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2015年9月29日 (火)

民主主義の危機

宮城県議会選挙が予定されているが、それにつけても民主主義の危機というのを地方から感じる。「民主主義って何だ?」というのはあるが、ぼくは民主主義とは、一つには、自分たちの代表を民主主義的な選挙で複数の候補から選び出し、立法議会を構成することだと思っている。ところが、地方では、特に、この複数の候補者の中から、自分の考えに近く、自分が良いと思っている政策を実現してくれる人を選ぶ機会が奪われているのだ。端的に言うと、選挙区に自民党候補者しか立候補者がいずに、選挙を経ずに自動的に議員になるのだ。こうして、宮城県議会は自民党議員が圧倒的多数を占め、自民党基盤の知事の政策を進めていくことになる。

自民党が憎くて、ぼくがこういうことを書いていると誤解しないでいただきたい。もし、逆に共産党が、選挙を経ずに議会の多数を占めるようなことがあれば、ぼくはやはり民主主義の危機として警鐘を鳴らすだろう。民主主義とは、権力を分散させて、お互いにチェック機能が働くようにすることだし、立法府では、多様な意見が討論されたうえで、より良い政策に到達することだと思うからだ。

なぜ、自民党議員しか政治家になれないかというのは、いろいろな要因があるだろうが、一つには選挙に立候補するための供託金の高さが問題だろう。これは、政治に参加する権利が奪われているともいえるので、人権侵害だともいえる。また、自民党は、国会議員の数が多い。その数に比例して国民の税金から政党助成金が払われる。それを元手に、選挙を有利に戦える。そうすると、また議員の数が増える。そうすると、また政党助成金という収入が増える。これは、狙ってそうなったのか、それとも、偶然情勢が自民党に好循環になるようになったのかわからないが、小選挙区制とともに、国民からのわずかな支持を、圧倒的多数の議員占拠率に変えてしまう、打ち出の小槌だ。

戦争法案反対の盛り上がりぶりからは、自民党の政策に反対している国民も多そうだが、議会制民主主義の方は、豊かな自然が失われ生物多様性がなくなるかのように、異論、反論、多様な意見の存在を許さない、民主主義の危機が不気味に迫ってきている。

シンポジウム 民主主義の危機 (岩波ブックレット)

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2015年9月27日 (日)

パリオペラ座ライブビューイング「椿姫」

パリオペラ座での上演を録画し、日本の映画館で楽しめる。聞けばだれもが知っているおなじみの名曲が目白押しのベルディ作曲歌劇『椿姫』(ラ・トラビアータ)。ライブビューイングのおかげで、全幕通しで初めてこの有名なオペラを見ることができた。ライブビューイングのありがたさは、合間合間に、見どころを解説してもらえるところだ。通の人には迷惑かもしれないが、ぼくのような素人にはありがたい。毎回、オペラ座名物のおじさんといった人が出てきて(実際は、高名な批評家さんなのだろうが)、どういう見どころがあるのかを言ってくれる。そして、演出家や歌手にもインタビューして、オペラや演劇や舞台への理解を深めてくれる。

『椿姫』にはデュマ・フスが書いた原作がある。世界文学を夢中で読んでいたむかし、むかしに読んだのだが内容は忘れてしまった。なんだか、世間知らずの青年が、恋をしても世間からは歓迎されないタイプの女性に恋をしてしまった悲劇だったような記憶と印象がぼんやり残っている。オペラの方は原作を変えているらしいが、主人公の女性『ビオレッタ』の自己犠牲の崇高さが描かれていた。

1幕目から聞きどころが満載。華やかなビオレッタの生活が描かれ、(だがすでに彼女は肺を病んでいる)、「乾杯の歌」がうたわれる。これは祝杯のための詩を作ってくれといわれ、恋する青年アルフレードが、はにかみながらも歌い始め、ビオレッタがそのあとをついで歌う。純真な青年アルフレードの真剣な恋に胸を打たれながらも、ビオレッタは浮かれ女としての生活を思い、快楽を追い求めて生きようとして「花から花へ」を歌う。その中で、ふとアルフレードのことが思い出されるところで、どこか天空の高いところからアルフレードの声が響いてくる。この演出もよかった。

さて、年を取ってよいことは、いろいろな立場が理解できて、鑑賞の幅が広くなることだ。ぼくも若いころだったら、アルフレードのお父さんが二人の仲を割こうとするのに反感を感じ、一途な青年を支持していただろう。でも、今ではこのお父さんの心情や立場も理解できるのだ。父親のジェルモンの見せ場は、息子を説得して彼女と別れて故郷へ帰ろうと歌う「プロバンスの陸と海」。父親役ジェルモンを演じたテジエには凄味があった。

