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2015年8月30日 (日)

いま角田の子がすごい

宮城県角田市。宮城県の南部に位置する。いま角田市の小学生がすごい。連日、河北新報の投書欄に彼ら・彼女たちの意見が掲載されているのだ。投書はおそらく200字から300字くらい。この短い中で、起承転結を整え、自分の考えを相手にきちんと伝える。考えること、書くことを通して、基本的な論理思考力を鍛えるとてもいい訓練だ。国語だけでなくすべての教科の基礎となる思考力を培い、その後の人生でも長く基盤を作ってくれる。

この背景にはおそらく角田市に優れた教育実践家がいて、その方の指導なのであろう。以前、大崎地区の高校生の投書が連日掲載されたことがあり、たまたま訪れた大崎地区の高校の校長先生とお話したら、その方が指導しているとのことだった。角田の小学生にしろ、大崎の高校生にしろ、文章の内容は立派だ。設定したテーマに対して、客観的に分析し、自分の考えを堂々と述べている。こういう実践を続けていけば、数年後、角田市は県内で一番学力が高い地区になるだろう。

文章を読み、書き、それを基にまた考えて書くというのは、論理的に思考する基礎力をつける。学校を卒業し大人になっても、そういう基本的な力がついていれば、自ら新しいことを学び、自分で道を切り開いていけると思う。国語だけでなく、算数や数学を学ぶことというのも、基本的には同じこと、つまり長い目で見て人生で必要になる思考力や粘って考える力、最後まであきらめないでやり抜く力等をつけることにあると思うのだが、川内核発電を再稼働させた鹿児島県知事が、「女には三角関数は必要ない」と発言したと報じられている。

この方は、以前「たとえ国民全体が反対しても、正しいことは一人の判断で決めてやる」と発言されたとも報じられている。直接、存じ上げているわけではないが、家父長的なお考えをお持ちの方で、女・子ども・わけのわからないことを言って核発電に反対する奴らは思考力の足りないかわいそうな奴らだから、代わりにこちらで判断してやる、それが奴らを守る、奴らにとっても最良の方策だ、という明治民法的なお考えの持ち主なのかもしれない。

「女に三角関数」の発言はさすがに批判されたようで、「日常生活で、三角関数なんて使わない」という意味で言ったことだと訂正したと報じられている。さて、文系人間のぼくも、福島核発電所の事故後は、数学・物理・科学のことを学びなおそうと努力してきた。そして、核発電をはじめ、日常生活を支えているすべての科学技術が数学や物理・化学の原理の応用でないものはないということにあらためて気づいた。核発電の仕組みや発電施設の設計、強度や事故防御の設計にどれだけ数式や数学・物理のこれまでの蓄積が使われていることか。数学・物理がなければ核発電どころか、私たちの日常生活は一切存在しないくらいだ。ところが、現代の科学技術の問題点というのは、その中身がわからない、つまりブラックボックスになっていることで、そこで、鹿児島県知事のように、日常生活で数学は不要という、考えになってしまうのだ。

こういう恐ろしい思考の方が川内核発電所を推進する責任者なのだ。福島の事故後はもう二度と同じ事故はあってほしくない、ほかの人にもこういう苦しみは味わってほしくないとぼくは願っているが、福島の事故でだれも責任を取らず、誰も罰せられることがないから、鹿児島県知事も気楽なのだろう。川内核発電所は、技術的な欠陥も指摘されている。このままではまた悲劇が繰り返される。

希望はないのだろうか。あるとしたら、世代の交代だ。日本人は自らが変わるのは苦手だ。さらにアメリカの占領状態が続いているのでアメリカの意向に逆らって大きく変わることはできない。ただ確実に言えることは、時代が変われば確実に、いま力を持っている人たちは歴史の舞台から退場する。明治維新をはじめ、歴史の転換点というのは、権力を持っていたがゆえに変化を拒否した人たちの没落と、権力のなかった新しい人たちの台頭だ。そこで、期待するのは冒頭で述べたような、きちんと論理的思考をして、自分の考えを述べることができる角田の子供たちのような若い世代だ。

東京が壊滅する日――フクシマと日本の運命

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2015年8月27日 (木)

ジェーン・エア

イギリスのブロンデ姉妹の傑作小説『ジェーン・エア』と『嵐が丘』を岩波文庫で読んだのは、もうかれこれ30年前だ。どちらもとても面白く、読み始めたらやめられない、むさぼるように読んでしまった。それにしても姉妹でこの才能、イギリス文学、いや世界文学に名前を残すのだからすごいと思う。それで、ぼくの方は大変記憶力が悪いので、話の細部はすっかり忘れてしまったのだが、印象に残っているのは、小説の舞台となるイギリスの風土。ヒースという小灌木しか茂らない荒れた土地で、(アジアモンスーン地帯の日本人にはそういうイメージ)、雨が降ったり嵐が来たり天気はいつも曇っていて荒れている、それがすっかりぼくのイギリスに対するイメージとして定着してしまった。そして、そういう荒涼とした土地で繰り広げられる異常な愛憎劇。というのが、ぼくのブロンデ姉妹の小説に対する印象だ。

異常というのは、アブノーマルな愛というのではなくて、情念が濃いのだ。日本の近松浄瑠璃のウエットな心中劇とももちろん違う、イギリスの荒涼とした隔離された土地での、曇りがちな天候のもとで繰り広げられる情念の濃い人たちの愛憎劇なのだ。果たして、ブロンデ姉妹の体験談が反映されているのかどうかはわからない。そして、30年ぶりにぼくが『ジェーン・エア』に出会ったのは、2011年イギリス・アメリカ合作で日系人のキャリー・ジョージ・フクナガ監督の映画作品。映画のいいところは、ぼくが頭の中で想像していた、ヒースの生い茂る荒涼とした土地の風景が、映像で見れるところ。これがそうなんだという感慨があった。

