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2014年6月29日 (日)

森里海に学ぶ

5月27日付の河北新報に11回目の連載『森里海に学ぶ』が掲載された。宮城県南三陸町などで行うフィールド学習の報告などである。今回は森と川と海の関係である。内容をまとめてみる。豊かな森を水源とする川が流れ込む沿岸域には、豊かな海の多様性がある。カギになっているのは森が作り出すフルボ酸鉄ではないかというのが有力な仮説である。鉄も大事だが植物の生育に最も大切なのは窒素・リン酸・カリウム。そして海の植物プランクトンとして最も重要な「珪藻」は生育にケイ素を必要とする。ケイ素がないと「珪藻」とは別の鞭毛藻が発生するがこれが赤潮の原因である。困ったことに最近、日本中で陸から海に供給されるケイ素が減っている。全国に建設されたダムの影響で、陸から海に供給される土砂が減っていることが一因である。防潮堤や河川の改修などコンクリートでかためられた川は、海に土や砂を運ぶという本来の自然のサイクルの中での役割を果たしてくれないと、今回の著者白山さんは指摘する。

東北の震災からの本当の意味での復興があるとしたら、氏が指摘する「自然のサイクルの復興」だろう。だが、そういう意味では「復興」の道のりは遠い。そして、いま、その自然のサイクルの中に人間が作り出した人工放射性物質さえ入り込んでいるのだから、「復興」は人間的な時間を超えるのかもしれない。氏の最後の提案にはうなづかされるところがある。「しっかりとした治水対策をしつつ河畔を自然の景観に保ち、森から海へ、海が必要としている様々な物質を安定的に供給できる自然のサイクルを生かした里であることが必要である」

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2014年6月27日 (金)

広井良典氏の論考

河北新報6月19日付の広井良典氏の論考をまとめてみる。氏の論考は定期的に掲載されており、私は氏の論考の内容を楽しみにしている。今回は、人口減社会に向かうこれからの日本で、何が大事な発想であるかということ2点を指摘していた。

まずは、人口減社会に向かう日本について、前提となる条件として「日本創世会議」から出された将来予測がある。それによると2040年には全国896の市町村で20~39歳の女性の数が半分以下になり、523の自治体では人口が1万人以下になり消滅の危機に直面するというもの。人口減社会と急速な高齢化という問題では、日本は世界の最先端を行っており、日本の取り組みは、良くも悪くも今後他国の取り組みへの指針として大きな影響を与えることは間違いない。

こういう未来に対して、広井氏は人口と経済について明治以降、とりわけ戦後の高度成長期に顕れた「拡大・成長」という方向で物事を考えてはいけないと主張する。多くの国民やそして特に若者はそれを本能的に感じているが、なかなか方向転換できず、昔の延長上で考えているのが今の日本だ。物理学と同じく、質量の大きい高速で動いている物体は、急に止まることができないのだ。成功体験が大きいことが災いして、なかなか新しい道が見えてこないという感じだろう。

そこで、最初に言った考えるべき視点2つ。1つは、経済・社会の在り方を「より大きく、より速く」という方向で考えるのでなく、歩くスピードを緩めるような方向への発想転換が必要になるということ。若い人たちは「労働時間が長すぎ子供を産み育てる余裕がない」という点を指摘するし、20~30代男性の年収が300万円未満だと結婚率に差が出ることを挙げ、氏は若い人たちへの社会保障を厚くして、自然な形での出生率の回復を言う。

2つ目は、若い人たちのローカル志向、つまり地元に残り地元で働き地元に貢献したいという若者が増えていることを指摘する。これは一時的な現象でなく、社会の構造変化に伴う必然的なものだという。高度成長時代は、農村の労働人口は都会にどんどん吸い取られた。「拡大・成長」時代は、中心への求心力が強く働くのに対し、人口減時代は、その逆の人の流れが始まるのである。明治以降、拡大・成長(ついでに戦争)時代は、中央集権でコントロールする政治体制が、時代に合っていた。だが、いま中央からのコントロールは、明らかに非効率で、地方に住む者にとってはピントはずれで、巨大な的外れと公金の浪費なのだ。人口減社会への移行は、私たち日本人に問うところが深いと氏は結んでいる。

