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2014年1月30日 (木)

思いつくままに

学校教育ってなんだろう?学校教育は国の制度なんだから、仕切り手である国の意向にはきっちり従ってもらいますよ、ということで、国定教科書に国の見解を載せて押し付ける。(国の見解と言っても、その時々に運よく政権を手中にしたグループの見解なのだが)。スポンサー様には逆らえません、ということでそういうことでもいいのかなとは思うけど、隣国への憎悪を吹き込まれ、こちらが望んでもいない他国との戦争に巻き込まれるような羽目になるとしたら、いったい学校になんか行く必要があるのか?と思えてきた。学校に行く子がいないとこの国は滅びるのではなく、学校に行かない子が多くなればこの国は栄える、という逆説もあるのかもしれない。

そう思うようになったのは、関西の知り合いの方が、いろいろな活動をしている人たちの文章を送ってくれて、その中に中学生の作文があり、とても面白かったのだ。その子は、小学校4年くらいまでは学校に行っていなかったそうだ。何をしていたかというと、遊んでた。その時に夢中になれる、例えば虫取りとかをやりながら、遊んでたという。そして、4年だか5年くらいから行き始めて、今は中学が楽しくて行っているという。その子が言うには、「学校なんて行かなくてぜんぜんOK」だそうだ。この子が書いたこの作文は、中学校の代表に選ばれて県大会か何かに行ったのだそうだから、その中学もなかなかふところが広いとは思う。

子供が楽しくて学校に行くというのなら、わざわざ止める必要もないが、行きたくないというのなら行かせなくてもよいと思う。勉強しなくてどうするんだと、子供に勉強を押し付け学校に行かせるのは特によくないと思う。勉強する必要があるのは、大人も子供も同様であって、要は人間は一生勉強する必要があるが、でも学校は必要ない。必要があるのは、学ぶ場や機会や一緒に学ぶ人たちであって、それが何も学校である必要はないと思う。

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2014年1月28日 (火)

「みやぎ脱原発・風の会」の応援を

宮城県で脱原発運動をしている「みやぎ脱原発・風の会」から開始が送られてきた。いま、宮城では女川原発の再稼働を目指して、東北電力がなりふり構わぬ活動を始めている。我々の目に付くところでは、新聞の広告に、いかに丈夫な防潮堤を建てたかのアピールをしたり、産経新聞の系列情報誌を使って、有名人原発レポートをやらせたり、といかにも事故前と何も変わらないように、つまり、原発運転の障害になるのは、「原子力に対して無知で、偏見を持った市民どもの、無知と恐れ」だけであり、それを解消するには女性有名人を使い怖さをなくすだけであると信じて再稼働にまい進しているのである。

だが、「みやぎ脱原発・風の会」は、市民が科学的立場で、専門家に負けないくらいの科学者魂を発揮して、感情レベルでなく、科学的な検証の立場で本当に原発を再稼働していいのか、疑問を呈しているのである。福島原発の事故の原因がそもそもまだ判明していない。政府や電力会社は津波のせいとしているが、こちらが、情報公開などで手に入れた資料を読み合わせていくと、「申請書には非常用復水器には給水なしで8時間持つとされていた能力が、日常的には80パーセントに維持管理されていた」ことや「申請書の添付図面通りに非常用復水器配管が接続されていない」ことなどが判明している。つまり、運転を規制委員会に申請しても、委員会はただ判を押すだけで、そもそも現場で申請書通りの設計にもなっていなかったり運営にもなっていない、というような原子力行政をめぐる問題が事故の原因であるにもかかわらず、そういうことの反省も原因の解明も全くあやふやにして、女川原発をはじめ全国の原発が同じように運転の申請がなされ再稼働されていって、これでまた事故が起こらないということを信じろという方が無理だ。

こういう事実を突き止めるにはどれくらい根気がいったろう。行政に対して資料公開を求めたり、図書館で探したり。だが、政府が一番恐れるのは、正しい情報に基づいて正しく判断する市民なので、今後は、こういう申請書や添付書といった資料も機密扱いされ、科学的根拠から政府の見解に反論できる機会が少なくなってしまうだろう。自分で考え自分で判断する市民は、政府から見ればまさに『テロリスト』なのだ。「みやぎ脱原発・風の会」では、また4月からの1年間の会員・サポータ会員を募集している。会のホームページはここにある。