結局最後には、父親は自分の行いを後悔し、ビオレッタの尊い自己犠牲と、彼女が素晴らしい女性だということを認め、息子との仲を許すのだが、時すでに遅し、アルフレードと父親が病床のビオレッタのところに駆けつけると、彼女は死んでしまうのだ。ここがクライマックスだが、劇を見ているとビオレッタは不幸ではなく、光の中で昇天していくような気がする。ベルディの音楽は、人間の感情の振幅を深く揺り動かさずにはいられない。至福の時間だった。

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2015年9月24日 (木)

『聊斎志異』を読む

中国清代の蒲松齢が書いた『聊斎志異』を読む。聊斎志異は、怪異小説だ。狐、死霊など異界のものが人間界と交流する。当時の人は、そういう交流を不思議と思わないで、あって当然としてとらえている。想像力のやせ衰えた現代社会と違い、豊穣の闇と薄明りの世界がそこにある。日本文学に与えた影響も大きい。聊斎志異などの代表される怪異小説は、特に江戸時代の文学者を刺激した。上田秋声、この人は小説がうまいと太宰が激賞した作家の一人だが、秋声の傑作怪異小説も中国文学の影響を大きく受けている。

ぼくなどは、作者の蒲松齢に同情というか興味をひかれた。彼は、万年落第生で、ついに受験に合格しなかった。何の受験かというと「科挙」だ。彼が生きた時代は明から清への時代の変わり目だ。清は異民族で、漢民族の愛国者は、各地で激しく抵抗した。結局、軍事力に勝る清が中国全土を掌握したのだが、清の成功は軍事力だけではない。清が、「科挙」を明に引き続いて採用したからだ。科挙は、役人・官僚を選抜する、一種公平で開かれた試験制度だ。文字や文学を重んじる中国人の志向にあったのだろう、この科挙という制度は代々受け継がれてきて、国を統治する役人・官僚を生み出す確固とした制度として機能してきた。中国でも日本でもそうだが、役人・官僚が世界で一番偉く、民は下である。役人・官僚が異様に尊敬と富を集める社会では、科挙に合格し官僚になることは大変名誉なことだった。清は、科挙をうまく利用し、科挙を通して漢民族も統治に参加できる道を開いたことで、中国全土を巧みに統治する基礎を作り上げた。

さて、その科挙に落ち続けること、それは彼にとってどれほど屈辱だっただろう。だが、もし官界で、つまり現世で成功していたら、小説を書こうなんて気も起らなかっただろうし、『聊斎志異』もこの世になかったのではないか。そういう彼は、どうやって生計を立てていたかというと、塾の講師だ。日本でも『受験戦争』と言ったりするが、日本の受験戦争は生ぬるい。本当の受験戦争は科挙があった中国や韓国が本場だ。科挙に合格するために私塾があり、もしくは家庭教師を富裕な人は雇ったりするのだ。まあ、そういう彼の境遇に何となく身をつまされて「聊斎志異」を読んでみたのだ。物語中は、受験に苦労する彼のような人たちがたくさん出てくる、そしてそういう人たちと異界の者たちの交情が描かれる。そして、異能の助けにより、科挙に合格し、官僚になって出世してめでたし、めでたしは、ちょっと違うだろうと思いつつ、これが当時の、(そしてもしかしたら今も変わらぬ)、中国人(やそして韓国人や日本人)の夢なのかと思ったりする。

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2015年9月21日 (月)

ラグビー日本代表が強豪南アフリカを破る

ラグビーのワールドカップで、日本代表チームが、優勝候補でもある強豪国の南アフリカと対戦し、最後のギリギリのロスタイムの時間帯で逆転で勝利した。この試合は見ていて本当に興奮した。近頃いいニュースもないし、地元で応援しているプロ野球団も最下位に低迷しているので、本当に久しぶりにいいものが見れた。試合のあとも、何度もニュース映像を見てしまった。

ラグビーは、サッカーのワールドカップと違って、その国の代表チームのメンバーに入るのにその国の国籍が必ずしも必要とされていない。だから、今回のラグビー日本代表チームには外国出身者も多い。キャプテンもニュージーランド出身だ。こういう外国出身の選手がいたから、世界が驚く番狂わせを起こすことができたことは間違いない。だが、ぼくはこのラグビー日本代表の在り方こそが、今後の日本社会のありようを表しているとも思う。

日本社会が今後否応なく進んでいく方向性は「多様性」だ。そしてその「多様性」を受けいれることだ。高齢化と人口減で、日本は移民、難民を受け入れざるを得なくなる。もちろん、これは政策判断だから絶対に「反対」と考える人もいるだろう。そういう「反対」する人が何に心配して反対しているのか、わからなくもないが、ぼくは、個人的な見解としては受け入れに「賛成」である。外国出自の人たちに「帰れ」なんて口汚くののしることは絶対したくないし、外国出身の人たちが日本に多く住むことで、日本の文化や良さがなくなるとは思わない。もし、なくなるようであれば、しょせん日本独自の文化や言語は初めからなくなる運命だったのだろうし、それくらい弱かったからだ。