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2014年6月24日 (火)

都議会のセクハラ発言

都議会で質問に立った女性議員に対して、侮蔑的なヤジを放った議員がいる。ヤジというたぐいのものでなく、相手の人格を否定するものであり、女性の尊厳を踏みにじる発言だ。寅さんであれば「それを言っちゃーあ、おしまいよ」という発言だ。

それで、この発言をした議員や会派の人たちだが、思わず本音が出てしまったというところだろう。女性を登用すると言ってポーズをとっているが、しょせんそれは選挙対策や支持率向上のために、大手広告会社が授けてくれた戦略だろう。「中国と戦争する」と勇ましいことを言っているような人の、腹の中は女性への蔑視が詰まっているのだろう。女性が戦争指導者の男性の言うことに従順で、銃後の守りを固めてくれる国家が理想なのだろうから。

今回のことをきっかけに、女性の有権者も、本当に女性の地位向上のために努力をしてくれる政党や政治家は誰なのか、真剣に見直してみてほしい。「戦争、戦争」と勇ましいことを言っている人たちは女性の地位向上なんかしようとは本気で思っていない。ちなみに日本の女性の地位は、世界ランキングでは100番以下である。

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2014年6月21日 (土)

60万回のトライ

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仙台市青葉区中央の桜井薬局セントラルホールで上映中の「60万回のトライ」。大阪朝鮮高校ラグビーの若者を中心に据えたドキュメンタリー映画だ。ぼくもラグビーを昔やっていたが、ラグビーというスポーツをやっていて本当に良かった。ラグビーは素晴らしいと改めて思わせたくれた、そんな素晴らしい映画だった。そして、彼らの頑張りや思いやり、周りの熱い大人たち、見ていて何度も感動して涙が流れた。ラガーマンというのは、体はごついけどハートは優しいのだ。それがぼくにはとてもよくわかるのだ。

今、サッカーのワールドカップで世界中が(おそらく)熱くなっていることだろう。スーパー選手のプレーは確かに興奮するが、反面ナショナリズムを助長する面もある。ナショナリズムは「自然な郷土愛」であればよいが、他民族への蔑視やいわれなき攻撃、その反面自国民のいわれなき優越感や他者への共感を奪うという面がある。ところがラグビーのワールドカップは、その国にある条件を満たす以上の年数を住んでいたりプレーしたりすれば、その国の代表として出場できるのだ。おそらく、そんなこともあるからだろうと思うのだが、ラグビー関係者には偏狭なナショナリズムを持った人よりも、インターナショナルマインドを持った人が多いとぼくは思う。そして多分これは「一人はみんなのために。みんなは一人のために」とか「ノーサイド」の精神も影響していると思う。

映画の監督朴思柔さんが舞台あいさつで話していたが、この映画の完成を応援し喜んでいたのは、日本のラグビー関係者だ。朝鮮学校は、日本にありながら日本の高校生などがでるスポーツ大会には参加が禁止されてきた。それがラグビー関係者の努力でラグビーの花園大会に出場できるようになり、今では大会の上位に連なる常連校だ。高校生どうしで純粋にスポーツで勝負すればいいわけで、そこに民族の壁は本来ないはずだ。おそらくここにも「ノーサイド」の精神、試合が終われば敵・味方もないというラグビースピリットを持った関係者が努力して、子供たちが差別や偏見に苦しまなくて済むようにと道を開くことにかかわってくれたのだろう。

でもいいことばかりではない。大坂の橋下さんも元ラガーマンであるが、朝鮮学校への補助金を率先して打ち切り、朝鮮高校の生徒たちの授業料無償化反対の急先鋒でもある。残念ながら、宮城県の村井さん、仙台市の奥山さんも朝鮮学校への補助金には反対し、宮城県・仙台市でも支出が止められた。在日朝鮮人社会がなぜあるのかという歴史的経緯の、日本人のかかわり方から言って、なぜ、私たち日本社会は彼らに寛大になれず、共生しようとしないのだろう。もし、私たち日本人もこの先第2、第3の原発事故で国を失い難民になれば、その行った先の国で自分たちの言語や文化・歴史を必死になって守ろうとするだろう。

