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2015年3月30日 (月)

中上健次『枯木灘』

中上健次を読むきっかけは、その昔友人が勧めてくれたから。勧めてくれたからとはいえ、すぐには読まなかった。それでも、勧めてくれたことは覚えていて、それから20年たったころに1冊、また10年たったころに1冊と、そんなペースで読んでいる。やはり、人が、それも知り合いの誰かがいいと言っているのは、信頼できる。中上健次は、やはり日本近代文学の偉大な作家だと思う。

さて『枯木灘』は、出張の行き帰りの移動の時間で読もうと思い駅の本屋で買い求めた文庫本だ。舞台は彼の故郷でもある紀伊の国。熊野神社などもある神話の国だ。こういう業を背負ったような土地性というのもとても重要だ。軽い話ではない。入り組んだ家族関係。父子の相克。近親相姦。兄弟殺し。近親者の自殺。こういうテーマが普遍だと思うのは、父親から責められて罪の意識にさいなまされるオイデプスともつながるからだ。

主人公の秋幸は、作者も体験したであろう、肉体労働に携わる。何も考えないで済むように肉体労働のリズムに忘我しようとする。だが、血のせいなのか、土地のせいなのか、世代に渡って事件が反復される。現代の作家がもはや描くことができないような、近代以前の、近代の周辺で起こるような世界を、中上健次は描く。

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2015年3月28日 (土)

枕草子

誰もが学生時代に読んだことがある(読まされたことがある)枕草子。またあらためて読んでみると、いろいろ気づかされることもある。まず、作者清少納言は、まちがいなくミーハーだ。今で言えば、芸能界に憧れていて、芸能人を間近に見たい、そして、芸能人のゴッシップが大好き、噂話がこたえられない、という性格の女の人だったというのが今読むとよくわかる。そして、彼女は自分の仕事が大好きで、誇りを持っている。(綺羅星のような、芸能人が間近に見れてお話もできるのだから)。もちろん、こんなところにお勤めできるのは、家柄がすぐれていないとだめだし、容貌と知性も厳しくチェックされる。それをパスしたのだから、誇りに思うのも無理ない。そう思うと、彼女の自慢話もそう鼻につかないし、むしろ彼女は自分の自慢話をしたかったのではないのではないかと思われる。自分がお仕えする定子さまがいかに優れた素晴らしい方だったのかを書きたかったのだろう。当時は貴族社会だから、身分の卑しいものに対して、むき出しの差別観が表明されているが、これも時代の限界で、清少納言のせいじゃない。

優美な貴族生活の後ろ側には、どろどろの政治の世界が。政治と言っても、ほとんどが同じ先祖を持つ血のつながった身内の一族の間で行われている権力争い。図式化すると、父ー娘―お仕えする切り札、の順で書くと、

道隆―定子―清少納言 VS 道長―彰子―紫式部

定子のサロンに押され気味の、道長が雇ったのが紫式部。「源氏物語」の内容からして、当時の人からも経験豊富なすきものと見られがちな彼女は、じつは家にこもりがちで人見知りの主婦タイプの人だったというのも面白い。式部の日記には、もちろん清少納言の悪口も書かれていて、だから女どうしは怖いと後世の人も思う所以(ゆえん)。

さて、その「源氏物語」だが、枕草子を読んでわかったことは、源氏物語は紫式部だけの力でできたのではないということ。式部の以前から、理想の男性や当時の女性にとっての理想の恋愛というのはあって、それぞれの女性が激しく妄想を抱いていた。その理想が熱く語られていたのは、じつは定子―清少納言のサロンであった。もちろん、女性たちから見た理想=妄想なので、実際は光源氏のような男などいないが、その理想に近いような形があったのが定子のサロンだったのではないか。恋愛が、下半身の欲望と言ってしまえば身もふたもないが、そういう欲望を洗練された形にするのが「文化」の役割だ。その最高の文化を身をもって体現したのが、定子のサロンとそこに集う才女や出入りする男どもだったのではないか。

