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2014年12月29日 (月)

センター試験廃止

前回のブログの記事に、20代、30代の若者に自民党支持が多いという記事を紹介したが、そのことと関連して大学入試改革について考えることを記しておきたい。いまの小学6年生の子供たちが大学入試を受けるときから、現行のセンター試験が廃止されて、大学入試では、面接、小論文などの多面的な人物評価試験が課されることになる。センター試験がなぜいけないかというと、1点刻みの細かい知識を問うているからだそうだ。

教育改革の方向性としては、ぼくは賛成する。いまの時代、そしてこれからの時代、量としての知識の重要性はますます薄れていくだろうから、与えられた知識を覚えることにたけた人材は、時代の変化に対応できず新しい時代を切り開いていくことは出来ないだろう。言い古されているが、大事なのは、自分で課題を発見し、その解決策を自分で考える力だ。知識そのものは、昔であれば図書館とか、外国とか、なかなか一般大衆がアクセスできないところに閉じ込められていたが、今は知識=情報はありふれている。大事なのは、知識を暗記することでなく、知識を探すすべを身に着けていることであり、その知識を組み合わせて新しいものを作り出す力だ。

自分で考え、自分で新しいものを作り出していく力。これを身に着けていくには、小論文試験のように、常に自分はどう思うか、どちらの立場をとるか、その理由は何故かを論理的に説明することが求められていないとだめだろう。本来勉強というのは、自分が興味を持ったこと、興味があることを自分で調べてみる。少し、わかる。そうすると新たに次の疑問が浮かぶ。それを解決したくて、またその次を自分で調べてみる。ちょっとわかる…。という正の循環なのだが、今は負の循環に陥っている。やれと言われ、覚えろと言われるから、やる。いやなので、覚える気がしないので、覚えられない。すると、そんなんじゃだめだからもっと覚えろと言われる。するとますますやる気と自発性をなくす。というのが現状だろう。

そこで、最初の保守的な若者の話に戻るが、常にどちらの立場に立つか、自分で考える癖のついた人が多くなれば、中国や韓国から日本を守ってくれる頼もしい安倍さんというイメージを、何も考えずに受け入れ支持する人は少なくなるのじゃないかなと思う。香港の若者が、なぜあれほどまでに政治に関心を持ち、道路まで占拠してしまうかというと、公民教育が大きな原因だということを聞いた。公民教育では、教えられることを素直に覚えるのではなく、常になぜなのか、どうしてなのかを議論することが行われているという。日本でもそうなれば、そもそも国が検定したこの教科書の記述は信頼できるのか、というところから生徒たちが議論し、では「検定制度」とは何か?と疑問を抱き、それについて自分で調べてみて、その良い点・悪い点をまとめてみる、そしてそのうえで自分はどう考え、どちらの立場をとるのか、というふうになるのではないか。自分で考える人間は、急にはできないが、時間が来れば花開くように、自主性や自力で考える種を生徒たちの中に植えておかなければならない。

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2014年12月27日 (土)

若者論

12月23日付の河北新報「デスク日誌」の若者論を読み、共感するところがあった。衆議院選挙のさなか選挙担当デスクが世論調査の結果を見て、今の20代、30代は自民党支持が多いとつぶやいたのに対して、「デスク日誌」の筆者が、若者は権力に批判的なのでは?今の若者は保守的になったのか?と疑問を持つところから始まる。

筆者の分析はこうだ。いまの若い人たちは日本経済のデフレ期を潜り抜け就職状況が厳しかった。仕事についても給料がなかなか上がらない中で、アベノミクスにより、突然円安になり、株価は上がり、企業には賃上げを要求してくれる安倍さんは頼もしい存在に映る。安倍さんはまさに若者たちの現状を変えてくれる救世主、つまり「改革派」なのだ。

と、ここまでの分析は、ぼくもそうだなと思う。ヒトラーが狂信的にドイツで迎えられた状況とも一致する。河北新報の分析が面白かったのはこの後だ。

となると、安倍さんのやることにたてつく、ぼくのような人間は若い人たちの目にどう映るか。「デスク日誌」にはこう書いてある。安倍さんは集団的自衛権を行使し改憲をもくろむ。だから、安倍政権に反対し「平和憲法」を守れと訴える人たちは若者にとっては「改革」を邪魔する「守旧派」となる。

革新・保守の意味が逆転し、若い人たちに政治学の教科書に書いてあることは通用しない。ぼくが参加している秘密保護法反対のデモでも、原発再稼働反対のデモでも、ぼくの印象では参加者は少なくなっているし、参加しているのは50歳以上の人が圧倒的だし、街中を行進していても心なしか視線は冷たい気がする。そうか、ぼくらは安倍さんの改革を邪魔する頑迷な保守派分子だったのか。何となく背筋が寒くなる年末。来年はあべさんも勝負をしかけてくるだろうけど、どうなっちゃうんだろう。

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2014年12月24日 (水)

