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2015年1月30日 (金)

大阪でのシンポジウム

大阪であったシンポジウムにパネラーとして呼ばれ、自給的な生活をし体験会をしていたころの事や、原発事故前後の話をさせてもらった。来てくださった皆さん、原発のことなどにも関心がある人たちで、話を聞いてもらい良かった。このシンポジウムは、大阪西成の釜ヶ崎のミニコミ誌が主催となって行ったので、パネラーの方など、貧困問題や、就労支援に取り組んでいる方たちも多かった。こういう地道な活動こそが、この日本を支えていて、将来の希望だと思うのだが、せっかく知恵を出し地道に活動していても、最後の美味しいところはパソナやリクルートなどがごっそりとっていくというような話も聞かせてもらって、やっぱり原発も貧困対策も、結局あの人たちのお友達の間だけでお金が回っているのだなと感じた次第。

シンポジウムの後で、関電前に抗議に行くと言ってくれた頼もしい人もいて、ありがたい。抗議に行くというその資料を見せていただいたが、福島原発の事故収束作業で、どの立場の人がどれだけ被曝しているかを示した資料であったが、一目瞭然で、東電の社員さんで被爆している人は少なく、下請け労働者は桁数で4ケタくらい多くの人がたくさん被曝している。釜ヶ崎からも、声をかけられ福島に行っている人が多いとのこと。さらにショックだったのは、若い人でも仕事に困りずいぶんと福島原発に行っているらしいとのこと。安倍さんは、本気で貧困対策などする気はないなと思った。もちろん彼はそんな公約していないし政見も持っていない。なにしろ貧困構造があることが、原発維持と戦争遂行には不可欠だから。

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2015年1月28日 (水)

原子力損害の補完的補償に関する条約

あまり世間からは注目されていませんが、こういう法律が国会で可決されています。「原子力損害の補完的補償に関する法律」です。問題点をノーニュークス・アジアフォーラム・ジャパンのアピールからまとめてみました。

簡単に言ったら、これは日本が原発を海外に売りやすくする法律です。日本製の原発が海外で事故を起こしても、責任を取らなくてもよいとする法律です。日本が戦後70年、優れた技術力や海外で戦争をしてこなかったせいで、培ってきた外国の人からの信頼を失うことになります。我々が外国というと、ついアメリカやヨーロッパの方へ目が向いてしまいますが、世界は彼らだけで成り立っているのではありません。日本を支持してくれている人々は、アジア圏の人だったり、イスラム圏の人だったり、世界中に多くいるわけですが、今まさに、ヨルダンやインド、トルコへ原発を輸出しようとしていて、そういう人たちとの友情や信頼を裏切るものです。

もう少し具体的にこの法律を見ると、事故を起こしても、補償額が責任限度額である468億円を超えた場合は、加盟国からの拠出金で賄います。その拠出金は200億程度だそうです。東電の賠償額が2014年7月で4兆円になっていることを考えると、いかにこの補償額が少ないか、途上国の人たちの命の値段が値切られているかが分かります。しかもこの条約の損害項目として認められるのは、死亡または身体の損害など極めて狭い範囲に限定されていて、精神損害などは含まれません。福島の事故で多くの人が傷つけられたことなど、眼中にはないようです。もちろん、原発製造メーカーは免責されています。輸出された原発が海外の人に迷惑をかけても、一切責任は問われません。被害を訴え出ていい期間は10年に限定されていて、これは放射線の長期的な健康への害を、ないものとする立場です。裁判は、事故当事国でしか起こせず、法律が整っていない、途上国では、実に原発を運営するために都合よくなっています。

テロに対抗するためといって軍事協力をしたがることが、逆に現地の人の日本人への信頼を失わせ、日本人自体に対する安全を脅かす構図と似てますね。

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2015年1月25日 (日)

広がる非寛容の波

河北新報2015年1月24日付の「座標」という投稿欄に、青森公立大学の佐々木俊介氏が「市民交流で理解を深めよ」という投稿をしている。内容は非常に示唆に富むものであり、私自身大変勉強になったので、氏の投稿のポイントをまとめてみる。