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2014年1月23日 (木)

『標的の村』その2

琉球朝日放送がとったドキュメンタリーフィルム『標的の村』。沖縄本島東村高江集落を囲むように米軍ヘリパットがあり、村人の頭の上をかすめるように、軍用ヘリやオスプレイが飛行する。事故が起これば、子供たちが犠牲になる可能性がある。なぜ、こんな危険なことをするのか?軍事演習として、集落を囲むジャングル戦を想定して訓練しているので、高江集落は敵のゲリラが潜む『標的』に見立てられているのではないかというのが、住民側の推測だ。

世界中すべての人が幸せにならなければ本当の幸せはない。今の日本の平和が、この沖縄の人の悲しみと犠牲の上に成り立っているのなら、この平和は偽りの平和だ。原発も基地も、誰かの犠牲の上にしか成り立つことができないという構図が共通だ。この映画に出てくる、能面のような顔をしてオスプレイの配備については関知しないとしらを切る官僚を、座り込んで抗議する住民を力づくで排除する沖縄県警の警官を、基地工事に協力してヤンバルの森を破壊する工事業者を、こういう人たちをぼくはとげとげしい言葉で攻めたいのではない。ぼくは弱い人間だ。立場が変わってぼくがそういう人になれば、「わかりません。知りません。こちらには権限がございません。そういうことになれば通知させていただきます」「上官の命令には逆らえない」と言うだろうし、「工事が出来なければ代金がもらえなくて困るんだ。うちには学校に行ってる子供がいる」ともいうだろう。

米軍の兵士たちだって責めたくない。彼らはいかにも無邪気な顔をした若者たちで、国に帰れば父さん、母さん、兄弟姉妹もいるだろう。だが、その同じ人間がいくらでも残酷なことや暴力をおこなうことができるのだ。それはみな、ぼくの中にもあなたの中にもある弱さや酷さなのだ。そういうことを認めずに、一方的に相手をきつい言葉でなじっても、問題は解決しないし、構造は変わらないし、運動は広がらないし、連帯は強くならない。

では、どうやってたたかうのか。この映画で沖縄の人は教えてくれた。「歌って」たたかうのだ。歌や音楽が人間性を目覚めさせて非人間的な部分にうちかたなければ、この問題の根本は解決しない。

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2014年1月22日 (水)

標的の村

『標的の村』は琉球朝日放送が作成したドキュメンタリー映画だ。沖縄本島の東村高江というヤンバルの森の中の小さな集落を取り囲むように、米軍基地のヘリパットが建設されようとしている。それに抗議する住民が防衛施設庁に工事をさせないようにと、座り込みをして反対をする姿を描いたものだ。住民は、国から往来妨害という罪で告訴され裁判所に出頭を命じられる。権力を持つ強いものが、見せしめと運動萎縮のため、弱い立場の住人を訴える典型的なSLAP裁判だ。それだけでも恥ずべきことなのに、国は7歳の女の子を被告にした。座り込みの現場に一度も行ったことがないにもかかわらずだ。映画は、その後普天間基地にオスプレイが配属されるところも描く。沖縄の人たちが抗議のために基地の入り口を閉鎖する。それを力づくで排除する沖縄県警。なんで沖縄の人が沖縄の人を苦しめるの、と抗議する人たち。見てると涙が止まらない。本当に抗議すべき相手、戦うべき相手は誰なのだろうか?ぼくだって加害者ではないだろうか。このドキュメンタリー映画は、いま仙台では『フォーラム』でかかっている。こういう良いドキュメンタリー映画が今後も作られるのを保証する表現の自由を守るためにも、そしてこういう映画を勇気をもって上映するミニシアターという文化の多様性を守るためにも、応援できることと言ったら、足を運び入場料でカンパすることぐらいだろうが、ぼくのできることといったら。

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2014年1月21日 (火)

名護市長選

沖縄県名護市長選で、米軍基地移転反対を訴える稲嶺氏が当選した。沖縄の人たちの勇気を示す嬉しいニュースだ。選挙運動中に、自民党の石破氏が、基地賛成の自民党候補に投票すれば500億円あげるよ、と言ったのに、名護の人たちはそれをはねのけた。基地を受け入れ一時的に立派な建物がたっても、それで根本的に人々の暮らしは良くならないし、人は幸せにはならない、きれいな海を守って観光客が継続的に訪れてくれた方がよい、という選択をしたのだ。

