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2014年4月29日 (火)

良心に従って行動する(2)

国家や組織の命令に反しても、良心に従って生きられるのか?海上自衛隊のいじめ自殺裁判で、内部告発をしてくれた自衛官のような勇気が、ぼく自身にあるかといえば、それは自信がない。仙台の街中のミニシアター「桜井薬局ホールで」で「わが闘争」「続・わが闘争」を見た。これは、ナチスの映像記録で第1次世界大戦後の状況の中でどのようにナチスが台頭し、政権の座につき、戦いに敗れていくかをつづったものだ。「続・わが闘争」ではナチス幹部の国際軍事裁判「ニュルンベルグ裁判」が記録されている。


その中で、アメリカの検察官がこう告発している。「おまえたちは良心に従わず、組織の命令に従った」。こう告発するのは簡単だ。まさに、安倍首相やその同調者が言うように「勝者の論理」で裁いているとも言える。これでアメリカ軍の非人道的な行為が正当化されるわけでもない。だが、そう言ったところで、ナチスや旧日本軍の残虐行為が許されるわけでもないのだ。

ぼくは大学のゼミで丸山真男をみなで輪読し、旧日本軍の中国大陸での残虐行為のことを調べていた。その時、普通の人が普通だったらしないような残虐行為をなぜやったのか?良心に従えば絶対できないようなことをなぜやったのか?出来ませんと言って拒否すればいいのに、なんて世間知らずにも思っていたりした。

だが、もちろんそんな個人の良心が働かないように徹底的に個人を痛めつけ服従するように変えるのが軍隊や国家という組織でもあるし、組織や集団心理の力をぼくは甘く見ていた世間知らずだったのだ。なにか、ぼく自身がそのような良心に訴えられるような場面に出くわしたときは、なるべく良心に従って行動したいとは思うが、何せしょせん人間なんて弱いものだ。だから、なるべくそういう良心が試されるような場面が来てほしくないと、この平和が長く続いてほしいと願ってもいるのだ。

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2014年4月28日 (月)

女性の貧困

<27日(日)のNHKスペシャルで、若年女性の貧困問題が取り上げられた。こんなことがこの現代の日本に存在するのかと目を疑わせるような衝撃的な内容だった。普通の感覚であれば、この番組を見て、こんなに頑張っても貧困ライン以下でしか暮らせないこの現状を自己責任という人はいないと思うわけで、格差が拡大しそれが放置されているこの日本社会の矛盾を許しがたいと憤ると思うわけである。普通に暮らしたいと願う彼女たちが、でもそういう普通の暮らしを手に入れる自信がないと不安を漏らし、半ばあきらめるような口調で語っていたところは、胸を打たれた。

日本で格差と貧困が広がっている原因は何か。それは、派遣労働や非正規雇用の広がりである。それと同時に、正規雇用の崩壊、いわゆるブラック企業の跋扈もある。正社員になれずに低賃金の自給で働く人がいる一方で、正社員になっても1日10時間働いて手取り15万、ボーナスはなしという人もいる。番組ではこの二人の女性が言っていた。「これでは、彼氏を作るのも、結婚も子育ても考えることができない。お金持ちの人と結婚したいなんて言うぜいたくを言っているわけでない。普通の普通のお金がある暮らしをして、普通にお金がある人と結婚したい」。番組を見逃した人はここにアドレスを張り付けておく。時の政権に都合が悪いと、いつ削除されるかもしれないが。