現在、安倍首相やその支持者は言うまでもなく、一般の日本人の間にさえ、隣国や関係国に対する非寛容の空気が広がっている。その責任は政府やジャーナリズムのものが大きいのは当然だが、氏は一般市民にも問題はあると指摘する。そして、問題を解決していくために、市民レベル、個人レベルでの交流を通じた相互理解や協力に取り組むことを氏は提案する。

わたしが注目したのは、氏の歴史に関する考え方だ。アジア諸国に対する日本人の非寛容が広がるその根底に、「歴史認識問題」があるのは間違いない。明治以降に繰り返してきた日本のアジアでの戦争を、私たち日本人がどうとらえるかで、日本人の中でも相容れない対立がある。氏は以下のように述べる。

日本はアジアでいち早く近代化に成功し、一時期は植民地解放の支援者であった。そして、この次が氏の指摘で注目なのだが、植民地解放の支援者は、安倍首相やその支持者が言っているように、国家として日本ではなく、市民レベルでの活動であったということだ。氏はその証拠として、孫文やその後輩の日本留学生への支援や、インド独立の闘士チャンドラ・ボースへの協力、日本軍インドネシアの独立運動への協力をあげる。これらは歴史的事実だから調べればわかるだろうし、誰も歴史を歪曲できないだろう。ぼく個人としては、さらに魯迅の事跡も上げたい。私の住む仙台に大いにゆかりのある魯迅は東北大学に留学した。そこで、日本人の心ない言動に傷つけられもするが、恩師の藤野先生に大いに励まされる。そのことは彼の「藤野先生」という作品に書いてある。この作品を読むと、国境や民族・文化を超えた人間同士の触れ合いが描かれてあり、大いに感動する。

さて、国家としての日本はどうか。氏は、アジア解放をうたいながら、逆に人々を抑圧する道に進んだと指摘する。その証拠としてインド独立の父ネルーの言葉を引用する。「白人国であるロシアを打ち破った日本は、植民地支配にあえぐアジア諸国民に大きな希望と勇気をもたらしたが、その後帝国主義列強の仲間入りをし大きな失望を与えた」このように、かつてアジアの人々に希望を与えながら裏切ったという過去を戒めにすべきだと氏は述べ、これは決して安倍首相やその支持者が言うような「自虐史観」ではなく、過去に向き合い未来を展望する姿勢だという。私も、その通りだと思う。まずは、過去の事実に向き合うことからしか、新しい道は始まらないと思う。

以上のように述べてきて、だからこれまでの歴史を学んで市民レベル、個人レベルでの交流を積み重ねていくと、相互理解が進み、国家間の摩擦も軽減され、関係が安定すると結ぶ。

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2015年1月22日 (木)

論考2015

安倍首相のアメリカ追随策のせいで、日本人もついにイスラム教徒から「敵」のレッテルを張られることになった。もちろん、私は暴力に反対する。問題解決に武力をもちいることに反対する。だが、欧米人がテロと呼んでいるイスラム教徒の行動の根底に、欧米、特にアメリカの暴力行為があったことを見逃してはダメだと思う。アメリカが、イラクやアフガニスタンで行った無差別殺戮行為が暴力の連鎖を引き起こすきっかけであったことを忘れてはいけないと思う。今後、日本人も、いわゆるテロ行為の標的になるだろうし、ゆくゆくは中東に派遣される自衛隊員、そしてその家族の人たちをもつらく、苦しい立場に置くことになるのだ。

さて、河北新報で連載されている「論考」の筆者が本年から西谷修氏に代わった。早速1月号を見て、共感したので以下に要約を掲載する。

現政権は、この戦後70年目で、戦後レジームからの脱却を目指している。戦後レジームが敗戦によってできた「非戦」のことだとすれば、その体制から脱却するとは、戦争の準備をすることだと、西谷氏は喝破している。

現政権の政策については、西谷氏はこう述べる。現政権は「経済成長」をうたっている。だが、企業優遇は雇用条件を悪化させ多くの人を恒常的な貧困に追い落とす。しわ寄せは若者・女性に集まり、それがまた子供の貧困を生む。経済成長の追及は、社会をうるおさず、結局社会全体に不寛容をまき散らし、人々を分断し生きにくくさせる。

