« 2014年6月 | トップページ | 2014年8月 »

2014年7月31日 (木)

パラダイムシフト

原発事故からこの方、科学や科学技術について根本的なことを考えている。自分が機械音痴で、理系科目が苦手だったことの反省も含めてだ。そこで、読んでみたいと思っていたThomas S. Kuhnの著書The Structure of Scientific Revolutionsをやっと読了した。これは「パラダイム」という科学史以外にも大きな影響を与える概念を初めて論じた画期的な著作だ。パラダイムというのは、科学者グループが持っている思考の枠組みで、そういった科学者グループに入っているくらいの専門家ならすべてのメンバーが共有している。そういった枠組みに縛られて専門家は思考し、現実のデータを解釈する。だが、科学が進歩し、観測技術なども上がっていけば、古いパラダイムでは説明きれないようなデータが出てくる。そういう矛盾がやがて噴き出せば、古いパラダイムでは太刀打ちできなくなりやがて科学者たちは新しいパラダイムに乗り換え、その新しいパラダイムが専門家集団の思考の源になる。

何でこんなことを考えたかというと、先日福島県の小児がん発生のデータを検討する会議に、参考人に津田敏秀氏が呼ばれたのだが、津田氏が、「発病が有意に増えている」と主張するのに対して、国と福島県を代表する側の長瀧氏が原発事故の影響は一切見られないとの従来の主張を繰り返したからです。これはいわば、長瀧氏が古いパラダイムにしがみつく代表(いわば昔の天動説のようなもの)、津田氏が新しいパラダイム(いわばコペルニクスの提唱した地動説のようなもの)の代表というわけでしょう。クーンの本にも、新しいパラダムをもたらすのは若い人、そしてその専門分野の外にいる人と書いてありました。そして、古いパラダイムを最後まで捨てないのは年寄りの権威者だと書いてありました。

お国の御用学者を憐れむのも結構ですが、ただ、クーン氏の著作で参考になったのは、新旧のパラダイムが対立し論争になった時は、お互いの言語が通じなくなったようなものだというところでした。古いパラダイムが信用されなくなるのは、重鎮の方々がお亡くなりになるのを待ち、新しくこの世界に入る学生・院生たちが新しいパラダイムを受け入れその若い人たちが専門家集団の中心となっていけばよいのですが、クーン氏が言うには新旧の通じ合えない言語を互いに翻訳する「翻訳者」という存在も必要とのことでした。

古いパラダイムも、存在理由があって存在していたのですし、存在していた間はいろいろな現象を科学的に説明できたから、専門家集団で支持されていたのです。この「翻訳家」というのは、原発問題でも必要なのかなと思います。今、「賛成派」と「反対派」ではお互いに外国語をしゃべっていて言葉が通じない状態です。これでは、建設的な話し合いができず、全く改善されない同じ過ちが繰り返されるだけでしょう。ぼくは、違う立場の人の「言語」も学んでみたいと思っています。推進派の応援を受けて「パンドラの約束」という映画が、8月9日から桜井セントラルホールで上映されます。愛国者的ジャーナリストの櫻井よしこ氏も推薦しています。ぼくもぜひ見てきたいと思っています。

7.16環境省専門家会議

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年7月28日 (月)

いわゆる…

今NHKのニュースで従軍慰安婦のことを伝えるには、必ず「いわゆる従軍慰安婦」と枕詞をつける決まりになっている。この「いわゆる」が同じニュースの中で何10回と繰り返されると、もういい加減にしてくれという気持ちになる。で、この「いわゆる」の意味であるが、従軍慰安婦は歴史上存在しないが、中国・韓国もしくはそのような海外勢力に同調する売国的日本人の一部が一方的に存在していると主張するものであるところの、いわゆる従軍慰安婦という意味であろう。NHKの会長と経営委員に自民党の息のかかった人が来てからこのように報道するようになった。どこの国だってやっていると開き直ることはお話にならないとして、日本人が絶対に過ちをしないという無謬性を信じることが愛国なのだろうか。日本および日本人にもいいところはたくさんあると認めつつも、誤りは誤りとして認めることこそが愛国だと思うのだが。われこそは愛国だと言っている人が、率先してこの国の美しい国土を放射能で汚染しているのを見ると、どうも愛国を名乗り、自国の誤りを認める人を日本を貶めると言って批判している人たちを信頼しかねる。