日本に貧困と格差を作り出してきたのは、非正規雇用の拡大を推し進めてきた経済界と、その要請を受けて派遣労働の無制限拡大や残業代なしの正社員制度を作ろうなどとしている政治だが、貧困・格差の怨嗟を一体どこに向けたらよいのかそれが日本では巧みに隠されている。4月27日の新聞報道によれば、安倍首相が幕張メッセのニコニコ動画のイベントに出演し、街宣車の上から、「若い皆さんが仕事を失ってもチャンスを得て働くことができるように支援していきたい」と述べたという。聞いた話では、安倍首相はイメージ戦略家をわざわざ雇って自己イメージを巧みに作りあげているという。にこにこして自信ありげなその様子は、頼もしくていい人にしか見えない。安倍首相の支持率は高い。若い人にも人気がある。雇用が不安定な若者たちは、何も決められない政治家よりも、強く断言し強硬な発言をするような政治家こそが、自分たちの閉塞状態を破ってくれて自分たちを守ってくれると感じる。それが安倍首相が若者に人気がある理由だという分析を聞いたことがある。報道の続きを引用すると、「美しい海や領土、領空を断固して守っていく」と訴えると、日の丸をうち振る若者たちとハイタッチをしたという。格差・貧困をもたらし、自分たちを苦しめている当の本人は誰なのか、そこに目覚めていかないと、社会が崩壊するようなレベルにまで貧困・格差は拡大を続ける。

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2014年4月27日 (日)

良心に従って行動する

海上自衛隊の隊員が自殺した。遺族は、いじめが原因だと海上自衛隊を提訴した。だが、当然、海上自衛隊はいじめの事実を否定し、裁判所も遺族敗訴の判決を出した。ところが、先輩のいじめがあったことを示す証拠が内部にあったと、海自の海佐が暴露し、高裁ではいじめの事実が認定され、遺族側の主張が認められた。


海上自衛隊のこの職員は、さんざん迷い、そして自分の身の上を恐れ苦悩した中で、1年かけて遺族側の弁護士と話し合い、証拠を暴露することを決意したという。組織としての海上自衛隊は、当然自分たちの不利な事実や情報は隠す。組織の理論としては、自己防衛が第一、これは当然な行動だ。だが、ひとりの人間として、いじめによる自殺などの、不条理、不正義を見て、見過ごしにできず、勇気をふるって内部告発をしたこの人をぼくはえらいと思う。

もちろん、安倍首相やその同調者たちが、取り締まりたいと思っているのは、自分の良心には従うが、国や組織に従わず、国や組織の論理を裏切るこのような自衛官だろう。秘密保護法のねらいもまさに、そこで、国家機密にしてしまえば、内部文書はどのようなものかさえ日の目を見ることもないし、暴露した人は罪状を知らせずとも罰することができる。この内部告発した自衛官に対しては、国ははらわたが煮えくり返っているだろう。当然、この人を処罰しようとした。

国あっての個人であって、国や組織の命令には絶対に従うべきだという考えの人もいるだろう。だが、ぼくは個人の良心を踏みにじったり、国家よりももっと大きな人道や人権を踏みにじる国家や組織だったら、そんな国や組織は滅んでしまって構わないと思う。国・組織が先なのか、それとも個人が先なのか、鶏が先か卵が先かの議論と同じで、論争の決着はつきそうにないが、国・組織がぼろぼろになっても、なんとか個人の頑張りやその個人同士の連帯で生きのびてきたのが、たとえば身近なところでいえば第二次世界大戦を生き延びた日本人ではないか。この先、国家・組織が破たんしても、個人が何とか生き延びていけばそれでいいではないかとぼくは思っている。

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2014年4月22日 (火)

The Future Times

ミュージシャンの後藤正文さんが、新聞The Future Timesを発行している。若い人で社会問題を考えていてくれて、そして新聞という形で自分の考えを行動に移している。とても読み応えのある新聞なので、活動を今後も続けていってほしい。以前手にしたものなので2013年夏号なのだが、東北学を提唱する赤坂憲雄さんと後藤さんが、新聞の中で対談している。気になったところを抜粋・要約してみる。

『村の女性たちが働いていて、自動車の電子系統の配線を束にする作業を黙々としていた。時給を尋ねると、平均したら300円くらいかと。東北は製造業の拠点だという言葉の裏側に転がっている現実は、そのままアジアにつながっていくような、内なる植民地としての東北だった』

『途方もない原発事故で苦しんでいながら、国家や東電に対するストレートな批判が大きな力にならない。補償金が減らされてしまうんじゃないかと考えてしまう。それで口をつぐむ。我慢してしまう、我慢させられてしまう。千年の植民地が作ってきた精神のありようだ』

