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2015年4月30日 (木)

希望の作り方

玄田さんという研究者がいる。この人、ニートや引きこもりの研究もしている人で、名前を知っていたので、いつか著作を読みたいと思っていた。本屋で「希望のつくり方」を見かけたので買ってきて、少しずつ読んでいる。この書名も気になっていたのだが、というのは、こんなにも希望がない時代に、どうやって希望が持てるのだろう、ということを知りたかったからだ。

まだ、読んでいる途中なのだが、玄田さんは、学問としての「希望学」をやっている。だから、「希望」を定義する必要がある。玄田さんが言う「希望」とは、1.個人ではなく社会的な希望であり、2.何かを実現させようとする希望であり。3.それを行動によって他者とともに実現させようとする希望だということだ。

この定義によると、ぼくも、原発の廃止や、平和を願って、他の人と一緒になって、デモやビラまきの行動をしている。でも、ぼくの根が暗いせいなのか、あまり「希望」が持てない。いくらぼくが願っても、まるで願いは届かないような無力感に襲われることがある。

今回の安倍さんの訪米も大いに希望を失わせ、無力感を感じさせられた。国会で議論も決議もしないことを、安倍さんの情念だけで決めてアメリカに約束してしまっていいのか。国会も国民も無視されている、この国の民主主義とはなんだろう。ぼくは安倍さんと違って、「私の愛はどんな山よりも高く、海よりも深い。あなたのためなら世界中呼んでくれたらどこにも駆けつける」とダイアナロスの歌のようには、アメリカについていきたくない。こんな大事なことを、国民の気持ちを無視して自分一人だけで決めていいのか。国会で3分の2を占拠した政党であれば、何をやっても構わないのか。それが民主主義なのか。

安倍さんは自分のおじいさんが作った日米安保が日本の平和を守ってきたというが、安保のせいで、日本はベトナムの戦争に手を貸し、イラク戦争にも加担し、既に無辜の市民を大勢虐殺しているのだ。アメリカは、自分の罪に目を向けようとしないから、原爆投下や東京空襲などの非人道的な行いにも目を向けようとしない。「希望のつくり方」はまだ、1章を読んだだけだ。この先、元気がもらえて希望が持てることが書いてあればいいなと思う。

希望のつくり方 (岩波新書)

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2015年4月28日 (火)

マンガを通じて人権問題を考える

マンガはときにいい教材になるし、大人が読んでも勉強になることもある。世の中にはいろいろな問題がある。そういうことを知れば、人の行動も変わってくるだろうし、選挙に行く人だって増えるかもしれない。そして、いい方向に世の中も変わってくるかもしれない。マンガを通じて人権問題を考えるという企画展が東京であったと、4月25日付の河北新報が報じている。そこで報じられていた、お勧めの漫画とそのテーマをメモしておく。まずは、読んでいないものは、見つけて自分が読んでみたいから。

・同和問題「カムイ伝」白土三平

・格差・若者「明日のジョー」ちばてつや

・性同一障害「放浪息子」志村貴子

・病気「ツレがうつになりまして」細川貂々

・震災・原発「あの日からの漫画」しりあがり寿

・聴覚障害「聲の形」大今良時

・高齢者・認知症「ペコロスの母に会いに行く」岡野雄一

・虐待「ちいさいひと 青葉児童相談所物語」夾竹桃ジン

・生活保護「健康で文化的な最低限の生活」柏木ハルコ

・不登校「学校に行かなくなった日」琴葉とこ

このうち読んだものの感想と言えば、カムイ伝は、ほんとうにすごい内容の漫画だ。江戸時代の階級社会がよくわかるし、権力者がどうやって人民を統治したのか、そのあからさま仕組みがよくわかる。日本史の勉強に役立つと思うし、漫画の素晴らしさとして人々が生きているその時代のイメージを豊かにとらえることができる。明日のジョーは、子供のころアニメで見た。それで山谷という地名を初めて知った。どや街というものもあるのも知った。子供には、その時わからなくても、あとまで大事なことが残ることは確かにあるのだ。「聲の形」は、最近借りてきて家族で読んだ。いろいろ考えさせる漫画だった。まだ、読んでいないもの、チャンスがあれば読みたいものだ。