そんなことを考えていたら今日の河北新報の郷土本出版コーナーに『100年前からの警告 福島原発事故と朝川貫一』が紹介されていた。朝川貫一は、日露戦争後に『日本の禍機』を出版し、大義を欠いた軍部の台頭で世界から孤立する母国のありように憂慮し警告を鳴らした。そして「国民に最も必要なことは反省力ある愛国心だ」と述べたのだそうだ。日露戦争の勝利で日本の進路は狂ってしまった。勝ちは負けなのだ。だが、勝利の熱狂の中で何を言っても愛国心の前に消されてしまったことだろう。日露戦争は司馬史観でも日本の英雄たちが活躍した若き明治国家の絶頂と描かれる。だが坂の上に栄光があったわけでなく、あとは坂から転がり落ちるだけだった。本当に愛していればどのような言動を取るべきなのか、地方でこんな本が出版されるのはとてもよいことだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年7月25日 (金)

強ければルール無視「最高責任者は私だ」

河北新報7月23日付の「ズーム」という特集に、強ければルール無視、「最高責任者は私だ」という特集記事が載り、興味深く読んだ。安倍さんは、シンガポールでの国際会議で中国をけん制して「法による支配」を何度も呼びかけたのに対して、国内では立憲主義を否定して自分の一存で憲法解釈を行い、最高責任者の自分がやるのだから、気に食わなければ選挙で落とせ、と言っている。国内外で一見矛盾する言動にどう整合性を持たせるかと考えると、「私こそが法だ」となるが、これはフランス絶対王政の「朕は国家なり」を思い起こさせる。フランス王政は、フランス革命で倒れて立憲共和政ができた。こういう状態に内田樹氏の言葉を引用して、「必要な法律を作らず、行政が法律の解釈変更、政令で政治を行うのが独裁であるが、日本は民主制から独裁制に移行しつつある」と記事は指摘している。

だが、憲法が踏みにじられ、表現の自由が脅かされている現状の日本が独裁制に移行しつつあるということを認識している人は少ない。その原因を記事は、国民のほとんどがサラリーマンの見方に染まったためと説く。つまり、経営者のトップダウンで物事を決める会社のやり方に慣れてしまっている人たちには、自分の考えで行動するという習慣がないということだ。安倍さんは確かに強い。支持率は50パーセントで断トツだし、選挙で棄権する6~7割の人たちの票が、自民党と公明党に有利に働くことを考えると、国民の9割に支持されていると言える。だから、原子力規制委員会の委員長が電力業界から金を受け取っていて本来なら委員長になる資格がないとしても、トップの人が「わたしが決めたのだからそれでいいのだ」といえば、誰も国民は文句は言わないのだ。

では、どうしたらよいのだろう。自営業の人を増やしていくのも一つの手だとぼくは思う。ぼくもあらためて自分で稼ぐ才覚を身につけたいものだと思う。自分で稼いで自分で税金を納めれば、金の使われ方に関しては誰だって物言いたくなる。記事には、あきらめないで声をあげつづけると出ていた。安倍さんは、周囲の反対を押し切ってでも自分の信念を貫く頼もしい人、というイメージがマスコミによって作られているが、自分の意思を持っておかしいという声をあげつづける人がいるのだから、それを続けていくことが大事だ、と結んでいる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年7月23日 (水)