道隆―定子のラインは歴史の上では悲劇的な一族で、栄華は道長―彰子のラインに移り、「源氏物語」の栄誉は紫式部が手にする。だが、枕草子を改めて読んでみて、新たな発見もあったし、歴史は敗者の方から見るのも、あわれでいとおかし。

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2015年3月27日 (金)

パリオペラ座・ライブビューイング

本場パリのオペラ座の公演を、映画で見れる。チネ・ラビータで『白鳥の湖』を鑑賞。作曲はチャイコフスキー。おなじみの名曲ぞろい。聞けばだれでも知っている。振り付けはあのヌレエフのもの。王子ジークフリートはジョゼ・マルティネズが演じ、白鳥のオデット姫と黒鳥の二役をアニエス・ルテステュが躍る。筋書きはたわいのないおとぎ話かもしれないが、チャイコフスキーの音楽は情念が感じられる。そして、踊りはもちろん素晴らしい。主役の二人は特に、オーラが出ているというか、周りから浮かび上がって見える。踊りも超絶。悪魔役の男優さんは、本当に悪魔っぽく魅入られてしまいそう。至福の2時間27分だった。

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2015年3月25日 (水)

逃げてはいけない

河北新報3月10日の記事により、「防空法」なるものが、かつて日本にあったということを初めて知った。これは、10万人が亡くなった東京大空襲から70年たったということの関連記事である。東京で10万人、全国の空襲犠牲者は計50万人以上。なぜ、これほどの犠牲者が出たのか。もちろん、アメリカ軍が、徹底的に民間人を殺戮しようとして、武器や爆弾の落とし方などを研究、工夫したことにもよる。(空襲の指揮を執ったアメリカ人軍人に、戦後日本は勲章を与えている。どういう精神構造をしているのだろう?これが、「愛国心」とか「美しい日本」とか叫んでいる人の精神構造なのだろうか)

犠牲者が増えた一因は日本側にもある。それが「防空法」だ。この法律は、国民が都市から非難するのを禁じ、消火活動をすることを義務付けたものだ。この法律ができた背景というのは、都市から人口が流出すると生産力が低下し、国民の戦意が喪失するという政府や軍部の思惑があったとのことだ。消火活動に関しても「簡単に消せる」との情報が盛んに流された。アメリカ軍が科学の粋をもって、都市を焼き尽くそうとあらゆる種類の爆弾を投下しているのに、日本では非科学的・精神論的に手で叩き落とせば大丈夫、などとの情報操作で国民を縛っていたのだ。

退去禁止の例として青森空襲がある。米軍があらかじめ空襲の予告ビラをまいていたが、避難し始めていた市民に向かって県知事は「帰らないと、町会台帳から削除し、配給を停止する」と通告し、市民も「非国民」のレッテルを張られるのが怖くて、市内に戻ったところを空襲が襲った。空襲は怖くないといった情報を国民に刷り込み、守るべきは国民の命よりも国家体制という思想が如実に表れたのが「防空法」だった。

さて、歴史から学ばず、歴史を軽視するものは、必ずしっぺ返しを食らう。常に歴史の教訓を現在に生かすことを考え、「防空法」の精神が今の社会にないかを考えるべきだろう。

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2015年3月23日 (月)

外国語学習の科学

日本人は英語ができないというコンプレックスを持っている。そういうコンプレックスにはつけ入る隙がたくさんある。だから、「これさえやれば、10日で英語がペラペラ」「何もしなくても、ただ聞いていれば、たちまちわかるようになる」といった類の本や教材が売れることになる。詐欺に引っ掛かる人のことを考えれば、そんなおいしい話などそう世の中に転がっているはずはないと気づくはずだが、この手の楽してすぐに身に付くというのは、抜きがたく人の欲望に基づいたものなんだなと思う。