映画を見ていて思ったのは、これは一種の女性の自立の戦いでもあるということだ。時代はエリザベス朝時代だ。今のように女性が外に出て働ける仕事があるわけでもない。そんなときに、女性が自立できる仕事といえば家庭教師だ。貴族の家で住み込みで働くのだ。しかし、そういう家庭教師のような職業婦人は、働かなくてもいい身分の同じ女性からも嘲笑の的になるのだ。主人公のエアは、自由や自立についてしっかりした考えを持っている。そういうかわったところに、ロチェスター氏も引かれる。主人公のエアは、小説の中でも、そんなにきれいでない普通の容貌の女性ということになっている。よく、日本の少女漫画などもそういう設定で、多くの少女たちの願望を反映しているが、実際映画になると「可愛い」女優さんが演ぜざるを得なくなり、そこに違和感がある。だが、映画ジェーン・エアでは、その普通の容貌という微妙なところを、ミア・ワシコウスカがとてもよく演じていたと思う。きれいに見えないような髪型にいつもしているということもあるだろうが、とても存在感のあるいい女優さんだった。

さて、結末は意外な展開、ドラマが待っている。昔本を読んだストーリーはすっかり忘れているので、この意外な展開も映画で十分堪能した。ロチェスター氏は失ったものがあるが、それで得たものがある、そういう象徴的な結末だった。

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2015年8月24日 (月)

この国を守るのは

戦争法案反対のビラまきを街頭で行っていると、賛成派の人に詰め寄られることもある。「敵が攻めてきたとき、あんたたちどうするんだ?」。多分、この方が想定しているのは、中国や北朝鮮が攻めてきたらということだろうし、そしてわれわれ護憲派が一番誤解されるのは、9条護持派は日本が侵略されれば、無抵抗で降参して敵に国を明け渡す思慮も勇気もない奴らだと思われていることだ。

中国や北朝鮮との間に、日本は問題を抱えている。原因は相手方にだけあるのでなく、公正に見れば、こちら側にもある。戦争をあおる勢力がいてお互いにエスカレートして、もし戦争ということになり、他国軍が日本に攻めてくれば、その時はまず自衛隊がいるのだから、自衛権を発動すればいいのではないかとぼくは考える。自衛隊の人は入隊するときに、憲法を護持して専守防衛にあたると宣誓しているし、万が一というときは自衛のための戦争はする覚悟でいるだろうから、自衛隊の人にまずは、戦ってもらっても、悪いことではない。

この前の街頭宣伝で詰め寄られたときは、「あんたは、戦わないのか?どうするんだ」といわれたので、「全員で、守るんですよ」と答えた。「安保法案に反対してるくせに、国なども守れるか?」というその人に、まず自衛隊がいるし、自衛隊の戦力は世界で有数なのだから、万が一攻められたときは、自衛隊が対処できる。そして、日本政府が戦前、宣伝していたように、侵略戦争を正義の戦争と言いくるめるのなら別だが、情報などを総合的に判断して、どう考えても相手の理不尽な攻撃であり、日本の独立と安全が脅かされると思えば、自分も銃をとる(=反撃する、ということだが)と答えた。そこで、「そうか、あんたも銃をとるのか」ということで、握手して物別れとなった。

ただし、訓練をしていない素人が、戦争の道具を持っても扱えるはずがないし、足手まといになるだけである。だから、政府やプロの軍隊に自分たちの安全をお任せするというのが、今度の安倍首相の戦争法案だが、ぼくが反対してるのもその点だ。平和を構築し、この日本の独立を守るのは、日本国民全員の義務であり、政府や軍隊に一括委任し、国民は何も知りませんではないだろうからだ。戦争法案賛成の人に聞いて見ても、まず、戦争そのものを望んでいる人はいなくて、平和を望んでいる。賛成派も反対派も両方「平和」を欲しているのだが、その方法が違うのだ。平和を目指し独立を維持するのは、全員の義務だとぼくは思うが、もちろん全員が自衛隊に参加する必要はないわけで、平和を構築し日本の安全保障を高めるのは、何も軍事力増強と米軍への追従ばかりでないということだ。日本国民がそれぞれの方法で、中国や朝鮮半島の人たちと個人的に仲良くなることだって、個人的なつながりの束が大きくなれば、馬鹿にできない安全保障網となるだろうし、現に行っているように、アフガニスタンでの農業支援や民生向上への協力、パレスチナへの援助などといったことも、まわりまわって、日本の安全保障環境を大きく向上させ、日本が戦争や侵略の標的になることを防ぐ力になるのだ。ぼくは、こういう総合的な安全保障政策をとるべきであって、これこそが言葉の正しい意味で「積極的平和主義」だと思うのだが。

ところが安倍さんの提案する安保法案は、アメリカが地球の裏側で勝手に他国に戦争を仕掛けても、日本の自衛隊員がそのために命を投げ出さなければいけないし、総合的に見たら日本の安全保障環境は低下する、と考えるのでぼくは反対している。それに、街頭宣伝中に話をする賛成派の人たちは、やはり自分たちも平和のために何かするというよりは、いざとなったら政府や軍隊が自分たちを守ってくれると考えている人が多い気がする。日本政府が本当に自分たちを守ってくれるだろうか?ましてアメリカ政府やアメリカ軍が?戦前、満州で開拓団が軍隊からおきざりにされたのは事実だし、戦後の政府も、例えば原発事故や水俣病のようなときに、棄民政策をとったし、いまもとっている。緊急事態の時に、本気で守ってもらえると考えているのだろうか。

「日本はなぜ基地と原発を止められないのか」(矢部宏治)を読むと、沖縄の米軍基地のまわりで低空飛行などの軍事訓練をするのは、もちろん沖縄の人、つまり日本国民が住んでいる住宅の上空でのことであり、米軍住宅の上ではやらない。自国民にはそんな危険な目にも合わせられないし、当然アメリカの法律がそんなことは禁止しているが、飛行機が墜落して事故があっても、死ぬのが日本人であるのはかまわない。かほどに、独立を取り返し維持するのは難しい。矢部氏によれば、これはアメリカの悪意というより、日本の政治家や官僚がそうなるようにしたということだが、上述したように、独立を守るのは、すべての国民の義務なのだから、政治家や官僚だけを責めるわけにいかない。

