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2015年7月29日 (水)

西谷修氏の論考を読む

河北新報に定期的に掲載される西谷修氏の「論考」を読むことを楽しみにしている。氏の論考からは、現代の日本を見る有益な視点が得られる。7月23日付の論考の内容はこうだ。

戦争法案に対して、憲法学者が違憲だと述べたことに対して、安倍政権は「憲法を解釈するのは学者ではない。学者の解釈では国が守れない。時代の要請に従って時の政府が解釈する」と主張する。この主張から、政府は憲法などお飾りに過ぎないとみなしていることがわかるが、それではなぜ、憲法を改正するといっているのか、その矛盾を西谷氏は指摘する。自分たちに不都合な憲法は無視するが、都合のよい憲法なら押し付けたいという意図が見えるとし、それは「国民が国家や権力に奉仕することを義務付ける」自民党憲法改正案に見て取れるという。

安倍さん率いる自民党政権が目指す、日本の姿はどのようなものか。それは、大学へ日の丸・君が代を押し付け、まともにものを考える人間は必要な荷のだから、人文系の学部・大学院を縮小し、政権批判をすれば「売国奴」とののしられ、効率優先を疑うなら「経済成長の邪魔者」と排除される社会だ。

国家権力が「公」を占有し、政権のいうことが正しく、つまり「首相のおれが言うのだから正しい」のであり、そこから外れるものは偏っていて、無責任だとレッテルを張り規制取り締まりの対象とする。このような安倍さんの姿勢を氏は指摘し、これを規範の乗っ取り、私物化と指摘する。強引な金融政策で株価だけを釣り上げておいて、貧困や窮乏は放置され、若者は未来を思い描けない。社会は疲弊している。そうした危機を自ら作っておいて、対外的な危機をいたずらに強調し、戦争ができる体制づくりに血道を上げていると、氏は安倍自民党政権の本質を指摘し、その論考を締めくくる。

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2015年7月26日 (日)

暑い夏

暑くなってくると、テレビや新聞でも戦争特番が組まれたりして、自然と先の戦争のことや沖縄戦のことを考える機会も多くなります。第2次世界大戦、太平洋戦争、日中戦争のことになると、おのずから日本人の中でも、考え方が割れているようです。ぼくは、安倍さんの歴史観や戦争観を知りたい、理解したいと思うし、安倍さんを支持する人たちのものの考え方も知りたいと思う。そこで、例えば、ツイッターで安倍さんや自民党をフォローすると、安倍さんや自民党の考えを表示してくれるだけでなく、その考えに近い人たちを、お勧めと言って勧めてくれる。インターネット、ツイッター、アマゾンも皆そうだが、そうやってインターネットユーザーの思考を分析して、そのユーザーが気に入りそうな情報がすぐ目の前に触れるように提供してくれる便利なプログラムが仕込まれているのだ。

インターネットを駆使することで、現代の人は昔と比べてはるかに物知りで、世の中のことを何でも知っているように錯覚しているが、実は、知っているのは自分に近い考えの人ばかりで、本を読んで深く本質的に考えることなどできていないのだ。結局テレビを見ているのと同じで、考える力は退化して、考えられなくなる。

さて、安倍さんや自民党をフォローする。コンピューターがお勧めの人を紹介してくれる。例えば、公園は閉鎖してホームレスが夜寝られないようにするのは当然という意見を持っているような人を勧めてくれるので、その人たちをフォローして投稿を見ている。大体その人たちの、戦争法案に反対している人たちへの考えはこんな感じだ。「愛とか平和とか甘ったるいことを言うな」「中国が攻めてきたらどうする」「現実の脅威に対抗するには軍事力しかない」「左翼は現実を見ていない」「左翼はデモなどをする暴力的な人たちだ」