では、「科学的に」言って、本当に効果的な外国語学習方法はあるのか?それが、ぼくも仕事柄ずっと気になっていたところだ。そもそも人間は、自分の成功体験の中からだけでしか語れない。だから、ある人が、他に何もやらず、これだけやって成功した、というのは本当かもしれないが、果たしてそれが別の人に効果があるかどうかは分からないし、実証しなければならないことだ。高校の時の部活動に、いろいろなOBが顔を出して指導してくれていったが、それぞれ言っていることが違って結局誰の何を信じていいのかわからず、混乱してしまったっ経験を思い出す。語学の世界も、それに似たようなもので、それぞれの人が自分の狭い成功体験だけから、それを絶対化して学習者に話す。本当は、各人に合った勉強法は人の数だけ多種多様なはずで、自分に合った勉強法は自分で見つけるしかないはずだ。

そんな時に、岩波新書『外国語学習の科学』白井恭弘・著を読んだ。自然科学の分野では科学的な実験や実証の方法が進んでいるが、社会科学の分野でも、近年、科学的な実証が進んできていて、外国語を習得することについての様々なことが分かってきている。全てが分かってしまったわけではないが、ただ個人の成功体験からだけ述べられた何の根拠もない勉強法や、昔からそうしてきたからというこれまた何の根拠もない勉強法よりも、効果があるとかないとかが科学的に実証されているものを採用した方が、効果もあるだろうし、時間も金も無駄遣いしない。ぼくが宣伝しなくても、この本はずいぶん売れているみたいだが、やはりぼくも読んでみて大変勉強になった。おすすめである。

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2015年3月21日 (土)

働くこと

河北新報の3月11日付の記事に「労働時間規制の一部撤廃」という見出しが出ていた。この記事を参考に、問題点をまとめてみた。このたび労働基準法が改正される。労働者を守っている1日8時間、週40時間労働の規制が一部撤廃される。新しい労働基準法では、あらかじめ決めた時間を働いたこととみなす裁量労働制に対象が拡大されたり、年収の高い専門職は労働時間の規制を外し、深夜手当や残業代の支給をなくすというものだ。

これに対して労働問題に詳しい弁護士からは、問題点が指摘されている。2013年時点で週労働が60時間を超える労働者が480万人いるという状況を踏まえ、労働規制を緩和する必要があるのかという、疑問を呈す。また、政府自民党が言っている、年収が高い労働者だけが対象だから大丈夫という言い訳に対しても、対象者の年収はあくまでも参考であって、あとからいくらでも対象が広がるということを懸念材料として挙げている。つまり、どんどん年収要件を低くして、いくらでも労働者を働かせておいて、一切残業代や手当を出さないということも可能になるということだ。これが、安倍さんが目指す「世界一、企業が活動しやすい日本」という国の姿なのだろうか。

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2015年3月19日 (木)

世界を読み解く数学入門

引き続き出張中なので、宿泊先のホテルでも本を読んでいます。「世界を読み解く数学入門」小島寛之(角川ソフィア文庫)。数学や物理のことをもう一度勉強したいと思ったのは、もちろん原発事故がきっかけである。御用学者、御用新聞と相手を批判するのであれば、自分もそれなりに知識や判断力をつけたいと思ったからだ。読んで、面白いと思ったところを上げる。

まずは、確率論。昔からある分かりやすい確率の計算は「サイコロ」だ。さいころを振って、1回目に6がでる確率は1 / 6。では、2回連続で6が出る確率は、1回目に6が出て、さらにその上で2回目にも6が出なければいけないので、1 / 6×1 /6=1 / 36。と、こんなふうに掛け算で求める。では、今年、東京が猛暑になる確率が1 / 2であり、神奈川が猛暑になる確率が1 / 2であれば、東京と神奈川が同時に猛暑になる確率は1 /2×1 / 2= 1 / 4なのだろうか?これは、素人が考えても直感的におかしいとわかる。東京が猛暑であれば、お隣の神奈川も猛暑である確率は高いからだ。

