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2014年2月28日 (金)

尾木直樹『いじめ問題をどう克服するか』

教材作成のための参考図書として尾木直樹氏著『いじめ問題をどう克服するか』(岩波新書)を買い求め読んだ。非常に示唆に富んだ内容であった。ぜひ多くの人に読んでいただきたいと思うし、尾木氏の考えを教材内で紹介したりして、若い高校生世代にも大事なことを伝える橋渡しにもなれたらと思う。

さまざまに啓発される内容であったが、ひとつ「市民」について考察してみたい。いじめ問題の背景には、日本では人権感覚が未発達で、「シチズン・シップ」に基づいた教育なされていないことを尾木氏は指摘している。この「シチズン・シップ」という言葉は訳しづらいが「市民であること」とでも訳しておこうか。

「シチズン・シップ」に基づいて個性や他者との違いを尊重し、自主的に問題解決に参加するということが教育の場で行われていない中で、政府自民党が「いじめ加害者に対する厳罰化」「道徳教育の強化」によりいじめ問題を解決しようとしていることを批判的にとらえている。

さて、「市民」という言葉、これを毛嫌いする人たちも多い。そういう人たちが好きな言葉は「国民」だ。戦後、市民が自分たちの権利ばかりを主張し義務を軽視してきたので、目上の人を敬うといった美しい伝統的な日本の道徳が崩壊し、喜んで国に命を捧げる愛国心がなくなった、というのがそのような人たちの感情であろう。

だが、「市民」に道徳はないのだろうか。いや、ぼくはあると思う。市民には、市民社会を支えている民主主義を守る義務もあるし、同朋が困窮していれば援助する義務もあるし、国の方針を決定する大事なプロセスに積極的にかかわり参加する義務があるし、社会的な不正義・不平等を見れば目をつぶらず声を上げる義務があるし、不当な外国からの侵略や占拠には抵抗し自主独立を回復する義務もある。「市民」という言葉を嫌っている人たちのように「国民道徳」を押し付けるよりは、しっかりと「市民」の義務を私たちが自覚し、実践することが大事だと、ぼくは思う。選挙の投票率が低いという一事を取ってみても、「市民」の義務が果たされていないし、そもそも日本では「市民社会」が未成熟だということだ。

「国民」派の人たちは、よく「グローバル化」ということを言い、これに対応するために、企業の法人税を下げたり、いくらでも安い人件費で人が雇えるように派遣労働者法を整備している。だが、「グローバル」ということを考えてみても「国民」の限界は明らかだ。「国民」では、その1国だけの限界を超えられないのだ。もちろん、日本が名誉ある孤立を選択し、ガラパゴス島の中に閉じこもり独自の「進化evolution」を遂げようというのであれば、「国民」に固執していればよいだろうが。

「市民」であれば、国を超えた市民や市民社会どうしの連帯ということが可能になる。そこで、共通の価値観で結びつくことも出来る。もちろん市民社会は、個性を尊重し、お互いの違いを認めるという原則があっての連帯や共同である。

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2014年2月25日 (火)

ハンナ・アーレント『革命について』

ドイツ出身のユダヤ人で、のちアメリカに亡命した政治哲学者ハンナ・アーレントの「革命について」を読んだ。仰々しい題だが、アメリカの独立戦争(=アメリカ革命)とフランス革命について考察したものだ。ぼくは、昔高校で世界史を勉強したとき、「フランス革命」がよくわからなかった。本来、「自由・平等・友愛」などの高い理想を掲げて始まった革命が、なぜ断頭台の嵐になり、ついには軍人の独裁になってしまったのか、その流れが理解できなかった。(流れが理解できないと、世界史は出来事が頭に入ってこないし、年号も覚えられない)だが、ハンナ・アーレントの著作を読み、少しその流れが分かった。彼女は、流れを作り出すことになったその根本の情勢や思想を考察していた。

後世に与えた影響についてはフランス革命の方が圧倒的だが、アーレントによればフランス革命は失敗で、アメリカ革命の方が成功だ。それはなんといっても、旧大陸の歴史的条件に制約されないアメリカの特殊事情からきている。だが、革命を起こした建国の父たちが、いかに民主的な制度や憲法を作っていくべきかを真剣に考えていたことも大きい。客観的に言って、「民主主義」や三権分立・権力の抑制ということについては、アメリカは歴史的に言っても世界をリードするすぐれた国であることには違いないし、彼らが自分たちの「民主主義」を誇りに思い世界中に押し付けようとするのも無理からぬところである。