『復旧、復興と称して海沿いに巨大な防潮堤を作るのはとんでもない計画としか思えない。今ある海岸線は人口1億3千万のマックスに合わせて造られたものだから』

「今の海岸線を自明にみなすのでなく、これから人口が急激に減少して、人口8千万の日本列島になることを思い浮かべた時、海岸線をコンクリートで固めて維持することからリアリティが失われる。潟に戻して景観を明治はじめあたりに戻していく」

『防潮堤のような、コンクリートで塗り固めた建造物や箱モノを作り続けて、将来それが老朽化したときにどうなるのだろう。巨大な廃墟が日本中にできて、修繕できない、取り壊すこともできない状況になる」

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2014年4月20日 (日)

北山耕平訳『虹の戦士』

原発事故後、保養の企画などをして支援してくれている関西の人たちと知り合うことができた。その方から『虹の戦士』という本を借りて読んだ。これは、ネイティブ・インディアンの伝説というか予言、口承を紹介した本である。彼らの言い伝えによると、地球文明が新しく生まれ変わる前に、ネイティブ・インディアンは殺され土地を奪われ迫害を受けるが、その中からネイティブ・インディアンが伝承してきた精神性に目覚めそれを伝える者が現れ、そのものによって地球文明が新しく生まれ変わるというものだ。その、「大いなる精神性」に目覚め受け継ぎ伝える者たちを「虹の戦士」というのだそうだ。

ネイティブ・インディアンたちが持っているこの精神性の影響はとても大きい。グリーンピースという環境保護団体も、「虹の戦士」の伝承に影響されて設立されたということを今回初めて知った。もともとぼくは、アメリカのような物質文明優先のところで、そういう環境保護団体など生まれないと思い込んでいたので、てっきりグリーンピースはヨーロッパ生まれだと思い込んでいた。

『虹の戦士』を読んでいろいろ感じるところはあったが、白人のネイティブ・インディアンへの迫害・殺戮・収奪のことを考えた。「世界史」は勝者の歴史だ。簡単に「コロンブス、アメリカ大陸発見」とか「スペイン、インカ帝国を征服」とか教科書に書いてあるが、その陰というか、その実態は、何百万人規模という大量虐殺だ。日本人の過去もそう誇れるものでもないが、残忍さ残虐性はヨーロッパ人にはかなわないと思う。そう思ったのは、ジャレット・ダイアモンドの「銃・病原菌・鉄」を読んだからだ。この本には、その大量虐殺のことが書いてある。

だが、ここでぼくはヨーロッパ人、アメリカ人、白人の告発をしたいわけでない。ネイティブ・インディアンをはじめ、世界中のネイティブの人たちのことを考えたいのだ。彼らは、一見すると弱くて征服され取り残された人たちだ。ヨーロッパやアメリカの物質文明や科学文明が世界を席巻し、そちらの文明の流れについていこうと、黄色人種の日本人も夢中になっている。勝っているのは、ヨーロッパ人やアメリカ人のように見える。だが、どうだろう。どう見ても彼らの文明は長続きするとは思えない。絶対に新しい「転換」点がやってこざるを得ない。

その転換点がやってきて、世界の先頭に立つのは、ネイティブの人々が持っている精神性に違いない。その時、ネイティブ・インディアンの人たちはどうするか。白人の仕打ちに対して、復讐しない。復讐するのでなく、その精神性を彼らにも分かち合い、伝え、白人の中からも目覚めた「虹の戦士」は出ると予言しているのだ。『西部開拓』という歴史の中では白人はネイティブ・インディアンをとても酷く虐待し追いやった。だが、本当の勝者は誰なのだろうか。「強い」とか「弱い」というのはどういうことなのだろうか。

こんなふうに思うのは、いまぼくは『老子』の自由訳を作っているからだ。『老子』も弱いこと、柔らかいことを盛んに推奨する。とてもとても、今のこんな世の中では「弱さ」を持っていては生きていられない。だが、「弱い」ということに、本当に深い智慧があるのでないかと、少し実感でき始めているのだ。

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2014年4月14日 (月)