さて、一応ポーズの上では平和を目指している安倍さんと、安倍さんに反対して真の平和を目指している私たちと、どちらが現実的で、どちらが戦争を抑止し、どちらが平和を構築できるのか。実際に歴史が動いて、戦争、はたまた平和の継続が起こってみなければわからないが、安倍さんが歴史を捻じ曲げても戦争を引き寄せようとしてるので、こうなってはどちらの立場が戦争に、はたまた平和に寄与したのか、はっきりわからなくなる。

ちなみに、漫画家のちばてつやさんは戦争法案には反対の立場のようで、7月23日付の河北新報に意見が掲載されている。日本は憲法によってもう戦争にはかかわらないと世界に約束し、それが世界に浸透したから尊敬を集めている。今更、戦争ができる『普通の国』になって戦争の手伝いをするのではなく、紛争がやめられない国々の仲介役が似合っていると、ちばさんは言っている。憲法については、安倍さんをはじめ『こんな情けないものはないから、変えろ』という立場ももちろんある。ぼくは千葉さんと同じで、世界で築いてきた信頼を大事にして、戦争と人殺しに手を染めているアメリカにはできない、平和的な立場で世界に貢献することは、決して甘い夢ではなく、むしろ現実的な立場だと思うのだが、そこが甘ったるいのだろうか。

さて、みなさんもぜひ安倍首相や自民党をツイッターでフォローしてください。

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2015年7月22日 (水)

カジョリ『初等数学史』

数学など嫌いだった。なぜ、数学なんてものが役にたつのか、わからなかった。日常生活では、せいぜい買い物の計算ができればいいだろうし、入試で問われるから仕方なく勉強するのだから、その面白さはわからなかったし、試験が終わればそんな知識はすぐ忘れ去られてしまうわけだ。

だが、そういう態度、つまりはわからないことは専門家に白紙委任するという態度こそは、原発事故を生んだわけで、けっきょく、そういう無知・怠慢は全部自分に降りかかってくるわけだ。おそらく、戦争なんてものもそうで、政治家の先生にさえ任せておけば大丈夫という態度が一番危ない。

高度な数学がなければ、物理学は発達しなかったわけで、原爆も原発もなかった。だから、数学や物理、化学のことを少しでも知ろうと、震災と原発事故以来努めている。カジョリの『初等数学史』は、20世紀の初頭のアメリカ人教授によって書かれた古い本で、翻訳が出たのは1920年代。でも、その翻訳を作った日本人がいたというのは、明治以来の西洋の学問を受け入れてきた日本人の苦闘の歩みを示してもいる。古い本だから、最新の現代数学の流れまではもちろん取り込んでいないが、人類の数学に対する取り組みが概観できる。これを読めば、やはり、数学なんて何の役にも立たない、なんてうそぶくことが、いかに無知かということがわかる。

古代メソポタミアから始まって、エジプト、ギリシャ、ローマと人類の数学の歩みが書かれている。10進法、12進法、60進法がどのように生まれたのか。各々の古代民族は、どのようなことにたけてどのような数学的な貢献を人類にしたのかが書かれている。残念ながら中国や日本についての記述がないが、それは20世紀初頭の書物ゆえ、東洋の事情は詳しく知られていなかったのだろう。抽象的な数学的思考はギリシャ人が優れていた。ピタゴラスやユークリッドが登場する。一方、ローマは実用的なことたとえば建築や軍事は優れていたが、数学的な思考ではほとんど評価できないとカジョリは断を下す。そして、0の概念の発明がいかに素晴らしいことであったか、そのインド人の数学的才能を評価し、彼らの数字が世界中に広まっていったことを述べる。(誤って、アラビア文字、と呼ばれているが)。今、カジョリが生きていれば、インドの発展を見て、なるほどと納得するであろう。

ヨーロッパが暗黒時代に入っていた間の、イスラム文化の発展を彼は正当に評価する。ギリシャの思想的遺産を保持し発展し、ヨーロッパに渡したのはイスラムなのだ。ユークリッド幾何学の原本をヨーロッパ人は、アラビア語から翻訳して手にしたのだ。こういう、東西文化交流はもっともっと強調されてもいい。政治家は、外国の脅威をやたら煽り立て、戦争を志向するが、日本だって中国や朝鮮半島との文化的・人的交流がヨーロッパとイスラムとの間の比ではないくらい蓄積しているはずだ。