そもそも革命というのは、暴力で権力を奪取する。暴力で奪取した権力が正当性を主張できるのか?正当性のない権力が、例えば憲法のような国を統治するための綱領を作れるのか?そうやってできた憲法に正当性があるのか?という難しい問題がある。フランス革命は、正当性の問題に失敗し、テロルの反動などが起こったのだろうし、アメリカ革命ではその正当性を当時のアメリカ社会の中に基づけようとして成功した。とにかく、「民主主義」の問題については欧米では、日本よりもはるかに本質的なことが議論され、成功であれ失敗であれ様々な試みが行われてきたという、歴史的な違いがある。(もちろん、違っていて当然)

革命なんて遠い昔のことかと思えば、今でもあちこちに行われている。ウクライナではついに大統領を追い出してしまった。この革命政権の正当性はどう根拠づけられるのだろう。ロシアは早速正当性がないと非難している。逆に、日本では曲がりなりにも憲法上の手続きを踏んで、政権につき首相になった安倍さんが、自分に正当性を与えた憲法を蔑視し、憲法の解釈は自分の一存で変えられると発言している。これが正当というのであれば、クーデターで政権を奪取するのも同じく正当といえるだろう。民主主義についての議論を日本でももっと深めなくてはいけないと思う。そうでないと、やはり「民主主義」は借り物の外国思想で、日本には根づかなかったということになるだろう。

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2014年2月23日 (日)

医学的根拠とは何か

岩波新書『医学的根拠とは何か』(津田敏秀著)の勉強の成果をもう少しまとめてみます。

福島県放射線健康リスクアドバイザー山下俊一氏と広島大学神谷研二氏が、福島県で何千回と講演を行い「100ミリシーベルト以下では、統計学的な有意差がなくなる」、つまり受けた放射線量年間100ミリシーベルト以下であれば病気になる人とならない人の数に差がないことを強調・同意を求めました。しかし、津田氏によれば、これは現代流のデータ分析・疫学研究の結果の読み方を知らないことから来る誤謬です。彼らは「有意差がない」と「影響がない」を混同していると津田氏は言います。

また、津田氏が彼らに反論する根拠をまとめてみると、彼らの主張が広島・長崎の被爆のデータに依拠していることです。そのデータ数は7万人弱ですが、福島県の被ばく者は(もちろん福島だけではありません)、もっと膨大な人数ですし、放出された放射能物質も、福島の方が何百倍です。広島・長崎のデータで有意差がないとしても、福島では有意差(=統計学上意味のある差)が出てくる可能性があります。

また、決定的なのは、CTスキャンや自然放射線による人体影響に関する大規模な研究(例えば、1000万人規模の母集団からなる追跡調査)が世界では行われていて、5~50ミリシーベルトで病気が増えるという結果が出ていることです。

このように、科学というレベルでは、津田氏が山下氏らを否定しています。また、山下氏らによると福島県内では出てこないはずのがんが、WHOの健康リスクアセスメント(低線量被曝の影響はあるという立場でなされたもの)においては出ると予測され、そして現実の福島県の状況がどうであるかを考え併せてみると、科学的な論議としてどちらが正しいのかはわかると思います。

しかし、ここからは政治の世界です。原発をやめるか辞めないかは政治的判断であり、やめないのであれば山下氏のような見解を持つ科学者を雇い、原発の被害がないまたは過少に見積もることが政治的判断としては妥当です。山下氏のような科学者が持つ科学としては間違っている見解を基に、政策が決められていくのです。たとえば、放射能汚染地帯にいる子供を汚染の少ないところへ移動させるというようなことは、政治的に許されない判断になってきます。

いま福島では、原発推進団体がスポンサーとなっている「エートス運動」なるものがあると聞きます。放射能汚染を怖がらずに勇気をもって住みましょうという運動です。もちろん地元の人の地元に対する愛着は分かります。しかし、こういう「頑張ろう運動」は、何が事故の本質であり、誰が真の責任者であるかを忘れさせます。復興庁の帰還促進事業も数十億の予算で、本格化し、「放射能をむやみやたらに怖がらない」啓発運動に巨額資金が投入されます。東北電力も、お母さんや子供たちを集めて、湯の花、御影石にガイガーカウンターを当てて「ほら、こんなものからも放射線は出ているのですよ。放射能をむやみに怖がるのは変な人たちですよ」という、啓発教室を(わたしたちの電気料金で)開催しています。