カムイ伝 全15巻完結セット(ハードカバー) 【コミックセット】

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2015年4月26日 (日)

川内再稼働差し止め却下

核発電所の差し止め裁判では、福井と鹿児島では全く別の判断が下された。川内の核発電所の差し止め裁判判決の問題点については4月24日付の河北新報「核心評論」がよくまとまっていて勉強になった。以下、要約する。

鹿児島地裁は、巨大噴火の可能性について、九電がきちんと専門家の関与・協力のもとで詳細な調査をしたと認定した。しかし、多くの火山学者は、未経験なことでどんな前兆があるかわからないし、突然活動が始まることがあるという。また、規制委員会の審査に専門家が出たこともないし意見は反映されていないという。

さらに鹿児島地裁は、巨大噴火の可能性があると考えている学者は学会では少数だ、と九電の言い分を認定した。これには、火山噴火予知連絡会の会長藤井氏が「違う」と反論している。「核心評論」の筆者も学会の議論を傍聴し、学者に取材したが、巨大噴火の可能性に懸念を示す声が大きかったという。

チリで火山の噴火があり、ネパールでも巨大地震があった。地球全体で地殻運動が活発化しているのかもしれないし、危険な核発電所の運転が一歩進んだことはとても残念だ。

川内原発を巨大地震が襲う

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2015年4月24日 (金)

オオタカの繁殖率

4月23日付の河北新報の記事に、北関東のオオタカの繁殖成功率が核発電所事故後落ちているという研究が紹介されていた。調査をしたのは名古屋市立大とNPOで、事故前の78%の成功率から事故後は50%近くに低下し、その後12,13年とますます悪化したという。

さて、その成功率低下が果たして事故で放出された放射能の影響かどうかを調べるのに、統計解析をしたという。繁殖に影響を与えそうな、餌の変化、騒音などの他の要因を組み入れた計算モデルを作成し、そのモデルによれば放射線量が0.1マイクロシーベルト上昇すれば成功率が10%下がるとの計算結果が出るのだが、それが現実の観察の値と一致するので、放射線量の高まりが繁殖率に影響すると結論付けられるのだそうだ。

核発電所事故の影響については、推進を希望する人たちはもちろんないと考える。影響なんてないのだから安全というのが推進の根拠になっている。だが、核発電をやるか、やらないかを冷静に判断するには、科学的に根拠のある議論も必要だ。統計はまだ科学としての完全な信頼はないのかもしれないが、とりあえず科学的手法により提示された今回の研究結果は、もし推進を希望する側の人がいれば、検証したり、追試をしたりして結論を否定することができる形で提示されているはずだ。そういう論争もなかなか決着がつかないのかもしれないが、生き物にとって良いことがない核発電は、人間にとってもいいはずはないと、ぼくは思うのだ。

原発事故で、生きものたちに何がおこったか。

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2015年4月21日 (火)

核発電と呼ぼう

村上春樹さんのインタビュー記事が河北新報に載った。村上さんは、あまり政治的な発言をする人ではないと、ぼくは勝手に思い込んでいたが、4月19日付の記事から共感できるところをメモしておく。

東アジアとの関係では、この東アジア文化兼にはとても大きな可能性があるのでいがみ合っても何もよいことはないと村上さんはいている。歴史認識問題が浮上してきたのはバランスが変わったからだからだと。日本の相対的な力が低下したところでの自信喪失があり、低下した地位を素直に受け入れられないのが根にあると。日中間のバランスが落ち着くところまではまだ波乱があるだろうが、歴史認識の問題はすごく重要なので、ちゃんと謝るところは謝ることが大切だというのが村上さんの考え。細かい事実はともかく侵略したというのは大筋で事実なのだから。