楽しく闘う

原発メーカー訴訟に参加している。この訴訟の事務局の朴さんと主任弁護士の島さんが仙台に来てくれて、宮城や福島の原告に加わったわたしたちと会合を持った。そもそもぼくがこの訴訟に加わったのは、素人の素朴な疑念からだ。ふつう、欠陥商品を作って事故を起こした企業は、その責任を問われる。法律上は賠償責任が生じる。だが、原発メーカーだけは「原子力賠償法」によって、どんなに酷い事故を起こしても免責となっていて、一切責任を問われることがないし、現に製造企業の幹部は誰一人として謝罪していない。法律上は、確かにそれでよいのであるが、素人のぼくは、それは道義上・倫理上おかしいのではないかと思ったし、憲法で保障されている健康で幸福に暮らす権利をふみにじるような法律があること自体、素朴におかしいと思ったのだ。

専門家的に見れば、すなわち法律論としてみれば、メーカーの責任を問うこの裁判、勝ち目はない。下手すると、裁判になる前に門前払いの可能性がある。だが、そこをどういう理論や構成で闘うのか、島弁護士が説明してくれた。説明を聞いていると、何だか勝てそうという予感すら覚えた。

島弁護士はとても楽しい人だった。ロックミュージシャンだった人で、今でも歌ってコンサートをしているそうだ。音楽活動をやってきて、ある時弁護士になろうと決心して、なってしまった人で、ロックン・ローヤーとギャクを言って笑いを取っていた。楽しく闘いましょう、と言っていたが、その通りだと思う。相手の権力・金力は膨大なので、勝てる確率はとても低いということは素人のぼくだって分かっている。しかし、この訴訟の提起そのものに意味がある。原賠法のばかばかしさ、すなわちこういう馬鹿げた法律がないと、原発なんて採算が合わないのでまともに取り組む会社なんてないんだということ、そして原賠法と同じような法律が世界中にあるから原発が世界中に建設されてしまう、ということが知られるきっかけになれば、それで意義があると思う。

つい深刻になりがちなぼくは、島弁護士のように困難な時やピンチの時にジョークが言えて前向きに物事をとらえられる人になりたいものだと思った次第だ。

原告人に加わったり応援したりすることができます。訴訟の会のホームページはこちらです。

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2014年4月12日 (土)

講談社ブルーバックス『やさしい統計入門』

統計学の初歩を勉強しています。よく言われるように、これからの市民社会はいろいろなことに関して、市民一人一人が「リテラシー」=『読み書き能力』を持つ必要があります。そうでないと、民主的な市民社会は成り立たないからです。民主的な市民社会の反対は、一部の人たち、とくに支配者層が、知識と情報を独占する社会です。支配の大事な要素は、軍事力・警察力や暴力といった強権的な要素ももちろん必須ですが、高度に社会が発達すればするほど、知識と情報の独占が都合の良い大衆支配の道具となります。それを許さないために、この社会を成り立たせていることに関して市民ができるだけ多くのことに関しての「リテラシー」=『読み書き能力』を持っている必要があります。読み書き能力は、もちろん昔ながらの読み・書き・そろばんに限りません。マス・メディアの情報を鵜吞みにするのでなく、メディアが現代社会ではどういう特質を持ち、どういうことを報道しがちであるのかを読み解く『メディア・リテラシー』や、そのほか『コンピューター・リテラシー』や「科学・リテラシー」「医療、健康・リテラシー」などなど、権力の独占に対して市民が持つべきリテラシーは幅広いです。

さて、講談社ブルーバックス『やさしい統計入門』から、興味深い記事をひとつ紹介します。それは、同書189ページに「人間がデータを捏造すると、捏造の程度を知らぬうちに過大評価する」という表題で紹介されています。どういうことかというと、1960年代に新潟県の阿賀野川流域に水俣病患者(=有機水銀中毒患者)が出たという報道がされました。原因と目されていた企業は当然、わが社のせいでないとデータを使って否定しなければなりません。そうでないと、賠償金など企業として責任を負わなければならないからです。そこで、その企業は何をしたか。まず、阿賀野川流域に住んでいる人の頭髪に含まれている水銀の割合を調べます。ここではグラフを載せられないのですが、0ppmの人の頻度が70パーセントで始まり50ppmの人の頻度が8パーセントくらいと低下していってほとんどゼロパーセントになっていくのですが、150ppmのところで少し島があり、3パーセントくらい現れるのです。