政治から見ると、科学なんて都合のいい時に都合のいいように使うだけです。私たちは、それでも科学的に判断できる力をつけて、おかしいことにはおかしいと言っていくことが必要でしょう。勉強していきましょう。

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2014年2月21日 (金)

津田敏秀『医学的根拠とは何か』

岩波新書『医学的根拠とは何か』を読んで勉強しています。引き続き、この本を読みぼくなりに理解したことを紹介します。ちなみに、前書きのところで、筆者の津田氏はこんなエピソードを紹介しています。先輩の医師にこういう本を書こうと思っていると相談したところ、「お前、殺されるぞ」と冗談交じりでいわれたそうです。つまり、どこの世界でもそうだと思いますが、その世界では標準とされているやり方や権威というものがあるものなのです。その権威に逆らうということがどういうことかということをこのエピソードは示しています。科学としての医学でこの津田氏の主張が絶対に正しいかどうかはわかりませんが、私たち素人市民が、政府や官僚によって必ず指名される専門家さんたちの意見とは別に、違った立場の専門家の話も聞き、自らが勉強し『結局自分はどうするか?』を判断をしなければいけない時代だということです。

さて、今の医師には3種類あるそうです。

1.直感派  2.メカニズム派  3.数量化派

ぼくなりの理解も加えて説明します。1の直感派は、日本では「赤ひげ先生」のイメージでしょうか。熱心に患者さんの接してくれる臨床医です。「赤ひげ」であればあるほど、患者個人個人を見てその病気を治そうとしてくれます。臨床経験がたまり経験数が増えてくれば、こういう症状であればこういう病因で、こういう処方をすれば病気は治るということがわかってきます。だが、その経験を一般化する統計を使った疫学的方法を持っていないので、目の前のAという患者の病因について推測したことや病気を治療しAさんが回復したその治療法が、一般的にも妥当であるかどうかは証明することができません。

2のメカニズム派は、白衣を着て試験管を振っているイメージでしょうか。ヨーローパでは病原菌を発見したパスツールやコッホ、日本では野口英世や北里柴三郎のような人たちのイメージが強力すぎて、病気のメカニズムを解決し、病気治療にものすごい貢献をしている、と誰もが思うのは当たり前ですが、じつは、津田氏によれば、メカニズム派は病気の原因を科学的に証明することは出来ないのだそうです。ここが一番、素人には理解の難しいところです。メカニズム派は、マウスなどの動物実験をしますが、たとえマウスで病気の発生のメカニズムなどが明らかになっても、それがすぐに人間に当てはまるわけでないことを考えると少し納得できると思います。

津田氏が、病気の原因を科学的に明らかにでき、日本の医学界の主流にならなければいけないと言っているのが、3の数量化派です。数量化派は、統計学を援用した疫学的な調査をして、病気の原因を探します。疫学的調査とは、人間の集団を調査していくことで、例えばタバコを吸う人たちと吸わない人たちとで分けて、この2群で肺がんの発症率がどのように違っているのかを追跡調査していくものです。病気になるのは、タバコが影響しているのでなく、もしかしたら年齢や性別かもしれません。そこで、そういう年による差異などを取り除く統計的処理をしたうえで、たばこを吸えば、吸わない人に比べて何倍肺がんにかかるリスクが大きくなるかを計算し、たばこを肺がんを引き起こす原因物質と特定していくというものです。

ちなみに、たばこはこうして疫学調査で、がんのリスクを高めるものとして、世界の常識になってしまっていますが、やはりたばこ産業から研究費を出してもらっている医師が、がんはストレスなどでも引き起こされ非常に複雑なメカニズムで起こるのであるから、たばこを犯人にするのは妥当ではないと、いろいろのところで発言してきたそうです。原子力の世界と似てますね。