ルネサンスに入り、ヨーロッパは再び輝きだす。だが、数学の歴史は遅々としている。今日われわれが当たり前と思っている±=などの四則演算の符号やルートや比の記号がどうやって今日のような形になってくるのか、その苦労をカジョリは教えてくれる。そして、人類がマイナスの数の概念や割り切れない数字=無理数や少数以下の数字に苦闘してきたことも教えてくれる。

近代に入ると、数学界の綺羅星のような名前が羅列される。ニュートン、デカルト、ライプニッツ、ラグランジェ、フーリエ、ラプラス、オイラー、コーシー、ケプラー、パスカル、カルノー、リーマン、アインシュタイン、カントル、ヒルベルト、ポアンカレ、クロネッカー、ペアノ、ガウス、テイラー、デデキント、ド・モアブル、ハミルトン、ボイル、マックスウエルなどなど。初等数学史なので、業績の詳しい解説はないが、人類5000年の数学との苦闘の歴史を概観できる。

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2015年7月16日 (木)

華氏451

フランソワ・トリュフォーがこんな映画を作っていたなんて。トリュフォーといえば「突然、炎のごとく」のような恋愛映画だと思っていたが、近未来SF映画も撮っていたのだ。「華氏451」が、チネ・ラビータでやっている。フォーラムとチネ・ラビータはこういう面白い企画をやっている。文化や映画の多様性を守るためにも、こういう面白い企画をする希少な映画館も大切だ。何しろ、思想や政治、思考や意見の多様性は、いまの日本では急速に失われつつあるから。

さて、映画の内容もちょっと空恐ろしい。この未来の架空の国では、本は一切読んではいけないのだ。密告された人の家に、消防士が向かい、家のあらゆるところに隠されていた本を摘発し、火炎放射器で焼く。本を読めない人たちは、何をしているかというと、テレビが発達していて、人々は主にテレビを見ているのだ。もちろん、そのテレビの内容は、人々の思考をコントロールするために巧みに作られていて、テレビから話しかける人物が押し付ける考え方に同意するようにされてしまうのだ。そして、そのうち昔のことが思い出せなくなったり、感情が乏しくなったりしてしまうのだ。

もちろん、こんなことおかしいと思って、本を大事にして読み続けようとする人たちもいる。こういう人の家には、屋根にテレビアンテナはたっていないので、近所の人からは変わり者と思われてしまう。仲間たちの秘密のリストや連絡先を作って、地下活動をし、摘発されそうな人には、当局よりも早く連絡して逃がすようにしている。ちなみに、この国のテレビアンテナは、「一つの方向」に向いていて、電波を受信するようになっている。これも、どこかの国の今の状況を示唆しているようで恐ろしい。

この本好きの人たちは、当局の圧制を逃れて、廃線の奥にある森の中で、コミュニティを作って暮らし始める。本を持っていることを摘発されないように、一人一人が分担を決めて、本を暗記する。そして、死ぬときは、それを次の若い人に暗唱して、暗記させて受け継がせていく。人々は覚えている本で、自分を紹介する。例えば、「私は「高慢と偏見」です」と。このシーンは、実際笑った。双子の兄弟が、上巻と下巻で分けて暗記しているのだ。そして、陰で兄が「高慢」で弟が「偏見」だとからかわれているのだ。

SF映画だけど、やはりヌーベルバーグの旗手らしく、おしゃれな映画だ。焚書をしに消防隊が出かけていくのは、まるでサンダーバードが出撃するみたいにかっこいい。消防隊の衣装も、家や部屋の中のデザインもおしゃれで、昔の映画とは思えない。1966年の映画だそうだ。

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2015年7月15日 (水)