このデータからだけでは、何も言えないので、当然比較対象地域の人々のデータを取ります。具体的には、富山県神通川流域、岡山県旭川流域、高知県物部川流域です。そして、そのデータが、阿賀野川流域のデータの現れ方とほとんど同じなのです。ということで、企業の人は、他の箇所の人々に含まれる頭髪の水銀データが同じでありながら、他の箇所では病気は出ていない。よって阿賀野川の患者は、水銀のせいじゃない、わが社は無関係である、ということです。素人も、これほど見事に一致するデータを見せられれば、阿賀野川に特有の水銀以外の原因がある、と思います。

ところが、「統計学」というのはそういうことではないのだそうです。無関係の場所で取られたデータが一致する確率や離散する確率を推計する計算式や方法論を持っているので、データがこれほど見事に一致するというのは、むしろデータを捏造した可能性が高いということだそうです。そして阿賀野川の公害事件で、誰が正しかったのかは、歴史が証明しています。

さて、話を現在に戻しますが、福島県で現れている小児甲状腺がん患者の発生割合が、比較対象地域の他県のデータと比べて特に特異なものでないので、福島県の小児甲状腺がんの発生と原発事故は一切関係がないと、先日環境省が発表しました。阿賀野川公害事件の対象地域に、神通川を選んでいることに何か作為を感じてしまいますし、福島の対象地域には、山下教授のおひざ元、長崎県が選ばれています。さて、ここからは市民側の粘り強い「検証」が必要になって来るでしょうし、歴史という名の裁きが誰に下るのかもしっかり見ていかなければなりません。

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2014年4月10日 (木)

『やさしい統計入門』(田栗ほか)講談社ブルーバックス

講談社という出版社も原発については頑張ってくれている出版社ですので、応援しています。この『やさしい統計入門』は、原発事故の前に出版されていて、別に原発とは関係ありません。ぼくは、原発事故以降、もう一度科学・理科・数学など理系科目を勉強しなおしています。統計という学問も、政治によって都合の良いように使われる可能性が大いにある学問です。講談社ブルーバックスで出ている『やさしい統計入門』は、統計という学問の考え方に触れられる良い入門書で啓発されるところ大でした。(もちろん、数式の全部は追えませんでしたが、勉強になりました)

統計には「確率」という考えがつきものです。正しく作られたコインで表・裏の出る実験をして、その実験回数が多くなればなるほど、表が出る確率は2分の1、裏が出る確率は2分の1になることは誰でもわかります。でも、ある個人がたった3回だけコインを投げるチャンスを与えられ、表が3回連続でた時だけ命は助けてもらえるという状況となったらどうでしょう。もちろん数学的には、求める確率は8分の1なのでしょうが、数字で表現される確率と、その個人の「実存」にかかわる部分の感じられ方は、どうも違うのではないかという気が、文系人間の私にはどうもそう思われてしまいます。上述の表が3回連続でないと死ぬという状況では、確率の計算は無意味で、生きられるか死ぬかだけだと思うからです。

そんなことを考えたのも、原発は安全で事故の起こる確率は何十万、何百万分の1で飛行機事故よりも自動車事故よりも安全というふうに推進派の学者さんたちは言うのですが、現に原発を開始してからたった50年の間で、スリーマイル、チェルノブイリ、福島と3回も事故が起きているではないですか。これは、コインの確率と同じで、何百回も実験をすれば、理論上の確率に帰着するが、たまたま最初の3回だけは表だけ、もしくは裏だけが連続して出ることもありうるということなのでしょうか。たぶん、あほな疑問で、専門家には笑われるような質問なのでしょうが、ぼくなりにもう少し勉強して考えていきたいと思います。なお、『やさしい統計入門』からは、もう一つ興味深い例があったので、次回紹介します。

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2014年4月 9日 (水)