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2015年8月21日 (金)

「サウンド・オブ・ミュージック」

家族でミュージカルの鑑賞会を開く。というのも、吹奏楽部所属の娘の演奏に少しは役に立つのではないかと考えるからだ。音楽は、もちろん「技術」という面もあるだろうけど、人生で経験してきたことの重みによる「表現力」というのもあるのではと思う。しからば、名画鑑賞で情操を豊かにすることも演奏にいい影響が出るのではと思ってだ。娘の中学校の吹奏楽部、県大会には行けるのだが、その上の東北大会がいつも、あと一歩が及ばない。今年は、ぼくもライバル校の演奏も聞いて、絶対に娘の学校の方がよかったと思ったのだが、東北大会に行ったのはライバル校の方で、納得がいかない。

さて、どうせ鑑賞するなら古典、絶対にはずせない名作「サウンド・オブ・ミュージック」。ぼくも、中学だがその前だか後だが、学校の芸術鑑賞会で映画館でこれを見た。その時は、高原でジュリー・アンドリュースが子供たちにドレミの歌を教えるところ、そして最後のアルプス越えで家族が逃げていくところ、くらいしか記憶になかったのだが、あらためて見ると、トラップ家の長女の恋のエピソ-ドや、トラップ大佐との恋の当て馬になる男爵夫人の登場と、よく作りこんである話だったのだということに気付き、まるで初めて見たような感動を味わった。これも記憶力が悪いおかげだ。昔は、白黒だったと思うが、今は技術が進んで総天然色になっていて、昔の映画ということを全然感じさせない。

ジュリー・アンドリュースの生き生きとした演技は、今見ても素晴らしい。もちろん、音楽もいい。ジュリー。アンドリュースが、途中、自信をなくしてトラップ家の家庭教師をやめて、修道院に戻ってくると、院長さんが「あの山越えて」を歌って、ジュリー・アンドリュースを励ます。その同じ歌が、最後のアルプス越えのところでもまた歌われるという、内部のつながり具合も、あらためてよくできた映画だと感心させられる。ナチスの侵略や全体主義に対抗して、オーストラリアへの愛国心が、トラップ大佐の口から「エーデルワイス」の歌で歌われる。この歌は、そういう文脈のものだったということに気づかされる。全体主義という政治状況は決して過去のものではないし、強国に媚を売り手先になるものがいるのも変わらない状況だ。大国にならなくていいから、自国の文化に誇りを持ち、独立を保持する、そういうオーストリアの生き方には学ぶところがあるのではないかと思った次第だ。ただし、この映画はアメリカの制作だから、ナチスの描き方をはじめ、政治的な宣伝も多少はあるのかもしれないが。

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2015年8月20日 (木)

欲望という名の電車

テネシー・ウイリアムズの原作の戯曲を1951年にエリア・カザン監督が映画化したものを見る。ブランチ役のビビアン・リー、スタンレー役はマーロン・ブランドだ。マーロン・ブランドは若い。でも、暴力的で粗野な若い夫役が似合っていた。後年、ゴッド・ファザー役のあの渋い演技と同一人物だとはじめは気づかなかったが、あとで配役を見てへえーと思った次第。あの、はっきりものを言わない、モノを噛んだみたいなしゃべり方は若い時も変わらない。

今度は原作も読んでみたい。人間模様が言葉で表現される名作。映像の作品ですら、ブランチのセリフは聞きどころだった。女優さんであれば、誰もがブランチに挑戦してみたいだろう。

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2015年8月16日 (日)

戦後70年に思うこと-備忘録

安倍首相の戦後70周年記念談話について思うことを、メモしておく。「戦争に無関係な若い世代がいつまでも謝罪し続けることがないように」。とは、ぼくもその通りだと思う。今の10代、20代の若者は、日本軍の残虐行為や、指導部の失敗については、何の責任もないのだから。しかし、一方で、安倍さんと安倍さんを支持する人たちが推し進めている歴史認識と、それが組み合わさった時のことをぼくは懸念する。今の若い人たちが、やがては政治や国民統治のリーダーだったり、企業や経済のリーダーになったりする。そして、そういう人たちが、世間話にせよ、韓国の友人と話をしたりすることもあろう。そんなとき、安倍さんが勧める育鵬社の歴史教科書で育って来ている将来のリーダーが、韓国の友人に向かって、「えっ、日本おかげで、韓国は2流国を脱して、近代的制度を整え、鉄道も敷いてもらい、社会の近代化が起こったのじゃないの?」と言ったらどうだろう。

確かに、日本の植民地支配でそういうことが起こったと科学的にも客観的にも言えないことはないのかもしれないが、少なくとも、韓国の人たちが歴史で教わっている植民地支配の、屈辱や、差別、文化・民族的アイデンティティの危機ということとは異なるし、何より、韓国の人たちの国民感情とは大いに異なる。これでは、隣人と永遠に和解することも、過去を乗り越えて新しい関係を築くことも、できない。事実かどうかということも大切だろうが、人間の「感情」の部分は絶対にバカにできず、不合理ではあるが、人間の行動や言動を大きく支配する。日本人が、原爆や空襲、無益は作戦のせいで近親者が玉砕したことにより、戦争はもうこりごりと無意識に、集団的な感情を抱いているように、韓国や中国の人は、日本の侵略はもうこりごりと、感情的に思っているのだ。だから、そこに触れるのは、一番嫌がるし、基本的に相手が嫌がることを私たち日本人はするべきでないと、ぼくは思う。

若い人たちには戦争を起こした責任はない。だから謝罪の必要もないだろうが、それは、日本が過去の加害者としての歴史も若い人たちに、国としてきちんと教えて過去の歴史と向き合っているという姿勢を示すことが必要だと、ぼくは思う。もし、日本が韓国や中国と入れ替わって、被害者の立場だったら、相手が過去を反省し、二度と同じことをしないという姿勢を示すのでなければ、安心して付き合おうという気持ちは起こらず、疑心暗鬼になるだろう。相手のことを信頼出来て、もう昔のように軍部が独走して、自国が攻められるという懸念が本当になくなれば、「あなたのことは信頼できるから、過去のことは過去のこととして、これからのよりよい関係を考えていきましょう」ということができる。だから、安倍さんの戦後70周年談話は、安倍さんの歴史観を考えれば、ぼくは評価できなかった。