読みたい本・読んだ本

どうしてこういう世の中になってしまったのだろうということで今後読みたい本は、ミルトン・フリードマンの「資本主義と自由」。フリードマンは、自由競争と市場主義の信奉者で、自民党や安倍首相が手掛けてきた大企業が儲かればやがて下々の国民も潤うという新自由主義政策のもとを作った人だ。この本に対抗するように話題になっているトマス・ピケティの「21世紀の資本」。こちらの方は、資本主義が不平等を生むということを理論的に立証している本で、いま世界的にベストセラ-になっている。

さて、トマス・ピケティの本は21世紀の「資本論」だと言われ、評価されいるが、おおもとの「資本論」の方を読んだことがおありだろうか?ぼくのマルクスのイメージはあの教科書に載っていた長いあごひげを生やして尊大そうに微笑んでいるあの写真がすべてだった。「共産党宣言」の冒頭「ヨーロッパを妖怪が歩きまわっている。共産主義という妖怪が」は、世界史の資料集にも載っていて知っていたが、その続きはわからなかった。そこでこの「共産党宣言」を手始めに、「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」など文庫本として手に取れば薄くて読みやすそうなものから読んで行った。そして彼の思想や哲学を少し知ると、彼の思想はフォイエルバッハやヘーゲルを前提としているし、また同時に友人のエンゲルスの著作も理解しておかなければならないということがわかって、ドイツ観念論の方の思想家などにも手を広げていった。そしてこういう著作もまあ読んだので、牙城の「資本論」に攻め込んでいった。原書を読むだけの力はないので向坂逸郎訳の岩波文庫、当時手に入るものでたぶん10巻前後の大部のボリュームだったように思う。ぶ厚さにも難渋したが、やはり内容は難しかった。「資本論」は資本や利潤といった経済現象の解明に当てられた著作なので数字や数式が出てくる。近代経済学と違って微分などは必要なく、中学程度の数学でわかる。そう書くとなんだか偉そうだが、一生懸命読んでもさっぱりその内容が頭に入ってこないことが多かった。それでも何とか粘って最後までたどり着いて、心に残ったことは何だろう?歴史的な必然性から、資本主義社会では革命が起こりプロレタリアートの世の中が来るというマルクスの予言者性と、彼の労働者、当時の貧しき者たちへ寄せる熱い同情と共感の気持ちのこの二つだ。

ぼくが大学を卒業するとき不器用にもうまく就職できず、次の進路も見つからないときに、とりあえずアルバイトをしてみようと行ったのが、川崎の工場だったり、土木工事の土工だったりしたのは、労働者、労働者というマルクスの情熱に影響されたのは間違いない。それで労働者の中で働いてみて分かったのは、マルクスが神様のように賛美していた労働者なんていなくて、結局は人は人であり、いい人もいればそうでない人もいるということであり、きっとこれはマルクスが天敵のように憎んでいた資本家にも言えることなのだろうなということだった。マルクスは社会主義、共産主義の時代が来るのは、歴史の弁証法的発展からすれば必然だと言うが、当時ぼくは社会主義の現実を目のあたりに見て幻滅し、このことにも疑問を抱いた。

ぼくの体験は二つある。一つは、当時サンディニスタという左翼政権が支配している中米のニカラグアに行った経験だ。ニカラグアは、アメリカの裏庭で社会主義なんていうけしからん事をやっていたので、アメリカからにらまれており、経済封鎖を受けて困窮していた。その困窮を救うための輸出商品といったらコーヒー豆くらいしかないので、志ある人たちがコーヒー豆を摘むためにニカラグアに来ていた。そこでぼくもコーヒー豆摘みに参加することにした。

はじめてニカラグアの首都に降り立ったときは、驚いた。内戦直後だということもあるのだろうが、一面のがれきの原で、あの写真や映像で見た敗戦直後の東京の焼野原そっくりだった。おまけに機関車に鈴なりになって人が買い出しに行く姿も、敗戦直後の日本にそっくりだった。アメリカのせいなのかもしれないが、ここには貧しさというものが厳然と存在していた。山岳地帯のコーヒー園に移動し、国営農場で働いたが、ここでもすぐに音をあげてしまった。山の斜面をコーヒー豆をいっぱいに詰めたずだ袋を担いで降ろしてくる肉体労働は、若かったのでまあまあ耐えられたが、出される食事は三食、豆の煮たものとブラックコーヒー。コーヒーだけはいくらでも飲み放題だったが、砂糖と牛乳は貴重品なのでなし。毎日これなので、コーヒーはもうしばらく見なくていいという気持ちになったし、そして自分でも情けないと思うのだが、うまいもの、特に肉が喰いたくて喰いたくてたまらなくなった。ぼくの社会主義初体験は、社会主義とは食いたいものも食えない貧しさという印象だった。ニカラグアの帰途寄ったアメリカで、その資本主義社会の豊かさを見せつけられ、旅の思い出という名目でビフテキをたべる情けないぼくがいた。