吉田松陰

徳富蘇峰の史論「吉田松陰」を読む。幕末の志士の言行・思想を知りたいと思うのは、安倍政権や自民党政権のことを、もっと理解したいとの思いからだ。ぼくの偏見(=偏った知識や思い入れ)からすると、「幕末の志士大好き」→「司馬遼太郎の坂の上の雲大好き=日清日露戦争の勝利のころの日本が最高だ」→「第二次世界大戦は自衛のため、そしてアジア解放のための戦争だ」→「慰安婦は存在しないし、南京大虐殺もない」→「東京裁判は勝者の押し付けであり不当。憲法も外国からの押し付け」という、思考なのではないかと思うので、まずは原点である幕末の志士を詳しく知りたいと思うのだ。

現に、軍艦島をはじめ三井・三菱の炭鉱や工場などの世界産業遺産登録は、安倍首相が「これは、坂の上の雲物件だ」と言って、強く推進したという。明治のころの富国強兵政策で世界に伍していくときの古き良き時代、軍人が理不尽なことを言っても威張っていられた時代が、帰るべき時代として安倍さんには理想の時代として映っているのだろう。もちろん、安倍さんの祖先は山口出身。長州出身の乃木大将をはじめとする、明治の元勲とそれに連なる祖父・父の政治家を慕う気持ちも大いに働いているのだろう。

さて、徳富蘇峰の「吉田松陰」は、漢文交じりの擬古文の古い文体で書かれているが、松陰の思想や生涯を知るには大いに役にたった。わずか30年という短い生涯の中での、挫折の連続の人生が生き生きと活写されている。松陰は、のちに追随者によって「神」に祭られてしまったが、人として欠点も多かったということもはっきり書いているし、かえってそれが松陰という人物の本当のところをわれわれに感じさせる。このような短い、革命家として生きた激しい生涯の中で、妹たちを思いやって出した手紙は、本当に松陰の人間味を感じさせる。(かといって、NHKの大河ドラマはぼくは見ない。)たった、2年半という「松下村塾」時代で、教え子たちに強力な印象を与え、その後の生き方を変えさせてしまったのは、教育者としても、革命家としてもすごいと思う。そして、牢屋につながれ、処刑をまつ日々の中で書かれた「留魂録」の死生を見極めた澄んだ心情は、人間としても立派だし、尊敬に値する。

だが、松陰の思想が、明治に、特に長州出身の明治政府のリーダーたちに与えた影響は、良くも悪くも大きい。松陰は、すでに黒船がきて日本が開国するかどうかてんやわんやだった時代、南洋や大陸に進出して、朝鮮や満州を侵略すべしといっている。(岩波文庫版116ページ)。それで、ぼくは松陰のそういう思想を責めようとしているのではない。時代的な制約で仕方なかったのだ。徳富蘇峰のこの史論でいいと思ったのは、江戸末期の黒船が来た前後の社会・政治状況も分析しているところだ。欧米列強の軍事力は圧倒的で、何もしなければ、清国のように欧米に侵略されるということを、当時の目覚めた人たちはよく知っていた。それに個人として、国家として、どう反応・対応したかということだ。(公平のために書いておくが、松陰は開国後に外国に若い人を視察に出すことなど、先駆的なこともすでに言っている。こういうことも結局開国後実施されることになるのだから、先見の明がある)

ぼくが、安倍さんやその支持者の方々にも読んで知ってもらいたいのはジャレット・ダイアモンドの「銃・病原菌・鉄」で述べられていることだ。この本の表題の3つのものが、欧米が世界を制覇できた要因だというのだ。この本では、いかに欧米人が世界中で圧制や大虐殺を起こしてきたかということがよくわかる。こんな野蛮な欧米人に江戸末期・明治の人たちは、立ち向かわねばならなかったのだから、おのずと選択肢も限られる。こうなると、安倍さんをはじめとする人たちが、第2次世界大戦は正義の戦争で、東京裁判はインチキというのも、少しわかる気がする。だが、徹底的に欧米の罪を追求せずに、アメリカのために日本の若い人たちの血が流されことを推し進め、美しい沖縄の自然を差し出すという志向が今度はどこから、出てくるのか。次は、そのあたりの思考回路が理解できるよう、ぼくももっと研究を進めていきたいとおもう。