ラグビーの日本代表が勝利できた理由は、日本の良さを生かしたチームの土台に、外国出身の選手が日本人にない良さをもたらし、それが良い方向で融合したからだ。日本人が得意としている、勤勉に走り回る事、手を抜かず防御すること、最後の最後まであきらめないこと、素早くパス回しをすること、低くタックルすることなど、これがいわば日本チームの土台として脈々と受け継がれてきたものがあって、そこに外国人選手のパワー、高さ、強さなどが加わった結果、歓喜の勝利を得ることができたのだ。今後の日本社会も、人が多少入れ替わろうと、日本の風土とそこに住む神様たちがいる限り、日本は変わらず続いていける。

南アフリカに勝ったことによって、ラグビー日本代表は、今度は注目されマークされる立場になった。だから、次戦のスコットランド戦は容易ではないだろう。しかし、次戦がどのような戦いになるか楽しみにしているし、期待している。

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2015年9月19日 (土)

戦争法案とこの国のゆくえ

戦争法案反対のビラまきをしていると、「戦争法案というな!」「戦争なんておこりっこないだろう!」と詰め寄られることもあった。これは、私たちの説明不足であるし、世論への訴えが足りない点であった。いくら安倍さんがそういう志向をお持ちの人であろうと、ぼくは、一応今すぐ日本が他国を侵略するような戦争を起こすとは、今のところ考えていない。しかし、すでに文民の統制を離れて自衛隊幹部が先走ったことをしている現状では、功名にはやった軍人が何をするかはわからないので、そういう可能性も100%否定できるわけではないだろうが。

私たちがもっと理解してもらうべきだったのは、日本がアメリカの戦争にいやおうなく巻き込まれるということだ。国際的な問題として世界の各国が応分に解決に貢献しなければいけない問題は確かに存在する。貧困、環境破壊、教育、飢餓、紛争、難民など。アメリカが世界の先頭に立ち、世界が直面する問題に身を挺して取り組んでいるのであれば、日本だってよいことに追随するのは悪いことではない。(それにしても、ぼくは、非軍事的な貢献を希望するが)だが、アメリカが行っているのは、自国の利益追求であり、当然、他国の文化や市民生活を破壊し、その結果感謝されるどころか、反感を買っている。自衛隊がアメリカの世界戦略の一翼を担わされ、それが本当に日本自体の国益にもかなうことなのかを、私たちはもっと訴え、理解してもらうべきだった。

戦争法案成立を受けて、自衛隊がすぐに南スーダンに展開するという。地球の裏側の南スーダンでどのようなことが起こり、どういう情勢で、アメリカがこの情勢にどのようにかかわっているのか、全然興味もなかったし、知らなかった。知らないなら、論評するなと言われそうであるが、これからは、世界中でアメリカがどのような軍事展開と戦略をとり、世界情勢がどのような現状であるか、知る努力をしていこうと思う。誰でも普通の日本人であれば、日本にかかわることでなければニュースも見ないだろうし、知ろうと思わないだろう。これからは、アメリカ軍が展開しているところであれば、どこでも自衛隊員の命が危険にさらされるのだ。それが、国際貢献の意味だという人もいるだろうが、本当にそれが国際貢献の形だろうか。そして、国を守り、災害などがあれば被災地に駆けつけ困っている人を助けることに、自衛隊の意義を見つけて入隊したはずの自衛隊員の気持ちにもかなうことなのだろうか。

街場の戦争論 (シリーズ 22世紀を生きる)

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2015年9月18日 (金)

日本はなぜ基地と原発を止められないのか(その5)

現在の憲法や安全保障問題を巡る混乱は、敗戦とその後の歴史的経緯の中にある。それを解きほぐし、今後のこの国のあり方である憲法、安全保障、アメリカとの関係をしっかり考える基盤としようと提案するのが集英社から出版された矢部宏治氏の「日本はなぜ基地と原発を止められないのか」だ。中国との戦争、そしてアメリカを筆頭とする連合国との戦争と1945年の敗戦受け入れの流れの中で、昭和天皇に果たして戦争責任はあるか、という議論は避けて通れない。戦前だったら、不敬罪で逮捕だろうが、こうして議論できること自体ありがたい。

