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2015年8月 7日 (金)

塚本邦雄「茂吉秀歌「赤光」百首」

前衛歌人の大家である塚本邦雄氏が、これまた日本近代短歌の大家、根源であると崇め奉られている斎藤茂吉の短歌を百首取り上げ、鑑賞・解説してくれる。一人では短歌など読むだけの意気地がないというか、意味が解釈できる自信がない自分としてはこういう指南書はありがたい。だが、もちろん大家どうしが、しかも他流試合といってもよい毛色が違う歌人がぶつかり合う真剣勝負なのだから、気軽な茂吉入門書とももちろん違う。斯界の最高の一戦が見られる価値あるチケットを手に入れた幸運な観客として、大いに楽しませてもらった。

茂吉は東北に縁の深い人だ。山形出身で、いま奥羽本線に「茂吉記念館前」なる駅さえある。茂吉の息子は仙台で医学の勉強をし、仙台にちなんで『北杜夫』という筆名を持っている。茂吉の歌は教科書でおなじみで、ぼくも何度も目にしているので、意味はそう深くわからなくても、その調べやそこから感じられるものが良くて好きな歌も多い。「死に近き母の添い寝のしんしんと遠田(とほだ)のかはず天に聞こゆる」「のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にいて足乳ねの母は死にたまふなり」「みちのくの母のいのちを一目見ん一目見んとぞいそぐなり」茂吉が母の危篤の報に接して養家から山形に帰省して歌ったものは特にいいと思う。だが、これ以外の歌をぼくはよく知らないのだ。

ぼくの中では、茂吉といえば「万葉調」「アララギ」「写生」というイメージしかない。塚本氏は、流派が違うこともあり、そこにどんどん食い込んでいくし、神と持ち上げらた「偶像」を壊そうとするその筆致や口調は時に辛辣だが、観客席から見ればこの試合は熱い。例えば、こんな感じだ。「古事記写しは懲りすぎて、作者や一部の人が陶酔するほどには感動を呼ばぬ。日常茶飯事の報告を「写生」と心得ているようなたたごとうたは、茂吉にとっても唾棄すべきだったろうが、こういうできそこないのゴシック建築めいた、言葉だけ荘重で無内容な歌も、時の浸食に合えば残骸をさらすばかりだ」と、手厳しいが、決してただの悪罵だけではなく、塚本氏は、何よりも茂吉の短歌を愛して理解している人であると思う。例えば、「たとえ荒唐無稽のそしりを受けようと、貝類の化石が深山の岩から掘り出されるその感動と、恋心のほとばしりを強引に一如とした、作者一流の勇み足に、私は脱帽している」

塚本氏は最後にこの本を書いた理由をこう書いている。「人々は茂吉の、一見難解で、一読非情な作品に、いつとは知れず魅せられ、ついにはこれの擒となる。詩歌とは畢竟そのようなものだ。そしていま私は、「そのような」不思議を解明してみたいと思った。…私は別の角度から茂吉の歌を照射し、その秘密に肉薄したかった。それはそのまま、短歌を含めた日本の詩歌のあるべく姿を求めることであり、滅びてはならぬ美の典型を記念する道にも繋がろう」そう、短歌なんてものは、古くて、無用なものなのかもしれない。その伝統の短歌を、戦後華々しく登場し「前衛」という形でぶち壊そうとしてきた塚本氏が、実に実に、その大いなる伝統を愛惜しているのである。すべからく、伝統の美とはそのようなもので、そのような形で引き継いでいかなければ、本当の意味で日本の伝統の美を愛していることにならないのではないか、と感じさせられた。さあ、今度は、塚本氏をはじめとする、戦後の前衛短歌群を読んでみたい。いい本はないだろうか。

茂吉秀歌『赤光』百首 (講談社学術文庫)

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