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2015年7月12日 (日)

カンタ・ティモール

東ティモールの独立運動に取材した「カンタ・ティモール」というドキュメンタリー映画。知っている人がいい映画だと言っていたので、前から見たいと思っていたところ、宮城で上映を企画してくれた若い人たちのグループがあり、やっと見ることができた。ティモール島は16世紀にポルトガル人に占領され、その後オランダ人がやってきて、インドネシアの大半を植民地とした。その際にティモール島は分割され、西はオランダ領に、東はポルトガル領となり、第2次世界大戦のときは、日本軍が全島を3年半占領した。日本軍敗戦後、インドネシアは、旧宗主国のオランダから独立を勝ち取り、ティモール島はインドネシア政府によってインドネシアに統一された。とここまでは、歴史好きのぼくも知っていたし、東ティモールでは、その後独立運動が続いていて、ようやく1999年に独立を勝ち取ったというのは、ニュースでぼんやりと知っていた。

映画は、広田さんという若い女性が東ティモールを訪れ、ギターを抱えて歌を歌う青年と出会うところから始まる。(「歌」は、すなわち「カンタ」。この映画の題名の由来である)広田さんは、そのメロディーに感激し、その歌詞の意味を探ろうとする。そこから、24年間にわたる独立の苦難を、いま生きている人が語っていき、我々は東ティモールで起きたことを知る。インドネシア政府は、東ティモールの独立を許さない。軍隊を送り込み、苛烈な弾圧をする。殺人、拷問、レイプ、焼き討ち、あらゆる戦争犯罪が行われ、東ティモールの人々はものすごい人数の人が殺される。たいていの人が家族、親せき、友人をこの期間に無くしているし、自分たち自身も肉体的にも精神的にも深く傷つけられる。

ぼく自身の無知が恥ずかしかったのは、この戦争でインドネシア政府を支援したのが、日本政府だということだ。どうやら残虐的なことが行われているらしいと、東ティモールの人たちがようやく国際社会に向かって訴えかけると、国連はインドネシアへの、非難決議をする。その非難決議に反対票を投じ続けたのが、アメリカと日本である。ヨーロッパ諸国が、インドネシア政府に圧力をかけ、経済援助を減らせば、その分日本政府は経済援助を増額してインドネシア政府を後押しする。日本の政府と企業が援助という名目で「開発独裁」を支えていたとは知っていたが、まさかこんな形で、東ティモールの人を苦しめていたとは。

だが、森にすむ精霊を信じる東ティモールの民から、日本人が学ぶべきは、ここだ。圧倒的な武器の優位性を誇るインドネシア軍に対して、東ティモールの人たちは森の中に入りゲリラ戦を仕掛けた。そして、インドネシア軍の兵士をとらえることがあれば、自分たちがなぜ、なんのために戦っているかを話してやって、そのままインドネシアの兵士を返してやったそうだ。それは一つに、インドネシアの兵士たちも、ただ上の人の命令で来させられて、上官の命令で戦わされているだけで、「同じ人たちだ」という意識があったからだ。こうして、インドネシアに帰った兵士の中に東ティモールに対するシンパシー(共感)も広がり、ついに独立を勝ち取ることができたという。

映画で見る東ティモールの人たちの生活はいわゆる「貧しい」。だが、森の精霊を敬い、大地に足をつけて生きる生き方、そして何よりも「敵」に対する考え方や、「平和」に対する考え方を、我々日本人は彼らから学ぶべきではないか。世界最強のアメリカ軍の軍事力や、アメリカ軍に追随するだけが、「平和」を構築する方法ではないだろう。そして、この映画を作ったのは、冒頭で述べた若い日本人女性の広田さん。政府とその考えを拡声器のように伝えるマスコミだけが、この世の中のメディアではない。実力もあり感性も豊かな広田さんのような若い人が、いることが頼もしいし、うれしい。政府や大手マスコミの力に比べたらはるかに弱いことは確かだが、こういう草の根メディアでじわじわ浸透していく力が、本当の日本の国力として蓄積されていくのだ。