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2015年8月14日 (金)

「高校数学でわかるマクスウエル方程式」

講談社から科学をわかりやすく人々に届けるという趣旨でブルーバックスという文庫本がシリーズで出ている。身の回りには、おびただしく科学技術が応用され、われわれは便利な生活を当たり前と思っているが、その原理を知らないのはもったいないではないか。もちろん知らなくても、生活に支障はないが、知ればそれだけ知的に豊かになれる。核発電所の事故を機に、元素、放射線というようなことが、決して自分たちとは無縁のことではないと悟ったので、講談社ブルーバックスシリーズをことあるごとに手に取っている。

さて、竹内淳氏著の「高校数学でわかるマックスウエル方程式」は、「電気」と「電磁波」に興味があるので読んでみた。電気については、核発電所にこだわる会社からは電気を買いたくなく、できればいつか自給をしたいと思っていること、電磁波は放射線と性格が似ているので、放射線をより深く理解するための一助と思ってだ。竹内氏は、なるべくわかりやすく電気や電磁気について教えてくれる。本当は、昔学校で習ったのだろうが、すっかり忘れている。なるべく難しい数式を使わずに、そして微分や積分が最低限出てくるが、それも丁寧に、そもそも微分とはどういう考え方なのかというところから教えてくれる。

数式が苦手なので、マックスウエルの方程式4つを言葉で説明してみる。

1.クーロン力。つまり電荷をもった物体同士の間に働く力の関係。

2.電磁誘導の法則

3.磁石のN曲とS局は必ずペアである。

4.電磁石を表すアンペールの法則。つまり電流が磁界を生み出すということ。

電気を作り出すには、2と4を応用してやればよい。磁石の間でコイルを回転させてやれば、電流が生じるのだ。これが発電機の仕組みで、どうやってコイルを回転させるかといえば、例えば、熱い蒸気を勢いよくかけてやる。これは核発電でも火力発電でも同じことだ。核発電を推奨する人たちによれば、仕組みは同じでも核発電の方が圧倒的にコストが安いのだそうだが。

目に見えない電気が生み出す力も確かに存在してそれが生活の中に応用されている。科学の夢は、この世界の自然現象をすべて統一的に映しい方程式で説明することだ。ほうとんは、文系のぼくはこういう割り切れる世界はあまり好きではないのだが、でもブルーバックスシリーズを読んでいるうちに、科学者や技術者の心情もなんとなくわかるようになってきたし、やはり科学的思考の普及はぜひ、必要だと思う。科学的思考は偏見をなくすと思うからだ。今、世界がこんな風に分断され、我々は自分たちの偏見を偏見とも思わず、しがみついている。50年後、100年後の科学的思考がもっともっと浸透した世の中の人が、私たちを見て、あの時代の人はあんなことを頑迷に信じていたんだよ、と笑ってくれたらいいと思う。

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2015年8月13日 (木)

春香伝

知らないことが、相手に対して不信感や恐怖感を生む。地理的に一番近くに住んでいて、容貌、外見もそっくり、言葉も世界で一番近い、でも、人の気風(きっぷ)は全然違う。韓国・朝鮮の人たちにもっと興味を持ったらどうだろう。朝鮮半島ではおそらくいちばん有名な物語、映画にもテレビドラマにもなって、おそらく韓流ブームの中で目にした人も多いはず。「春香伝」を、岩波文庫で読んでみた。

物語は、両班時代の李氏朝鮮。妓生の娘春香と両班の息子李夢竜との恋物語。身分違いの恋だが、途中で邪魔が入る。日本で言えば、悪代官が登場し、春香に迫る。春香は、固く節操を守り、悪代官を退け、めでたく若様と添い遂げ、二人幸せに暮らし、子孫も繁盛という結末。

こう書いてしまえば、どこがこの話面白いのかと、疑問もわく。一つには、この春香伝は、語り物としてパンソリなどで歌われたので、その口調やリズムが素晴らしい。日本で言えば、「平家物語」の名調子だ。春香が、悪代官に牢にとらえられ、むち打ちの刑を受け、それでも節義を曲げないところでは、一つ笞を打たれるごとに、それを数え歌で、返す。「一つ打たれて一心、人にささげしこの体…」「二つ打たれて二夫にまみえぬ、古き教えを使道知らずや…」翻訳をした許南麒氏の苦労で、原文のリズムが、日本の読者にも伝わってくる。この文庫本には大変有益な解説も付されているが、それによれば、漢文中心の李朝時代に、ハングルという国語を表す文字が既にあったとはいえ、貴族階級の両班からは馬鹿にされ見向きもされなかった時代、この春香伝は、韓国・朝鮮文学の一つの頂点・達成点をなすのだという。

女性が男性に節操をささげるというのは、いかにも儒教道徳めいて古臭いが、実は主人公の春香は、身分制度やなんやら不自由な封建時代にあって、体制から強制された意志をはねのけ、個人の自由や意思を表明している。16歳の少女がである。それが、長く「春香伝」が、朝鮮の民衆に愛されてきた理由である。また、悪代官は当然最後は懲らしめられ、それが民衆のカタルスシとなるのだが、それは、李氏朝鮮の儒教道徳でしばりつけられた体制の中で、横暴を働く官吏らに対して、農民や民衆側からの反抗であると言う。そのような、流れが、李氏朝鮮末期の東学党の農民反乱や、日本からの独立運動にもつながっていくのであろう。巻末の解説は「春香伝」の文学史的意義や歴史的意義も教えてくれて、たいへん有益である。

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2015年8月12日 (水)