この国の風潮

河北新報7月18日付の記事から考えたこと。8面に、経済同友会が仙台でセミナーを開き、同会の方針だった「縮原発」を見直すことにしたという記事が載った。同友会をはじめ、日経連など経済4団体はすべて安倍さんなどをはじめ自民党の応援団だろうから、「命」や「倫理」を無視しても原発を推進するのは当然として、被災地の震災の復興についても提言している。すなわち「被災地の街づくりは住民の合意を待つことなく、行政主導の意思決定が必要」とのことだ。住民の合意を重んじて、下から作り上げていく民主的なプロセスを無視して、江戸時代のようにお上が命令を下して土木工事をすればいいということだ。確かに、江戸時代の土木工事も、河川の氾濫を防ぎ農地を守るといった効果はあったのだろうが、「カムイ伝」などを読むと、農民たちが自分たちの生活を守るために知恵と力を出し合い自分たちの生活を自分たちで守るという場面も決して少なくはなかったはずだ。だが、なぜ、いま、日本では、「おれが法律だ。文句は言わせない」という風潮が広がっているのだろう。

たまたま同日の河北新報1面では、巨大防潮堤についての問題提起が行われていた。本吉町の巨大防潮堤では、県は住民説明会で合意を得たとしているが、会場では賛成・反対の両派の激しい応酬があったという。新たに開いた検討会で県は、一刻も早い着工が求められていると主張したが、景観を専門とする専門家は変な地形になると計画変更を要求したということだ。七ヶ浜町では、県はおおむね地権者の同意を得たとしているが、『七ヶ浜の100年を考える会』の代表は「海岸は地域の財産なのに、今後どう生かしていくのかという話し合いの場さえなかったのは残念」と発言している。どうして、いま、民主的な合意形成のプロセスを無視して、「おれが決めたのだからその通りだ。俺が法律なのだ」という風潮があるのだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年7月19日 (土)

街頭民主主義

民主主義が機能しない時、例えば選挙制度がうまく民意を反映するようになっていないなどの時、町に出てぼくらは声を上げることができる。秘密保護法や集団的自衛権、憲法改正に疑問を持っているのなら、おかしいと思ったことに街角で声を挙げればよい。気軽に来てもらって、誰でもビラの手渡しなど簡単に手伝うことができる。毎週金曜日12時から仙台中央の佐々重前の交差点でやっている。

P7180006_640x480_4


stop秘密保護法ネットワークのブログも見てください。





| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年7月17日 (木)

川内原発再稼働

鹿児島県の川内原発が再稼働する。この知らせにはがっかりだ。規制委員会の委員長はこう発言したと報じられている。「審査基準には適合しているが、安全と申し上げているわけではない」どんな想定外のことが起こるかわからないのだから、誰も原発が安全だなどと断言できる人などいないのだ。それでも原発をやるという人は、人の命や生活や自然環境の大切さよりも、もっと大切なものがあるのだろう。

そもそも原発再稼働の条件には、事故があった時、地元住民がどう避難するかという計画は入っていない。地元住民が事故の時に全員避難することなど不可能であるし、そんな計画が稼働の条件であれば日本の原発の稼働が不可能になるというのが、自民党や電力会社をはじめとする推進派の人たちの考えのようだ。平たく言えば、巨大な利権の前では住民の生活や命の価値はゼロというわけであるが、それがまさに福島原発事故で起こったこと、そして今も起っていることなのだ。宮城県にも放射性物質は飛来して人々の健康は脅かされているし、すぐ近くの里山で山菜を取って食べるというような生活は失われた。だが、公式には放射能の被害はないということになっているので、誰も補償をしてくれるわけでもない。事故の原因が究明されないままで再稼働し、また事故が起こっても、住民を切り捨てれば済むことだ。人々の生活に寄り添い、その生活に価値を見出すという発想はないのだから。