名護の人たちの選択に敬意を表するが、基地問題は日本全体の問題だ。だが、本土(ヤマト)の人は自分の問題としてとらえていない。やっかいなものは沖縄に押し付けておけばよいという考えの人や、そもそも自分には無縁の問題なので考えもしていないという人がほとんどだ。世の中のことはすべてつながっている。沖縄の人が泣いているのを他人事だと思っている人に、めぐり巡って今度は問題が必ずその人にやって来る。基地の問題をつきつけていけば、日本の敗戦とアメリカからの独立の問題に行き着く。日本はまだ敗戦の問題を処理していないし、アメリカの占領からも独立を回復していない。アメリカは、日本の軍国主義をやっつけてくれて民主主義をもたらしてくれたが、それとは別に原爆投下や無差別空襲などの人道犯罪や、基地の米兵が起こす犯罪の問題など、そういう問題に日本自身がきっちり向かい合っていない。

名護市長選で、迷惑な基地を受けてくれるのと引き換えにお金をあげるという、この国の政治的構図の一端が崩れた。その構図は、過疎地に原発を建てるのと同じ構図だ。基地も原発も安全だったら、なぜ東京の国会議事堂の横にでも建てないのだろうか?沖縄の人が示したのは、私たちは変わろうと思えば変われるということだ。

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2014年1月19日 (日)

生活図画教育

先日の「河北新報」に特集記事があったので紹介する。戦前に、「生活図画教育」を実践している学校の先生たちがいた。似たような運動で名高いのは、無着成恭さんなどの「生活つづり方運動」だろう。つづり方とは、作文のことで、自分の身の回りの生活を、見たまま、感じたまま表現していこうというものだ。戦前の貧しい東北では、特に「生活つづり方」が盛んに実践されていたが、見たまま、感じたまま書いていくのであれば、貧しい生活をそのまま書いていくしかない。そして、書くことにより今度は、なぜ私たちの生活はこんなにも貧しいのか、というところへ考えが巡り、そこから社会のことに目を向けるようになる、つまり、教えられることを鵜吞みにするのでなく、自分で考えることのできる人間を作り出す教育だったのだ。

当時社会に目を向け、自分の頭で考えてしまえば、地主・小作制度とか、財閥だとか、中国への侵略戦争などに思い至らざるを得ない。そこで、生活つづり方運動は、治安維持法違反で教師たちが特別警察に逮捕されることになる。似たような運動を、絵画教育で行っていた「生活図画運動」も、治安維持法違反で逮捕されることとなり、「河北新報」は、その時逮捕された人の記事を書いていた。記事によると、逮捕された人の中で現存者は2名で、証言をしてくれた人も長い間、この事件のことは黙して語ってこなかったという。なぜなら、逮捕され拷問を受け、めちゃくちゃな調書を取られたつらい記憶と、思想犯で過去に逮捕されたことがあるらしいといううわさで要職を外された人の実例を知っていたからという。

そして、今、声を上げたのは、「人権よりも国家を優先させる時代にしてはならない」という思いからだという。国家が恐れるのは、自分で考え、自分の想いを伝え、自分で判断して行動する人。そういう、人材が育たないようにと、一生懸命、偽りの「愛国心」で締め付けようとする。私たちは、子供も大人も、情報を正しく知り、それを自分で判断し、自分で考えられる人間にならなければならない。大人だって、子供に負けず、一生勉強しなければ、権力に欺かれる。3年前の震災と原発事故が契機になって、目覚めた人が増えているし、それが、この国の未来の希望である。

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2014年1月17日 (金)

キャスリーン・バトルとウイントン・マルサリス

娘の音楽の先生に貸していただいたビデオ。ぼくも見させていただいて後半は、ソプラノ歌手のキャスリーン・バトルとジャズトランペット奏者のウイントン・マルサリスが共演するのを追ったドキュメント番組だった。共演するまでの過程を追っていて、こういうプロ中のプロでも本番にたどり着くまで練習したり、調整したりするのだということが、当たり前のことなのだろうがあらためて分かった。曲の解釈を深めたり、楽譜を読みこんだりして演奏や歌が変わっていくのが、ぼくにもわかるのである。プロだからこそ、そこまでするのだろうが、番組の最後にヘンデルやバッハの曲の二人の共演が聞けるのである。