ダライ・ラマ

チベットのダライ・ラマ法王が仙台の、神道慰霊祭に来てくれて、会場で直接法王のお話を聞くことができた。昔、「ガイア・シンフォニー」という映画を見て、とにかくこの方は徳の高い本物の宗教者だなと、感じていた。直接お会いすることができ、私たち会衆者は、法王から励ましの言葉や、前向きに生きる心の持ちようなどのお話を伺うことができた。法王は、若い時に中国からインドへヒマラヤ山脈を越えて歩いて亡命した。それ以来、苦難の道を歩んでいらっしゃるはずだが、なぜあれほど前向きで明るくユーモアあふれる態度でいられるのだろう。私たちの経験している苦難よりも、いっそうつらい苦難であるかもしれないのにだ。宗教の持つ力やその可能性について考えさせられた日だった。

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2014年4月 7日 (月)

引き続きお金のことを考える

みんなの党の渡辺さんが、化粧品会社の会長から8億円を借りた。渡辺さんは選挙資金ではないと言っているが、常識的に考えたら選挙資金として使わせてもらったのだろう。ここで、ぼくは渡辺さんを批判したいのではない。選挙に金がかかりすぎることを言いたいのだ。日本の選挙では、特にバカ高い供託金がぼくは問題だと思う。こんなに高い供託金など普通の人に払えるはずがなく、それが普通の人が選挙に出たり、政治に参加することを大いに阻んでいる。これでは、政治家になれる人、つまり政治家の供給源は、麻生さんのように財閥のお坊ちゃまか、安倍さんのように2世、3世の代々の政治家一家だけということになる。そして、その弊害は、とても大きいとぼくには思える。

民主党は一度政権を取って、そして先の選挙で惨敗して議席を大いに減らした。世間の人は、民主党へ懲罰を食らわしてやったと溜飲を下げているのだろうが、その陰で民主党系の志ある立派な政治家の人たちが、引退を余儀なくされているのを、世間の人はどれだけ知っているのだろうか。「官僚から政治を取り戻す」「コンクリートから緑へ」「最少不幸の社会」という民主党が掲げた目標そのものは、ぼくは悪くないと思うし、長い目で見たら日本が目指すべき方向だと思う。そういう目標に呼応して、志のある人たちが民主党の議員となったが、選挙に負けて議席を失えばただの人で、生活のめどが立たない。だから、政治から引退せざるをえない人がいっぱいいる。日本の政治のためにも、これらの人が政治にかかわらなくなってしまうのは、大きな損失だと思う。宮城選挙区では、さいとうさんという人がいる。原発からの放射能汚染についても自分の信念で議員活動をしてくれた人だが、この人も政治から引退した。引退の理由は、「家族がどうしても政治をやめてほしいと願うから」というのがその理由の一つだった。財閥でもなく、世襲でもなくて、政治家になるということは、かくも困難なことなのである。

普通の人が政治に参加し、普通の人の願いが政治に反映されるようになるには、どうしたらよいのだろう。ひとつは、名古屋の河村市長が言っているように、政治は原則ボランティアにする。つまり、議員報酬はなしで、市民が普段は自分の仕事をしていて、政治活動はすべて無償の活動にするということだ。北欧などでは、そういうことは行われていると聞いたことがあり、可能性もある提案だと思うが、しかし、ボランティアにしてしまえば、やはり財閥や世襲一家が有利なのかという懸念もある。

もう一つ、ぼくが示唆を受けたのは弁護士の宇都宮けんじさんがインタビューの中で答えていたことだ。彼は、2回の東京都知事選挙に出て、いずれも次点であったが、負けは負けである。政治家としては、彼の主張は全然政策に反映されることもないわけだが、彼が言うには、政党・政治運動とは別に、それを支える運動の方の質を強くしていくことが大切だということだ。なるほど、政党・政治運動には消長があり、政治家も落選して生活の糧を失えばただの人であるが、運動の方は多くの人を巻き込み、質を高く保ち長く続けることは、可能なわけだ。運動の質と継続性を何とか保てば、政治的な主張を実現したり、もしくは他の政治的な運動に対しての強い対抗勢力になれるわけだ。宇都宮さんは確かに政治家の椅子には座れなかった人だが、30年の運動の中で、貸金規制を実現した人だ。貸金業者の違法な利息については、今や世間で大きく認知されているし、過払い金の取戻しについての弁護士事務所のコマーシャルは毎日のように流されている。そういうような目に見える現実的な形で、政治的な成果を出すこともできるわけだ。