「国家」というのはあてにならない。現在の歴史の流れから言って「国家」は解体する方向に向かっているのはまちがいない。その時にあてになるのは、国家を超えて結びついたつながりや絆だろう。そのきづなとなり絆を生むもののひとつがラグビーというスポーツなのかもしれない。高校3年の最後の花園大会でドクターストップで試合に出られなかった朝鮮学校の生徒のために、ラグビーの強豪校の日本の高校生の選抜チームが、その彼のために友情試合を開催する。とても泣けるいいシーンだった。

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2014年6月19日 (木)

立憲主義とは何か

6月4日付の河北新報に「立憲主義」に関しての記事が載った。安倍首相が、憲法解釈を変更して集団的自衛権を行使しようとしている中で、「憲法に従った政治」の回復を目指す学者たちの「立憲デモクラシー」の会の紹介や、護憲派団体『9条の会』の紹介をまじえて憲法とは何か、立憲主義とは何かを考えさせる記事である。

そもそも「憲法」は、日本のものだけでなく歴史的に見れば、国家権力が好き勝手に国民の権利を踏みにじったりしないための歯止めとして、国民の守られるべき権利を明文化したものである。昔は、封建領主や王様が恣意的に、つまり好き勝手に自分の欲望を満たすために、領民や国民に圧政を加えることが多かったから、この両者のせめぎあいの中で、ルールを明文化し、例えば国民に課税をするのであれば、憲法上に書かれた手続きにのっとりするのであって、個人の気ままでは出来ないということなどを定めたのが憲法だ。つまり、憲法は国民の権利を守り国家権力に縛りをかけるというのが本来の憲法の役割である。

今は王様などはいなくなり国の統治は正当な手続きを経て選ばれた人、つまり安倍さんが行っているが、安倍さんがそもそも今の地位につけたのも、憲法が定めた正当な手続きによるからであり、その正当性が彼に権威と権力を与えているのである。だとしたら、何よりも憲法を順守しなければいけないのは、憲法によって権力を与えられた人であるべきなのに、その人が憲法の縛りから逸脱して、個人の恣意で物事を決定してよいものなのだろうか。このように、憲法に書かれ保証された手続きが権威や権力の源泉になるという考え方が「立憲主義」だ。

安倍さんがやっていることは、人類が長い間かけて、戦争や紛争やらそういう悲惨を体験しながら、その中で知恵を出してたどりついた「憲法」によって統治するという考えを否定するものだ。人類の知を無視する、反知性的で野蛮な行為だ。必ず『しっぺ返し』を受ける。こういう「もしも」が起こったらどうだろう。安倍さんに命じられイラクに人殺しに行けと命じられた自衛隊が、反旗を翻し、超法規的な措置で安倍さんを監禁して権力を停止させる。この場合、安倍さん自体が立憲主義には服さないと言っていたのだから、軍隊のクーデターという反・立憲主義からも、安倍さんを守るものは何もなくなる。そうなると、社会学者のホッブスが言っていたように「人類は、力の強いものが勝つ人が人に対して狼」という事態になる。安倍さんが目指している社会とはこういう社会なのだろうか。

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2014年6月16日 (月)

反知性主義

河北新報6月11日付の特集で、公職者が次々と暴言を吐くことについての考察があった。本人たちは暴言とも思っていないだろうし、これを暴言と思わない人も多いだろうが、例として挙げられていたのは、

