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2015年10月25日 (日)

人類の記憶遺産

人類史の普遍的な記憶に値することを後世に残していこうという発想や試みに、ぼくは賛意を表する。歴史は、言語や科学技術といった人間の存在にとって大きな意味を持つものの一つであり、それがなければ人間存在が成立しないかもしれないとさえいえるものだと思うからだ。こんなことを考えるきっかけになったのは、もちろんユネスコの人類記憶遺産に、中国が申請した「南京大虐殺」が登録され、それが気に食わない日本政府が、ユネスコの政治的利用だと言って、ユネスコの拠出金を引き上げるなどといった脅しをしたからだ。ユネスコの政治的利用というのであれば、日本政府が申請した「シベリア抑留」は、ロシアから見れば、日本がユネスコを政治的に利用しているのであり、結局、どっちもどっち、どこの国も自国に都合が良いことだけは宣伝し、自国に不都合なことからは目を背けるというレベルでは、同じである。(国際政治とはそういうものだ、つまり都合の良いことだけ強調し、都合の悪いことは隠すか、なかったことにするというのが、国益にかなう。それに反対する奴は、非国民というのであれば、それまでだが)人類史的なレベルがいま、このとおりのレベルであるのなら、記憶遺産登録合戦は一時凍結し、新たなルール作りをしたらどうだろう。

ぼくが、普遍的な人類史としての記憶遺産に賛成なのは、人間というのはこういうことをするものなんだということや、かつてこういうことをしたのだ、ということを後世に伝えることは、人間の本質を伝える上でとても大切なことだと思うからだ。いいことももちろん後世に伝えられればいいが、人間存在はいい側面ばかりではない。負の面であっても、確かにこういうことがあったということは、人間の本質を考える上では絶対に必要なことだ。しかし、国家レベルとなれば自分たちが行ったことにまともに向き合えず目をそらしてしまうというのが、今の人類史的なレベルなのだ。それは、日本だけでなく、ロシアも、そしておそらく中国もだ。

個人レベルであれば、自分のまわりに絶対に自分のミスを認めない人がいれば、かたくなな人だと思うだろう。でも、そういう人だって、本当は悪い所もあれば、いいところもあるだろうし、国だって、歴史だって、よい所もあれば悪い所もあるだろう。それなのに、自国だけが他国よりも優れていて、絶対に悪い面など持ち合わせていないと考えるのは、あまりに狭い了見だと思う。こういう国家レベルのメンツが解消するのには、やはり時がたつしかないだろう。ぼくは、もっともっと科学的思考や科学的知見が人類に広まってほしいと夢見ている。50年前、100年前の人が考えもよらなかったことを、現在の人たちは体験し、それによって思考の枠組みも大きくなっている。それなのに、「国家」という枠組みに取らえられていて、「国家」に関することは感情的になり客観的に物事を見られない。でも、あと50年、100年たてば、そのとき人は今の時代を振り返り、あの時代の人は何であんなことにこだわっていたのか、という話になるはずだ。そういう時代が来る前に、国家によって記憶が消されてしまわないよう、「人間はこういうことをする・した」という記憶を、民間や市民の中で語り伝えていく必要がある。

世界の記憶遺産60


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