とまあ、こんな話が続いた後で、飛行機事故の確率を計算した学者がいたということが紹介されていた。その学者は、ある部品が故障する確率が何万分の1、そして次の部品が壊れる確率が何万分の1というふうに、1個1個の部品が故障する確率を調べて、そして最後にそれを全部掛け算して計算して、ゆえに飛行機が墜落する確率はものすごく低いとしたという。これは、上の例でいうと、東京と神奈川の確率計算をしなければいけないところを、さいころの計算をしたことになる。ちなみにこの本は平成21年の3刷で、原発事故の前に書かれた。原発が事故になる確率は非常に低いと喧伝しておきながら数十年の間に世界で重大事故がもう3回もおこっているのはなぜだろう。

確率が興味深いと思うのは、電子という極微の世界では確率論的なふるまいをするというところだ。我々の現実の世界でいうと、残念ながら東北の地には放射能がまき散らされたしまった。土に、食べ物に、我々の体の中に、どれくらいの放射能が含まれているかを言うには、放射能から出るエネルギーを測定する機械を借りなければ、我々にはその存在がわからないが、その存在を普通の物の感覚として「ある」とか「ない」とかは言えなくて、確率論的に計算してこれくらいあるとしか言えないのだ。極小の世界では、存在のありようそのものがそうなっていて、それで説明するとその存在の仕方がうまく説明できるということなのだが、(そしてそうこの本にも書いてあるし、市民放射能測定室の物理に詳しい人もそうおっしゃっているのだが)、何とも不可解で直感的には理解できない。でもそう考えると量子物理学は何とも面白いし、物理が好きな人はこうやって夢中になっていくのだなという一端は分かった。(身の回りに原発由来の放射性物質があることに関しては不快だ)

さて、最後は「複素平面」。これは虚数が大きな役割を果たす。虚数というのは2乗して―1のようにマイナスになる、本来であればあり得ない数。でもこの有りえない虚数を措定することで2次関数や3次関数で今まで解けないものにも解があることになった。それだけなら、単に数学者の頭の中の戯れかもしれないが、じつは虚数が現実の世界でとても関わりを持っているということ、あらゆる局面に虚数が出てくるということを筆者は分かりやすく紹介してくれる。そして複素平面を使っていろいろ図を書いているのが紹介されていたが、この図を見ていると、あの陰と陽の生成である「太局図」を、ぼくは思いだしたのだ。存在の根源に虚数や複素数があるということが、そのうち偉大な数学者により数式で証明される時が来るかもしれない。だがわが東洋人は、昨日紹介した三浦梅園をはじめ、存在を直感的に陰陽原理で把握していた。だが、西洋人は理論だけにとどまらず、そこから原爆や原発を作ったが、東洋人はそうしなかった。その違いは何なのかというのが、今後のぼくの知的テーマとなっているので、また調べたり考えてみたいと思っている。

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2015年3月18日 (水)

三浦梅園 自然哲学論集

出張中で電車で移動しているので、それを利用して文庫本を読む。岩波文庫『三浦梅園自然哲学論集』。三浦梅園は江戸時代の人だ。西洋でもまだ地動説が決定的にならない時期に、地球と太陽の運行などを考えた。もちろん、今日知られている科学的事実からすると、不正確なところはあるものの、当時の人が一般的に考えていたように、地球は平らで果てまで行ったら海が瀧のようになって流れ落ちている、というような思考はしていなかった。要は、科学的な思考をし、そして理論は実地に当たって実証すべきだという近代的な思考の萌芽を持っている人だった。

梅園は、もちろん外国旅行になんか行っていない。でも、中国には、当時の西洋の天文学が伝わっていて、その中国の天文学についての著作は読んでいる。さて、ぼくが考えたいのは、「なぜ、近代科学は西洋で生まれて、非西洋圏では生まれなかったのか?」ということ。結局、その差が18世紀、19世紀から今日までの、西洋文明圏の覇権につながるのだ。よく言えば、西洋諸国がこの世界史をリードしたということだし、悪く言えば、現在のアメリカが世界中で戦争を仕掛けてたくさんの人を殺しているのに代表されるように、西洋文明が世界中で他民族を圧倒し虐殺してきたということだ。