このドキュメント番組でよかったのは、二人の故郷や家族についても取材同行してフィルムに収めているところだ。歴史や社会史に興味のあるぼくは、この部分が面白かった。音楽は音楽としてなんの先入観もなく聞くのが良いという考えもあるだろうが、その音楽が作られる背景を知ればその音楽をより深く理解したり感じることができるというのも真実だと思う。番組では決して声高に主張していなかったが、二人の音楽家の背景には、「アメリカ南部の社会」「黒人」「宗教」「家族」がある。そういう背景が、彼らの作る音楽にどこまで独自性を与えているのかは、ぼくの鑑賞力ではよくわからなかったが、今後もっとたくさんの音楽を聴いてこういう微妙なよさや違いも楽しく味わっていきたいと思う。

ところで、大学時代にアメリカ文学の授業をきっかけに、翻訳であるが、ヘミングウェイやフィッツジェラルド、サリンジャー、スタインベック、パール・バックなどを読んだ。いちばんおもしろかったのはヘミングウェイで、「グレートギャツビー」や「ライ麦畑でつかまえて」の良さは分からなかった。その当時、いつか原文で読んでやろうとペンギン・クラシックを買ってずっとしまっておいたフォークナーの「アブソロム・アブソロム」を、つい最近読了したのである。30年近くしまっておいたので紙は茶色くなって、もろくなっていたし、30年たっても英語が難しくて、歯が立たなかった。それで、この物語がまさに、南北戦争前後の、アメリカのニューオリンズあたりの南部の州の物語で、人種問題や家族の確執やはたまた近親相姦までがテーマになっている、大変壮大かつ暗い物語なのだ。この暗さは、日本でいえば、北関東の悲惨な農民の暮らしを描いた長塚節の「土」に匹敵すると思った。で、アメリカ南部と言えばちょうどフォークナーを読んだところだったので、キャスリーン・バトルとウイントン・マルサリスのドキュメント番組を興味深く見させてもらったというわけだ。

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2014年1月15日 (水)

チャイコフスキー

ブラバンをやっている娘がスランプらしいということを、お世話になっている音楽の先生に妻が相談したところ、これを見たらいいということで、ビデオを貸していただいた。以前BS放送でやっていた音楽番組の録画だ。娘も見ていたので、きっと何か感じることもあるだろう。でも、今はまだわからないことも多いと思う。というのも、音楽を含めて芸術というのは体験や知識が積み重なってきて理解できたり表現できたりすることが確かにあるとぼくは思うからだ。技術的なこととは別にして、年を重ねている人の歌や演奏にどこか若い人には表現できない良さがあったりするのではないかと思うのだ。そういうわけで、貸していただいたビデオは、ぼくもありがたく見させていただき、チャイコフスキーの生涯を扱ったドキュメントにとても感動した。

ぼくはチャイコフスキーが大好きである。今日のように「軍歌」が似合いそうな時代に、チャイコフスキーのようなめそめそした音楽を聴くのは、安倍さんや石破さんから「非国民」と怒られそうである。だが、ぼくは悲しい時や落ち込んだ時にチャイコフスキーを聞く。落ち込んだ時にどういう音楽を聴くか?気持ちを奮い立たせるためにベートーベンの「英雄」や「歓喜の歌」や、はたまたワーグナーの行進曲を聞くという方法もあるだろうが、ぼくは悲しい気持ちに対してその反対をぶつけるのでなく、その気持ちをますます増幅させるような音楽を聴くことにしている。その気持ちにひたりきり徹底することによって、その気持ちを癒され回復させることができると思うのだ。