昭和天皇に戦争責任はあるという。もちろん軍部の独走ということはあるだろうが、昭和天皇は戦争に関する全権=統帥権を握っていたのだし、御前会議等で戦争の状況も知っていたのだから、沖縄、本土が戦場になり、アメリカに原爆を使用される前に戦争をやめることもできたはずだ。では、なぜ、天皇は戦争責任を取らされず、戦犯として裁かれなかったかというと、マッカーサーがその政治的利用価値を認めたからだし、昭和天皇自身大変優れた方で、アメリカ側の政治的要求をよく理解し、それ以上のことをアメリカに対し見返りとして与えたからだ。

天皇が呼びかけなければ、これほどスムーズに日本軍は武装解除に応じなかっただろう。狂信的な軍人が主張したように、日本人すべてが滅びるまで本土で徹底抗戦したら、アメリカ軍にだって少なからず損害が出た。そこでマッカーサーがアメリカの若者が少しでも死なないように、天皇制を存続させて円滑な占領政策に利用した。天皇とその側近たちも、ロシア革命等の結末を知っているので、共産革命が起こって皇室が殺されるのを恐れていた。だから、喜んでアメリカ軍が日本に駐留することを望んでいた。沖縄を米軍に提供したのも昭和天皇のアイディアだという。それも主権は形だけ日本に残してリースという形で。だが、いつまでも、外国軍隊が日本にとどまっていれば、領土的野心があるのではないかと疑われる。領土の拡大を求めてナチスや日本が戦争を引き起こしたのだと、正義の主張をしていたアメリカが今度は逆に後ろ指をさされることになる。現に、サンフランシスコ講和条約を連合国のインドは拒否した。それは、アメリカの軍隊が日本に居座っていたからだ。帝国主義の犠牲になり、その苦しみをよく知っていたインドらしい。

ここからは、ぼくの感想だが、アメリカの占領政策ほど、歴史上まれに見る成功した占領政策はないと思う。普通、ナチスがフランスを占領してレジスタンスが起こったように、占領されれば、激しい反感を招くものだ。しかし、アメリカは大多数の日本人から激しく愛された。もちろん長年、諜報活動等で鍛えたアメリカの巧みな占領政策ということもあるし、アメリカの富と夢のような豊かな生活に日本人が憧れたということもある。そして、ぼくが思うに、ある意味アメリカが解放軍だったことだ。日本人は自分で変われない。民主主義も育たず、自由な言論活動などできなかった。それをアメリカは、自由と民主主義を日本にくれた。

こんなふうに、民衆もアメリカを歓迎し、天皇をはじめとする旧上流階級もアメリカを歓迎し、軍隊の駐留を望み、戦犯だった旧支配もアメリカの世界戦略に協力するのならと許されて政界に復帰するようになり、今日のアメリカの下位に、日本国憲法や日本の国内法が隷属する国家体制=安保体制ができた。何度か、アメリカの良識ある層が、軍を撤退し、基地を返還しようかと提案したそうだが、そのたびに断ったのは日本側だという。終戦直後の安保体制、矢部氏の言う「安保村」は天皇・官僚・政治家・利益を売る業者だったというが、今は安保村から天皇が脱落し、官僚がトップを占め、安保体制に反対する官僚は絶対にえらくなれず、政治家も官僚から足を引っ張られるのだという。

矢部氏は、集団的自衛権を行使すれば、結局アメリカの世界戦略に自衛隊や日本が協力させられるだけだという。ぼくも、ご主人様は、それほど慈愛深い方だと思わない。危険なことは自分でせず、まず奴隷をこき使うのが普通ではないだろうか。

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2015年9月17日 (木)

日本はなぜ基地と原発を止められないのか(その4)

集英社から矢部宏治氏が出している「日本はなぜ基地と原発を止められないのか」。示唆に富む指摘もあるので、本の内容をぼくなりにまとめてみる。安倍首相もねらう改憲となると、9条が問題となる。矢部氏は、改憲派と護憲派のせめぎあいと混乱の中で、9条は1項と2項とを分けて考えるべきだと主張する。

1項は、国際紛争を解決する手段としての、戦争と武力の行使を永久に放棄することをうたったもの。2項は、軍隊の保持と国の交戦権を認めないもの。2項については、自衛隊という世界でも有数の軍隊を日本は持っているので、すでに内部矛盾もあるし、今後アメリカ軍とともに世界中に展開し他国や武装集団と交戦することを自民党は目指しているが、憲法上の規定としては軍隊も交戦権も放棄している。さて、この1項、2項はどのような歴史的経緯から来たものなのか、それを矢部氏は考えるべきだという。もちろん、敗戦後の日本に自分で自国の憲法を決める力もなかったので、アメリカの指示の下で、作ったものだが。