そして、以下の記述は、イスラム国による日本人人質事件の以前に執筆されているので、それだけ先見の明がある。安倍氏は、米国の強力なパートナーになり世界を仕切ろうとしている。だが、輪郭も制約もないテロとの戦争は、軍事力が世界秩序安定の解決にはならないことを示している。アメリカが掲げる「解放と民主化」の戦争は、一方的に空爆や無人機攻撃を仕掛けるが、ウイルスのように敵を変異させるだけで、もはや世界最強のアメリカですら戦争に勝つことは出来ない。日本が手伝っても、世界の混迷を深めるだけだ。

最後に、安倍さんが選挙で叫んだ、「この道しかない」について、西谷氏はこう述べる。安倍さんが目指す「戦後レジームからの脱却」と「経済成長」の2つの道は、いずれもこの先の展望がない。この道を進むことは、徒刑衆を使役するガレー船(漕ぎ手は貧困層,乗り手は富裕層)を漕ぎ出すようなもので、秩序の見えない世界でやがて難破すると予言する。ガレー船となって難破する前に、我々に何ができるか、重い課題が山積みだと述べて全体をまとめる。

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2015年1月20日 (火)

川内原発の気になる記事

九州の川内原発をめぐって気になる記事がいくつかあったので、紹介する。

まずは、安全対策を調べる鹿児島県議会の特別委員に所属する外薗勝蔵議員と小幡兼興議員二人の親族が経営する会社が川内原発の工事を請け負い(約2億円分)、その会社の相談役・顧問として二人の議員も報酬を受け取っていたというもの。二人の議員は、当然、川内原発の早期再稼働を求める陳情に賛成している。(2015.1.14.河北新報)

原発を推進するかたたちが言っている、「原発がないと、地元経済が衰退する」というのはこういうことだということだ。だが、ぼくは原発をやるか・やらないか、真剣に人間の倫理の面から考えなければいけないと思う。『一部の人が得しても、多くのしかも利権と無関係の人を事故に巻き込み、そういう人たちの生活を無茶苦茶にするものが、果たして正義の観点から許されるかどうか?』こういう議論を突き詰めていくのは日本人は得意じゃない。でも、「正義の話をしよう」のハーバード白熱教室のマイケル・サンデル教授の本が、日本でも売れたのだから、正義の話を日本でも、原発についてもしたいもんだ。

さて、正義の話と言えば、もう一つ、次に紹介することも正義と言えるのか。

川内原発再稼働差し止め仮処分申請をしていた人たちのうち10人が申請を取り下げた。理由は、九州電力が、原発が止まった分の損害として1日5億5千万の請求をすると言っているからだ。九電にしてみれば、金のなる木をみすみすほおっておくことになるのだから、動かさなければ動かさないだけ損が生じるという論理なのだろうが、果たしてこれが正義と言えるのか。圧倒的に力の差がある裁判の両者、例えば国家と一個人などの場合、圧倒的に力がある方が嫌がらせのために個人を裁判に訴えることを、「スラップ裁判」というのだそうだ。アメリカには、こういう「スラップ裁判」を禁止しているところもあるという。「正義」という観点から、九電のようなことをするのが許されるのか?私企業であれば何をしても許されるのか?そういう横暴な企業に対抗して、不買運動を起こそうにも、独占企業以外から購買するしか道がないという現状なのに。

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2015年1月17日 (土)

荻生徂徠『政談』

この本は、荻生徂徠が8代将軍吉宗に提案した建白書だ。幕政と世の中に対して政治と経済の面から立て直しを建議している。この書はもちろん一般に公開されることはなく、秘せられていてその存在は知られていなかった。支配は上から一方的に行われるべきで、下々には知らせるべきではなかったからだ。いまは、もちろん文庫本でも読むことができる。歴史研究としては意義があるが、いまの時代、徂徠の政治批判がこの日本の現実には役にも立たないと思われているから、禁書にすべくもないからだ。

読んで面白いとぼくが思ったのは、徂徠のこの書を見れば、すでに幕府の体制は終わっていたということがわかるところだ。もちろん、我々後世のものは、幕府が西暦何年に滅びるということを知っている。吉宗からあと何代将軍が続けば、幕藩体制が終わるということを知っている。そういう後智慧は確かにあるのだが、徂徠が批判していることで重要なことは、支配階級である武士がサラリーマンに、そして旗本などの高級な武士が官僚になってしまっているということだ。