次に原発についての村上さんの考え。原発事故で長い間住んだ土地から立ち退かされるのは人間の魂が殺されるのと同じ。国家の根幹にかかわること。問題が解決されないうちに原発の再稼働をするのは、国家のモラルからしても論外。「原子力発電所」は、平和利用を連想させるためのネーミングなので、事実に即して「核発電所」と呼ぼうというのが村上さんの提案。

村上さんの提案にぼくも賛成。本質をごまかされてきたし、これからもごまかそうとしている人たちがいる。でも、ごまかされてはいけないし、その本質を見つめることが大切。だから、ぼくもこれから「核発電所」と呼ぼう。

ニュークリア・エイジ〈上巻〉

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2015年4月19日 (日)

削られる労働者の権利

河北新報4月16日付の論考で、西谷修氏が「残業代ゼロ法案」と呼ばれる労働基準法改正案について論じている。8時間労働や残業に対して対価を払う、恣意的解雇の禁止ということは、企業への縛りとして、働く者の権利として100年以上かけて獲得されてきたものだ。それが今では、経済成長の障害のように宣伝され、産業界の要請によりきりくずされていく。

経営側は、労働者が身体と知的能力という資本を持ち、それを活用する経営者なのだとうそぶき、報酬に見合う労働を提供し、ライバルとの価格競争に打ち勝ち、それができなければ市場で淘汰されて当たり前、過労死は自己責任と、論理展開する。この社会の仕組みの中では、人は働かなくては生きていけないが、グローバル競争の中で企業は、利潤以外の目的や社会的役割を顧みず、人件費は負担だから極力切り詰める、そしてそれを政府が後押しするという、構図を西川氏は指摘する。

人権の確立や労働条件の改善、社会正義の促進を目的とした国際労働機関が第一次世界大戦後すぐに設立されたことの意味を西川氏はこう言う。社会の大多数を占める労働者の地位改善が、社会の安定や繁栄、ひいては平和の維持に不可欠だと考えられたからだ。労働状況の劣化が社会や人心を荒廃させ、戦争に向かわせたことの反省があったと、国際労働機関設立の意義を説く。となると、いまの日本はどのような状況なのだろうか。

いのちが危ない残業代ゼロ制度 (岩波ブックレット)

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2015年4月17日 (金)

マスコミの仕事を考える

自民党が、NHKとテレビ朝日を呼びつける。NHKのクローズアップ現代と、元官僚の古賀氏が官邸を批判した報道ステーションが事情聴取の対象となる。この件については、河北新報4月16日付の岩崎貞明氏の論評が参考になったので、以下、ポイントをまとめる。

まず、岩崎氏は、マスコミを呼びつけて事情を聴くということ自体、政治的圧力そのものだと批判する。今までも自民党による報道機関への圧力は行われていたが、それまでは口頭で伝えるなど証拠が残らないようにしていたが、いまは堂々と文書で圧力をかけるようになった変化の背景をこう分析する。

一つは、一般市民のメディア不信が背景にある。企業の利益ばかり考えるマスコミは政府に懲らしめてもらった方が良いという、市民の感覚が自民党を後押ししている。さらに、選挙前に、自民党から公正な報道をするようにと文書で圧力をかけられていたにもかかわらず、それを報じなかった民放局が、権力と癒着するマスコミというマイナスイメージを増幅させた。また、マスコミが反撃しないから、権力側もかさにかかって攻撃してくる。

最後に岩崎氏は、一連の状況を見て、社会全般に、政府に批判的なのは異端者であるという空気が蔓延して、憲法が保障する言論・報道の自由がなくなったしまうことを懸念する。

ここからは、私の考えを付け加える。マスメディアの存在意義とは何だろう。それは、権力が陥りがちな独裁、強制に逆らい、権力のやることを監視して、事実を伝え、そのことにより社会の自由を守り、民主主義を擁護することだと思う。だから、政権に右の自民党がつこうが、左の共産党が万万が一、つこうが、マスコミは権力におもねることなく、正しいと思えば事実を伝え自由な言論を守るべきである。だから、政権にいついたのが右の自民党であろうが、万万が一、左の共産党であろうが、時の権力者となんか仲良く会食すべきでないと思う。