Img_20140717_0001_453x640


さて、川内原発再稼働という暗いニュースの中で、ぼくたち力のない者たちに何ができるのだろうか。アジアノーニュクスフォーラムという団体から、山口県祝島での原発建設反対運動への協力の呼びかけの案内をもらった。建設に反対している地元の人たちへの資金援助だ。原発に頼らずに地元の人たちが暮らしていけることが理想だ。しかし、現在緊急に支援が必要になっているとのことだ。ぼくも、貧者の一灯をともした。会のホームページはここだ。

http://minnanoumi.jimdo.com

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2014年7月15日 (火)

情報開示問題

政府や官庁が保有している「情報」の開示についての重要な判決が昨日最高裁で出された。1972年の沖縄返還を巡る日米間の密約文書の開示をめぐり、開示を訴えていた原告だが、最高裁は「行政機関が存在しないと言った文書は、開示を請求する側が存在を証明しない限り公にできない」といって原告の敗訴が確定したものだ。

この判決、国と官庁を応援する判決で裁判所は3権分立の役目を自ら放棄したものだ。まず、力関係が違いすぎる両者にあっては、力が弱い方のハンディを考慮して立証責任を決めるというのが「公平」というものだとぼくは考える。国・官庁と市民側では、圧倒的に市民側の力が弱く、官庁のどこそこにこういう文書がありますよなんて証明できるはずがない。また、この判決は、国や官庁が秘密を隠したい時は「そういうものは存在しません」と言いさえすれば、市民からの民主的な開示要求を拒むことができるというお墨付きを与えたものだ。

秘密保護法ができて、これから秘密が永遠に隠匿できることが可能になろうとしているのに、それに追い打ちをかける判決で大変残念だ。いったいこの国は誰のものなのだろう。国民のものであれば、国民は情報を正しく知って、それに基づき判断して国の方向性を決める。この日本という国を愛しているからこそ、正しい情報を知って正しい選択をして、次の世代の人たちにこの国を手渡していきたいと思っているのだが。どうやら、この国はこの国の人のためにあるのではないらしい。この国の人が関与できないところにあるらしい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年7月13日 (日)

正月対談の続き

中島岳志氏と柳田邦夫氏の河北新報1月1日付に載った対談の続き。気になるところを抜き出してまとめてみる。

・中島氏…人間が作ったものは必ず滅びるというのが保守思想の基本認識。人間は不完全で、人間が営む社会も過去・現在・未来を通して不完全でしかあり得ない。完全な原発、万全な対策とは口に出せないのが保守。その意味で安倍首相は保守ではない。

・柳田氏…便利さ、豊かさを求める人間の欲望は強烈で、政治が迎合するのは安倍政権を見ていても分かる。一方、科学のモラルや倫理の問題は、理念として提起されても大衆レベルでは受容されにくい。知性ある人が発言し続けるしかないのか。

・中島氏…知性による抑制に加えて宗教、祈りの力もある。英国のインド支配に非協力で対抗したガンジーは、運動自体の暴力性にメスを入れようとした。水俣病の患者認定をめぐる闘争でも、問題を金銭的な賠償に還元してしまっていいのか、結果的に「チッソ」的なものを強化してしまうのではないか、その全体構造を乗り越えなければと当事者が考えた時に到達したのが祈り。

・柳田氏…津波の被災者の中には、犠牲になった肉親の幽霊を見る人が結構いる。これを科学で説明しても無意味で、その現実を認め、心に深くかかわるケアが求められる。それには宗教がかかせない。死者ほど精神性と命が躍動し、本質に迫る言葉を発する存在はないと思う。

科学と宗教。これはぼくも、原発事故と震災の後で改めて考えてみなければいけないことと思い日々心にとめているものである。3年の節目が過ぎぼく自身の思ってきたこともまとめてみたいと思っている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年7月11日 (金)