もうひとつの社会主義の現実は、中国をバックパックを背負って旅した経験だ。当時の中国は開放政策へ舵を切り始めた頃で、外国人旅行客を受け入れ始めていたが、それでも立ち入り禁止地区も多く、西側に閉ざされた社会主義社会を維持しようとしていた。当時、外国人通貨と現地人通貨の二本立てで、二つの通貨の交換公定レートと、闇レートには差があった。そこで闇屋の中国人がいっぱいいて、交換してくれるのであるが、欠点がないはずの社会主義にも闇屋はいるのだという印象だった。そしてぼくが一番身近で感じた社会主義は、旅して一番身近に接する店員さんたちや宿屋の従業員さんたちだった。社会主義には私企業がないので、店員さんたちも国営企業の国家公務員だった。世の中すべての人が国家公務員であるとどうなるか。お客が来ても知らんふりで店員さんどうしで楽しそうにおしゃべりをしている。(別に客が来ても来なくても、給料は変わらないから。)何かを尋ねたり、お願いすると面倒くさそうにする。(給料が変わらないのに、仕事は増える)会計を済ませた後の釣りは投げてよこす。これがぼくにとっての強烈な社会主義の体験だった。

うーん、どーも社会主義なんてだめなんじゃないかと思い始めていた矢先、ソビエト連邦の崩壊。当時は、資本主義の勝利と騒がれたが、ぼくは手放しで資本主義をほめるつもりはない。ただ、ぼくの社会主義の経験からいって、普通に暮らしている人たちが、普通にちょっとおいしいものや贅沢なものを食べたいとか、ちょっと気の利いた質の良い商品やサービスを受けたいという気持ちに応えられず、そういった大多数の普通に暮らしている人たちの支持を失ったことが、社会主義ソビエトが崩壊したいちばん大きな要因だと思う。そして、ぼくの経験から考えたことは人間のモラルの状態が、まだ社会主義や共産主義の段階に達していないということだ。家のトイレより公衆トイレの方がきれいになっているような時代じゃないと、社会主義の到来は無理だろう。現にいま人は、自分の家のトイレはきれいにするだろうけど、公衆トイレの方はきれいに使おうと思わないだろうし、仕事として金がもらえるのでなければすすんでそれをきれいにしようなんて思う人はいないだろう。理由は「自分のものじゃない」からだ。「みんなのもの」だからだ。そこがマルクスの主張した唯物史観の欠点だと思う。唯物史観では、下部構造(経済制度)さえ変われば、上部構造(人間の精神)も変わるというが、人間なんてそういうものじゃない、もっと人間とは何かを探求する必要が、後生のぼくらにはあるのではないかと思う。

さて、マルクスの予言もどうやら成就しなかったようであるが、マルクスを読んで今でもぼくの心の中に残っていることは何だろう。いまの時代にこそ、読んでみたらと人に勧めるところは何だろう。それは、常に弱いものの立場に立つ、ということだ。資本家と労働者がいれば、常に躊躇なく弱い方の立場に立つ、そういう彼の情熱は本物だと思うし、その情熱こそがヒューマニズム(人間の人間らしさ)と呼ぶのにふさわしいと思う。弁証法的に歴史は発展していくという理論は、時代遅れで誤謬があったかもしれないが、強いものと弱いものがいれば、常に弱い者の方に付くということには、哲学的にも真理があるのではないかということが、いまぼくはとても気になっていて、ぼく自身の生きて考えていくうえでのテーマとなっている。というのも、常に貧しきもの、罪あるものとともにいたキリストや、弱さや柔らかさの方が強いと主張する老子のことを思いあわせられるからだ。弱いものの中にこそ真理があり、弱いことこそが実は強いのだと主張したキリストや老子、そして弱い者の立場に常に立ったマルクス、こういう思想が、これほど弱いものが傷付けられ、痛めつけられ、踏みにじられている時代はないこの日本という状況の中でこそ、意義を持ってくると思うからだ。

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2014年12月23日 (火)

読みたい本

新聞の書評欄を楽しみにしている。すぐには読めないが、読んでみたいなと思わせる本に出会えるからだ。頑張っていい本を書いて作っている人がいる。それを紹介して世に広めている人がいる。自分一人だけであれば、気付けないで会うこともなかった本に触れることができる可能性を書評欄はくれる。先日の日曜日に河北新報に載った書評欄からは「経済政策で人は死ぬか?」(デヴィッド・スタックラー、サンジェイ・バス)(草思社)がおもしろそうだった。

この本は、病気の最大の原因が貧困だということを実証的に示した本である。現代の先進諸国には主に2つの経済政策がある。財政緊縮と刺激策。もっと詳しく見れば財政緊縮策は、健康保険・失業者支援・住宅補助などの政府支出を減らす方向の政策で、思想的な背景としては自由市場経済重視の規制緩和派がある。グローバル経済を標榜するアメリカが先頭に立ち日本もその方向に追随しようとしている。サブプライムローン問題に端を発した経済不況下ではギリシャやスペインにこの政策が適用された。刺激策は、不況下でも社会的セーフティネットに積極的に予算を配分する方策で、スウエーデンやアイスランドがその代表的な例だ。