マスコミもそうだが、日本人は国民性として、空気を読んで周りに同調し自粛するのがうまい。時の政権から口を突っ込まれるのが嫌だから、はじめから選挙のことはニュースにせずに、どうでもいいようなことばかりを取り上げて自粛する。国民は、この日本で何が大事な争点であるかを知る権利を奪われ、政治への関心を失っていく。投票率が低いことには、萎縮し自粛するメディアの責任もあるはずだ。

放送レポート no.253(March.3. 放送法を“武器”に政治圧力をはねのけよ 県知事選・衆院選ー問

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2015年4月15日 (水)

パリオペラ座ライブビューイング『アイーダ』

パリオペラ座の公演が映画で見られるライブビューイングが、チネラビータでやっています。演目はベルディの『アイーダ』でした。エジプト軍の勝利で歌われる有名な凱旋行進曲などで有名なオペラです。本物のピラミッドの前で行われる公演などいつか見たいなと思いつつ、このオペラ座公演は、あえてエジプトにこだわらない、斬新な演出でした。政治・宗教・戦争・愛・個人というのは、過去も現在も未来にも全部つながるテーマだからと、演出家のオリヴィエ・ピがインタビューで語っていました。コントラストや矛盾、対立を際立たせる演出は、ベルディの音楽によくあっていたと思います。有名な合唱曲の場面だけでなく、アイーダとラダメスが最後に墓の中で歌う「愛の死」の場面も素晴らしかったです。ベルディの劇的な音楽は、本当に歌を歌わせます。

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2015年4月13日 (月)

18歳選挙権

今回の統一地方選挙第一弾、やはり投票率が低い中で、与党が勝利。自信を得て、今後は軍事体制、改憲へと念願の政策へと進めていくのでしょうか。さて、河北新報の3月3日付の記事に、18歳選挙権に高校生7割が賛成、という記事がありました。林大介氏の執筆ですが、子供たちは社会に関心をもって政治や選挙に意義を見出し、自分なりの考えを持っているとのことでした。ただし、その社会的な考えを口に出すのは躊躇しているとのことですが。

これは、衆議院選に合わせて高校生に模擬選挙をしてもらいアンケートをとった結果だそうです。模擬選挙を経験することで、政治や選挙に興味を持てるようになった人が2倍になったそうです。そこから、林氏は、学校などで政治的な話題を取り上げることで、社会や政治を身近に感じる場面を作ることができる、自分も将来1票を持つ主権者であると意識することで、社会の自覚が芽生えていくことがわかると、指摘しています。

若い人たちにいい状態でこの社会を受け渡したいものですが、その前にこれだけ投票率が低い中で、与党が圧勝し、誰も異議を唱えることができない世の中になってしまってはどうなってしまうのでしょうか。

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2015年4月10日 (金)

本音全面 開き直り

4月8日付の河北新報のズームアップという記事が面白い視点でまとめられていたので、備忘録として記しておく。安倍首相が自衛隊のことを「わが軍」と呼んだ。これまで政府は憲法との兼ね合いから自衛隊は通常の観念で考えられる軍隊とは異なるという建前を取ってきたが、安倍首相は本音を言う。これを、みんな心の中では思っていても、口に出せないことを言う政治家に魅力を感じる国民がいるからと分析している。そして安倍さんの特徴を、批判を受けても開き直り、絶対に謝らず、逆に批判者を悪者にすると、評している。これは言いえているとぼくは思う。安倍さんの言動を見ていると、議論しようにも、まともに言論や議論が成り立ちそうにない。でも、そこが今までの政治家と違って力強い、実行力があると目に映り、支持する国民も多いのだろうか。ぼくは、考えることを放棄したくないが、安倍さんの発言を聞いていると、こちらの方も思考が停止してくる。国民全員の思考が停止したとき、あとから悔いてももう間に合わないと思うのだが、こんな考えのぼくはごくごく少数派なのだろうか。