アラヤシキの住人たち

フォーラム仙台で「アラヤシキの住人たち」が上映中。長野県の山の中に共働学舎というところがある。名前の通り、いろいろな人が共に働き、暮らしていくところだ。自然の中なので、農業を中心としている。自由学園の教師だった、宮島さんが始めたところだ。映画は、その共同学舎での生活を、これも自由学園にゆかりのある本橋さんという映画監督が、記録したものだ。

北海道にも、共同学舎があり、宮島さんの長男が代表をしている。長野の共同学舎は、宮島さんの次男が代表をしている。北海道の宮島さんの著作『みんな、神様を連れてやってきた』を読んでいたので、前から共同学舎には、興味を持っていた。

映画を見に来ていた、年配のおばあさんたちにとっては、「昔は、こういう生活をしてたんだよね」と懐かしい気持ちで見ていたのだろうか。ぼくには、こういう農的な生活を映した映画を見るのはつらいし、見なければよかったという気持ちにも少しなった。こんな自然に恵まれたいい生活も、ひとたび核発電が爆発すれば、根こそぎなくなるんだということが、つい頭にちらついてしまい、ここ長野の安曇野の一番最寄りの核発電所はどこで、何キロくらい離れているのだろうかと、つい考えてしまうのだ。

映画で描かれていた命の尊さも、もうしわけないが、ぼくには演出臭が鼻について、いい感じはしなかった。というのも、自然の中で暮らしていれば全部当然のことばかりで、わざわざ強調するまでもないと思ってしまうのだ。こんな風に、ひねくれたことを書くのは、ぼくが悔しいからだ。映画の中で、確かに命は輝いていた。でも、ぼくにはその命の輝く場がなくなってしまい、目に見えない灰色の粉が降り注いでいる現実しか、ぼくのまわりにはないように思えるからだ。

宮島さんたちの共働学舎が、まねできないほど偉いと思うのは、「包摂」の精神を実践していることだ。異質なものを受け入れると口では言っても、実際そうなればとても大変だ。でも、共同学舎の精神は「包摂」であり、葛藤をしながら受け入れている。(その葛藤も映画では描かれる)。そこは根本に、キリスト者としての心があるのだろう。ぼくはキリスト者ではないが、彼らからその精神は大いに学ぶべきことがあると思う。ぼくも、口先だけで安倍さんや自民党政治を批判していないで、この競争的な経済体制の中で効率が悪いと切り捨てられる人、成果が達成できないと切り捨てられる人、そういう人たちを包摂できる、それだけの人間にならなければ、批判する資格もない。

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2015年8月11日 (火)

選挙権

先日の仙台市議会議員選挙の投票率は30パーセント台。ここ5年くらいの宮城県の国政・県政の首長・議員選挙の投票率も軒並み悪い。7割近くの人が、選挙権を放棄している。今度は、県議会選挙の投票があるが、このままではまた低投票率が続くだろう。投票しないということで、与党自民党・公明党への支持を表明しているのだから、投票率は問題はないと、考える向きもあるだろうが、投票権放棄には、もっと別の問題があるということを知らされた。

教えてくれたのは、大阪の釜ヶ崎で活動をしている人だ。震災と核発電所の事故のあと、関西の人とありがたい縁ができた。私たちは、選挙が近づけば、自然と投票権が送られてくると思っていないだろうか。そして、宮城県では、せっかく送られてきた投票権の7割がくずかご行きとなっているのだ。だが、投票権が送られてくるというのは、住所があり、住民登録をしているからであって、もし、住所と住民登録がなければどうなるだろうと、考えた人はいないだろう。ぼくもそうだ。

ところが、大阪の西成のような日雇い労働者の町では、野宿をしている人も多いので、住所や住民登録がないという人も多い。そこで、日雇い保険などの行政上の手続きのため、便宜上ある住所に住民登録をしておいた。だから、同じ住所に1000人とか、2000人になったわけだ。そこで、行政が職権で住民登録を抹消し、この人たちは、選挙権がなくなったわけだ。このことを、大阪の人に教えてもらって、曲がりなりにも、民主主義が定着していると思った日本で、基本的な人権である選挙権を、剥奪されて生きている人が存在するという事実はショックだっだし、そういう事実を今まで知らないで生きてきた自分の無知も情けなかった。ちなみに、この住民票の職権抹消が行われたのが、第1次安倍内閣の時だったというのも、何か象徴的なような気がする。

もちろん、同じ住所に何千人の人が住民登録をしているのは異常だ。そして、登録をしていても実態がない、ある政党の投票への動員や不正選挙のために利用されているなどの批判もあり、抹消されて当然という見方もあるだろう。そこで、情報を教えてくれた大阪の人は、選挙権を住所と結びつけるのでなく、人と結びつけることを提案している。行政上・物理上、実現は難しいかもしれないが、理念的には、基本的権利は、どのような性別・門地・家柄・財産・思想信条とも関係なく、個人に属するものなのだから、ぼくはこの人の考え方に賛成だ。

さて、大阪の人が教えてくれたもう一つの大事な問題は、選挙権を奪われて生きているのは西成の人たちだけではないということだ。在日外国人にも、選挙権は与えられていない。在日外国人に選挙権を与えないことに賛成する人の考えに、彼らは本国のスパイだからという考えがある。日本の国益を考えて投票するのでなく、彼らの本国(多分、中国や北朝鮮が想定されていると思うが)に利益があるような人、つまり日本を売り渡すような主張をする人に投票するから、という考えがある。ぼくは、この考えに反対だが、千歩譲ってこの考えを受け入れたとしても、この考えは国政選挙では、ありうるかもしれないが、身近な課題を決める、地方選挙では当てはまらないと思う。だから、地方選挙では、在日外国人の投票する権利を擁護したいと思う。

在日外国人の選挙権問題は、大阪だけのことではなく、全国の自分たちの身近にたくさん実例があるはずだ。ぼくの身近にも、日系人で、日本人の奥さんと結婚して日本に居住して日本で働いて、消費税をはじめ市県民税もたくさん納めているのに、選挙権がないという人がいる。日系人だから、容貌は全く日本人なのに、義務だけは強制されて日本人と同じ権利は奪われているというのは、一種、不思議な感じさえする。