新年の対談

今年ももう半年たったわけだが、1月1日付の地元紙・河北新報の切り抜きを取ってある。正月には各紙特集を組むことが多い。その特集でその新聞社が何に取り組んで行こうとしているのかその姿勢が見える。河北新報では、政治学者中島岳志氏と作家柳田邦夫氏の対談を掲載した。中島氏は気鋭の学者ということで初めて知った。ぼくよりも一回りも若い。柳田氏は、事故についてのノンフィクション活動から始まり近頃では「死」についての著作や発言が増えている。自身が息子さんをなくすという体験を経ている人で、ぼくもその著作には感銘を受け、新作を読んでみたいとずっと願っているがそれが果たされていない。二人の対談から、ぼくの心に残るものを、つれづれなるままに抜き出してみる。

・中島氏…原発事故の後、福島で命を絶った農家のことをずっと考えている。有機農法家の彼が工夫した土や田・畑は単に生活の基盤ではなく、身体の延長のような存在だったのではないか。人が意味を持って生きられる場所が根こそぎ破壊される、それが福島原発事故の被害の本質だ。

・柳田氏…お百姓が汗水たらして作ったコメは天から授かった大地の恵みで一粒も無駄にしてはならないと教わったが、戦後の効率主義の中で単にお金で買う商品になった。先祖の魂が宿る土地や家は代償できない。

・中島氏…代償可能という発想が広がっている。命令ひとつでどこにでも行き多言語を操り組織に貢献するグローバル人材がもてはやされているが、人間に必要なのは社会との有機的なつながり。インドでは各人がそれぞれの場所で役割を果たすことが宇宙における生命の意味。そうした位置づけのない功利的な人間観は、原発の安全神話を支えた科学の在り方と通じる。

インドでは人生の時期をいくつかに区切りその時期その時期でやらねばならぬことを果たすことを推奨している人生観がある。いまぼくはまさに「世俗期」。世俗の義務を果たすためにひたすら世俗の仕事をしなくてはいけない時期。この世俗期はぼくにとって一番つらいが、物事にはいつか終わりがある。今を懸命に生きることは次のライフステージに行く準備でもある。明日以降も新年対談を読みなおす。

始めてヒグラシの声を聞いた夕べに。(わが借家は愛宕山のふもとにあり春は鶯、夏ホトトギスの声が聞かれる風流な場所)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年7月 8日 (火)

分散型エネルギー

7月26日付の河北新報「持論時論」に飯田哲也さんの講演記録要旨が載った。飯田さんの話を聞くと元気が出る。原発事故前は、ぼくは原発に決して関心があるとは言えず、反対の声を強く上げることもなかった。そういうときから飯田さんは原発に頼らないエネルギーや社会を構想していたのだ。だから、飯田さんの話すことには説得力がある。再度、彼の話の要旨をまとめてみよう。

・エネルギーの世界は分散型に向かっていて、それはインターネット革命のような大きな転換である。

・世界全体では2004年から10年間で風力、太陽光などの自然エネルギーが飛躍的に増え、原発が新設よりも廃炉が続いているので両者の勝負はつきつつある。太陽光発電は技術学習効果によって安くなっているのが加速度的な成長の理由。

・重要な成長原動力は、担い手が増えつつある地域分散。分散型エネルギーをリードしているのはドイツ。自然エネルギーの割合が2000年の6%から2012年には24%に増えた。日本では昼間の電力消費量が多く、電気料金も高いが、電力が自由化されているドイツでは太陽光の普及で、昼の電力料金が安くなり、巨大電力会社の利益が急減。

・デンマークでは二つの電力会社が電気を独占していたが、今6500基の風力発電があり、1万基のコージェネ―レーション(熱電併給)の8~9割を地域の人が所有し売り手に回った。大規模集中・独占型から小規模分散・地域オーナーシップへの構造転換が起こった。情報が上からの一方的発信だったのが個人が発信するようになったのと同じで、エネルギーを地域に取り戻す流れが広がっている。

・福島県で使っている光熱費を地域で生み出せば、そのお金全部を地域で回すことができる。ご当地エネルギーは地域のオーナーシップが大事。みんなで参加し、当事者として決めていく地域主権。中央独占型体制を打ち壊していくのが地域分散型エネルギー。市民が担い手になるエネルギーの大転換に参加してほしい。