幕府の支配とは、封建制だ。封建制とは、土地と米を基にした経済体制だが、武士が土地を離れただ給金をもらうだけの都市サラリーマンになってしまった時点で、幕藩体制の内実は終わっていたと、ぼくは思うのだ。硬直した官僚体制も、もちろん変化する国際情勢にはついていけない。ただ、自分たちの官僚組織を維持するためだけの細かい規則ややかましい礼法を言い募るだけの内向きの組織になっていく。当時生きていた人たちは、この幕藩体制が終わるなどと思っていた人などいないだろうが、一つの体制が終わるというのは、案外簡単なことで、その内実を支えている実質がすでに崩壊していればよいのだ。どうだろう、現体制は?明らかに、矛盾が大きくなりつつあるのに、うわべだけを必死に整えようとしているように見えるのだが。このままで重力の法則で自然に崩落すると思うのだ。

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2015年1月14日 (水)

新成人おめでとう

1月10日付の河北新報に、社会活動家、湯浅誠さんからの新成人へのメッセージが掲載されていた。ふだんから若者接している湯浅さんらしいあたたかいメーッセージだ。今の若者は…、と言われることの多い、現代の若者気質に、ぼくはこれからの日本の在り方にとっての、可能性も感じているので、湯浅さんのメッセージにも共感するところがあった。以下に、湯浅さんが若者に対して普段感じていることを紹介する。

いまの若い人は素晴らしい。慎み深く、物事には多面的な側面があることをよく知っている。口に出す前に考える。自分の見方が一部分にすぎないことをよくわかっている。

他人に対する思いやりが深い。他人を気遣う心がきめ細かい。一緒に食事をするときなどのさりげない所作にそれが表れていて、自然に身についたものと思われる。

ソーシャルな意識が強い。ソーシャルとは、誰かの役に立ちたいという気持ちが強い。ボランティアやNPOで活動せずとも、企業で働くときも、誰かの役に立ちたい、しかも、目の前の誰かを喜ばせたい、という直接的な手掛かりを求めている。

こうした若者の側面に、批判的な大人がいるが、そういう大人には、不安や嫉妬がある。つまり、上の世代が持っていないものを持っているので、若者を批判することで自分を肯定したいのだということ。

と、このように若者を肯定して、最後に、「自分の良いものに目を向け、自分の居場所を自分の中に見出してほしい」と言って、結ぶ。

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2015年1月11日 (日)

帝京大学ラグビー部大学選手権6連覇

帝京大学のラグビー部が、大学選手権で優勝した。これで6年連続の優勝。メンバーが毎年入れ替わる大学のクラブスポーツで、毎年強いチームを作ることは並大抵のことではないと思う。

さて、帝京大学とは、実は、私は直接の思い出があるのだ。30年前、大学生だった私は、4年間帝京大学とラグビーの定期戦をした。その当時は、帝京大学はラグビーは強かったものの、新興大学であったので、早稲田や慶応のようなブランド校からは相手にされていなかった。帝京は私のいた弱小大学とも嫌がらず定期戦を組んでくれ、だいたい100対0くらいで私たちが負けるのだ。失点を50点台に抑え、そしてこちらがワントライ取ったのが、一番よく戦えた試合だった。

そんな状況の中、これは私が1年生で部で一番下っ端だった時のことだ。私たち1年生は、ボール磨きとか、部室の掃除、そして風呂場の掃除などが役割だった。ラグビーは体が泥だらけになるので、練習や試合の後に風呂を浴びられるようにOBが風呂場を建ててくれていた。かなり古くて汚かったので、私たちも気を抜いていて、まあこんなものだろうと、いい加減な掃除をしていた。そこへ、ある時、帝京大が試合をしにやってきて、そして風呂を浴びて帰っていたのだが、そのあとを見てびっくり、風呂場も部室もピカピカになっていた。椅子や桶なども磨いてきれーになっていた。これを見て、私は驚いたと同時に、自分の心根が恥ずかしくなった。強いチームとはいうのは、試合が強いだけではなく、こういうところからして違うのだ。「自分たちが来た時よりも、美しくして去っていく」「自分たちが使う前よりも、使ったあとをさらにきれいにしておく」そういうことを、きっと帝京大の指導者たちは、選手たちに教えていたに違いない。