そういうわけで好きだったチャイコフスキーだが、改めて彼の生涯を知ってから彼の音楽を聴くと、ぜんぜん違った。今まで序曲『ロミオとジュリエット』は、なんとなく前衛的な音楽でストラビンスキーぽいなぐらいにしか思っていなかったが、彼の激しい恋愛感情が秘められた曲だと知り、これほど胸に迫って聞こえたことはなかった。もう、今後はこの曲は涙なしには聞くことができない。もっとも、彼の恋愛の対象は異性ではないのだが。日本の古典にも「とりかえばや物語」というものがあり、男性でありながら女性になってみたいとか、その逆に女性でありながら男性になってみたいという感情が、すべての人間の奥底には潜んでいるし、そうだとしたら男性が女性を愛する、もしくは女性が男性を愛するというような愛の形ばかりだとは限らない。男性の姿をしているが心は女性の人が、男性を愛するとか、もっといろいろで複雑な愛の形もあるはずである。ぼくは、音楽は「聞く」専門だが、こうやっていろいろなことを知るたびに、音楽が新鮮になり、ますます聞く楽しみが増える。

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2014年1月13日 (月)

名護市長選

米軍基地を、ジュゴンの住む海を埋め立てて造るべきかどうか、基地建設が予定されている沖縄県名護市の市長選挙が始まった。基地建設反対候補と、基地受け入れ賛成の自民党候補の闘いとなっている。政府自民党は、基地問題は国が決めることで、地元には権限がなく、結果がどうであろうと、基地建設を進める予定だ。だが、民主主義というのは、地元にいる当事者が自分たちの意思で決めるというのは大事なことだと思う。地元の人の意向が尊重されてほしい。

名護市は基地以外にも日本全国、特に地方の共通問題を抱えている。仕事がなくて若者が出ていき人口が減っているという問題だ。基地反対候補は現職の市長だが、自民党候補はこの市長のせいで経済が停滞し発展しないと攻撃をしている。そして、自分が当選すれば、中央とのパイプを生かしてお金を持ってくると約束している。現職市長のせいで、経済がダメになったというのは事実と違い、現職市長のもとでも働き口は、少しづつ増えている。

反対派候補を推す人たちは、基地は一時的に経済利益をもたらすけれど、長い目で見れば人を幸福にしないし、きれいな海を守り観光業を起こした方が持続的な経済が維持できると、目覚めてきている。中央からお金を地方に流して、その見返りに票で返すという、この国の維持体制は、おかしいということを彼らは自覚してきている。そういう彼らを尊敬する。東北でも、まったく同じ構図で原発が建てられてきているし、原発をなにがなんでも維持しようとする勢力が、活動を増してきている。沖縄の人たちの覚醒と連帯し、沖縄の人たちにエールを送る。

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2014年1月11日 (土)

ハンナ・アーレント

ハンナ・アーレントは、ユダヤ人でナチの迫害を逃れてドイツからアメリカへ亡命した女性の政治哲学者だ。イスラエルの特殊部隊のモサドが、南米に亡命していた元ナチスの親衛隊でユダヤ人の収容所送りにかかわったアインヒマンを逮捕。イスラエルに移送し、そこで裁判をした。亡命していたナチスの大物が捕まったということで、世紀の裁判ということになり、ハンナ・アーレントがアメリカから裁判の傍聴に行き、名門雑誌のニュー・ヨーカーにその傍聴記を発表。だが、大虐殺を引き起こした極悪人という世間が期待するイメージではなく、ハンナ・アーレントは裁判で見たままのアインヒマンの姿、すなわち上からの命令に従っただけの職務に忠実だった『凡庸な悪』としてアインヒマンを描いたこともあり、社会からものすごい反発を受けることになる。こういう、実話に基づいてドラマ化した映画が「ハンナ・アーレント」だ。

今日から、仙台のミニシアター『フォーラム』でも上映が始まった。客席は大手と比べればもちろん少ないが、それでもほぼ満員。こういう、地味なテーマの映画にこれだけ興味を持ってくれている人が今の日本にいるのが、ぼくは嬉しい。テーマは、地味で重いのだが、映画としては大変良くできている。役者さんの演技が大変素晴らしい。脚本も、ハンナの人柄がよくわかるようによく書かれている。政治や歴史に興味があれば、もちろん大変面白く見ることができるが、そうでなくても純粋に映画としても面白いので、ぜひ「ハンナ・アーレント」を見て今の日本の社会状況や政治状況についても考えてほしい。