私たち日本人は、権利の上に眠っている。せっかくの権利も行使を放棄している。いつ、「いらないんだったら、職権で抹消しときますね」という時代が来るとも限らない。まずは、身近な宮城県議会選挙で権利を行使することだ。そして、自分たちの権利を守るには、無権利で苦しんでいる人たちの権利の回復や擁護に関心を持ち、彼らのために行動することだ。権利は、一番弱いところから、簡単に奪われていく。そして、順番的には、次は私たちの権利が奪われる番なのだから。

在日外国人 第三版-法の壁,心の溝 (岩波新書)

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2015年8月 7日 (金)

塚本邦雄「茂吉秀歌「赤光」百首」

前衛歌人の大家である塚本邦雄氏が、これまた日本近代短歌の大家、根源であると崇め奉られている斎藤茂吉の短歌を百首取り上げ、鑑賞・解説してくれる。一人では短歌など読むだけの意気地がないというか、意味が解釈できる自信がない自分としてはこういう指南書はありがたい。だが、もちろん大家どうしが、しかも他流試合といってもよい毛色が違う歌人がぶつかり合う真剣勝負なのだから、気軽な茂吉入門書とももちろん違う。斯界の最高の一戦が見られる価値あるチケットを手に入れた幸運な観客として、大いに楽しませてもらった。

茂吉は東北に縁の深い人だ。山形出身で、いま奥羽本線に「茂吉記念館前」なる駅さえある。茂吉の息子は仙台で医学の勉強をし、仙台にちなんで『北杜夫』という筆名を持っている。茂吉の歌は教科書でおなじみで、ぼくも何度も目にしているので、意味はそう深くわからなくても、その調べやそこから感じられるものが良くて好きな歌も多い。「死に近き母の添い寝のしんしんと遠田(とほだ)のかはず天に聞こゆる」「のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にいて足乳ねの母は死にたまふなり」「みちのくの母のいのちを一目見ん一目見んとぞいそぐなり」茂吉が母の危篤の報に接して養家から山形に帰省して歌ったものは特にいいと思う。だが、これ以外の歌をぼくはよく知らないのだ。

ぼくの中では、茂吉といえば「万葉調」「アララギ」「写生」というイメージしかない。塚本氏は、流派が違うこともあり、そこにどんどん食い込んでいくし、神と持ち上げらた「偶像」を壊そうとするその筆致や口調は時に辛辣だが、観客席から見ればこの試合は熱い。例えば、こんな感じだ。「古事記写しは懲りすぎて、作者や一部の人が陶酔するほどには感動を呼ばぬ。日常茶飯事の報告を「写生」と心得ているようなたたごとうたは、茂吉にとっても唾棄すべきだったろうが、こういうできそこないのゴシック建築めいた、言葉だけ荘重で無内容な歌も、時の浸食に合えば残骸をさらすばかりだ」と、手厳しいが、決してただの悪罵だけではなく、塚本氏は、何よりも茂吉の短歌を愛して理解している人であると思う。例えば、「たとえ荒唐無稽のそしりを受けようと、貝類の化石が深山の岩から掘り出されるその感動と、恋心のほとばしりを強引に一如とした、作者一流の勇み足に、私は脱帽している」

塚本氏は最後にこの本を書いた理由をこう書いている。「人々は茂吉の、一見難解で、一読非情な作品に、いつとは知れず魅せられ、ついにはこれの擒となる。詩歌とは畢竟そのようなものだ。そしていま私は、「そのような」不思議を解明してみたいと思った。…私は別の角度から茂吉の歌を照射し、その秘密に肉薄したかった。それはそのまま、短歌を含めた日本の詩歌のあるべく姿を求めることであり、滅びてはならぬ美の典型を記念する道にも繋がろう」そう、短歌なんてものは、古くて、無用なものなのかもしれない。その伝統の短歌を、戦後華々しく登場し「前衛」という形でぶち壊そうとしてきた塚本氏が、実に実に、その大いなる伝統を愛惜しているのである。すべからく、伝統の美とはそのようなもので、そのような形で引き継いでいかなければ、本当の意味で日本の伝統の美を愛していることにならないのではないか、と感じさせられた。さあ、今度は、塚本氏をはじめとする、戦後の前衛短歌群を読んでみたい。いい本はないだろうか。

茂吉秀歌『赤光』百首 (講談社学術文庫)

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2015年8月 4日 (火)

戦争に行きたくないのは利己的な理由か?

自民党の国会議員の先生が、戦争法案に反対する若者に対して、「戦争に行きたくないから反対するというのは、利己的な理由だ」との意見を表明した。ちょうど、ドーキンスの「利己的遺伝子」を読んだばかりなので、ぼくもこの件に関して思うことがある。

生物学的・進化論的にいうと、生物の最大の本能と欲求は自己保存であろう。つまり、死にたくない、あくまでも生を求めるというのが基本的な生物の欲求で、人間から他の生物までなに一つと変わりはしない。(そんな中で、数が増えすぎたレミングという動物が集団自殺をするのは、進化論的にどう説明できるのか、などというのは純粋に学問的に興味があるところだが、そのような事例は今は置いておく)。自民党の武藤議員に言われるまでもなく、ぼくが戦争法案に反対する動機で一番大きいのは、自分は弱虫なので、戦争に行きたくないという、利己的な理由であるし、その次は、できれば自分の子供たち、そしてその次には、自分の甥っこや姪っ子や、親せきなど身内、血のつながりを重視して、そういう人たちが戦争に巻き込まれてほしくないという理由であるし、その次にできれば同じ日本人の若者が戦争で死んで欲しくないという利己的な理由である。武藤議員が指摘するまでもなく、日本からごくごく遠いどこかで、日本とは一切かかわりの持たない国同士が戦争をしていても、それに反対するデモが日本の国会前では起こらないだろう。戦争に反対する、一番の原動力は「利己的遺伝子」のなせる業だと思う。