さて、2つの政策の帰結はというと、緊縮策は景気後退を長引かせ、国の財産を失わせ、ホームレスや自殺の急増といった人命を多数失わせた。刺激策のほうは、早々に景気が回復したという。この本はこのようにして、世界各地でデータを集め、経済危機の健康への影響をまとめた本なのだ。社会主義が事実上崩壊して、資本主義が世界を席巻し、その資本主義がさらに高度に発展してグローバリズムと言われる世界が一体化して経済的な影響下に置かれるようになりつつある現在、社会、経済体制をもう一度考察してみるのにとてもよさそうな本だとして、ぼくの読書リスト候補に入れておいて、ぜひ将来購入して読んでみたいと思っている。

この本の筆者たちも、ぼくに興味を抱かせた。著者はオックスフォード大の公衆衛生学者と、スタンフォード大の医師・疫学者という立派な肩書を持った人たちだが、二人とも経済的困窮の体験者だ。過去に失業して、健康保険も家もないという経験をしたり、困窮家庭に育って苦学しているという経験を持っている。それだけに、本の内容に説得力がありそうだ。『自己責任論」「自助論」がまかり通る世の中だが、どこまでが『自己責任』なのか、日本社会においても、きちんと議論して考えていかないといけないことだ。この本からは、とてもいい刺激を受けそうだ。

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2014年12月20日 (土)

広井良典・論考2014

河北新報に連載されていた広井良典氏の論考2014が、先日完結した。経済成長を絶対視しない「定常型社会」を主張する氏の考えに共感するところも多かったので、連載を楽しみにしていた。最後の回は、これまでのまとめとしてもう一度氏の考えが俯瞰できるものであったので、以下に要約を作っておきたい。

氏の主張の根幹は、人口減少社会への移行と対応が、日本社会の基本的な課題となること、そして限りない拡大・成長という発想から転換し、新たな豊かさや幸福の形を考えていくことが重要だということだ。氏は、消費税増税を先送りしたことに失望したと言っているが、それには氏の消費社会に対する考え方が表れている。つまり、これだけモノがあふれている世の中で、人々の消費が飽和していること。このような状況下ではかつての高度成長期のような経済成長を想定することに無理があるということだ。

経済成長がない世の中なんて考えられないと言うかもしれないが、氏は経済成長を絶対的な目標としなくても十分な豊かさが実現する定常型社会を主張している。その際に援用するのは、過去の歴史的な事実だ。人類の歴史は人口・経済の拡大・成長と、その後に来る定常化のサイクルを繰り返してきたという。ホモサピエンスが誕生し急速に拡大していったが、狩猟採集時代の後半にいったん定常化する。次は1万年前の農業開始とともに人口が増加するが、森林伐採などの資源・環境上の制約にぶつかって定常化する。定常化の時期が停滞期かというとそうではない。紀元前5世紀の定常化サイクル期には、インドの仏教、中国の儒教・老荘思想、中東の旧約思想、ギリシャの哲学など、地球上の各地で同時多発的に普遍的な思想が生まれた。

いまは産業革命から始まった人口・経済爆発期が、その勢いにようやく陰りがみられ、日本のような最先端で人口が高齢化する国では、定常化のサイクルに入りかけている。これから迎える定常化時代を悲観するのではなく、どのような思想やライフスタイルが確立され未来に受け渡されていくのか、とてもわくわくするような時代を迎えたということだ。

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2014年12月15日 (月)

メディア・リテラシー

今回の選挙、何が残念かといえば投票率が低かったことである。有権者の半数が棄権するとなれば、これで民主主義というものが成り立っているのだろうか?棄権するという行為は、現行の選挙制度のもとでは、政権党である自民党・公明党に投票したことと同じであり、彼らに何をしてもいいですよと白紙委任をしたのと同じだ。ちょうど、自民党の改憲案には、国民の権利の条項は削除になっていたので、選挙に参加しない日本国民は自ら権利はいらないと言っているようなものなので、この国の政府にちょうどお似合いの国民ということだろうか。「寒かった」「大雪が降った」という悪条件もあったのだろうが、自分で決めたくない、決められない、お上に決めてもらって従うだけだという、江戸時代300年以来続いてきた日本人のDNAがなせる技なのだろうか。昨日、ある会合で話をしていて、マスコミが選挙結果を予想して、その通りになってしまうのは日本くらいだという話がでた。他国では、そもそもマスコミが選挙期間中結果を予想することが禁じられている国もあるし、予想とはわざと逆に行動するような国では予想などあてにならないという話だった。日本だけは、マスコミが予想する方向へ、主権者の行動がなびき、その予測の範囲に収束していくというのは、本当に権威に従順な国民だということだ。