NHK経営委員「家に例えたら、くそ貧乏長屋。泥棒も入らない」「(都知事選の他候補は)人間のクズ」

副総理「ドイツのワイマール憲法はいつの間にか変わっていた。誰も気がつかない間に変わった。あの手口を学んではどうか」

幹事長「単なる絶叫戦術はテロ行為とその本質において変わらない」

NHK会長「特定秘密保護法はしょうがない」「従軍慰安婦は戦争地域ではどこでもあった」

特集でよかったのは、そのような発言がなされる背景の分析だ。このような発言を許容する安倍さんに、「反知性的」だと批判しても届かない。知性の高みからの批判には反発する。そしてその反発を支持する世論が広がっている。とのことだ。

ぼくが危惧するのも、この「反知性的」な時代の雰囲気だ。まさにファシズムが生まれたのも、知性が軽んじられ、やたら精神が協調された時代だったはずだ。今は、戦後すぐの民主主義が輝いていて、知識人が輝いて世論を引っ張っていた時代ではない。それは確かなことだ。知性の言葉は国民の1割にも届いていないだろう。この時代は、どこに行こうとしているのか?

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2014年6月14日 (土)

貧乏人はもやしを食べる

市県民税の請求が来て驚いた。去年よりも増税になっている。所得階層の下位にいるぼくにもこれだけの請求が来るのだから、つらい。おまけに消費税も上がっている。ぼくは、確定申告をしているので、こんなふうに自分で窓口に出かけて税金を納める。だから、税金を納める痛みも分かるし、せっかく納めたのだからよいことに使ってほしいという気持ちも強い。だまって天引きされている日本のサラリーマンが確定申告をするようになれば、もっと政治への関心も投票率も上がると思うのだが。

こういうようななかでトヨタが消費税が上がっても安いもやしを食べて工夫すればなんともないじゃないかというCMを出した。もやしは安くて貧乏人にはありがたい食べ物でぼくもよく買う。だが、税金を納めていないトヨタさんに、そんなことは言われたくない。法人税はさらに安くなるという。足りない分は、低所得者層への課税で穴を埋めるしかないだろう。江戸時代と同じで、人数が多いところ、取りやすいところから取ればよいのだ。そうですよね、安倍さん。

スズキ、ホンダと車を乗ってきて、次は頑張って働いて憧れのトヨタを買うというのが、ささやかな夢であったが、トヨタはやめることにした。今のホンダはもう10年10万キロ選手だが、ぼくと同じであと10年、20年は頑張って働いてもらわないといけない。もやしを食べて。

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2014年6月12日 (木)

真の国富考えるとき

6月6日付の河北新報に柳田邦夫氏の論考が載った。大飯原発差し止め裁判を受けて、真の国富を考える時だと主張するものだ。その中で、水俣病の経緯を考察している部分があった。その部分は考えさせられるところだったので、要約してみる。氏は水俣病事件の初期における政治決定を取り上げている。水俣病患者が公的に認知されてから3年半後、厚生省の食品衛生調査会は、水俣病の原因を有機水銀中毒の可能性大だとして、対策の必要性を訴えた。

ところが自民党通産大臣の池田勇人氏は水俣病の原因には諸説あり特定するのは時期尚早だと怒った。排出源と疑われるチッソの操業を止めたら日本経済にブレーキがかかると主張し、対策を怠った。国が対策を放置したため、その後患者数・死者が激増した。

これが現在のどのような状況と重なるかは言わずもがなだろう。通産官僚が自分たちの利益を守ろうとするのは、行動原理としてとても分かりやすいのだが、問題は専門家もそして一般の人をもとられて離さない「病気メカニズム説」だ。岩波新書『医学的根拠とは何か』の津田氏の主張が、私にもだんだんわかってきた。専門家や学者は、原因から発病へのメカニズムが分からなければ、それは科学的だと言えないと言って退ける。だが、そのメカニズムが分かるには何十年とかかるし、そもそもメカニズムが分かるような解明となればそれこそノーベル賞級の大発見で、そんなに起こり得るはずもない。何十年と時が空しくたつ間に現実の方は進んでいくのだ。