ここからはぼくの感想。巨大独占企業の利益を減らすことはこの日本では容易ではない。独占企業、あらゆるメディア、政治家、官僚を動員して自分たちの利益を守ろうとして必死に抵抗してくるだろう。だが、情報の世界で民主化が起こったと同じように、エネルギーの世界で民主化が起こるのは必然の動きだ。これから起こる変革の世界をぼくはわくわくしながら待ち受けよう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年7月 6日 (日)

朝の光の中で考えたこと

今朝目が覚めたら、カーテンの隙間から日がさしていた。梅雨の湿っぽい天気が続いていたことでもあるし、こんな風に気持ちの良い(そして洗濯物も久しぶりに外に干せるような)日はありがたい。そこで思ったのだが、大事なことはこうして目が覚めたらお日様があることであり、人工的な電気がある暮らしなんてものは二の次、三の次なのではないかということだ。もちろんぼくがこう言えば、反論があるのは分かっている。震災の時は病院で電気が使えなかったばかりに亡くなった命もあるだろうし、東北の寒い三月に起こったあの震災の時、電気ストーブがなくて凍え、電気湯沸しがなくて温かいお湯が飲めなくて苦しんだ人もいるだろう。だが、ぼくが言いたいのは、お日様の光に合わせて暮らすような暮らしこそが本当の生活なのではないかということを、今朝の目覚めの中でふと考えさせられたということだ。そういう生活が、自然環境の破壊や汚染物質の拡散でできなくなり、そういう生活の基盤である自然環境を剥奪されて生きている人たちが、この世界にはどれくらいいるのだろうと、そこに思いをはせたということだ。

河北新報六月一九日付の「持論時論」に原発を推進する立場の方(かた)の論考が掲載された。河北新報は、賛成・反対をバランスよく取り上げ、そうい客観的・中立的なところもよく頑張っている地方紙だと思い、ぼくも購読して応援している。さて、推進の立場の方(かた)の主張を改めてみてみよう。以下は、その主張をぼくの言葉で要約したものだ。ぼくたち反対派の運動がいまいち大きな力になれない理由はいくつかあると思う。その中で、自分たちとは反対の立場にいる人への包摂度が低いということがあると思う。考えが違う立場のひとに対して、つい鋭い言葉で批判したり、罵倒してしまうのだ。これは客観的・科学的に議論するということではないし、鋭い言葉はやがて自分にも返ってくるだろうし、運動から人が離れていってしまう原因でもある。そんなこと言っているから、いつまで経っても勝てないのだ、再度批判する人もいるかもしれないが、とにかく相手が考えていることを理解し受け入れることがまずは大事ではないかと思う。

では、原発を推進する考え方は以下の通り。

・確率は低いが起こると甚大な損害をもたらすリスクがあるから原発は差し止めると、福井地裁は判決したが、ではどこまで大きなリスクを考えればよいのか。想定するリスクが大きくなればなるほど対処するコストも莫大になり、そうなれば、原発で作る電力は安いという経済優位性がおびやかされる。それに地震などはいつ起こるかわからない。地震の起こる確率はとても低いが、では明日起こるかもしれないではないかと言われても答えられることではない。

・このようにいつ起こるかわからないが、起これば甚大な被害をもたらすリスクをテールリスクというが、このテールリスクにいちいち対処していたら、他のリスクを高めてしまう。原発事故が怖くて原発をとめれば、エネルギー安全保障という別のリスクを高めてしまう。テールリスク対策は、必ずほかの生存条件や生活水準とトレードオフの関係(あっちがたてばこっちが立たずの関係)になるので、「羹(あつもの)に懲りてなますを吹く」ようなことはしてはいけない。