ただぼくも考えない人を作り出したということでは、塾で教えているということでその責任の一端はあると思っている。他者の発言や書いた文章を『批判的に受け止め考える』、そして「自分の考えを主張する」という訓練が教育の現場ではまったくされていないし、していない。うのみにするのではなく、自分で批判的に受け止め考える、それは特にテレビや新聞などに対して、そしてインターネットの情報に対して重要になる。これからの時代そういう能力がなければ時代の波の中では生きられないし、そういう能力がない国民の末路は哀れだ。そういう能力は、「国語」「算数」などと同じくらい人間の基本的な能力として求められ、子供たちや若い人たち、そして全世代の人たちに求められる。その能力が「メディア・リテラシー」だ。

ためしに、大手新聞紙の社説や同一事件の扱い方を比べてみるとよい。事実としての事件は一つなのだが、それをどう取り扱うかによって、まるで違ったもののように見えてくる。まずは、同じことでもすべてのマスコミが同じように報道していないということを知ることが大事だ。つまり、同じことを、すべての人が同じように見ているわけではない、この世には一つのことに対して自分の解釈以外の様々な解釈があるということを知ることが大事だ。そして、メディア・リテラシーで次に大事なことは、それを取り扱ったマスコミが、どういう意図でそれをそのように扱ったのかという、その意図まで見抜く力を訓練することだ。その力まで養わなければ、この情報時代の賢明な市民にはなれない。(もちろん、自分で考えるのは嫌で、上の人に決めてもらいたいという人は、市民社会の市民である義務も権利も自ら放棄している)「国語」「算数」と同じように、市民社会には基礎的な市民の素養としてメディア・リテラシーを次世代の市民に身につけさせる、自ら身につける必要がある。

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2014年12月11日 (木)

自由からの逃走

学生時代に読んだ本、エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』。この本は、なぜドイツ人がナチズムという全体主義にとらわれていったのか、その心理を分析したものだ。ヒットラーのような大悪魔がいて、その一人の悪魔が歴史の大災悪を引き起こしたとするほうが、歴史の解釈としては素人受けする。だが、フロムは、普通のドイツ人が、自分の精神的な自由を捨てて全体主義へと自分をゆだねていく過程を心理分析した。自由っていいものじゃない?素晴らしいものじゃない?それを自ら捨てるなんて信じられない、というかもしれないが、自由は自分で選択するという恐ろしい責任が付きまとうものだから、本当は人は自由を放棄したがっているのだ。私たちは自分たちが思っているほど自由では決してないし、自由を捨てて隷属してそこで安心を得たいと思っている。そういうメンタリティは、ナチズム時代のドイツ人だけでなく、今の日本人にもよくあてはまると思う。やはり古典は、いつの時代も読むべきで、そこから今自分が生きている時代を考えていく糧となる。

なぜ、日本の若者は保守的で安倍さんを支持しているのだろうか。ふつうだったら、安倍さんが進めている政策のおかげで、生涯派遣の非正規労働で働くかブラック企業で肉体的にも精神的にもボロボロになり、そして老後は年金なしという状況なのだから、怒りの矛先を向けてもよさそうなものだが。そこでぼくは思う。人間現実が過酷であれば、夢や理想は持てない。ぼくは全共闘世代から遅れて生まれ70年代の日本の若者が政治で燃えていたころを知らないが、それでもジョン・レノンが好きだったので、「愛」とか「平和」とかを夢見ていたし、時代的にもそういう余裕があった。だが、状況が過酷になればなるほど、そういう理想論は浮世離れした空論と考えられ嫌悪され、目の前の現実を生きるだけで精いっぱいになる。いま、安倍さんと自民党が強いのは、そういう過酷な現実で、現実しか見られない若者や多くの日本人が、現実を力強く推進してくれるリーダーとして安倍さんを支持するからだろう。となれば、国民を絞りつければ絞るほど、安倍さんは支持を伸ばすという、歴史上類を見ないような巧みな統治ということになる。

ヒトラーの場合、国会議事堂に放火してそれを共産党のせいにして、逮捕して、反対派を一掃してしまった。日本ではどうだろう。秘密保護法違反で、共産党の国会議員全員逮捕なんていう、シナリオがもうすでに描かれているかもしれない。こうやっていい気になってインターネットに書き込みをしているぼくだって、決して自由ではない。それにインターネットの自由なんて、ある日突然無くなる。権力を持っている人がやろうと思えば、特定のキーワードや意見・信条の人の書き込みを一切できないようにしたり、削除したりして閲覧不能にするのはいとも簡単なことだ。自分たちは自由であるという幻想を抱いて、それに満足させるというのは、ナチス時代からは格段に進歩した相当高度な統治術だ。

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2014年12月10日 (水)