長くなったので、最後に。国や福島県から指名されて100ミリシーベルト以下の放射線であればだいじょうと説いて回り、彼の発言が原発被災地の人々に対する管理政策を決めた、(というより被災地から人が立ち去らないようにという政治的判断が始めにあって、それで彼が選ばれたともいえる)山下教授は1の直感派だそうです。また次回、自分なりに理解したことを書きます。

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2014年2月18日 (火)

『医学的根拠とは何か』

東京都知事選の桝添さんと自民党はやはり強かった。原発が争点になることを避け、「ぼくももともと脱原発です」と言って、争点を消してしまった。教条主義的でないというところ、臨機応変だというところ、選挙対策にたけた人が多いというところが自民党の強さだろう。もち論、選挙で勝ってしまえば、争点でなかった原発も、国民からは承認されたということで、「活断層は存在しない」し、「浜岡原発は再稼働ゴー」ということだろう。孔子様も、「君子は豹変する」と言っている。これは褒め言葉である。

さて、なかなか時間がなくて読めなかった『医学的根拠とは何か』津田敏秀著を少しづつ読んでいる。大変勉強になる。読んだところから少し要約してみると、「被曝積算量100ミリシーベルト以下で健康被害が出るか、どうか」という問題で勿論、政府・福島県は「出ない」という立場で、政策を推進し、近隣の宮城県等もすべてその立場に従っている。だが、これは「統計学的な有意差がない」と「放射線被ばくによるがんが発生しない」を同一視した混同によるもので、もともと国際放射線防護委員会もWHO健康リスクアセスメントでも「100ミリシーベルト以下でもがんが発生する」という立場だそうだ。

政府とそのお墨付きの専門家の言を信じるのか、それとも津田氏の言を信じるのか、判断は個人に任される。とにかく3.11以降に、もう「お任せ民主主義」は存在しない。そもそも「お任せ」と「民主主義」では言葉の自己矛盾だ。つらいけれどしんどいけれど「自己判断」だ。そのためにも、普通の人が知る努力や勉強する努力を続けなければならない。この本の内容、また読み進めたら紹介したいと思う。

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2014年2月15日 (土)

身近なことを案外知らない

王云海「日本の刑罰は重いか軽いか」(集英社新書)を参考に法律と社会の示唆に富む見解をまとめてみた。

中国の死刑…人命とは関係ない麻薬犯罪、財産犯罪、経済犯罪、公務員汚職犯罪にも適用され、アムネスティの推定では毎年数千人が執行されている模様。アヘン戦争の経験がある中国では、薬物犯罪をただの犯罪ではなく、中華民族を滅ぼす危険行為と見て、死刑の対象となる。

日本の死刑…死刑は故意殺人など暴力犯罪に集中。執行は毎年3人前後。

中国の窃盗罪…農村などでは1万円以上、都会では4万円以上になると窃盗罪。

日本の窃盗罪…1円からでも窃盗罪になる。

元受刑者への社会的対応―中国の場合…元受刑者でも長者番付に載れる金持ちになれる。元受刑者に対して社会が寛容。

元受刑者への社会的対応―日本の場合…受刑者であったことが常に大きな社会的影響を持ち、刑期が終わってもなかなか社会へ復帰できず、一生自他ともに引きずられる。

中国の刑法…犯罪は「質」と「量」の両方からなり、一定の程度の達した悪い行為・違法行為だけが犯罪とされる。悪い行為でもなかなか犯罪とされないが、いったん犯罪とされたら重い刑罰が科せられる。

日本の刑法…犯罪とは「質」的な概念であって、量や程度の要素が考慮されず、悪い行為・違法行為のすべてが犯罪とされる。犯罪になったからといってなかなか重い刑罰は課せられない。

中国の社会特質…中国は「権力社会』で、秩序の創出と維持が社会の少数者である権力者だけによって行われ、常に人手不足。よって細かい犯罪をいちいち検挙していられない。そのため、国家・権力にとって大事な部分だけを犯罪にして、必要以上の刑罰を科し、その波及効果をもって秩序の創出と維持を図る。

日本の社会特質…日本は「文化社会」で、国民の多数が身近な文化(習慣や道徳)としての秩序の創出と維持に努め、法律はこのような文化の確認、補強をするだけ。そのため文化上、非道徳的であれば法律上も「犯罪」とされる。他方、罪を犯したからと言っても、同じ国民であるので、義理人情を超越するほどの厳罰は課せず、刑罰を浅くし、罰を民間・文化に任せる。