日本の江戸時代だって梅園のような科学思考を持とうとしている人だっていたし、和算というかなり高等な数学だってあった。だが、科学は西洋で生まれ、ここでは生まれなかった。彼我の違いは何か。そのあたりのことを、もう少し考えてみたい。そのために、江戸時代の思想家の著作など、もう少し読んでみたいのだ。

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2015年3月15日 (日)

菅谷昭氏講演会

本日、岩沼市民センターにて、菅谷昭氏の講演会があり、参加してきた。菅谷氏は、医師でチェルノブイリ原発事故後のベラルーシに入り、医療活動を行ってきた方だ。現在は、長野県松本市の市長を務めている。菅谷氏のお話で何と言っても重みがあったのは、実際にチェルノブイリ事故後の影響を目の当たりで見てきているということだ。4年半現地で医療活動をしてきたと言っていたし、その後も現地を訪れ、現地の医師や関係者から現地の実態を直接聞く機会を持っている。チェルノブイリの事故から25年以上がたつが、その現地の様子を見て、福島事故の今後が、チェルノブイリ事故後の25年後のあの姿になってはいけないとの思いで、活動・講演をしているという。だが、そういう非常に貴重な経験と見聞を持っている菅谷氏の考えや意見は、国は一応「ヒアリング」という形で聞きましたというアリバイを作るが、決してその政策に反映させないという。松本市長という公の立場に遠慮して、言葉を非常に慎重に選んでいたが、原発推進を国策とする安倍政権・自民党・公明党・官僚への批判的な姿勢を、ぼくは感じた。

さて、チェルノブイリ原発事故25年後の姿とは何か。子供たちの健康状態が決して良くないとのことだ。疲れやすく、抵抗力がないという。だから、現地では授業時間等を短縮して行っているのだという。長いと集中力が続かないのだという。造血作用の異常で貧血なども多いという。低線量被曝の影響かどうかは、詳細な疫学的な調査をしなければわからない、ということだが、これが事実であるので、福島原発事故後の今後の日本の子供たちを、大人が守ることが大事だと菅谷氏は言う。

ベラルーシでは、国家予算で、年2回の子供への健康診断や健康相談を行っている。そして、全員1か月間「保養」に出ることができる。このようなことを見ているので、菅谷氏は松本市でも、子供留学のような施策を導入し、そして福島原発事故直後から、せめて子供だけでも汚染地から離すようにという主張をしている。ベラルーシでの対応も、ぜひ日本でも見習うべきだと、ぼくは思う。

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2015年3月11日 (水)

4年目の今日

東北大震災と原発事故から4年。振り返ってみれば、早かったような、でも、時間が止まったような感じで、実感はわかないが、日付だけ見れば確かにあれから4年がたったのだろう。震災や原発事故の受け止め方や被害の状況は、人によって全く違うだろうから、復興とかなんとか一概に言えることではないと思う。

ぼくは、原発事故から3年間の間に起きたこと、それについて考えたこと、世間の動き、などを記録してまとめておいた。その記録をこの1年の間に整理してみて、この日に間に合うようにまとめることができた。せっかくなので、誰でもできる自費出版で、電子出版して、一つの区切りとした。

多くの人が読むとは思わないが、「記録」としての価値はあるのかなと思っている。3年間の自分の身の回りで起こったことが書かれているし、世間の動きや、誰がどのような発言をしたという記録になっている。あってほしくはないが、2度目、3度目の今後の原発事故を、将来体験することになる人たちにも、原発事故とはどういうことかを、知ってもらうことになる。

まだまだ原発事故は、終息していないと、ぼくは思っている。山のイノシシからも、キノコからも、魚からも放射能は出て、原発事故以前の自然から命をいただいて暮らす生活は壊されてしまったし、いったいいつ、どこでそれが修復するのか、いつ、どこでそういう生活に戻れるのか、果たして日本でそういう生活が再びできるのか、どうか、すべてがわからない。