それで自民党武藤議員が、その利己性を否定するというのであれば、彼の主張は、「利己を捨てて、国家に命をささげろ」ということになるのだが、実際彼のブログなどを見るとそういう考えの方らしい。武藤議員は安倍さんを強く支持する人だと聞く。だとすると、安倍さんの戦争法案の本質は、「自由や人権を国内で制限し、国に命をささげる兵士を養成し、世界中どこでも自由に戦争できる」国にするということになるのではないか。安倍さんは、こんなの左翼プロパガンダ(=流言・蜚語)と言って否定するが、左翼どころかごくごく普通の感覚の人でも、そういう怪しい本質に気付くから、街頭に出て声をあげる人もいるのだろう。

国民の自由を制限し、国民が国家のために奉仕する、というのを理想的な政治形態だと考える人もいるし、その考え方自体の存在を禁止するつもりはないし、もちろんぼくにはそんな権力もない。だが、今度の戦争法案は、「日本国家」に奉仕するのでなく「アメリカ国家」に奉仕するのであって、その点は、愛国を自任する安倍さんや自民党の先生たちはどうなのだろう。また、ぼくたち庶民が「利己的」におそれているのは、戦争となれば、死ぬのは庶民だけだということだ。藤島議員は若いのだから、国際貢献のために率先して自分がまず最初に前線に立って銃をとってくれるのだろうか。とても、庶民の目線からは、そんなこと信じられないのだ。安倍さんをはじめ、支配者層は常に安全なところにいて、自分の生命は保全しようとする。満州国が瓦解し、ソ連が進行してきたとき、軍は国民を守らなかったし、真っ先に撤退した。もっと早く連合国に降伏していれば、無駄な犠牲を出さずに済んだのに、軍は最後まで戦うという判断ミスを見通しのなさを示した。今度、戦争になれば、そんなことにはならないと安倍さんは言うかもしれないが、庶民が利己的な自己保存の本能から恐れ、戦争法案の中に嗅ぎ取っているものは、先の戦争と同じように、自分たちだけが殺されるということだ。この夏の戦争法案は、支配層から戦争を強制される側の「利己」と庶民に戦争と忠誠を強制する支配層の「利己」、つまりエゴとエゴ、利己的遺伝子と利己的遺伝子との戦いということだ。

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2015年8月 3日 (月)

リチャード・ドーキンス『利己的遺伝子』

いつか読みたいと思っていたこの有名な本を読んでみた。この本は「生物学」や「進化論」のジャンルの本であるが、読みたかった理由は、ぼくの社会学的な関心にある。ぼくが思うに、現在の安倍首相のような社会政策、それはさかのぼれば自民党政権の小泉首相や竹中大臣、もっとさかのぼれば中曽根首相や、サッチャー首相、レーガン大統領らの、「新自由主義」政策、つまり市場経済の万能を信じるグローバル経済礼賛派が推進し、いまも推進している政策だが、この政策の淵源にはいくつかの思想的背景があるだろうが、その一つがこの「利己的遺伝子」なのではないかと考えたからだ。ぼくは、安倍首相が目指しているような社会は、住みにくい社会だと思って反対している少数派に属する人間だが、相手をただ否定するのではなく、せめて相手がなぜそう考えているのかが知りたい。

『利己的遺伝子』が社会に与えた衝撃は、人間は遺伝子を載せているただの乗りものに過ぎない、遺伝子が盲目的に目指しているのは自分の複製をいかに数多く世界に広めるかということだけだ、という考え方だ。この「利己的」という衝動的な言葉が、一人歩きをし、誤解を与える。例えば、自分が会社の経営者になれば、コストを抑える方法として従業員は賃金の安い非正規労働者を使うのが得なのであり、それがいかに道徳的な考え方や社会政策的な観点か間違っていても、利己的遺伝子が自分の得になるように命じることを、乗り物に過ぎないからだ=人間のほうは拒むことができない。というような考えを流布し、それを支持する道具に使うことが可能なのだ。ドーキンス自身が出版30周年記念版の叙で書いているが、この本を読み「利己的遺伝子」の帰結する無残な世の中に衝撃を受けた女子学生が泣きながら自分の教師に訴えたのだそうだ。すると教師は、この本のことは絶対にほかの学生に言ってはいけない、と口止めしたのだそうだ。中世の悪魔関係の本と同様な扱いだ。

だが、これは筆者も書いている通り、「誤解」なのだ。この本は、純粋に生物学的・進化論に関する本で、人間の道徳や社会政策については扱っていない。そして、30周年記念版では、人間は文化があるから、遺伝子が命じる利己的影響を矯正できると書いてあるし、何より、生物の間で、「共生」「協力」「互恵」が広まっているのはなぜかということを、利己的遺伝子という考え方に基づきながら説明している。筆者は、本の題名をもっと他のものにしたかったといっているが、このインパクトがある題名だからこそ、こんなにも売れたし、こんなにも影響が大きかった。もしこれが、もっと違う題名であったら?純粋に、生物学的、進化論的な学問の本ではあるが、人間社会のありさまにも大変示唆を与える内容を含んでいる。ダーウィンの「進化論」がそうだったように、いいものはその分野だけに限定された狭い思考の枠組みではなく、もっと大きな思考の枠組みを人類全体に与えてくれるのだ。