ここからは私の感想…このような地味だが、興味深い研究をしている研究者がいるということにまず敬意を感じた。中国は「お隣の国」とよく言うが、案外隣国の国民のこと、文化、社会のことを知らないのではないか。憎悪をあおりたてるよりも、知ろうとする努力が大事ではないか。

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2014年2月13日 (木)

都知事選

都知事選の行方に注目していたが、やはり自民党・創価学会は強かった。桝添候補と、田母神候補を合わせると300万近い得票なので、投票率が低かったとはいえ、自民党・創価学会はほぼ前回の猪瀬知事と同じくらいの支持票を獲得したと言っていいのでは?桝添候補と田母神候補を一緒にするのは乱暴かもしれないが、国政レベルになるとこの両候補の主張は自民党が吸収するだろうから自民党が持つ現在の実力を示していると思う。自民党が強いところは、教条主義的でないこと、柔軟性があること、清濁・硬軟・左右・保革幅広く主張をくみ取ることだろう。

今後の日本社会の動向や潮流として、ぼくが大きいことだと思うのは、田母神候補が60万票を獲得したことだ。60万という数字は大きい。特に20代の若者から大きな支持を受けた。だんだん上の世代がいなくなり若い世代やその下の世代が社会の中心をなしてきたときに、日本社会がどうなっているのか、どうなりたいのかを、ある程度示唆しているともいえる。田母神さんの主張を確認してみると、

 

「侵略戦争、南京事件、従軍慰安婦、全部ウソだ」

「外国人参政権には反対だ」

「靖国神社に参拝して誇りある歴史を取り戻す」

ちなみに、ある日の演説では、スピーカーの調子が悪くなると「中国の妨害電波が入りました」と冗談を飛ばし、笑いを誘ったこともあった。

田母神さんを支持した60万票をどう考えるかだが、ぼくには過去の歴史の流れも踏まえてこうではないかというような陳腐な考察しかできない。しかし、もしかしたらこの田茂母神さんの60万票は、過去の歴史のパターンからは分析できないような全く新しい流れや動きなのかもしれない。

とりあえず、ぼくが思いつく過去の似たような流れは、

・ナチスが政権を獲得していく過程で内外に標的を作り現状に不満を持つ人々の支持を集めた。第一次大戦で敗北したドイツは、当時最も民主主義的と言われるワイマール憲法を持っていたが、敗戦の賠償や不況・失業に苦しんでいた。国民の多くは苦境からの脱出を、内外に対して強硬な発言をするヒトラーに託した。

・戦前の日本政府もそれほど過激な主張を持っているわけではなかった。だから、左であろうと右であろうと過激な思想は処罰した。右の過激な思想に引っ張られ5.15事件や2.26事件は起きたのだが、その事件で右の過激派は処罰しつつ、事件を利用してというか、それら事件に利用されて政府は軍人主導の政府となり戦争への後戻りできない道へと進んでいった。

 

 

 

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2014年2月10日 (月)

三題話

1.辛淑玉さんの応援演説(要約)

 「私には、選挙権はありません。
渋谷は、私が通った都立第一商業があります。  転入した中学校で、男子生徒が、商業高校を出れば朝鮮人でも就職ができると言ったので、必死に勉強して入りました。  当時の我が家にとって高校に通うということは経済的にも大変厳しいことでした。だから、必死に働きました。高校一年が過ぎ、卒業生の就職先をみて、在日の先輩で企業に就職した人が一人も居ないことを知り、愕然としました。働いて、交通費も授業料も払って勉強する意味がなくなりました。朝鮮人であるということは、食べていけるだけの仕事が得られ無いということでした。明日でなく、今を生きるために、私は、起業したのです。そこしか道がなかったからです。いま日本で起きているのは、日本人の二級市民化です。まさに、「朝鮮人」のように扱われるのです。それは、ダメなのですよ。日本人でも、なに人でも、人は、人として、ちゃんと扱われないといけないのです。だのに、今、ヘイトスピーチが鳴り響く東京で、朝鮮人は「殺せ」とまで言われるようになりました。哀しいかな、その声は全国に広がりました。「貧しさ」と「差別」の嵐が吹きあれています。そして、この2つは政治が作ったのです。だから、政治を変えれば超えていけるのです。」