そういうこともふくめて、ぼくから見た(眺める位置が違えば、ぜんぜん違う此の世の景色が見えている人も多いでしょうが)震災から3年間の記録をまとめることができた。いちおう値段はつけてあるが、そのうち0円セールをやろうと思っているので、興味があればその時にダウンロードして、読んでみてください。

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2015年3月10日 (火)

投票率を向上させるための解決策

民主主義が成り立つ前提として、有権者が自分の意思表示のために、投票をしに行かなければならない。ところが、日本では投票率が低く、国民の思いが必ずしも、代議員によって実現されているとは言えず、支配層が法律的な手続きを取らずに、この国の将来を決める重要な決定を次々と行っている。日本の投票率は特に20代、30代で低いが、投票率を上げる有効な解決策はあるのか。河北新報の連載は、民主主義の基盤となる投票率をどのようにあげるのかを考えるうえで、大変参考になる。

2月24日付の記事は、スウエーデンで、どのように民主主義教育が行われているかが紹介されていた。スウェーデンでは、民主主義教育の一環として、総選挙の模擬選挙である「学校選挙」が行われている。全人口959万人のうち、46万人以上の小・中・高生が参加しているという。小学校4年の授業では「民主主義」について、その語源や意味までしっかり学んでいるし、中・高でも、生徒がグループに分かれて各政党の政策を事前に学習し、授業内で政党別のディスカッションをしているという。

そんなこともあって、スウェーデンの若者の投票率は毎回80%近くあるという。模擬選挙の取り組みもそうだが、遠足や学校行事などあらゆる場面で子供たちが政治について議論をしていて、「自分たちが責任を持って決める」としつこいくらいに民主主義を学んでいることが、高い投票率となってあらわれているのだそうだ。そして、子供たちが社会に関心を持ち、そのことを親に話すと、大人自身も政治に向き合わざるを得なくなるという、好循環が生まれている。

さて、この話のポイントは、自分たちで話し合って決めたルールであれば守ろうとするが、一方的に決められたルールには人は反発したくなるもの。自分にかかわることであれば、自分たちで決めたい、政治家にお任せすればいいということでなく、自分たちの声を届けることが民主主義では大切。民主主義というのは、子供時代からの経験によって培われていくもので、手間がかかろうと、子供たちに働きかけることが大事ということ。

最後は、ぼくのコメント。日本の教育現場では、ますます縛りがきつくなってきているので、政治の話を口にするのさえはばかられる状況が、あるのではないだろうか。でも、子供たちだって社会の一員なのだから、自分たちにかかわることは自分たちで決める権利がある。そのためには、基本的な知識を持ち、自分で判断できなければだめだし、大人が思っているよりも彼らは賢く判断力があると思う。賢い有権者が民主主義にたくさん参加すれば、選挙で公約しなかった政策を、選挙後に出してくる様な政党は、有権者から絶対に許されなくなるはずだ。

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2015年3月 8日 (日)

おじさん図鑑

河北新報で毎週、おじさん図鑑というエッセーが連載されていて、共感することが多いので、毎週、ぼくも楽しみにしている。でも、今日だけは、おじさん図鑑の筆者さんとは、意見が分かれたので、ちょっとここに紹介する。

もちろん、みなさんイソップの『アリとキリギリス』は知っているでしょう。おじさん図鑑の筆者は、落ちぶれたキリギリスがアリを頼って訪ねてきたとき、あなたがアリだったらどうすると、3つの選択肢を示す。