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2015年4月 6日 (月)

杜甫詩集

杜甫の詩は中学校の教科書であの有名な「春望」を習った。その後、高校の漢文の教科書で、そして大学入試の受験勉強でと、杜甫の詩に触れる機会が増え、その後もぼくは自分が好きなので趣味で漢詩文に慣れ親しみ読んできた。李白と杜甫で言えば、派手で天才肌な李白こそ最高の詩人だと思ってきたが、やはり年を取ってあらためて杜甫詩選を読んでみると、しみじみと杜甫もいいなと覚えてきて、やはり若いころとはものの見方も感じ方も異なるものだということで、これは良い方向で考えれば、単調で変化のない人生ではなく、常に未知の人生、今生きている瞬間が常に新鮮ということなのだろうと思う。読書をすれば、そういう新たな瞬間と出会い、新たな人生と出会えるということだ。

さて、杜甫って何が良いのだろう。基本的に彼はまじめな人だ。真面目だが、ぜんぜん報われない。いまだ下積みを脱することができないぼくは、そこも共感してしまうのだが、だがこれはあくまでもぼくの個人的なこと。杜甫は本当は、詩なんかよりも政治によって世界の平和や人々の幸福を作り出したかった。だが、ぜんぜん彼は偉くなれないし、騒乱に出会い流遇の生活を送る。でも彼の大きな志と、自分の不遇の人生のおかげで、彼は常に弱いもの、社会の不条理や戦争、貧困に苦しむものの立場や目線で詩を作ることができた。彼の視線は人間だけにだけ向けられているのではない。高校の漢文の授業ではわかるべくもなかったが、彼は生きとし生けるすべてのものにまでその視線を向けているのである。今風に言えば、エコロジーな思想と視線ですら詩を書いているのだ、いまから1300年前に。

例えば、世界最大の反戦詩だと言っていい「兵車行(bing chu xinag)」の出だしはこうだ。

車轔轔(che lin lin)  馬䔥䔥(ma su su)  

行人弓箭各在腰(xing ren gong jian ke zai yao) 

耶嬢妻子走相送(ye niang qi zi zou xiang song)

塵埃不見咸陽橋(chen ai bu jian xian yang qiao) 

牽衣頓足攬道哭(qian yi dun zu lan dao ku)

哭声直上干雲霄(ku sheng zhi shang gan yun xiao) 

道傍過者問行人(dao bang guo zhe wen xing ren) 

行人但云点行頻(xing ren dan yun dian xing pin) 

或従十五北防河(huo cong shi wu bei fang he)

要は、軍馬がしきりに徴発されて、いかないでくれと家族が都の橋のところまで兵隊を追っかけてくる様子をうたったものだ。もちろん、杜甫の詩が偉大なのはその内容だけでなく、その言葉遣いや詩語の素晴らしさもある。そこで漢詩の良さが少しでもわかるようにとぼくが工夫しているのは、「戻って読まないこと」、つまり日本語への書き下し文にしないで、中国語の語順のままで読むことだ。

中国語の語順のままで読むのは、語順が違う日本人にははじめ苦労するが、慣れてしまえば大丈夫だ。それにこの詩の書き出しで比べてみるとわかるが、書き下し文は、「車(くるま)は轔轔(りんりん)  馬(うま)は䔥䔥(しょうしょう)」と、助詞がどうしても入るので間延びしてしまう。だが、中国語の語順のまま、そして中国語の発音のまま(いわゆる音読み)のまま、「車轔轔(che lin lin)  馬䔥䔥(ma su su) 」と読めば、ぜんぜん緊迫感が違う。こういう読み方をすると、杜甫の詩はその漢字づかいによる偉大な格調の髙さなども感じられてきて、やはり昔から「詩聖」と仰がれてきた人だということが、しみじみと感じられるようになってきたのである。

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2015年4月 5日 (日)