さて、最後に言いたいことは、この帝京大学の行いは人生全般に通じることではないだろうか、ということだ。われわれは、ほんのちょっとの時間を貸してもらって、この世に居させてもらっているだけだ。だったら、「自分が来た時よりも美しく」「自分が使う前よりも、使った後の方をさらに美しく」して、去っていくべきだと思う。だのに、自分が来た時よりも、さらに多くの処理しきれない核のゴミや、莫大な借金を後世に残していく、今のわれわれはいったいどうなんだろう?

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2015年1月 8日 (木)

新年 道を切り開くには

1月7日付の河北新報で社会学者の上野千鶴子氏の発言が取り上げられていた。ぼくにとっても興味あるテーマでいくつかの発言がされていたのでまとめてみる。

まずは、政治にというか自分の国の行方にどうかかわるかということについて。上野氏は当事者のことは当事者が決めるという「当事者主権」という言葉を福祉の世界で提唱した人だ。そこで氏は沖縄のことを取りあげる。沖縄の辺野古に基地が移設される問題は、沖縄に住む人たちに一番大きな影響を与える問題だが、沖縄の人たち抜きで移設が決められ実行されようとしている。これは当事者主権に反する。原発についても、自分たちの運命を自分たちで決め、原発建設を退けた和歌山県日置川町、新潟県巻町、石川県珠洲市の例がある。昨年の衆議院選挙での20代の投票率が一番低かったことを挙げ、氏は「お任せ民主主義」からの脱却を呼び掛けている。ぼくも、「お任せ」ではなく、「参加型」の民主主義が重要になると考える。

次は女性問題について。若者や女性が、被選挙権も行使して議員になることを提唱。女性議員が増えないのは女性の立候補者が増えないから、と述べている。そのうえで女性参政権実現に尽くした市川房江さんの言葉「権利の上に眠るな」を紹介。男性も含めてこの言葉は、ぼくもしっかり考えるべきだと思う。先人の努力があって、私たちは今の言論自由な、そして諸権利が守られている社会に暮らすことができている。だが、それは私たちが維持しようと努力しなければ、無くなってしまう危うい自由や権利なのだ。上野氏は、こうも述べる。集団的自衛権も原発再稼働も、反対するのは女性の人の割合が多い。だが、そういう民意と政治が結びついていない。つまり安倍氏は、本当は女性の権利擁護に熱心なんかではないと。

最後に「おひとり様」を提唱している上野氏は「個人の生き方」をこう提案する。大きな希望はなくても小さな希望はある。生き延びるための処方箋は、一つの収入減では不安定なので4つ、5つと増やすこと。それができるのは地方であって、家庭菜園をやれば野菜を買わずに済み、贈与経済も現物経済もあるというわけだ。もともと日本は多様な生業をかき集めてやりくりした「百姓(ひゃくせい)ライフ」があったのだと。ゼロ成長を前提に、身の丈で生きる社会へのギアチェンジすべき兆候が見えている、現に沖縄では基地マネーへの依存をたち切り始めている。

ぼくは最後の「個人の生き方」編が、一番元気がもらえた。庶民は、どんなことがあってもなにをしてもたくましく、したたかに生きなければだめだ。死んではだめだ。地方に住んで、何でもやれることをやって生きていこうという腹が据わる。

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2015年1月 5日 (月)

イベントのご案内

原発事故前後の暮らしの様子を話す機会をいただくことが出てきました。これもぼくに課された大事な役目だと思い、機会があればお話しさせてもらっています。原発事故に会うということはどういうことなのか、原発事故は何を奪い、何を壊すのか、お話しさせていただきたいと思います。もちろん原発事故は収束していません。現在も進行中で、私たちは被害を受け続けています。しかも、新たに原発を再稼働すれば、私たちのような経験をする人が出てくるのです。そういうことがないようにと祈りますが、そういう可能性がある地域に住んでいる人たちにもぜひ、話を聞いてほしいと思います。