1.ざまあ、見ろと思いながらも助けてやる。

2.よくぞ私を頼ってくれたと、助力は惜しまない。

3.お前なんか死んでしまえと、ぴしゃっとドアを閉める。

おじさん図鑑の筆者は3なのだそうだ。

さて、この話、どこが面白いと思ったかというと、じつは、ぼくは昔『アリとキリギリス』を基に狂言の台本を書いたことがあるのだ。それで、今日新聞を読んで、面白いと思ったわけだが、ぼくの結論は3つの選択肢にない。どうかと言えば、じつは、台本は出版してあるので、それを見ていただきたいのだ。出版していると言っても、誰でも出版できるアマゾンの自費出版『キンドル』での電子出版だ。このことを、職場の同僚に話したら、こんなのに500円の値段をつけて売るなんてけしからん、誰も買わない、と怒られてしまったが、この値段は上演料も含んでいるので、ぼくの結論が面白いとおもったら、自由に演出して上演してもらいたいのだ。では、ぼくの結論はここにあります。

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2015年3月 7日 (土)

民主主義を守る

いろいろな意味で、いま、日本は民主主義の危機だと思う。例えば、教育現場では、道徳という教科で、『愛国心』が植えつけられようとしている。美しい日本の自然を誇りに思い大切にする心には異論はないが、愛国心を押し付けようとしているその当人たちに、愛国心があるとは思えない。愛国心があれば、原発で美しい国土を汚染して平気でいられるんだろうか。結局彼らが言っている愛国心は、戦争でも起これば武器も売れて景気が良くなるが、そういう自分たちに文句も言わず、ついて来い、という愛国心だ。

というわけで、こんなときこそ、自分の頭で考え行動する人材が必要になるが、教育現場への国家の介入では、もうそういう人材も育たないのかもしれない。2月24日付の河北新報で、教育現場で「考える」授業の実践が紹介されていた。一つを引用すると、近現代の歴史の授業で、日本はどのような道をたどるべきだったのか?を考えさせるものだ。石橋湛山元首相が戦前に主張した「小日本主義」、つまり、国内政治や産業を盛んにすることで、日本の国際的な地位を高めるべきだ、を紹介。そして、領土拡大や帝国主義による「大日本主義」を対比させ、この時代を起点に、日本は「小日本主義」で行くべきか、「大日本主義」で行くべきかを議論させたという。

生徒からは「自分の国を守れるようになったら、植民地を手放し、平和に向かって進むべきだ」という意見が出る一方「大日本主義をとってきたからこそ植民地にならずに済んだので、そのまま通すべきだ」という意見も出たとのことだ。自分たちで考え、自分たちの意見を持つことが大事だ。それを、もし「小」の方に生徒の意見を誘導するのであれば、教育の偏向であろうし,もちろん「大」の方向に誘導しても偏向だ。いまは、「大」の方に統一し、異論を許さない雰囲気づくりを進めているし、そもそも自分で判断するには、様々な情報がなければならないが、自由な報道をすれば、政府や政党が抗議や申し入れという形で、自由な報道を許さず、意に沿った報道のみを許そうとしている。これを民主主義の危機と言わず、何と言おう。

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2015年3月 1日 (日)

正義の話をしよう

大学のときに「倫理」の授業があったが、この「倫理」という字づらからしてなんだか堅苦しくて重々しそうで、つい敬遠してしまった。だが、「倫理」は重くないし、何よりわたしたちの身近にあるだれもが直面する問題だということをわかりやすく教えてくれたのが、ハーバード白熱教室のマイケル・サンデル教授だ。

アメリカに大型台風が来て洪水となり大きな被害が出たことがある。木などがたくさん倒れたので後始末にチェーンソーが必要になる。そこで被災地ではチェーンソーの値段が上がった。これは、正義か否か。日本では自然災害につけ込んで便乗値上げするのは、感情的に許されないという気持ちになるが、需要と供給の経済原理から言えば、需要が高まれば値段が上がるのは当然だともいえる。正義と言えるのか、不正と言えるのか、そしてそういえるとしたらその根拠は?こんなふうに身近な問題から始めて何が正しいのか、つまり人間や人間社会の倫理について深く考えるきっかけを、サンデル教授は分かりやすく教えてくれる。そうか、倫理というのは正義の問題だったのだ、こんな風にわかりやすく提示してくれていれば、ぼくも授業に出ていたのにと、後悔してもあとの祭りである。