統一地方選 ― 昨日に引き続き

地方の問題はその地域に住んでいる自分たちが決める。それが民主主義の根幹。だから大事な地方選挙。宮城は、震災によって、統一のスケジュールからずれてしまい、選挙は秋にありますが、他の地域でははじまっています。大事な地方選挙、ぜひ権利を行使して投票に行きましょう。さて、河北新報4月3日付の記事で片山喜博氏が地方議会の問題点を指摘していたので、昨日に引き続き、統一地方選挙関連の問題をまとめてみる。

片山氏は知事などの首長選挙より議会選挙の方が大事だという。その理由は、予算・条例などの重要な事柄を決める権限が議会にあるからだとする。しかし、その議会の存在感が薄いと問題点を指摘する。問題点は以下の通り。

・議会は通常平日の日中に開催されるが、勤め人は傍聴できない。

・議場のありさまは、あらかじめ用意されたセリフを議員と首長がひたすら読みあう一種の学芸会で退屈極まりない。これなら休日の会議日でも見に行く人はいない。

・住民の議会傍聴は片隅の席に押し込められ、発言の機会が与えられず、拍手すら許されていない。住民の発言が許されれば、住民には「保育所待機児童を解消するため、子育て予算を増やしてもらいたい」など、聞いてもらいたいことはたくさんあるはず。

・何を質問していいかわからず、自治体職員に質問を作ってもらう議員も少なからずいる。

・議会改革の提案には時間がないというにもかかわらず、行政視察と称して海外にまで足を延ばす。暇ならば、住民の声に耳を傾けるべき。

・議会は何をやっているかわからない。それは議案を一つ一つ丁寧に処理しないから。議会は議案ごとに、役所の見解をただすだけでなく、住民の意見を聞く。そのうえで議員が議論し、賛否を明らかにする。こういう議会運営であればわかりやすく、議会に対する住民の関心と期待は高まる。

片山氏は、自ら地方政治の場に身を置いた人であるから、それなりに説得力がある。片山氏の記事を読んで思ったことがある。それは、投票率の低さに関しての事だ。近頃の日本の異常な投票率の低さは、もっぱら有権者側の無関心が責められてきた。「先生」と「生徒」のたとえで言えば、できの悪いのは「生徒」が勉強をさぼっているからだというわけだ。だが、伝統的なやり方の学校スタイルでは、成績の悪いのは生徒のせいにして事足りるだろうが、新しい教育や民間の教育機関では、生徒の成績が悪いのは、「先生」のせいである。先生が、生徒のやる気を起こさせることができないから、先生が効率的に学んで成績のあがる教え方をしないからである。

政治の場に話を戻すと、投票率が低いのは有権者のせいでなく、政治家のせいである。政治家が、有権者にやる気や関心を引き起こすことができていないからである。新自由主義を奉じる政治家の方々は、成果主義を強調なさるが、それなら投票率の高低に連動して定数や議員報酬が決まる仕組みがあってもよいではないか。「世界一企業が活動しやすい国家」を作るのも結構だが、「世界一政治が面白い国家」を目指してもいいのではないだろうか?

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2015年4月 4日 (土)

統一地方選挙

都道府県知事・議会の選挙、いわゆる統一地方選が始まる。人々の思いを実現するためには、国政選挙以上に身近な地方選挙はこの国の運命を左右する大事な選挙だと思う。だが、この国の民主主義は危機にある。主権者の半分が投票する権利を放棄しているというのが、まずはその危機の一つであるが、今回の統一地方選挙では無投票で当選する人が大勢いる。選挙自体が成り立たず、地方の名士・ボスがそのまま批判や選挙の洗礼にさらされることなく居座り続ける。選挙が成り立たないということ自体、本当に民主主義の危機だと思う。さて、地方の議会制民主主義の問題は、河北新報3月24日付の、佐々木俊介氏の投稿が、大変わかりやすかったので、紹介する。

佐々木氏は議会議員の印象を次のように語る。「地域全体のことをちゃんと把握しているのだろうか?」「新しい社会経済の動きを勉強しているのだろうか?」「地域でがんばっている人たちを応援する気があるのだろうか?」