2.国際人権団体の職員氏のある講演会(要約)

「私が勤める国際人権団体に二人の若いチェニジア人男性2人が訪れた。庇護を求めて来日したが、働くこともできず、住居もなく、路上生活を余儀なくされている。難民申請をして以来、日本のイメージが一転した。「かつて来日した時、なぜ豊かな国に路上生活者が多いのか不思議だった。今自分がこのような身の上になって初めて、日本がどんなに冷たい国なのかが分かった」。日本は難民条約に加入し、難民申請者の数が増えている。2012年の申請者は2545人で、認定を受けられた人はわずか18人。難民申請中の人の半数が、正規の在留資格を有していない。認定結果が出るまで2年以上かかる。この間、生きていくために働かざるをえないが、弱い立場につけ込まれ、搾取されたり、労働災害にあっても補償を受けられないなどの問題に直面する人が多い」

3.東京都知事桝添氏の過去の発言

「僕は本質的に女性は政治に向かないと思う。たとえば、指揮者、作曲家には女はほとんどいない。女が作曲した曲に大したものがない。なぜか、と考えてみると、実は指揮者は政治家に似ていることに気づいたわけ。オーケストラを統率する能力は、女性は男性より欠けているわけです。作曲家が少ないのも、論理構成をして様々なパーツを上手にワンパッケージにまとめる能力がないから。これはシングル・イシュー・ポリティックス(単一争点政治)とも関係してくる。」「それから、体力の差ということでいえば、政治家は24時間、いつ重要な決断を下さなければいけないかわからない。そのとき、月1回とはいえ、たまたま生理じゃ困るわけです」「女は生理のときはノーマルじゃない。異常です。そんなときに国政の重要な決定、戦争をやるかどうかなんてことを判断されてはたまらない。」(BIGMAN1989年10月号「増殖マドンナ議員は日本をダメにするか!?)

三題話とは、客席からたまたま出された3つのお題をうまくまとめて、お話に作り上げるという落語のこと。ぼくも、たまたま目にしたこの3つの底流に流れているものは何かということを考えていこう。

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2014年2月 8日 (土)

地方と国 ― 内山節氏の論考を基に

仙台でも雪が降りはじめた。どんどん積もっていく。これで、注目の東京都知事選は、ますます投票率が低くなるだろう。こうなると、自民党・公明党推薦候補がますます有利になる。さて、原発のような論点は地方選挙にふさわしくないのか?私のようなよそ者に東京都の選挙について口をはさむ権利はないのか?河北新報の2月3日付の記事に内山節氏が論考を寄せていた。内山氏は「公共」の問題等を考えている哲学者で、高校生にもぜひ彼の考えを知っておいてもらいたいと願って、小論文の教材に著作を使わせてもらったことがある。

内山氏の主張:「国政の問題を地方の課題として考えることが必要だ」⇒その論拠:「現実の問題として原発事故が起きてしまえば、原発政策は国の課題だとは言っていられない。国に全権委任しないためには、絶えず地方の問題として国の政策に発言していくことが必要。例えばTPPは国の課題だと言っていたのでは、農村は衰退の一途をたどる。国と地方の分業は成り立たない。沖縄の名護市長選は国の政策を地方の課題に落とした点で、地方主権の在り方を示した」

この内山氏の論考では、民主主義についての論考も参考になった。以下にまとめる。

現代の日本の民主主義、代議制民主主義は不完全にしか機能していない。前回の衆院選では、秘密保護法、TPPの前提なき参加、原発の有無を言わさぬ推進など自民党の公約になかった。しかし、いったん多数派を取ってしまえば、やりたい放題で少数派の意見を聞く耳を持たない。これは、代議制民主主義が、選ばれたものに全権委任する制度になっているからだ。それが、権力を手にしたものの暴走を生む。こうした不完全な制度ながらそれに代わる有効な制度が今のところ見つからない。ではどうしたらよいか?