なぜ、ハンナの傍聴記があれほどの騒ぎを引き起こしたのかというと、アインマンを「凡庸な悪」と分析したからだけでなく、裁判で明らかになった、一部のユダ人のナチスへの協力についても、そのまま書いたからだ。裁判の中で、「あの時、市民としての勇気がもうすこし持てていたら…」というセリフが、ぼくの頭の中に反響している。そう、今の日本も、「市民としての勇気」を出すべききわどい時に来ている。ハンナは、哲学者でハイデガーの弟子だ。ナチスに協力したハイデガーだが、そのハイデガーからハンナが教わった大事なこと、それは「自分で考える」ことの重要さだ。『考えて、行動する』ことが今のぼくたちにもとても重要になっている。

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2014年1月 9日 (木)

ゴーゴーわくわくキャンプ

京都で保養を企画してくれた「ゴーゴーわくわくキャンプ」のなっちゃんが、京都から茨城・福島・宮城と尋ねてきてくれて、我が家に泊まっていってくれた。保養を企画して、関東・東北の子供たちを関西に招いていくれるだけでもありがたいのに、彼女たちは逆にこちらの状況はどうなのかと気にかけて見に来てくれる。本当に嬉しいことである。

原発事故には、ひとつもいいことなんてないが、こうして関西の人たちが保養を立ち上げてくれたりして、そしてそのような人たちとつながりができ、本当だったら政府がやるべきことを、自分たちで企画して工夫して思いを実現させるそういう彼らと知り合えたことはうれしいし、何よりも今後の日本の明るい希望を見る思いだ。

大防潮堤計画も、巨額除染計画も、強い日本というスローガンにも、国土と財産を守るというキャッチコピーにも何にも希望は感じられず、鬱々とした気分になるだけだ。原発事故はもうこりごり、せめてこういう嫌な思いをもう二度とほかの人にもこれから生まれてくる人たちにも味わってほしくないと思っているところに、私たちが味わった、そして今も現に味わっている苦痛などないものとして、原発を事故以前と同じように続けようとすることに、私たちは二度傷付つけられるのだ(一度目は、事故にあい、現にあっていること)。だが、自分たちで少しずつ状況を変えようとしている人たちがこうして日本の各地にいるという希望に癒されるのだ。

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2014年1月 7日 (火)

靖国神社参拝問題

靖国神社参拝を首相に求める立場の人たちについて考える。首相に参拝を求めているのは、まずは、戦争で亡くなった軍人・軍属の遺族の方々だ。戦争に協力し命を投げ出したのも、「この聖戦で死ねば、英霊になれる、英霊として祭ってもらえる」と信じてなくなったのだろうから、日本国政府が参拝をしないということは、政府との約束が反故にされ、裏切られたという気持ちになるのは当然だろう。また、遺族の方々は遺族年金が支給されている。「聖戦のために命を投げ出したのだから、国家が遺族の生活が立ち行くように責任を持つのは当然だ」と考えるのもその通りだろうし、お金と票の取引という側面もある。つまり、自民党が選挙に強い原因でもある業界団体への給付と、その返礼としての票集めや金銭の還付という側面もある。

だが、ここでは、英霊になれるというその「聖戦」の性質については検討していない。この聖戦は、アメリカと戦争して勝てると指導者のだれも思ってもいず、誰も戦争に賛成していないのに、なぜか御前会議で戦争することが決まってしまい、誰も戦争を引き起こした責任者がいないというあいまいな戦争なのである。もちろん、その指導者は敗戦により勝者に裁かれ戦争犯罪人となり、靖国神社に合祀されている。英霊になれると信じて戦争に協力して殉じた人たちと、あいまいなままに責任を取ってこなかったけれど確かに戦争の指導者であった人たちが同列に扱われるのには違和感がある。

そして、戦争に協力しようとも思わず、例えば東京大空襲などで死んだ人たちや、朝鮮半島から徴用されて広島で原爆で死亡した人などはどうだろうか。空襲などで亡くなった日本の民間人などには、一切政府から補償されていないだろうし遺族年金も出されていない。そういう人たちが、自分たちを英霊扱いにしてほしいと考えているのだろうか?政府が約束を守っていることを示すために、靖国参拝に首相が来てほしいと望んでいるのだろうか?やはり、こういう軍人・軍属以外の、戦争で亡くなったすべての日本人民間人や日本国以外の人たちがいるから、首相の靖国神社の参拝は問題が複雑である。