総選挙を予測する

現実社会と数学や数式とのかかわりはどうなっているのだろうか?ぼくは根っからの文系人間であるが、原発事故後は数学・物理などの理系学問や工学に無関心で無知であったことを反省した。そこから、自分でも少しずつ勉強しなおしたり、新聞で面白い記事を見つけてはまとめを作っている。12月9日付の河北新報に、鳥取大工学部の教授が「AKB方式」で浮動票を分析するという記事が出ていた。この石井教授の実力のほどはというと、AKB選抜総選挙で、前年1位の指原梨乃さんではなく、渡辺麻友さんが1位になると予測し見事的中させたというものだ。

さて、では政治の世界ではどのように選挙結果を予測するのか?ブログやツイッターで書き込まれた件数と、候補者がテレビやネットのニュースに出た回数をカウントする。特定の政党や候補者に関するブログやツイッター上のうわさが選挙の「風」に当たると考え、これが浮動票=無党派層の行動を左右するので、その影響度を数式で導き出すのだそうだ。(一体どんな数式なのだろう?数式はいまだにアレルギーを感じる)

その予測精度のほどだが、ネット選挙が解禁になった13年の選挙戦からは書き込み情報が膨大となり、分析精度が上がり、ある程度の予測ができるようになり選挙結果とも一致したという。石井教授は分析を通じて、効果的な選挙活動とはどのようなものかを探るという。勘ではなく理論に基づいた選挙戦略というのがポイントだ。科学や学問の存在意義はそこにある。

とはいえ、(以下はぼくの独り言だが)マスコミを牛耳った安倍さんがやはり有利なのでは?昨日の夜の7時のNHKラジオのニュースでは、選挙のニュースはほんの1分くらい。しかも、それは安倍さんの演説内容を伝えるだけで、野党の選挙活動は一切報じられなかった。これは、自民党がマスコミに申しいれた「公正な報道」にさえ、違反するのでは?しかも、安倍さんの演説内容が、「私のおかげで経済がよくなり、しかもアップル社の研究所が日本に来るのですよ。これで日本の経済は明るい」というもので、このニュースのあとに、NHKは取ってつけたように「今アップル社が、研究所を日本に進出させることを丁度発表しました」というニュースを続けた。これほど、露骨な大本営発表ってあるのだろうか?こういう、マスコミの応援は数式でどうあらわすのだろう。数式は補正する絶対定数(マスコミの従順度とか)が必要では?

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2014年12月 9日 (火)

被曝量と健康被害

河北新報12月8日付の「持論時論」に、弁護士井戸謙一氏の投稿が掲載された。ぼく自身も誤解していたことがあったし、政府の原発推進政策や帰還推進政策に対してしっかり批判する眼を持てるようになるためにも、井戸氏の被曝量と健康被害の関係に対する指摘は有益であると考えた。そこで、以下に要点をまとめてみる。

まず、現在の問題点を井戸氏はこう指摘する。「政府が高線量地への帰還をどんどん進めている。一方で小児甲状腺がんの患者が発見されている。だから、長期低線量被曝による健康の危険性をどう判断するかが大切だ」と。まず、長期低線量被曝の危険性についての誤解だが、原発を推進する立場の者は、学者も含めて、「100ミリシーベルト以下の被爆では健康被害があるという証明がなされていない」と主張し、あたかも「健康被害がない」というのが定説として流布されているが、正しくは「健康被害があるかどうかは証明されていない」であるという。

となれば、ないか、あるかわからないのであれば、あったら困るを前提として用心深く行動すべきだとぼくなどは思う。なかったらなかったで、それでよかったねで終わると思うのだ。

つぎの誤解は100ミリシーベルトだ。この100ミリシーベルトは「年100ミリシーベルト」ではないとのことだ。正しくは「生涯における自然放射線による被曝以外の被曝量が100ミリシーベルト」というのであって、これは厚労省のホームページにも出ているという。ということは累積で100ミリシーベルトであって、年20ミリシーベルトの土地にいれば5年で100ミリシーベルトに達してしまうが、一部の専門家が意図的に(原発を推進するために?)年100ミリシーベルトと述べるため、これが反原発派の人たちの間にさえ、誤解を生じさせる原因となっているという。

このトリックは、大したものだ。今政府は年間20ミリシーベルト以下の線量地に人々を帰還させようとしているが、『100を超えたら危ないけれど、20なら大丈夫』とおもわせることができ、政府にとって実に好都合なトリックなのだ。

この記事を読んで思ったこと。大手の中央新聞・テレビはもうあきらめて選挙には行かないでくださいと、さんざん政府広報を流しているが、大手新聞が何を言おうと、テレビが何を言おうと、候補者の政見をよく見て、選挙には行った方がいいなと改めて思った次第だ。みなさん、とにかく選挙には行きましょう。

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2014年12月 7日 (日)