内山氏はこう答える。「それは拒否権行使としての投票であり、時にデモや集会、様々な手段を使っての直接的な意思表示をすることであり、国の課題を地方の問題としてとらえなおすことだ」

わたしが名づけるに「街頭制民主主義」、これが現在の代議制民主主義の欠陥を補う一つの方法だ。私たちは、国や地方自治の主権者として、われわれが選んだ代議員が、私たちの意思と異なった意思表示をすれば、その訂正を求めて、街頭に出て直接、声を上げることができるし、上げるべきだということだ。そして、この声が国政や地方自治に反映されれば、それはまた一歩、より良い民主主義へと進んでいることになる。当選してしまった代議員は、はいそれまでよということで、全権委任されるわけではない。代議員の言動や行動がおかしいと思えば、主権者はまた声を上げていくべきだろう。選挙が終わればそれで終わりというわけでないのだ。都知事の有力候補の桝添氏は、過去の発言を見るとかなりの女性差別主義者で相当な偏見の持ち主である。もしこういう人が当選しても、そういう人は日本国の首都東京のトップにふさわしくないと、どんどんあとからでも異議申し立ての声を上げることができる。

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2014年2月 6日 (木)

選挙と民主主義

東京都知事選の投票まであとわずかだ。大手のテレビや新聞には完全な報道統制が敷かれているようだ。「中立公正な報道」の名のもとに、選挙に関することは「報じない」という姿勢を取っているというか、取らされている。報じないことで選挙民の関心が薄れ、投票所から有権者の足が遠のけば、それが誰を利するかと言えば、業界団体・宗教団体・大手労組の組織票をがっちり握っている自民党・公明党の桝添候補だ。「公正」ではなく「応援」していることになる。特にNHKの腰の引けた報道は情けないくらいだ。誰を見て報道しているのだろうか。「お上」を気にして、お気に召さない報道をしないようにと「戦々兢々」でいるのが痛いくらい伝わってくる。会長と経営委員4人、安倍さんのお友達を送り込まれて、これで公共放送が私物化されたと言わないのだろうか。

残念ながら今の日本には「オルタナティブなメディア」が、まだ十分育っていない。昔からある大手のマスコミの国民への影響力はまだまだ強い。さらに、政府の方でもインターネットやSNSの統制に乗り出し、世論操作に関してはかなり習熟しだしている。自由な報道という民主主義な基盤はどうなるのだろう。

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2014年2月 3日 (月)

テレビもいらない

高校の先生とお話をしていて「最近の子はテレビも見ないんですよ」という話題が出た。これは、どういう文脈かというと、いい小論文が書けるようになるには、読書をしたり新聞を読んだり、文章に触れ社会の情報を集めることが必要だが、まず今の子は新聞を読まない。そもそも新聞を取っている家庭が少なくなった。だったら、NHKの「クローズアップ現代」とか「NHKスペシャル」などを見て、社会問題に興味を持ち、すこしでも小論文の内容が充実できるようにすればいいが、そのテレビすら見ないようなんです、ということだった。

テレビも昔は民放でも、報道特集や社会問題を掘り下げたドキュメンタリ―番組があった。でも今は、民放はバラエティー番組ばかりで、これなら別に見なくてもよい。NHKは、安倍さんが政権についてからは、相当気を使って放送しているというのが痛いほど伝わってきたが、最近では「中立」を掲げていながら、ほとんど政権の見解を伝えるだけの道具になってしまった。おまけに、民放のまねをしてバラエティ系の演出も増えていて、ますます国民が大事な問題に関心を持つことを妨害して、そのことによってますます安倍さんや石破さんの自民党のお役にたつ広報機関になっている。これなら、テレビは見ない方がいい。テレビを見ない若者が増えるのは、いいことだともいえる。

だが、情報伝達や世論を形成するマス・メディアの存在は必要だろうから、今はその在り方を考える大事な転換期なのだと思う。ぼくが注目しているのは、市民ジャーナリズムだ。京都在住の市民ジャーナリスト守田敏也さんから、ぼくはメルマガ形式で解説記事などを送ってもらっている。こういう独立系ジャーナリストをどう支えていくかということは、お金の廻らせ方ということともかかわって来るし、お金の巡り方が変われば、この社会が変わる大きな力となる。またインターネットという基盤ができたおかげで、映像ニュースを配信するメディアにも市民系・独立系のメディアが誕生している。大手のマスコミなどが取材してくれない、集会の模様などを配信してくれる、「アワープラネットTV」などもぼくが注目しているメディアだ。いわゆる大手のマスメディアの力がもう少し凋落してもらい、市民系・独立系のメディアが、もう少し力をつけていけば、バランスが取れる。バランスが取れるところまで、市民系・独立系を大きくしていくために各人ができる支援をしていかなければならない。