・だからやるべきことは、絶えず変化するリスクの大きさに注意し、進歩していく学問や技術の成果を対策に取り入れること。この費用はテールリスクが顕在化したときの費用よりも安い。国はテールリスク管理を充実させるために、専門知識を統合する体制を作るべきだ。

まず、ぼくたちは相手の言っていることを受け入れ、その一つ一つに根気強く何回でもそれは違うのでは、と言って相手に分かってもらう努力をするべきだろう。わかってもらいこちらの方へ移ってきてもらうには、100年、200年もかかるかもしれないが、努力は続けなければならない。その間に、若い世代にぼくたちの考えに共感してもらえる人たちを増やしていくことだ。そして、推進派の人たちがよりどころにしている状況や環境そのものを変えていってしまうことだ。例えば、火力発電は高く、燃料代を賄うため国富が今現在どんどんうしなわれているという状況を、自然エネルギーを中心とした地産地消型のエネルギー消費を構築することで、状況を解体していくということが必要だ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年7月 2日 (水)

集団的自衛権を考える

集団的自衛権行使を容認しても、戦争する国にはなりません。国民を守るためにやっていることなのですという安倍首相の言い分について。私たちが示している戦争への懸念―日本が戦争に巻き込まれるという懸念の声があまりにも大きくなったので、安倍首相もそれに応える弁明を述べざるを得なくなった形だ。(さすが安倍首相は民意とか世論に敏感で、それを操るのに巧みな方(かた)だ)

集団的自衛権が安倍さんが言うように日本国民を守るどころか、戦争の脅威にさらすとぼくが考える理由は、国際政治や国際情勢の変化、とくにアメリカの変化だ。集団的自衛権とは言うが、要はアメリカが戦争状態になれば、アメリカのために日本人が海外で闘うということにしかならないと思う。オバマ大統領も安倍首相が集団的自衛権を容認したことを歓迎しているが、要はアメリカの肩代わりに日本人に戦闘させることを望んでいるのだ。

アメリカは第2次世界大戦の勝利により国際政治上の強大国となった。彼らは自分たちの価値観を世界中に広めることに使命感を持っている。非常に独善的な国であるが、民主主義の理念が日本に広まり、日本人がこの通り自由や平和を享受できてきたという恩恵もある。だが、強さの中に弱さはひそみ、勝ちには負けが萌している。第2次世界大戦後、アメリカは世界中の紛争に首を突っ込み、国際秩序を自分のおもう通りにしようとし価値観を押し付けようとしたが、ベトナムの敗戦をはじめとして、それ以降は負け続きである。特にアフガニスタンとイラクの介入は、両地の人たちに多大の苦しみを与えただけでなく、新たな混乱と紛争を引き起こしている。

このような失敗した介入で、自国兵に死者が出たこともあり、さすがにアメリカ国内からも他国への介入に慎重な声が出て、もう以前のように軍隊を世界中に派遣することができない。そこで、目をつけられたのが日本人ということだ。イラクの(アメリカから見た)敵軍と日本人に戦争させて相手方を弱体化できればアメリカにとっては好都合の国際戦略だろう。安倍首相は、自衛隊がアフガニスタンやイラクに行くことが決してないというが、自分を縛る憲法を「情けない憲法だ」といって無視するような人が、何かの歯止めや法律を守ろうとするだろうか。アメリカに「行ってくれ」と言われれば、歯止めも法律も無視してなんでも時の政府によって自由に決めることができることになろう。

安倍さんや石破さん、彼らの取り巻きの人たちは、これでようやくアメリカと対等の関係となれた、「同盟というのは血と血の絆なんだ」と言って喜んでいるが、彼らは誰かが具体的に死ぬということが想像できているのだろうか。まず「塊より始めよ」ではないが、自分が率先して死ぬことを考えているのだろうか。自分たちが絶対的な安全な高みにいて、ヴァーチャルな感覚で人の生き死にを考えているのではないか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2014年6月 | トップページ | 2014年8月 »