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2014年4月 5日 (土)

お金の使い方

原発事故後は、とくに公的なお金の使い方には考えさせられてきた。電気料金といういわば私たちの払った公共料金が、原発の安全性を宣伝する巨額の広告費となってマスコミを支配していたなどということがあったし、ぼく個人の思いとは違うようにお金が使われてしまうということがあったからだ。また、前回のブログにも書いたが、復興費という税金を使った予算が、成人本や女優さんの写真集の電子書籍化に使われたり、ベトナムへの原発輸出促進費に使われたりするのは、あまりにも人を愚弄した話だと思う。消費税があげられ、増税分は全部福祉に使うと宣伝しているが、ぼくは信じない。

こういう動きに対して、どう対抗したらよいのだろう。悪いことに使われるのであれば、税金の支払いを拒否する、という抵抗運動が一つ可能かもしれない。現に『節税』という名目で、所得をなるべく少なく見せかけ納税額が少なくて済むように、税理士さんに相談するのは合法的なことだ。また、税を捕捉されるような買い物や事業はしないこと。今、やや下火だと思うが、地域通貨などで支払ったり物々交換という原始的なやり方なら納税を回避できる。こういうやり方も見直す価値がある。そして、確か消費税は事業規模の小さい事業者は免税だったのではないだろうか?地方にある、志のある、小さな小売業者から物品を購入すれば、消費税の納税を回避できる。

そして、今度は良いことに世の中のお金を使ってもらうにはどうしたらよいだろうか。志ある人にお金を託するのだ。ぼくはDHCの会長さんみたいに8億はぽんと出せない。ぼくのやることなど『貧者の一灯』にすぎないが、小さな金額を出す人の人数が大きくなれば、大きな動きになる可能性はある。そういうわけで、ぼくは、東条雅之さんが、山口県の祝島の海と福島の海についてドキュメンタリ映画を作るための資金の提供を呼び掛けているのに応じて、貧者の一灯をともしてきた。東条雅之さんのホームページはここで見れる。ぼくのブログが小さいながら彼の応援になってくれればと思う。

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2014年4月 2日 (水)

復興費の流用

復興費の項目に「書籍の電子化」というのがあるらしい。これがどう被災地の復興につながるのか、よくわかりにくいのだが、地元紙の河北新報によれば、「書籍の電子化」の中に成人本の電子化というものがあったということだ。ぼくも、成人君子ではないので、成人本そのものに反対しているわけではないが、あまりにもお金の使い方がめちゃくちゃではないかと思う。まあ、この手のことがあまりにも多くて、これが日本の日常、普通の在り方ということで、あまり真剣に怒る人もいないようではあるが。

このことについて思うことは、明治以来の中央集権的な予算配分のやり方が、もう機能しておらず崩壊しているということだ。全国から税として中央に金を集めて、それを中央官僚の差配で全国に配分する。中央官僚は、地方の実場は知らないので、地方の実情に合わないことでも押し付けてくるし、地方の方でも中央からもらった予算を使い切らないと、翌年はもらえなくなるので、どんな馬鹿げたことでも全部使い切ろうとする。そもそも、昔地方を支配していた封建大名だって、領内の飢饉などの緊急に備えて、使い切らないで大事に使っていざというときのためにとっておこうとしたものだ。

今の予算の配り方で体制が出来上がってしまい、この体制のおかげで利得を得る人も多い。もちろん中央官僚とそれにぶら下がる政治家たちだ。だが、いずれこんなバカなお金の配り方がこれからずーと続くとは思わない。それに、税の使われ方についてさすがに多くの人が不信感を持っているだろう。消費税の増税分が、全部、福祉に使われるという甘言通りだと思っている人はほとんどいないだろう。もう一旦、今あるものが崩壊し、ゼロからやり直すことがよほど建設的だと思う。

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