1項は、1928年のパリ不戦条約の流れをくみ、国連憲章の理念そのものとも重なり、悲惨な戦争を経験したした人類の理想があらわされている。今でこそ、アメリカは世界中で戦争を行う巨大軍事国家だが、アメリカの中にもリベラル派がいて、戦争のない世の中を夢見て、自分で憲法を書く力のなかった日本人の憲法の中に、その理想を書き込んだ。フィリピン、イタリアや多くの国にも不戦条項があるし、ぼくは憲法に理想を書き、その国のめざすべき方向を宣言するのは悪くないと思う。ぼく自身も、紛争解決の手段として戦争は選択したいとは思わない。そして、安倍さんや自民党を支持し、安保法案(=戦争法案)に賛成している人も、進んで自ら他国に戦争を仕掛けたいと思っている人は少ないと信じている。

さて、なぜ2項が出てきたかというと、これは日本がもう戦争に確実に負けるということがわかった初期の段階からのアメリカによる戦後処理と世界戦略なのだ。まずアメリカとしては日本やドイツのような敵国がもう二度と自分に刃向かってほしくないし、歯向かわせないようにする。そのために日本を武装解除したものである。そして、軍隊がない日本の安全をアメリカはどうやって守ろうとしたのか。アメリカの構想では、国際連合に軍事権を集めて、有事の際には国連軍が出動して武装放棄した国を守るということだった。しかし、その後国際情勢は冷戦構造になったし、国際連合も、世界の安全を守るために一元的に軍事力を行使するというような理想的な状態ではない。アメリカはずっと日本に駐留軍をおくことになったし、ソ連・中国の共産圏に対抗するためアメリカの指示と許可のもと、日本は再軍備することになった。

矢部氏は、9条を守れというだけではだめで、1項と2項を分けて考えるべきだという。そうでないと、米軍を撤退させることが永遠にできず、日本の主権回復もままならず、人権侵害はずっと続いたままになるという。矢部氏は、アメリカにもリベラル派がいるので、その人たちと結びつくように言う。アメリカの国務省はリベラル派で、占領が終わった時に、日本から軍隊を撤退させようとしたという。というのも、他国を占領し続けるのは軍事的、領土的野心があることを示すので、アメリカが激しく非難していたナチスや日本の軍部と同じになってしまうからだ。もちろん、軍の撤退に反対したのは、右派の国防省であるし、なんと、日本自身でもある、日本自身が沖縄を犠牲にしてもアメリカ軍の駐留継続をお願いし続けたのだという。次回は、天皇制をはじめ、日本がなぜアメリカへの依存から抜け出せず、このような安保体制を形作ってきたかということをまとめてみたい。ちなみに、矢部氏は、このままでは、自衛隊はアメリカ軍に世界中ひき釣り回されることになると主張する。

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2015年9月12日 (土)

災害について考える

このたびの大雨により、宮城県でも堤防が決壊し河川が氾濫した。被害にあわれた方の生活が、一日も早く回復することを祈る。

温暖化の影響だろう。海水温度が高くなっているので、台風の発生とその規模が大きくなっている。今後も、同様な災害が起こるだろう。自然現象だから、それ自体を止めることができないが、準備や避難によって被害を減らすことができる。しかし、今回の体験から避難のタイミング等は難しいということを痛感した。今回のことを記して、自分の今後のためにも、振り返っておこうと思う。

わが家は、広瀬川の堤防のすぐ横に位置しているので、大雨やダムの放流の時には、目の前で水量の増加や濁流を見ることができる。そこで、想像力を働かせて、このごうごうと流れる濁流がもし少しでも堤防を越えたら、あっという間に家は水没するということはわかる。そこで、大雨が降りだしてからは、警戒していた。それに前日で鬼怒川が決壊したというニュースも知っていた。仙台市からの「避難準備情報」はありがたかった。心の準備もできるし、枕元に着替え、貴重品、靴、懐中電灯を置いて寝ることができた。ただ、これは登録をしている人にだけメールで配信される。わが家では、アイフォーンを持っている娘だけが登録をしていて、娘が、その情報を教えてくれたという始末である。これでは、高齢者など、ぼく以上に情報機器に疎い人たちには情報が伝わらない、という欠点があると思う。

夜中に、情報は「避難勧告」に変わった。これは「逃げた方がいいよ」ということだが、次の「逃げなさい」という命令である「避難指示」ではないので、「勧告」の段階では、多くの人はどうしようかと迷うと思う。そこで、ここは各自が自己判断しなければいけないのだが、今回の場合は、夜中に猛烈な雨が降っており、この大雨の真っ暗の中を避難するリスクと、家にとどまり洪水に巻き込まれるリスクを比較・考量しなければならない。もちろん家にいる場合は、なるべく2階などの高いところにいてリスクを低下させる努力もしなければならない。