平和構築―アフガン、東ティモールの現場から (岩波新書)

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2015年7月11日 (土)

サンドラの週末

フランス映画「サンドラの週末」。これは、実話を基にしたドキュメンタリ風の映画。病気のせいで一時的に職場を離れていた女性が、職場復帰を希望する。女性一人がいなくても、少し残業をするだけで仕事がまわっていた現場。経営者は、彼女サンドラの職場復帰をとるか、それともボーナスをとるか、職場のメンバーに決めさせる。投票は月曜の朝にあるので、夫にも励まされて、週末にサンドラは仲間を訪ねて、自分の職場復帰に賛成してくれるように頼んで回る。サンドラの家も、小さい子供二人を抱え、共働きをしないと、生活が苦しいのだ。

だが、仲間たちだって、それぞれ事情がある。子供が大学に行っていて、ボーナスは欲しい。サンドラの復帰に反対している主任の意向に逆らって、目をつけられたくない。などなど。このような人間模様が垣間見られる中を、サンドラが、朝から夜まで、街を駆けずり回って、仲間たちに会いに行く。映画としては、非常に地味で、退屈でさえある。だが、社会派映画を撮ってきたという監督ダルデンヌ兄弟の、静かなメッセージは伝わってくる。ヨーロッパの社会状況も反映させているのだろう。アフリカ移民の契約労働者も出てきて、サンドラは彼にも、自分の復帰に賛成してくれと頼む。

月曜日の投票結果はいかに?そして、意外な結末が待っているが、それは自分で映画を見て、確かめていただきたい。ぼくが、この映画を見たいと思ったのは、日本社会も、サンドラが置かれているような状況と同じで、まさに社会が崩壊しかけているのじゃないだろうかと、思うからだ。「改正派遣法」がある。日本では、派遣社員は、一生派遣で、正社員になれず、福利厚生はないし、いくら長時間働いても、生活は苦しい。安倍首相をはじめ、支持者は、「改正派遣法」は、派遣社員が正社員になるための法律と言っているが、これも戦争を平和と言いくるめる論法と同じだ。普通の経営者であれば、ずっと安く派遣社員が使えるのであれば、ずっと派遣社員を使うに決まっているではないだろうか。どうして、これで正社員が増えるのだろうか。社会は、分断され、格差がますますひどくなると思うのだが。日本でも、静かに静かに、その罪を訴えかけてくれる、映画人や映画もきっと出てくるだろう。

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2015年7月 6日 (月)

「わかりあえないことから」

コミュニケーション能力がこれほど求められる時代はない。経団連が調査している、企業向けアンケートによれば、企業が今の学生に求める力で、もう何年間も不動の1位になっているのが「コミュニケーション能力」だ。だから、就職率を上げようとする大学も、そして、グローバル時代に立ち向かう子供たちを作るように文科省から命令されている小・中学校、および高校でも、学生たち・子供たちにコミュニケーション能力をつけさせることに躍起となっている。コミュニケーション能力が必要なのは、子供たちだけではない。会社で若いうちは、年上の上司とのコミュニケーション、自分が上司となれば、若い部下とのコミュニケーション、そしてリストラされて再就職するとなれば、再就職に必要なのはコミュニケーション能力と、いまの時代強迫観念のようについて回る。たぶんそんな風潮にまず、問題意識をもって書き始めたのが、平田オリザ氏の「わかりあえないことから」だ。