来たる1月30日(金)大阪の長居ユ-スホステルで午後2時から「東日本大震災・福島原発事故後の世界を、いかに生きていくか」という題で報告・パネルディスカッション・フリートーキングを行います。パネラーは私の他に(変更の可能性もありますが)、

三浦俊一氏(釜ヶ崎日雇い労組)

中桐康介氏(NPO長居公園元気村・ヘルパーステーション「オシテルヤ」)

杉浦恵美氏(猫希望工房・コーポラティブまいど)

野田彩花氏(「人民新聞」に「生きずらさを考える」連載中)

西岡明彦氏(青空会議・翼出版企画室)

となっています。

実は、この企画に声を掛けられたのは、震災が縁で大阪の西成・釜ヶ崎で出版・文化活動をしている西岡さんの知遇を得たからです。そういうことで、釜ヶ崎から震災後の日本や原発事故を考えるのは、また考えさせる視点を与えてくれるのではないかと、私自身も他の方の発言を聞いたりお話ができるのを大変楽しみにしています。

フォーラムの参加費は1000円。お申し込み・問い合わせは「青空会議・翼出版企画室」(郵便番号557-0031大阪市西成区鶴見橋3-10-30 電話・ファックス06-6599-9549 sora@shore.ocn.ne.jp)までどうぞ。お近くにお住まいの方は是非お立ち寄りください。

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2015年1月 3日 (土)

オルハン・パムク『雪』

今日紹介するのはトルコ文学だ。日本ではなじみがないだろう。でも、筆者のオルハンはノーベル文学賞を取った。権威におもねるわけではないが、おすみつきの面白さということだ。この『雪』という小説は、トルコの田舎町で起こるクーデターの物語りだ。そこに主人公の恋愛が絡んできて、エンターテイメント性も十分で読み飽きない。小説の理解には若干、イスラムや中東そしてトルコの歴史の知識も必要だが、読んで勉強すればいい。この小説でキーワードになるのは「イスラム原理主義」とテロだが、この小説は9.11以前に書かれているので、それがこの小説を「未来を予想したかのよう」ということで名声を高めた。近代トルコの建国神話は「政教分離」だ。(ちょうど近代中国の建国神話が「抗日・救国」であるように、人々を一つの旗のもとに結集させる理念のことを、ぼくは建国神話と呼ぶ)。中東にありながら、イスラム教を政治から排除した近代ヨーロッパ的な民主主義がトルコの建国理念なのだ。

当然、生活に根を張ったイスラムからは不満もでる。そこに少数民族のクルドの問題もある。民主主義とは言いながら、強権的で軍事的なトルコの政権の体質もある。そういう複雑な政治と個人の恋愛がトルコの雪に閉ざされた田舎町のほんの数日間に見事に圧縮されている。日本でも、政治のことがタブー視されるのでなく、どんどんパロディー小説などに描かれ、人々や(特に若者が)気軽に議論できればいいと思い、この政治的な傑作小説をお勧めする。

オルハンの他の小説では「私の名は紅」。これは一転して歴史小説だ。トルコには細密画という伝統がある。ペルシャからの流れをくむものだが、西洋絵画との接触で伝統的な職人たちは苦悩する。そこに殺人事件が起こるというミステリー仕立てで、これも一気に読ませる。他に『イスタンブール』。イスタンブール生まれの筆者がイスタンブールの町について思いを語る。イスタンブールはご存知のように東西文化の接点にあるところ。東と西が交わる街だ。こう書いてくると、日本とトルコは似てないだろうか。なにが?常に他者である欧米に悩まされてきて、自分は何かを考え続けているところ。

トルコは世界有数の親日国だ。ユーラシア大陸の真ん中で生まれた民族が、一方は東に行って日本に、一方は西に進みトルコ民族になったと信じているという。イスラム国の日本人への信頼は一般的に高い。だが、私たちは今後その信頼を裏切るかもしれない。アメリカに追随して海外派兵して、イスラム教徒に銃口を向けるなんてことはしてほしくない。私たち庶民が、トルコの人たちやイスラムの人たちの思いにこたえて、イスラム教の事や彼らの国や政治のことをもっと学ぼうではないか。

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