病気の原因を解明するのはメカニズムの解明ではないのだ。統計なのだ。水俣湾の魚を食べた人と食べなかった人とを統計的に比較して有意の差があれば、それによって原因は特定でき、原因を取り除けばよいのだ。今のことに当てはめれば、住んでいる場所によって鼻血が出た人の数を比べて有意の差が統計的にあれば、それが原因なのだ。たとえ、鼻血のメカニズムが解明されていなくてもだ。

だが、「メカニズム説」の呪縛は専門家にも一般大衆の上にもあまりにも大きい。今まで病気は、魔女の呪いのせいだと思っていたら、それが病原菌のせいだと発見された時の衝撃と言ったら。確かに、パスツールらの発見は、医学に多大の進歩をもたらし、死者が劇的に減った。この成功体験の思考パターンから人は抜け出せないのだ。だが、ナイチンゲールを見てみよう。彼女は実は数学と統計が得意な女性で、2つの病院の死亡者数の統計を採って、衛生状態が死者数増加の原因だと発見し、状況を改善したのだ。そういう意味でも、彼女は偉大な人だったのだ。

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2014年6月10日 (火)

昔の気持ち

高校生に読み方・書き方の指導をしていて思うこと。読むことに関しては、平均的な高校生は少しひねってある文章はまず読み取れない。ひねってあるとは、パラドクスを用いていたりジレンマについて説明していたりという単純とは言えない二項対立や二律背反を扱った文章だ。もちろん、皮肉や風刺のきいた文章もその裏までは読み取れない。野球でたとえてみれば、ストレートは打ち返せるものの、スライダーやフォークボールには、ばたばた三振するようなものだ。これは何故かと思うのだが、そもそも子供のころと言うのは誰でも素直なものだ。言われたとおりに理解して裏なんて考えない。高校生もだいぶ大人にはなってきているが、半分子供が抜けきらないからかとも思う。

大人になれば、世界には裏もあるということに否が応でも気づき、物事は何でも二面があるということを知る。人生経験を積んでいけば、行間や裏まで読み取る読解力がついてくるのだろう。そういう意味では年を取ることも悪くはないが、困るのは昔の気持ちを忘れてしまうことだ。自分が高校生だった何十年前にはどんなことに悩んで苦しんでいたかという気持ちを忘れてしまい、何でこんなことも分からない?とついなってしまうことだ。

わがやの中・高生は今部活で忙しい。土曜も日曜もないし、帰宅時間も遅い。そんなにまで一生懸命になることなく、適当に疲れないようにやっとけばいいじゃないかとぼくは思ったりもするのだが、これま昔の気持ちを忘れているからなのかもしれない。

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2014年6月 7日 (土)

日本の未来を担う「工学」

河北新報に、東北大工学部部長の金井浩氏が「日本の未来を担う工学」と題して、連載をしている。その1回目は「工学」とはどのような学問かということを「工」という漢字から説明している。すなわち、「工」の上の横棒は天、すなわち自然を表し、下の横棒は人間社会を示し、それを縦棒で結ぶのが工学であると。また、「科学」と「工学」の違いをこう説明する。科学は自然や生命現象の真理の探求を行う学問であるのに対し、工学は、真理の探求とそれを活用し、人間社会を豊かにする学問である。工学は自然や社会に満ち溢れた未解明な不思議の本質に迫る解明・発見とそれらを活用した研究・発明により人類の幸福へ貢献する、両面を目指す学問であると結んでいる。工学研究に携わる人の気概が表れた文章の内容だ。

連載第2回目では、女川原発が大きな被害をまぬがれた原因として、東北大学工学部出身で東北電力副社長だった平井弥之助氏を取り上げる。氏が社内の反対を押し切り原発をもっと高台に建てようと主張したことにより、女川原発は80センチの差で、被災を免れたという。東北大工学部出身の平井氏の見識はさすがだということなのだろうが、ここに私はエンジニア・技術者と市政の一般人との意識の断絶を見る。