題が秀逸だと思う。コミュニケーションの目的は「わかりあう」ことに決まっている。わかりあえなければ、コミュニケーションは失敗だ。誰でもそう思うだろう。だが、「わかりあえないこと」から出発する。こういう、逆説的なところから出発する、でも、本質を突く、これも平田氏が「演劇」の仕事をしていて、いかにも優等生的なことを言うような人でないからだろう。ぼくも、前から「わかる」ということは不思議な現象だと思っていた。例えば、まったく異なる言語を話している二人は、どうやって分かり合えるのか。完璧に異なっていれば、まったく接点がないから永遠にわかりあえないはずだ。たとえば、先を走る亀に追いつくために、アキレスは二者のちょうど中間点を通過して追いつこうとする。中間点を通過すれば、また二者の中間点を通過しなければならない。こうして、中間は永遠に分割できるから、アキレスはカメに永遠に追いつかない。だが、現実はアキレスはカメを楽々と追い越す。そんなように、完全に異なる言語を話す二者でも、そのことなりのどこかにズレがあったりして、わかりあうことがはじまる。

この平田氏の「わかりあえないこと」は、本人も書いているように、雑誌に、少しずつ掲載していたものを文庫本にまとめたものだ。だから、正直言って、まとまりや深さはない。でも、現代社会を考えるヒントは満載だ。平田氏は、演劇人だが、いま大阪大学でコミュニケーションについて教えている。そして、全国の学校で演劇ワークショップをしている。だから、この本は、教育に関しての視点も参考になる。そして、氏は韓国に留学して、日本語を教えていた経験もあるので、「日本語」という観点からも、示唆がある。面白かったのは、氏の不自然な日本語の指摘だ。日本語は、本来強弱アクセントの言語ではないし、アクセントの強弱で意味を伝えてはいない。日本語は助詞のおかげで語順が自由だから、語順を変えることで強調すべきことを伝えているのだ。ところが、近代演劇はチェーホフから始まり、その近代演劇を明治の日本人は苦労して直輸入した。ヨーロッパの言語と日本語との違いを無視して。だから、日本の新劇のセリフは、いわゆる「お芝居臭く」、それが一般の人から演劇が胡散臭く見られている原因だという。なるほどと、腑に落ちるところもあり、面白かった。

わかりあえないことから コミュニケーション能力とは何か (講談社現代新書)

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2015年7月 4日 (土)

金田一春彦「日本語」(岩波新書)

外国語を勉強するのは趣味なので、自然と外国語と比較してわが母語はどうなんだろうという、素朴な疑問を持った。それで、日本語を客観的に考えてみたくてその昔日本語教師の資格を取った。その時に参考書として読んだのが、金田一春彦氏の「日本語」(上・下)。何の疑問を感じずに、普段しゃべったり書いたりしている日本語を改めて、客観視してみるとこんなにも不思議ということが分かって、楽しく読んだ。それを読んだのが多分もう10年くらい前だけど、また本屋でタイトルを見つけたら、また買ってきてしまった。この本、そもそも昭和の最後のあたりに改版で出されたものだから、筆者が例に出している事例で、特にその当時の流行などを取り上げているのは、いま見ると、古色蒼然というか、懐かしすぎてつい微笑みたくなってしまうようなこともあるのだが、日本語についての考察や気づきは今読んでも、色あせない。一般向けにとても平易な語り口で書かれているが、日本語学の出発点として、重要な問題点や論点は、網羅されている。専門に勉強したいという人も、まず原点として読んでおくことのをお勧めする。

さて、日本語って特殊なのだろうか(及び日本人も)。例えば、英語と比べれば、語順などをはじめいたく違うところもあるが、何も特殊だということはない。だから、特別に誇ることもなければ、劣っているということで卑下することもない。他のことを知ること、つまり学問の良さは、物ごとを相対化できることだ。日本語は、日本人の精神生活や現実生活を表現するのに便利なように使われて来たもので、特別に良いということもなければ悪いということもない。いろいろな言語と比較していれば、相対的な特徴も分かるし、そこから日本人の心性の特徴も分かる。それが、ぼくには興味深いと思うのだ。

さて、この本の豊富で興味深い具体例のいくつかを紹介したい。例えば、日本人が「いそしむ」という言葉を好むことについて。筆者は「励む」はがむしゃらに働くことであるが「いそしむ」は働きながら、働くことに喜びを見出しているニュアンスがあり、日本人が労働を愛しているから、こういう言葉出るわけで、これは日本語の中の美しい語彙の一つだという。