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2014年1月 5日 (日)

日本国憲法にノーベル平和賞を

日本国憲法にノーベル平和賞を!という運動があります。署名サイトはここにあります。私も署名し、賛意として以下のコメントを寄せました。

日本国憲法は今、危機に瀕しています。安倍首相をはじめ、憲法そのものを変えようとしたり、憲法の実質的内容を変更し自衛隊が軍隊として海外で戦争ができるようにしようとする人たちから、日本国憲法は攻撃されています。私たち日本国民自身が憲法を守らなければいけないし、憲法9条が戦後70年日本が戦争に巻き込まれるのを防いだ功績をたたえ、平和主義の精神を広く世界の人たちに知ってもらうために、日本国憲法、とくに第9条にノーベル平和賞が授与されることに賛同します。

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2014年1月 4日 (土)

原発の闇

宮城県の地元紙「河北新報」が、正月からの特集で、東北電力浪江・小高原発計画の特集をしている。原発は推進派に言わせれば、他の発電形態に比べれば割安と喧伝されているが、計画段階から闇金がたくさん動く。それを計算すれば、決して割安の発電方法ではない。原発計画で、地元は分断され人の心に傷も残る。そうまでして、なぜこれ以上この狭い日本に原発を次々と作ろうとするのか。「河北新報」の購買部数がもっと伸びて、原発を止める力が少しでも大きくなってほしいので、この記事を要約して紹介する。

原発を作るときは、まず土地買収が必要だ。賛成派はすんなり土地を売ってくれるが、問題は反対派だ。そこで、ゼネコン鹿島から、土木会社にこういう指令が飛ぶ。「金に糸目をつけず、反対派の土地を買収せよ」。原発建設になぜ鹿島かというと、鹿島は地元対策とトラブル処理がうまいからだという。土木会社が駒として動くのは、もちろん、下請け工事が欲しいから。原発事故の実入りは、他と比べ物にならないくらいいいという。つまり、資材を発注したり、職人に賃金を払っても、他の工事とは比べ物にならないくらい手元に残るらしい。反対派を切り崩す時のポイントは、反対派のリーダーを狙うこと。なぜなら、リーダーが落ちれば、あとは簡単だから。金に糸目をつけないのは、あとでいくらでも電気料金に上乗せして、回収可能だから。

東北電力が、手を汚さない仕組みはこうだ。東北電力が土地を買収するときは、国土利用計画法に基づき地権者と合意する基準額というのがある。もちろん、その基準額では、反対派のリーダーは落ちない。反対派からは高額で土木会社が買い取り、それを東北電力には基準額で売る。土木会社にはもちろん帳簿上は、売買損が残るが、工事の下請けに入ればそれは後から回収できるし、おつりがくる。まるで、時代劇の悪人代官のようなやり口で、ドラマにしたら見事だ。

もちろん東北電力関係者は、そんなことないと否定するが、土木会社の担当者の証言によれば、鹿島に呼び出された時、「こちらは東北電力の方」と同席の人を紹介されたという。もちろん証拠を残さないために、電力の人は名刺を渡さなかったというが。

ぼくは人の不正を糾弾できるほど潔白な聖人君子ではない。だから、この悪代官のようなドラマを指弾しているのでなく、見事だと思っているだけだ。ただ、原発は子供世代や孫世代に大きな負担や健康被害、環境破壊をもたらすのに、ここまでして原発を作る方の人間にはさすがになれないな、と思うだけだ。そう、あくまでも、個人的には手を染めたくない事業だと思う。

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2014年1月 2日 (木)

ビット・コイン

角田のよつば農場の時に、アメリカ人の青年が農作業を手伝いにやってきてわが家に泊まっていった。これは、金銭のやり取りを介さない「ウーフ(woof)」という仕組みを利用したもので、受け入れ側のホストにも、異文化を体験してみたい彼のような人にも、両者にとって利点がある仕組みであった。そのアメリカ人の彼は、日本大好きのいわゆる「オタク青年」だったが、日本が好きなので大学卒業後は、英語の補助教員となり茨城県で働いている。その彼が、久しぶりと言って、仙台のわが家を訪ねてくれたのだ。

