨークで着物で観劇。これも素敵である。


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