衆議院選挙

来週の日曜日は衆議院選挙だ。日本の方向を決める大事な選挙だとぼくは思っているのだが、大手新聞やマスコミの世論調査では自民党が300議席を超える圧勝との予測がどんどん流されている。世論を誘導するマスコミの戦略なのかなという気もするが、自民党はやはり磐石で強いというのも、ぼくがなんとなく実感しているところなので、マスコミの予想もあながちウソでないのかもしれない。とにかくぶれないで団結を保っているのは今の日本では、右の自民党と左の共産党だけだ。自民党が偉いのはずっとぶれないで、対米従属、憲法改正、軍備増強、大企業優先、非正規労働の拡大、格差拡大、自然保護よりも公共工事優先、原発推進を貫いてきたことだ。それに対抗すべき左はしょせん理屈っぽいインテリだから、少しの違いで仲間割れして意見がまとまらず自民党の敵ではない。安倍首相の勝利でいよいよ改憲、徴兵制、言論封鎖というところまで次の4年で、日本の変化を見ることになる。ぼくも一種の歴史の生き証人となるわけだ。

安倍首相がなぜこれほど支持されるのかを考える論考が12月4日付の河北新報に載った。内田樹氏のインタビュー記事だ。彼の論考には前から共感するところもあるので、その要約を以下に記す。

内田氏は個人消費が落ち込んでいる背景として『すべての財を市場で商品として購入する』という経済活動以外の「非市場的交易」の広がりがあると指摘する。生産者と消費者が市場を介さず顔と顔のネットワークの中で財やサービスを交易する動きが広まっている。生きるために必要なものを賃労働で得た貨幣で市場から購入する仕組みの不合理さに都市の若い労働者は気づいてきたし、労働力を売ることではもう食えない、家族を持てないというところまで雇用環境が悪化した。非市場的交易が増え、貨幣を介さない経済活動が増えることを政府は嫌い、地方創世と称して、個人や中間共同体主導の「顔と顔」の交易活動の広がりを許さないと狙っている。

自民党圧勝の中で、ぼくが少し将来に希望が持てるとしたら内田氏が言っている、市場を介さないネットワークだ。自由、平等、友愛、平和、環境を掲げる日本の左はいったん落ちるところまで落ちて、焼け跡の灰の中から本当に価値あるものだけが残った方が良いと思う。その本当の価値があるものの一つだと思うのが、内田氏が指摘する個人的なつながりとその中で行われる経済活動だ。このセクションがもし大きくなれば国家権力は弱体化するし、原発を動かす力もないし、日本の国債は紙くずになる。もしネットワークがあれば国民は困らないし、その時に困るのは既存の構造に寄生している政治家と官僚だけだ。

さて内田氏が分析する安倍政権の強さの秘密は以下の通りだ。安倍政権はグローバル企業の収益増しか考えていない。そのためには国家は株式会社のように、つまりトップが先決して決める方式で運営されるべきだと信じている。だから、特定秘密保護法も解釈改憲も安倍さんの専決で行った。民主的プロセスは株式会社では意思決定を遅らせる邪魔者でしかないからだ。ではなぜ国民は反対しないのか?それは国民の大半が、トップからの専決で動くことに慣れ切ってしまい、そういう組織モデルしか知らない会社員だからだ。株式会社には民主主義も合意形成もない。トップがすべて決めて、経営判断の適否は従業員ではなく市場が決めるからだ。昔のように農民が国民の過半数を超えていたら安倍さんは共感をえられていない。村落共同体の目的は成長することでなく、存続することだからだ。

内田氏のこの指摘はとても興味深い。そして改めて自給することや自立することの大切さ、そして普段の生活がその人の政治的な意識も決めるのだということを考えさせる。日本では急速に自営業者が減っているし、新規起業数も少ない。非正規労働で1か月一生懸命働いても生活保護受給額を上回れないこともある。人々の暮らしは今底値だと思うが、やはりここからも灰の中から本物が残るように、自営や自給をする人が増え、自立した人が増えていけば面白い日本になる可能性はあると思う。そのためには身を焼くようなひどい苦しみを通過しなければならない、というのが自民党圧勝予想の意味だと思う。

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2014年12月 6日 (土)

A universe from nothing

宇宙はどこから生まれたのだろう?そして人間は?これは古くからある、そして永遠の謎だ。およそ地球上にあるあらゆる民族の神話、宗教、哲学がこの謎に答えようとしている。人間の(そしてそれは同時に子供らしい)知的好奇心が、そう質問せざるを得ない。「始まりは?その始まりの始まりは?そのまた始まりは?」ぼくは東洋人として『老子』の哲学にひかれる。老子は宇宙は『混沌』から生じたとして『無』を重んじる。彼のこの直観が、現代の科学の世界で明らかにされていることとどう関連するのかに興味があり「宇宙論」についての著作を読みたいと思っていた。