サンデル教授が提示していた問題はほかに、坂道の上でトラックを運転していたらブレーキが壊れてしまった。このまままっすぐ行けば○人殺してしまうが、ハンドルを切って歩道に突っ込めば○人死ぬ。さて、どっちの選択が正義?というのもあったし、戦争中、敵国で本隊とはぐれて4人だけになってしまった。そこに羊飼いの少年と老人に出会った。もしこのまま、二人を村に返せば、アメリが軍がいるということをテロリストに通報するかもしれない。そうすればテロリストの軍隊に4人は包囲されて死ぬ。では少年と老人を殺すか?二人はもちろん非戦闘員で、村に帰っても通報しないかもしれない。さて、アメリカの軍人はどういう行為を取るべきか。殺すべきか、帰すべきか。どちらの選択が正義か?

2番目の問いは究極の選択であるが、これは実話で、実際アメリカの軍人がアフガニスタンで経験したことだ。彼らがとった行為は、どちらだったのか?これは映画にもなった有名な話なのだが、ぼくなら、そもそもこのような選択をする状況に自分がならないように祈るばかりだ。さて、どちらが正義かを判断するには、判断の物差しがいる。その物差しとして、そして参考図書としてサンデル教授があげていたのが、ジョン=ロールズの「正義論」(Theory of Justice)だ。

ジョン=ロールズの方は、原理論なので、サンデル教授ほどの具体性はないが、いまの日本ではこの原理論、大いに役立つし、これから現実問題に対処していく上で大切な支えになるだろう。日本人はそもそもこういう原理を突き詰めて考えるのは得意でない。アメリカは人工的な国家だから、「契約」とか「法」とかを持ち出して人間関係を調整しようとする。それに対して、日本は成り立ちが自然であって、気付いた時にはすでに人間関係が出来上がっていたので、人工的な構築物で人間関係を律するのには不向きだ。だが、これからは、私たち日本人も、自分たちの身を守るために無実の人を殺すべきか、というような究極の選択をしなければいけない状況に置かれる可能性が日増しに高くなっている。

ジョン=ロ-ルズの著作で、これからの日本人にとくに役立ちそうなのは、「市民的不服従」や「良心的懲役拒否」に根拠を与えたところだ。先に、ぼくは自分がそういう状況に置かれないように祈ると言ったが、それは一つにぼくが仏教徒で、その信念からすると無益な殺生はしたくないというのがある。だが、安倍首相やぼくの軍隊の上官が、「殺せ」と命じた時に、ぼくはその命令を拒むことができるのか。「できる」というのが「市民的不服従」の論理だ。安倍首相や軍の上官の命令よりも、「非戦闘員は殺してはいけない」とする国際法の正義や、宗教的な信念を上にするという考え方だ。もちろん、安倍さんや上官が殺せと言っているのだから、殺すのが正しい、という論理もあるだろう。では、「殺す」と「殺さない」とどちらが正しいのか、それに根拠を与えるためにも、苦手と言っていないで、いまから論理的にそこを突き詰めて考えておくことが必要なのだ。

現実問題としては、海外に派遣される自衛官の人々が「正義」の問題にさらされることになる。旧日本軍では、上官の命令が絶対で、八路軍と通じているかもしれないという疑いで、非戦闘員の村人などをたくさん殺害している。勝新太郎が主演した娯楽映画の「兵隊やくざ」にもそんなシーンがたくさん出てくる。戦争を実際体験した人が圧倒的に多かった時は、「そんなの嘘だ」なんて言う声は上がらなかった。安倍首相の命令で中東に行かされる自衛官は、果たして「良心的兵役拒否」ができるのか?いまから、そういう自衛官を私たちが支えていくためにも、ジョン=ロールズの「正義論」、これを読んでおいて、そして禁書になる前に家に退蔵しておこう。

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