彼は相変わらず熱い「オタク精神」の持ち主で、奥深い「オタク」文化についていろいろ教えてくれた。茨城で働きながら、週末は「アキバ」に行っているということだし、紅白歌合戦に出てくるアイドルはきちんと見ているし、大島優子の卒業宣言に驚き残念がっていた。アイドルというのは、まだ無名のころから応援するのが良いのであって、売れていないアイドルのコンサートに行き、少ない観客と一緒になって応援するのが良いのだそうだ。何とかというアイドルの握手会の権利が当たったと言ってその当選メールを見せてくれた。

その彼が、熱く語っていたのが「ビット・コイン」だ。私も不勉強で「ビット・コイン」は知らなかったのだが、彼はいろいろ説明してくれたし、NHKニュース9の取材のビデオを見せてくれた。「ビット・コイン」は簡単に言うと「電子マネー」だ。だから「ビット・コイン」を受け付けてくれる店があれば、物も買えるし、食事もできる。現に東京にはビット・コインで支払えるレストランがあるそうだ。ビット・コインは国際的な決済にも使えるし、国際間の送金というか、インターネットがつながっていればどこにでも、誰とでもやり取りできる。ギリシャやアフリカなどでは、自国の経済が破たんし自国の通貨が暴落すれば、紙幣は文字通り紙切れとなり、とんでもないインフレが起きる。だが「ビット・コイン」はそういうことが起こらないという。というか、そのような今までの国家とその中央銀行が後ろ盾となっている貨幣経済のリスクを回避し、そのような貨幣経済に頼らない仕組みとして、コンピューターのプログラマーが提案してできた仕組みだそうだ。現在の国家が後ろ盾の貨幣経済は、中央銀行がいつでも好きなだけ紙幣を印刷して市場にじゃぶじゃぶ供給することができるが、ビットコインというのは総量が決まられているので、暴落の危険はないということだ。いつ、国債が大暴落して経済破たんが起きるとも限らない日本人にとってもビット・コインはひとごとではないだろう。

ビット・コインという仕組みがよく分からないし、当然良い面ばかりではないだろうから、いろいろ彼に質問してみたが、とりあえず、負の側面はここでは省略して、ぼくが共感したビット・コインの可能性についてだけ書いてみる。

「世界を変えるかもしれない」という可能性は確かにあると、ぼくは思った。

ビット・コインが普及すれば、国家=政府はいらなくなる、というのは大げさにしても、国家=政府が持っている権威や機能は縮小され、力は弱まる。そして、銀行をはじめとして、大企業もなくなる、というのは大げさにしても、今日ほどの影響力はなくなる。つまり、国家とグローバルな大企業で成り立っている今の地球の仕組みを大きく変える可能性があるのだ。

ぼくがいくらジュゴンのいる海を守るために辺野古の海の埋め立てに反対してみても、現在の力関係では、どうにもならない。ところが、アメリカ政府の力が弱くなれば、基地など不要になるし、誰もそんなものをわざわざ作ろうなんて考えもしなくなるのだ。おなじように、ぼくがいくらTPPに反対したところで、グローバル企業はTPPを推し進める。特許や知的財産権を盾にとって世界中から搾取しようとするグローバル企業に支えられたアメリカ政府が、ごり押しをしているTPPも、もしそういう企業の力が弱まれば、誰もTPPをやろうなんて言わなくなる。グローバル企業と違って、「ビット・コイン」のプログラムは「オープン・ソース」で、正反対の行きかたをしていて、こういう「オープン・ソース」のやり方が広まればグローバル企業の影響力は、今のようではなくなるだろう。

いまのぼくたちの力では、アメリカ政府や自民党政権、グローバル企業の持っている力や彼らの決定を覆すことは出来ないだろう。しかし、その力の源泉として彼らがよりかかっているのは、「仕組み」であって、「仕組み」を手にしていられるからこそ、一時的に彼らは栄えているのだ。「ビット・コイン」の仕組みは彼らの仕組みを掘り崩す可能性を持っている。彼らが寄りかかっている仕組みがなくなれば、裸の王様以下の存在だ。オープンソースで、個対個の平等なやり取りを重視するビット・コインが普及すれば、彼らの力の源泉である「仕組み」は確固としたものでなくなる可能性は、十分あると思った。

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