そのように語るのは次の根拠からだ。

・人口減少や高齢化はかなり早い時期から分かっていた。それを見据えての地域のビジョンの検討や対策の準備が進められてこなかった

・選挙が近づくとようやく議会の報告をする。それも選挙のときだけ。当選後は執行部(=行政側)の業務、事業報告、予算案を単に追認するだけ。

・自らの選挙地盤へ事業や施策を誘導する。

・政策研究とは名ばかりの視察を繰り返す。

・社会経済の変化や地域への影響について勉強していなくても、利権色の強い後援会の後押しで当選すれば任期中は名誉職でいられる。

だが佐々木氏は、いちばん責任があるのは私たち有権者だとして、私たちに次のような覚悟を求める。

私たちは「出たい人」より「出したい人」をという言葉をよく考えるべき。「出したいい人」が選ばれれば、議会による地域問題の掘り起こし、政策評価、立案能力、地域への情報発信力が高まる。議会活動のオープン化など、改革が必要とされ意味を持ってくる。

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2015年4月 3日 (金)

メトロポリタン歌劇場・ライブビューイング

メトロポリタン歌劇場のライブが映画館でも見れる。チャイコフスキーの「イオランタ」とバルトークの「青ひげ公の城」の二本立てというめずらしいプログラム。でも、見てみるとこの二本を組み合わせた演出家の意図がわかる。とても野心的・意欲的な試みだと思うが、成功したと思う。2作の共通点は、どちらもおとぎ話が劇の台本のもととなっているということ。もちろん知っていると思うが、おとぎ話を単なる子供だましだと思って馬鹿にしてはいけない。おとぎ話や童話には、人間の深い欲望や心理が、表明されているのである。

「青ひげ」は割と有名な話なので知っている人は多いと思う。青ひげ公は、たくさんの若い娘を城に閉じ込め、なぶり殺すのだ。オペラでは、サイコミステリー風の演出で、そしてこういう恐ろしい作品にはバルトークの現代音楽の不気味さがよく似合っていた。

「イオランタ」はチャイコフスキーの最後のオペラ作品だという。ということは、彼の音楽が円熟味を一段と増した時なのだろう。あいもかわらずの美しいメロディーは、感情を揺さぶり、泣けてくる。興味深かったのは、台本の内容だ。プロバンス公の娘イオランタは、目が見えない。哀れに思った父王は山の奥深く、お付きの者どもとともに姫を住まわせる。王は、お付きの者どもに、光や見えるということについての話を一切禁じ、姫が自分は目が見えないという状態に気づかないで済むようにさせる。山の奥深く立ち入りを禁止し、破ったものは死刑という脅しで他人が立ち寄ることもなかったところに、若い騎士の男がおとづれ姫に恋をし、そして最後は姫も目が見えるようになり二人はめでたく結ばれました、というハッピーエンディングの良くあるおとぎ話と言えば、そうなのだが。

さて、非常に興味深かったのは、どうして姫が目が見えるようになったか、というところだ。王がつれて来たムーア人の医師が、王の姫に対するやり方を非難し、目が見えないのは、姫に見たいという気持ちがないからだという。姫に見たいという気持ちがないので、精神と肉体が感応せず見えないのだという。そこで、若い騎士を見たいという気持ちによって姫はついに目が見えるようになり、自然の美しさなどにも目が開かれるようになるのだ。演出家マリウシュ・トレリンスキも言っていたが、これはチャイコフスキーの未来の世代に対する伝言だという。ぼくも見ていてそう感じた。