ぼくが、興味を持ち、ここで紹介したいのは以下の考え方だ。今、ある種の中に2種類の性質をもつ者がいる。相手に出会ったら必ず攻撃を仕掛けるものと、争いを好まず相手に出会ったらしばらくにらみ合ったのち撤退するものと。前者を便宜上「タカ派」、後者を「ハト派」と呼ぶ。筆者は、ここでしつこく、これは人間社会、特に政治とは無関係だと念を押す。ぼくも、安倍首相や自民党とは無関係だと念を押す。さて、この生物種の中で、どちらがたくさん生き残り、どちらがたくさん子孫を残せて、そしてこの種は種全体として「タカ派」と「ハト派」のどちらに傾くだろうか。ぱっと考えると、喧嘩の強い、「タカ派」ばかりが生き残り、「ハト派」は駆逐されてしまうと思うだろう。だが、数学的に計算しても、そして自然界の観察や実験の結果は違うのだ。それはなぜかというと、タカ派でいることは、相手も傷つけるが自分も傷つける。タカ派がハト派に出会ったときは、絶対にタカ派が勝つが、タカ派がタカ派に出会ったときは、どちらも引かないから致命傷になる。そうなれば生存の可能性と子孫を残せる可能性も低まり、必ずしもタカ派は有利ではないのだ。今は大型コンピューターで様々な前提から出発して、膨大な計算結果を得ることができる。そうしたシミュレーションによると、進化論的に安定した割合というのは、ハト派8分の5、タカ派8分の3なのだそうだ。新自由主義者が信奉しているように、強いものが必ずしも勝つわけではないのだ。

もう一つ、社会的にも影響あることとして紹介したいのは、「互恵主義」の発展についてだ。市場万能主義を信奉する社会・経済政策には互恵主義が入り込む余地はないが、進化の世界ではどうだろうか。動物の世界ではおたがいに「毛づくろい」することが大切だ。というのも、毛づくろいによって、自分の手の届かないところにいる寄生虫をとってもらえて、感染症の危険が低下し、生き延びる確率が高くなり、子孫を残し遺伝子を伝える可能性が高くなる。今ある種の中に、相手から毛づくろいしてもらったら相手にもしてやる「協力」タイプと、相手からしてもらっても相手にはしてやらない「裏切り」タイプの2種類がいたとしたらどうだろう。やはり、ぱっと考えれば、「裏切り」タイプのほうが得をする、つまり相手にしてやるエネルギーと時間を自分が生き残るための資源獲得に振り向けることができるから、と思えるが、やはり先ほどと同じで、必ずしも「裏切り」タイプが有利となり、裏切りタイプの遺伝子が種全体に広まるわけではない。そして、ここで面白いのは、「ゲームの理論」を援用して、それぞれの個体がどのような戦略をとったら有利で、どのような割合で子孫を残して、種全体がどのような傾向になるかをシミレーションしたことだ。それによると、相手と出会ったとき、相手が「協力」タイプか、「裏切り」タイプかわからないけれど、とにかく最初にこちらから「協力」してやるタイプが一番良いと。そしてさらに興味深いのは、相手が「裏切り」行為をした時の戦略だ。裏切られたときに報復するのではなく、相手の裏切りを水に流して忘れてやるタイプが一番良いと。人間の直観にはそむくが、理論的にはそうなるというし、何よりドーキンスはもともと動物学者なので、豊富な観察例を持っているし、さまざまな論文や報告に目を通してのことだ。このあたりのことも、人間社会には非常に示唆的だと思った。

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2015年8月 2日 (日)

仙台市市会議員選挙

宮城県や仙台市では、震災の影響で統一地方選挙からの日程がずれて、今日が市議会議員選挙の投票日となった。地方こそ民主主義政治のためには、政治・議会・代議員が民主的な機能を果たすことが大事だ。そして、地域にはその地域特有の問題もあるし、地域の政治的動向が、国政にも影響を与えると思っているので、今日の市議会選挙は大事な政治的イベントだと思うのだが、残念ながら投票率は30%くらいが予想される、市民には関心の薄い出来事となっている。民主主義の解体と崩壊は、こういうところから始まるのかと思い、とても残念だが、とりあえず、自分の考えは表明しておこう。(たとえ、あとで検閲にあって逮捕されようとも)

地方では、自民党と公明党の強さが際立つ。その強さは2つの面に表れている。一つは、いま選挙に立候補する人がいなくなっていて、無投票で議員や首長が決められることが多くなっている点において。こういう状況で、議員を出し続けることができるというのは、日本の隅々まで張り巡らされた保守的な地盤が盤石だということの表れだろう。もう一つは、低投票率において。学問的には、低投票率で必ずしも彼らに有利にならないとする研究や主張もあるようだが、ぼくの印象では低投票率で、圧勝するのは自民党や公明党が際立っていると思う。

地方議会の問題点。学生だってそうだが、きちんと勉強してないと、質問なんて出てこない。きちんと勉強しているからこそ、疑問点が浮かび、質問が出るのだ。地方の議員は、勉強不足で知識がなくまともな質問もできないと、報じられるが、残念ながらそれに当てはまる人が多いと思う。するどい質問ができないから、行政も緊張して仕事をする必要がなく、結果として血税が本当に効率的に、使われるべきところに使われていないような気がする。

高齢の男性議員が多い。そして、そういう人たちは短期的な視点しかどうしても持てない。つまり、短期的に利益が自分および支持者に配分されればいいという考えに傾く。ぼくが期待するのは、若い人、女性だ。だから、そういう視点で、ひっそりとしてだれも来ていない今日の投票所に足を運んだ。より若い人は、将来がより長いのだから、長期的な視点でものを考え、判断してくれるだろう。例えば、短期的には核発電が金になったとしても、長い目で見て廃棄物や環境汚染、子や孫に与える影響を考えて判断してくれると期待するからだ。女性にしても、彼女たちは、絶対におじさんとは違った視点で世の中を見て感じて判断してくれると信じている。

かくいう私もおじさんなのだが、生物学的に見ても、おじさんというのはいちばん価値がないのではないだろうか。その無価値を補うため、一生懸命何かほかのことにすがらなければいけない哀れな存在なのかなあ。まあ、政治に魅力を感じなくさせて有権者の足を投票所から遠のかせているのは、おじさん議員たちのせいということは少なくともあると思う。そうだといって、ベテランの価値をぼくは認めないわけではない。野球の話で言えば、楽天の松井稼頭夫を選手をぼくは大応援している。若い選手では足下に及ばない活躍と貢献をチームにしてくれている。だから、中年以上の男性というのはどういうところで社会的な貢献をしていけばいいのか、おじさん議員たちと一緒にぼくも考えましょう。

殺すな、殺されないために!: 6月21日、戦争立法に反対する学生デモ(京都市)スピーチ集

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