日本人は他動詞よりも自動詞を好む。それが「お茶が入りました」のような表現となって出てくるという。もちろん、お茶は人が入れたのであって、自然に入るわけがない。だが、その人を思って茶を沸かし、茶葉を入れというような苦労や努力を相手に誇ることをせずに、あたかも自然にお茶が入ったかのように言いなすところが日本的だという。確かに、こんな表現も当たり前だと思って、気にも留めないが、よく考えると不思議な表現で、日本人の特徴が表れているのだと思う。

日本語〈上〉 (岩波新書)

日本語〈下〉 (岩波新書)

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2015年7月 3日 (金)

三人吉三

歌舞伎を気軽に映画で見よう。歌舞伎座に行けない地方の人にもありがたい企画として、月に1回「シネマ歌舞伎」が松竹系の映画館で見れる。今月は河竹黙阿弥作の「三人吉三」。あの有名な「こいつは春から縁起がいいや」をはじめ、黙阿弥の流麗なセリフと見得が決まる。黙阿弥が活躍した江戸から明治は、名優と組んで歌舞伎が全盛だったころだ。そんな古き良き時代の歌舞伎が、現代的な演出でもって、楽しめる。そして、それを演じる現代の若手俳優中村勘九郎、七之助、尾上松也。七之助は、声もしぐさも父親の勘三郎に似てきたし、松也は昔の市川雷蔵みたいにかっこいい。

実に豊かな気分にひたれる時間だが、話の内容そのものは、救いようのない悪因悪果の話。そして、現代人にはどうしてもその感覚がずれる義理と人情の話。どうして実の妹に手をかけなければいけないのか?まあ、そういうことはおいといて、日本に河竹黙阿弥がいて、黙阿弥の歌舞伎があるということは幸せなことだ。その素晴らしい演劇を現代の若い俳優さんと、そして特筆すべきは笹野高史!(この人、梨園の人でないのに、凄味のある親分役でとてもよかった。さすが名脇役で、ずっとやって来た人。元気な高齢者の鏡、そして、ぼくのようにちょっと下の世代にとっても、生涯現役でがんばるためのお手本にしたい)のような、いい役者さんで見られることも、幸せなこと。

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2015年7月 2日 (木)

生物物理の最前線

新しいことに挑戦しています。その一つに、今まで苦手だったり、興味がわかない分野の本を読むこと。特に文系のぼくにとっては理系の本を読むことです。講談社から発行している、ブルーバックスというシリーズは、社会的な意義もある出版事業だと思います。科学を市民の手へ、科学をわかりやすく市民に説明するという使命のもと、物理・化学・生物・数学などに関する本を出しています。生物は、科学の中では、ぼくにとって一番なじみがあります。というのも、高校のときに選択していましたし、科学の中では、いちばんあいまいでとらえどころのないのが生命現象だと思うし、それが文系人間のぼくにも親しみを感じるところです。とにかく、物理と比べれば、数式があまり出てきません。

でも、この「生物物理の最前線」を読むと、いま、観測技術や実験精度が上がってきたことによって、生命現象や細胞中で行われていることが、ミクロやナノのレベルでわかるようになってきています。となると、結局生命現象というのも、化学物質のやり取りや化学物質の酸化や還元だということが分かってくるし、そして細胞の内外で生じる電位差や濃度を利用したとてもうまい仕組みだということも分かってきました。となると、宇宙全体を貫く物理の法則が極微の生体の中でも働くということが分かってきて、それを記述することが、生命現象の説明だということになります。この本は、そういう最新の成果の紹介や、その成果を得ることができた原因である、技術の進歩などを説明してくれています。ただ、その説明がちょっとぼくには難しかった。まだまだ勉強不足です。もっと、科学や物理のことも含めて、勉強してみたいと思うのでした。

新・生物物理の最前線―生命のしくみはどこまで解けたか (ブルーバックス)

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