エンジニア・技術者は、80センチの差を自然に対する技術や人間の勝利と考え、絶対に人間は安全なものを技術的に作れると考える。だが、普通の人は80センチでわずか首の皮1枚つながるような危険なものなんてこさえなければよい、この先どんなことが起こるのかなんてわからないんだからと考える。「工学」の「工」の字と違って天の横棒と地面の横棒をつなぐ縦棒がここにはないのだ。専門家とくに技術者と一般市民との「断絶」というのが近代の社会のますます目立った特色となっている。技術はブラックボックスの中で、その仕組みは、素人には分からないのだ。

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2014年6月 4日 (水)

ブラック化するハローワーク

5月28日付の河北新報で、ハローワークの非正規職員のことが取り上げられていた。「ズーム」という特集は、社会問題に切り込み大きな紙面を割いて問題の本質に迫ろうとする。新聞の社会的役割を意識した、読み応えのあるレポートが掲載される。今回は、非正規労働者の抱える問題点を取り上げていた。それにしても、職業紹介をしてくれる官立の場所に、その窓口の人の多くが実は非正規労働者であるという事実そのものが驚きだ。

概要をまとめると、ある人がハローワークを雇止めされた。ハローワークには6年勤めたにもかかわらずである。(この仕事を、ハローワークで紹介されたというのは皮肉だが)窓口担当をして正規職員と同じだけの仕事をこなしたが年収は300万余り。最後は出所を控えた受刑者の就労相談を担い、仕事にやりがいを感じ、続けたいと思った。継続雇用を申し込んだが、不採用となり、上司から「ほかにいい人がいた」と告げられた。思い当たるとしたら、ハローワークの非正規職員組合の役員選挙に立候補したこと。雇止めを告げられ異議申し立てをしたかったが、その申立先がない。なぜなら、国家公務員には争議権等がないから。

非正規の国家公務員は国家公務員法で保護されないし、労働3法の適用外という盲点。市民の安全や権利保護を担う公務員が無権利で生計も建てられない状態にして、仕事の責任だけを押し付けるのはおかしいと、この人は訴える。この人が抱える具体的な問題とともに、現在政府は、労働市場の非正規化を進め、残業代をゼロにする制度を作ろうとしている、という現状を記事の中で指摘している。

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2014年6月 1日 (日)

大飯原発差し止め裁判

河北新報の「持論時論」というコーナーには地元の人が投稿していて、それをけっこう気軽に採用してくれる。ハガキで投稿するコーナーでなく小論文のようなまとまった文章で自分の考えを表明する貴重な機会を提供してくれる場所である。

5月29日付の持論時論には大飯原発差し止め裁判を論評した文が投稿された。判決文は感動的な文なので、投稿者さんが整理してくれた線に沿って判決要旨をもう一度まとめてみる。ポイントは3つあるという。

・原発事故の具体的危険性の判断を避けることは、裁判所の責務を放棄すること。

・原発の稼働は経済活動の自由であって、それは憲法の中核部分をなす人格権よりも下であること。

・豊かな国土に国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これがなくなることが国富の喪失である。推進派が主張する原油を買うための貿易赤字は、本当の国富の喪失ではない。

何がこの差し止め裁判でぼくが感動するかというと、当たり前のことを当たり前として日本の司法が(原発については)はじめて認めたことだ。誰でも幸福に暮らす権利が日本国憲法では保障されているが、原発事故はそういう権利を踏みにじるものであるし、自然によって暮らしていた私たち東北の暮らしが失われたことこそが、本当の意味での豊かさの喪失だということを公式に初めて認めたことだ。

当たり前のことを当たり前と国権の一部を担う機関が認めたわけだが、例えば憲法で認められた人格権も、もしこれが国民の国家に対する義務を中心に規定する憲法であれば、「国民が国策に協力するのは当たり前で、国策上のちょっとした事故による被害は国民はこれを受忍する義務がある」という判決にすり替わっていただろう。

安倍首相の支持率が高く国民の多くが安倍さんのやることに賛同している現状では、大飯原発差し止め裁判の判決に、現実的な大きな力を期待することは出来ないだろう。だが、こういう画期的な判決が出たということじたいは事実で、歴史に記録され原発に関心を持つ人たちの記憶の中に刻まれたことは確かなことだ。

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