それがLawrence M. KraussのA universe from nothingだ。Krauss氏は有名な物理学者で多方面で才能を発揮している人だ。講演などもユニークで人を飽きさせない。You Tubeで彼の名前を検索すると「無から生じた宇宙」の講演をすぐに見つけることができる。ジョークを交えて笑いに満ちた楽しい講演だ。著作の方も洒落を交えて楽しく飽きさせないで読ませてくれる。そして何と言ってもありがたいのは物理学を一般人から敷居を高くしている数式が一切出てこない。数式を使わずとも、現代の科学的データや観察、そして科学者たちの論理的研究からどうやら宇宙は無から生じたらしいということを、説明してわからせてくれる。

無から有が生じると言ってもイメージしにくいのだが、要は理論的に無から物質が生じることが、このいまの宇宙を支配している物理的法則からあり得ることだし、そしてそう考えるのがいろいろな観測データとも合致するということだ。物資と反物質というSF世界のようなものが出てきて、無の状態では不安定なのでそのわずかの対称性の破れから物質とエネルギーが生まれ膨張宇宙が生じ今の宇宙、そう130億歳の宇宙があるのだという。その無の状態にたいしては、外部からの働きかけがあって変化を生じさせたのか?そうだとしたらキリスト教のように「創造主」を想定しなければならないが、『神』を想定しなくても無から宇宙は生じるのだという。だから「神」は不要だと氏は書いていたが原理主義者から脅迫は来ないのか?いささか心配だ。無から生じた宇宙だから、やがてまた無に戻るというのがKrauss氏の未来予想だが、そうだからこそ今の生を前向きに楽しく生きるというのが心に残った。

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2014年12月 3日 (水)

「ユマニチュード」認知症ケア最前線

高校生向けに小論文を書くことを教えている。仕事柄、小論文のネタになりそうなことすべてについて、いろいろ知っている必要がある。世の中のすべての現場に精通するわけにはいかないが、せめて勉強してなくては追いつけない。特に自分が専攻しなかった、理系(科学技術)、医療、福祉なんていう分野は、元の知識もないものだから学べば新鮮だしためになる。仕事のせいで勉強させてもらってると思えばありがたい。

さて、世界でも類を見ない高齢社会である日本では、「認知症」は大きな問題だ。介護の人材不足が言われている中で、老齢に「認知症」が加わればさらに介護をする人の負担は増える。また、認知症の高齢者が家族が介護をしている隙に家を出て徘徊し、ホームから転落して死亡した。遺族はJRから運行に支障をきたした賠償金を求められ、裁判所もそれを認める判決を出したということが起こった。家族で介護することでさえとても大変なのに、さらに事故の賠償まで家族が負わなくてはならないとしたら、いったいどうなるのだろう。これから高齢者の割合は増える一方であるし、高齢者が増えるということは認知症患者も増えるという意味なので、認知症の介護の問題は大変大きな社会問題だ。

認知症患者は、介護されていると暴れる。治療を受けていても、点滴の管を抜いてしまう。そこで、身体拘束をすることになる。拘束をしていると体の機能が衰え寝たきりになってしまい、そして精神的にもますます機能が失われてしまう。これが現状の認知症患者が置かれている状況だが、そこには認知症の人に対する誤解がある。確かに認知症は脳の一部が縮小するといった「病気」であるが、人間としての機能がすべて失われているわけではない。記憶についてはすぐ直前のことを覚えていないが、感情に関する部分の機能は残っている。だから、介護をすると言って突然手をつかまれたり、シャワーを浴びせられたりすると身に危険が迫ったと感じでパニックになって暴れたりするのは当然なのだ。そこで、その認知症の特性をしっかり理解したうえで、介護する技術「ユマニチュード」がフランスで生まれ日本でも導入されつつあるというのが、角川oneテーマ21文庫から出た「ユマニチュード 認知症ケア最前線」という本の中身だ。

ユマニチュードの技法のポイントは「見つめる」「話しかける」「触れる」「寝たきりにしない」ということで、何も新しいことはなさそうだが、認知症の特性をしっかり理解した上でのことなので効果が高い。この技法で介護すると認知症患者さんの方もケアに協力的になり、結局ケアする時間が減るという利点もある。ユマニチュードの考案者は医師ではなく体育教師だ。かえってその方が医療界の「常識」にとらわれることがなく、「人間」としての本質をとらえることができたのだと思う。ユマニチュードの根本哲学は、「人と人との間に生まれた絆を中核とするが、認知症患者はその絆が断ち切られている。相手を人間として認識し最後まで人間を人間として感じていられるよう絆を回復する。」「認知症患者本人が何を求めているのか知ることが大事。だから人間関係を成立させる優しいコミュニケーション技術が必要。優しい人がケアしてくれるとわかれば相手もそれを受け入れ優しく協力的になる。誰かと人間関係を築くときは、好意を感じる視線や優しく触れられていることが必要」「私たちは医学的な治療ばかり考え、本来その人にしなければならないことを忘れている。ケアの現場では人間に注目してこなかった」そうユマニチュードのユマとはhuman「人間」なのである。

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