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2014年2月 1日 (土)

ベーシック自営業

「学校なんて行かなくても全然OK」と書いた中学生の作文(前回のブログ記事)に、刺激を受けてまたその続きを考えてみたい。学校に行かなくてはいけない理由として、大人が子供に押し付ける理由は、「学校を出ていなくては、就職できない」というのがある。確かに、現実を見れば、大学卒の方が中学卒の学歴しかない人よりも就職しやすいだろうし、中学校すら卒業していなければ会社では採ってもらえないというのはあると思う。

だが、今の大学生の状況を見ると、就職活動で100社くらいから落とされ、やっと就職できたとしても評判のブラック企業だったりして、面接でこれだけ落とされれば、人格否定されたようで、大変つらい状況が待っている。若い人の半数は非正規労働者で、これはどう見ても大人がこしらえた悪い状況を若い人たちに押し付けているだけで、若者たちに非がないとしたら、そんなつらい状況なら無理して働かなくてもいいよ、と声をかけたくなってしまう。となると、「就職するために学校に行く」という前提もなくなるので、やはり「学校なんて行かなくても全然OK」と書いた中学生は正しいということになる。

働かないとどうなるのだろう?ベーシック・インカムという仕組みを提唱している人たちがいる。最低限暮らしていけるだけの収入を国民すべてに配り、それ以上がんばって贅沢したい人は働くという、そういう国の姿だ。これはもちろん、新自由主義の政治家や経済学者からは評判が悪い。新自由主義というのは、政治家の名前の系譜を出すと、イギリスのサッチャー首相、アメリカのリーガン大統領、日本では、中曽根さん、小泉さん、安倍さん、竹中さんなどだ。ベーシック・インカム制を導入したら、人はみな怠け者になり、働く者はいなくなる、この世は自由な各人の創意工夫を大切にし、儲けたい人にはどんどん儲けてもらう、そういう人たちが先頭で社会を引っ張れば、革新的な技術やサービスが生みだされ、世の中が良くなり、最後には、貧乏人にもお余りが回ってくるという論理が「新自由主義」だ。

果たして、人は働かなくなるのか、働くのか?それはどちらともいえないが、ベーシック・インカムのような発想で、ぼくが思い描いていたのは、「ベーシック・自給自足」だ。最低限の収入のところを、最低限食べるものを自給するに置き換えるということだ。都会に住んでいれば、食べるものもすべてお金で買わなくてはいけないのだから、最低限食う分を自給すればその分金を稼いだのと同じだ。また、ぼくが考えていたのは、最低限の食う分だけでなく、里山を背景として、薪や山菜なども入れると、冬の灯油代も稼いだのと同じになる。こういうベーシック・自給自足ができれば、不安定雇用も経済循環も怖くないと思っていたが、これは、原発事故のような環境破壊には弱い面があった。改めて、原発というのは、生存権の破壊、生きる基盤を切り崩すものなのだということが分かり、原発をやめるべき理由の一つとして、これはぜひ全国の人にも知ってもらいたい。

ベーシック・自給自足は、時の政権の原発政策でできなくなることがあるが、新たに可能性を考えているのはベーシック・自営業だ。最低限の分は、各人が自営業で何とか食い扶持を稼ぐ。それ以上稼ぎたい人は働きに出るというものだ。みなが、ベーシック・自営業を持っていれば、絶対にこの国の形は変わる。各人の考え方が、すっかり変わってしまうからだ。そして、今はインターネットの普及などで、それができる基盤も整いつつあるのではないかと思う。もちろん、自営業は甘いものではない。商売を覚えるのは大変だ。それを学べるところがあればありがたいが、学べるところは「学校」とは限らないということを言いたいのだ。商売は実践しながら覚えていくことも大事だろうから、学ぶ場というのはいろいろなところにあるはずだ。「学校」はいらないかもしれないが、学ぶ場は必要だし、それはどこにでもあるはずだ。だから、関西の中学生が書いた「学校なんて行かなくても全然OK」というのは、すごい言葉だなと改めて思うのだ。

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