結局わが家は、夜中に「避難する」を選択したのだが、そうしたのは一つは勘違いもある。市の広報車が回ってきて何か言っていたのを、ぼくは「この地区は避難してください」といっていると思ったのだ。これは、以前の災害の時もあり、今回も多くの人が感じたことだと思うが、大雨のものすごい音の中で、窓を閉め切って家にいれば、広報車が何か呼びかけていてもはっきり聞こえない。市としては、インターネットや携帯がない世帯にも情報を伝えようとしているのであり、そして今思うと、「この地区には「避難勧告」が出ています」とアナウンスしていたのだと思うのだが、とにかくこの声が行動を起こすきっかけになった、という点では市の対応はありがたい。

そして、もう一つの「避難」のきっかけは、この早いタイミングで避難すれば、車に家族を載せ、ずぶぬれにならずに避難所に行けると思ったからだ。車の避難は慎重に考えなければならない。震災の時には、高台に向かう車が殺到し渋滞になりそれで津波に巻き込まれたという事例がある。だから、徒歩の避難が原則だが、今回のような大雨の真夜中の避難というのは判断が難しい。さいわいに、避難する人自体が少なくて、渋滞になることもなく避難所に行けたのだが。

それにしても、今回の大雨で、仙台では避難勧告が出た地域の住民は30万人。まともに、この人数の人が避難したら行くところはあったのだろうか。(避難所で、迎えてくれた市の担当者の方は、本当に大変なお仕事で、感謝に堪えないが。)そして、広瀬川が決壊していたら、これだけの人口密集地域で、どれくらいの被害になったのかということだ。やはり、都市というのは、普段何事もなければ便利で快適に生活できるところであるが、災害に対しては非常に脆弱だと思った次第だ。

以上から、思ったのだが、やはり命は自分で守るという姿勢で、早めに判断することが大事。そして、早めに行動して、あとで、「ああ、何もなかったね。」と笑うことはできるが、その逆はないということだ。こういう災害についての考えを、ぼくに教えてくれたのは、京都在住のフリージャーナリスト守田敏也さんだ。守田さんは、震災以来、被災地の支援をしてくれている方で、精力的にブログやメールマガジンで、防災についての様々な考えを発信している。今後も、自然災害は規模が大きくなり頻発するようになるだろう。加えて、核発電所が、再稼働することにより、人災事故への備えや避難もますます必要になる。守田さんのような人の情報発信が多くの人にも届いてほしいと思う。

内部被曝からいのちを守る なぜいま内部被曝問題研究会を結成したのか

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2015年9月10日 (木)

日本はなぜ基地と原発を止められないのか(その3)

米軍基地があり、日本の領空を米軍機が我が物顔に飛び、日本の民間機が米軍に飛行の許可をもらう、米軍機は日本人の住宅の上を低空飛行訓練をするが、米軍住宅の上ではそんなことはしない、米兵の犯罪に日本政府は手出しをできないなど、なぜこれほどの人権侵害が(核発電事故関連も含めて)行われているのか、その根本を考えるために、矢部氏は日本国憲法の成り立ちを考察する。

安倍首相とその支持者からは、日本国憲法は、押しつけだから変えるべきだとの意見が出されているが、果たしておしつけであるのか?矢部氏の結論は、「押しつけ」である。その理由は、もちろん彼は、ぼくよりはるかに一次資料等にあたっているのだが、簡単に言うと、アメリカにあれだけ徹底的に打ちのめされたあのような敗戦と占領の状況下で、アメリカが書いた憲法の草案に「ノー」などといえるはずがない。そしてもう一つは、これが氏の独特の考察だが、当時の日本人にあれほどの素晴らしい(人権意識等が発達し、人権が守られている)憲法を書く力はなかった、というのだ。それに関連し、矢部氏は、日本人は、社会科学が苦手だと指摘する。法学や政治学や経済学のことだ。ヨーロッパの文明と違って、対話を通して議論を重ね、といったプロセスが(よきにせよ悪しきにせよ)日本には欠けていることと関連していよう。

安保村や原子力村による人権侵害がやまないのは、それらが日本国憲法の上位にあるので当然なのだが、憲法が上位に立てないのは、憲法をめぐる日本人の混乱もあると氏は指摘する。憲法改正論議をめぐって、矢部氏は面白い分類をしている。これはとても参考になり、論点整理に良かった。憲法については今2つの立場がある。