2作に共通するところ、そして2作の童話の深層心理の分析は、それは「父」が「娘」を閉じ込めて抑圧し、知らせまいとするところだ。「父」と「娘」を「男」と「女」に置き換えてもいいし、「強い人」と「弱い人」に置き換えてもよい。抑圧される側が、知ろうとして光を求め、扉の向こうに何があるかを知ろうとする。一方はハッピーエンディングで一方は凄惨な殺戮でと、対照的だが、この2作品を組み合わせた意図はわかるし、非常にいい試みだと思う。童話やおとぎ話の深層にある心理は、いつの時代にも当てはまる。男性中心・父性中心の政治集団が、非支配層の国民が物を知らないように抑圧する。被支配層の国民は喜んで抑圧されるままになり、その政治集団の恩恵で生きているのだと感謝さえする。こんなことが繰り返されてきて今もそうなのだ。私たちは、その抑圧から解放され、見たい、知りたいと自らが求めていかなければならないのに。

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2015年4月 1日 (水)

基地の島の戦後70年

圧倒的なヤマトの人は沖縄のことに無関心だ。でも、ぼくはなぜ昔から沖縄に関心があったのだろう。沖縄の歴史を学んだから、沖縄に関心を持ったのか?沖縄に関心があるから、沖縄の歴史を知ろうとしたのか?その正確な因果関係はよくわからないが、ある国やある地域やそこに住む人々に思いを寄せるというのは、どちらが先かというよりもその相乗効果なのだろうかと思う。ぼくは、沖縄の歴史、文化、風土、生活、そして沖縄が抱える問題に関心がある。

河北新報3月24日付の西谷修氏の論考には学ぶことが多かった。上で、沖縄に関心があるとなど書いたが、まだ知らないこともあった。西谷氏の論考のポイントを、共有してみたい。

・沖縄は独立国だったということ…これは日本史の教科書には書いてあることだが、政治的な理由により、教科書の記述が削除されるかもしれないので、多くの人が口伝えする必要がある。独立国だったというその象徴として、西谷氏は、ペリーが幕末に結んだ「琉米修好条約」だ。ヤマトの政権もアメリカの軍事的な圧力により「日米和親条約」という不平等条約を結ばされた。アメリカはヤマトの政権とは別箇に沖縄とも条約を結んでいるということは、沖縄が琉球国という独立国として国際的に認知されていた証左だ。

・沖縄の思いとヤマトのずれ…住民の4人に1人が犠牲になった沖縄戦。その後のアメリカ軍による占領。このようにヤマトとは歩む歴史が異なる。沖縄の人たちの激しい反基地の抗議に基地縮小を日米政府は検討するが、普天間基地撤去の話はいつの間にか辺野古移設の話にすりかえられ、基地は減らないばかりか、日本政府は最新鋭基地を作り半恒久化させるつもりでいる。それも貴重な自然環境をつぶしてだ。沖縄が島ぐるみでオスプレイ配備の撤回を求めた建白書を東京へ提出した際、その代表団は、売国奴呼ばわりする怒号やプラカードに出迎えられた。いったい何をお国のために尽くせというのか、そのお国とはなんなのか?

・沖縄の民意の無視…選挙によって沖縄の人たちの基地の辺野古移設・新基地建設は拒否の民意は示された。しかし、ヤマトの政権は、民意を一顧だにせず、抗議の住民を暴力によって排除して工事を強行している。沖縄の人たちは、基地が地域の発展を阻害し、未来に残したくないと思っている。沖縄の人たちは、ヤマトにむかって、いい加減に沖縄に頼るのをやめてもらいたい、ヤマトこそ自立してほしいと思っている。

・世界の動きと沖縄…近代に国民国家秩序に組み込まれた地域が、グローバル化の中で「自立」を主張し新たな地位を求めている。その例は、台湾・香港・スコットランド・カタルーニャなどにみられる。台湾や香港では、強権的な国家に対して素晴らしい民主的な抗議活動があった。課題は、単純な国家的枠組みを超えた地域の「自立・自決・自主」をどうやって達成するかだ。ヤマトとは違う歴史を生きてきた沖縄の人々の思いをますます軍事化するヤマトの政権は、抑圧しようとする。はたして歴史を振り返れば、ヤマトが沖縄を支配する正当性があるのか。ぼくは沖縄の人たちの「自立・自決・自主」を支持する。

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