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2015年10月31日 (土)

ミルトン・フリードマン"Capitalism and Freedom"

自民党と公明党政権によって形作られている現代の日本。「市場原理主義」「努力した人が報われる世の中」「自己責任の貫徹」「公共部門の縮小」「世界一企業が活動しやすい国」「労働者はコスト」「派遣は一生派遣労働者」。どうしてこのような日本になってしまったのかと思うときに、その源流を探ってみたいと思って選んだがこの本だ。フリードマンはアメリカの経済学者。政府の介入を排して、市場原理を重んじる学者で、その影響力は破壊的ともいえるほど強大。レーガン・アメリカ大統領、サッチャー・イギリス首相などの経済政策に大きく影響し、そして日本では中曽根首相、小泉首相、安倍首相、竹中大臣という流れで彼の教えが忠実に守られている。いや、こういうことはよくあることだが、本国よりも離れたところでこそ、より原理に忠実にドグマが信奉されている。

さて、彼を公正に評するために最初に書いておきたいが、このCapital and Freedomは1962年に初版が出た。その時に、資本主義の優位性と社会主義が劣ることを指摘したのは、のちの社会主義国の崩壊を見るにつけ、フリードマンの先見の明の賢さは認めざるを得ない。その当時は、多くの左翼系知識人、フリードマンはリベラルと呼んで軽蔑しているが、社会主義への幻想を抱いていたからだ。そして、政治的自由こそは、資本主義社会でこそ実現されると言っている。この点は、ぼくも同意するし、何よりも個人の自由や、出版・表現・集会・信教・信条の自由が保障された社会をぼくも望む。

資本主義を、英語版本文では、free enterpriseと言い換えていることにも注目すべきだと思う。free enterpriseとはつまり、人が自由に起業できる社会だ。変なたとえだが、皆がサラリーマンではなく、皆が自営業で自分で食い扶持を稼いでいる社会だ。もちろん、今の日本でも、ふつうの資本主義国家でもサラリーマン、つまり雇用されている人がほとんどで、自分で起業し、かつ成功するとなるとほんの一握りだが、このfree enterpriseこそが自由を守る原点だということは、ぼくも大事なことだと思う。アメリカのようにゼロの歴史と開拓から始まる国ではもちろんこの企業家精神は大きい。だが、どんな国でもこの気概がなければ、自由を達成できない。日本の核発電所や基地を押し付ける構図が、経済的な弱みに付け込み、もしくはそういうものに依存せざるを得なくする手法を取っているところを見ても、経済的自立と自由の意義を説いたフリードマンは、この点を評価してもよいと思うし、われわれもぜひfree enterpriseの精神を発揮し、自由と自立を手に入れたいと思う。

さて、そのうえで、フリードマンの考えには、もちろん時代的な制約による限界がある。一つは、「市場」を万能視していることだ。市場がきちんと機能していれば、資本主義社会で見られる矛盾はすべて「見えざる手」によって解消されるのであり、そうなっていないのは、政府によるへまな市場介入のせいだ、というのがフリードマンの主張だ。「見えざる手」は、もちろんアダム・スミスの引用だが、天国のアダム・スミスもフリードマンや日本の政治家が都合の良い所だけ引用するので困っているだろう。アダム・スミスが本当に力を入れて書いていたのは「道徳論」である。つまり、思いやりだとか利他主義である。もちろんフリードマンがこれを書いた1962年当時では、アダム・スミスのそのような面は強調されていなかったし、その後に展開される、心理学・進化論・文化人類学における利他主義の研究の成果もフリードマンには知られていなかった。

そこで、フリードマンはあらゆる政府介入を攻撃する。通貨政策を通しての政府の市場介入、政府による郵便制度、国鉄、などなど。こう書いていけば、フリードマンの提唱で、日本でも次々と民営化が進んだことがわかる。そして、フリードマンがすごいのは、これだけにとどまらず、政府による低所得者向け住宅制度、年金、所得税の累進課税もやめるように提唱していることだ。学者らしく、最高税率70パーセントの累進課税をやめて、一律23パーセントの所得税にしても、国家の歳入は変わりがないことを、資料をつかって証明してみせる。こうして日本でも直接税の累進課税はやめて、広く全員からとる間接税を移行しようとしている。

フリードマンが、福祉政策をやめるように提唱するその根本になっているのは、もちろん「自己責任論」だ。そして自己責任論とペアになっているのが、「パターナリズム」だ。この訳語は難しいが、語源は「父親」、つまり本人に代わって、良かれと思ってあれこれやってあげることを「パターナリズム」という。本人が、もしかしたら望んでもいないかもしれないことを、傍らから手出ししてやってやることはない、というのが福祉政策不要の根拠だ。自由と自己責任は確かに分かちがたく結びついている。free enterpriseの社会では、やってみて成功する自由もあれば、やってみて失敗する自由もあるわけだ。そこで、はたからよかれて思って手出しをするのは、自由の阻害だというのも一理あることなのだろう。ちなみに、フリードマンは、低所得地帯にある公立学校に、特別に補助金を出すことにも反対している。すべては、市場にゆだねれば、落ち着くべきところに落ち着いていくのだ。

こうして後世の人間が勝手に批評めいたことを書くのは簡単だ。結局大事なのは現代のわれわれがどのような社会を望むのかということだ。日本は常に海のかなたで孤立している国なので、外国の思想の都合の良い所だけ純粋に培養し、取り出して使っている。ケインズの経済理論も、公共工事のばらまきと自然破壊、見返りの集票機能に化けてしまった。フリードマンの思想も、これだけ極端に推し進められている国はそうないだろう。だが、あくまでも私たちが、何を望み、何を選択していくかにかかっている。私たちは、どのような社会を望むのだろうか。


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