1.押しつけだから変えるべき。

2.押しつけだろうが、内容がいいから変えるべきでない。

1は、安倍首相、石原慎太郎さんなどいわゆる保守派の面々だ。2は、いわゆる平和憲法護憲派で、大江健三郎さん、井上ひさしさんなどが代表だ。

矢部氏は、自らをリベラルの立場でいるという。そして、自民党の憲法改正案は、国民が国家に奉仕することを国の権力者が国民に求める憲法で、およそ信じられないくらい近代的な憲法ではないという。では、2の立場を支持するかといえば、そうではない。理由は、外国の軍隊が駐留しているときに、自国が自国の方針などきちんと決められるはずがなく、自国の憲法、すなわち自国の独立だからである。ドイツも日本と同じ敗戦国だが、占領されているときはあくまで暫定憲法で、独立後に憲法を定めた。フランスにも、外国の軍隊が自国に駐留中には憲法を改正できないとの規定がある。フランスはナチスに占領された。ナチスはフランスに自分の都合の良い憲法を押し付け、フランスを自由に意のままに操ることもできたはずだ。しかし、この規定があれば、外国が押し付ける外国に都合の良い憲法などは無効になるのだ。

では、日本はどうしたらいいのか。内容がいいとしても、本当に日本人の手で発案し作り選びなおさなければだめだという。そうでなければ、本当の民主主義でなく、安倍さんの言う通り押しつけ民主主議であろうし、独立もできない。現在、米軍を中心とした安保村が憲法の上位にあり、人権侵害を裁判所に訴えても、「行政(=安保村)のやることを裁判所は判断できない」という判決が下る。こういう状況を変えて、独立するにはきちんと日本人が自分たちの憲法を選びなおし、独立国家として歩みはじめ、外国の軍隊の国内駐留を拒否することだという。

ぼくは、矢部氏の分類でいえば、上述2の立場だ。アメリカから教わった憲法であろうが、内容が良ければいいと思っていた。そして、いま憲法改正をやれば、安倍さんとその支持者の勢力が強いので、国民の自由が奪われ、安倍さんたち国家権力者に奉仕しなければならなくなる憲法が誕生するのを恐れて、憲法改正には反対しているが、矢部氏の主張には一理あると思う。とにかく、本当の独立への道、人権が保証される自由で民主的な社会、そして戦争や軍隊のない平和な世界へは、困難ないばらの道というのは、確かなことだ。

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2015年9月 6日 (日)

インドネシアのジョコ大統領

インドネシアのジョコ大統領が、日本の高速交通鉄道、つまり新幹線の導入を断ったとの新聞記事が出ていた。国際ニュース面の中では、久しぶりの慶事だと思う。「おまえは、非国民か」といわれそうであるが、インドネシアのジョコ大統領が新幹線の導入を却下した背景は2つだ。

1.中国と日本が売り込みをしていて、どちらかを選べば、どちらかのメンツがつぶれる。大国である中日両国のメンツを守るためとインドネシアのしたたかな外交政策。

2.「高速」は、必要ない。今後インドネシアは「中速」を導入するという判断。

身の丈に合ったというと、失礼になるが、インドネシアの大統領は、インドネシアの国民のためを考えた適切な判断をしたと思う。ジョコ大統領は、自身が貧乏暮らしも体験してきた庶民派だ。だから、こういう判断もできたのだろうし、そういう大統領を選ぶインドネシア国民にぼくは敬意を払う。

日本人の中には、アジアの人に対して「蔑視」する感情を持っている人も多いだろう。特に、中国や朝鮮に対しては、抜きがたい差別意識があると思う。でも、ぼくはアジアの人たちの尊敬するべき部分は尊敬すべきとおもうし、日本の方が学ぶべきことは多いと思う。たとえば、このインドネシアが加盟するアセアンには外国の軍隊は駐留していないが、地域的な経済・安全保障協定で、世界の中で独自の存在感を出している、尊敬すべき人たちだ。

ぼくは、日本自身が、もっと身の丈に合った生活をしていくべきだと思うし、そうしたい。だから、「大国意識」とか「おれたちは進んでいるんだ」という意識丸出しで、新幹線とか核発電を、他国に輸出するのはやめてほしいと思う。これから日本はますます人口も減少し高齢化も進み、地方は衰退していくと予想される。だからこそ、核発電などのプラント輸出で、日本の繁栄を確保するというのが、現在の日本の指導者の方々の方針なのだろうが、果たしてそれで、日本人どの部分の人たちが幸福になるのだろう。安倍首相の経済政策が始まってから、庶民の生活は苦しくなる一方だと思うのだが。

ぼくの考えは、非常に内向きに聞こえるかもしれないが、少子化・高齢化・地方衰退の問題は日本が変われる(変わらざるをえない)前向きにとらえるべきとてもいい機会だと思うし、もしこの問題に対処して、地方ごとに自然環境に負荷をかけない持続的な経済を作り上げ、人々がそのなかで幸せに暮らすことができるようにしたのであれば、それは世界の他の国や人類史に対して、日本人ができるものすごい貢献であるし、日本の独自性と存在感を世界の中で高めるこれ以上のことはないと思う。

グローバル時代のアジア地域統合――日米中関係とTPPのゆくえ (岩波ブックレット)

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2015年9月 5日 (土)

日本はなぜ基地と原発を止められないのか(その2)

矢部宏治氏の著作からの続き。矢部氏が疑問を持った人権侵害を調べていくと、米兵の治外法権から、日本上空の制空権まで、すべて米軍に握られていて日本に主権がないということがわかった。それは例えば、米軍のヘリコプターが沖縄国際大学に墜落してあわやの大惨事になった時も、米軍が駆け付け、日本の警察や消防を現場に近寄らせなかったことでわかる。日本には、事故の原因を調べる主権もなく、事故機の残骸はアメリカが持ち帰ることができる。

日本は飛行機を飛ばすにもアメリカの許可がいるが、アメリカは自由に日本上空に飛行機を飛ばしてよい。それは、我々ヤマトが沖縄の人に押し付けている沖縄だけの特殊事情でなく、ヤマトの首都東京の上空もそうなのだ。だからアメリカやCIAの工作員は、誰からも制約を受けず勝手に日本に入ってきて、東京の六本木の会議場に行けるという。

それは、日米地位協定をはじめとする不平等条約や、日本の官僚や政治家がアメリカと結んできた数々の密約のせいなのだ。

民主党の鳩山政権が、沖縄の米軍基地を県外に移設しようとして、その段取りをして官僚を集めたら、たちまち官僚が造反し、アメリカに情報を流して、鳩山さんを退陣に追い込んでしまった。なんでそんなことが可能かといえば、日本には憲法以上の、憲法の上にあるものが存在するからだ。官僚は、忠実に「強いものに仕える」という自分の義務を果たしているだけで、そうすることで己の地位を保全し繁栄することができるのだという。憲法に上位するもの、それは当然、米軍やアメリカ政府、日米安全保障条約、日米地位協定である。憲法に上位する者たちが真の日本の支配者で、その支配集団と利益集団を矢部氏は、「原子力村」になぞらえて「安保村」と呼ぶ。原子力村よりもはるかに強固で、利益も莫大だという。

これで、なぜ、日本では、憲法で保障された人権が守られず、これほどまでに人権無視がまかり通るのか、その謎がわかったと矢部氏は言う。憲法は、日本では最高の法律ではないからだ。(次回は、「憲法」の成り立ちについて)

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2015年9月 4日 (金)

日本はなぜ基地と原発を止められないのか。(その1)

日本はなぜ基地と原発を止められないのか。これは集英社から出版されている矢部宏治氏の本の題名だ。福島の核発電所の事故以来、核発電と沖縄の基地、そして、この夏はこの国の歴史と戦争について、大いに考える機会を得た。ただ、考えてもなかなか事実に基づいた思考はできなかったかもしれない。そこで、たいへん話題になった本ではあるが、矢部氏の著作を購入し読んでみた。もちろん、矢部氏のこの本の内容、大いに気に入らない、という人も多いだろうし、書いてあることなど信用できないという人も多いだろう。しかし、矢部氏は、きちんとアメリカで公開になった日米関係の公文書などに目を通しているし、日本の憲法の起草にかかわった人などにもインタビューしている。安倍さんが目を通していないといった『ポツダム宣言』や、国連憲章などにも目を通している。少なくとも、ぼくなんかよりはきちんと事実に基づいて思考していると思う。そこで、ぼくは矢部氏の考えに全面的に賛成するわけではないが、矢部氏の議論は、戦争法案を考える上でも、戦争法案後の今後の日本の方向を考える上でも、有用だと思う。そこで、読書の備忘録としても、自分自身が内容を咀嚼するうえでも役立つと思うので、矢部氏の著作の重要な個所をまとめてみたいと思う。

矢部氏の問題意識はまず、こうだ。なぜ、日本では、基地問題にせよ、原発問題にせよ、これほどのめちゃくちゃな人権侵害がまかり通るのか。両者における、憲法を無視した、めちゃくちゃな人権侵害、それはぼくも、大いにその通りだと思う。基地においては、土地を無理やり接収され、交通事故でも強姦でも米兵が起こした罪を日本が裁く権利はなく、うやむやのまま犯罪者が米国に帰国できる。基地が集中する沖縄の人たちがずっと味わってきて今も苦しんでいる苦しみだ。核発電事故では、もちろん居住する土地から立ち退かされ、逆に健康で安全に暮らす権利をないがしろにされ放射線管理地域と同じ高線量のところに我慢して住めと放っておかれ、健康被害も無視される。実はこの本、核発電はほとんど考察されていないのだが、両者に共通の人権無視や人権侵害がどこから来たのかを考察するところからスタートするのだ。(次回に続く)

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