UA-92533382-1 民主主義考: よつば農場便り

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2013年12月10日 (火)

民主主義考

理想の民主主義制度というものはあるのだろうか。究極の理想があり、劣った不良品からまっすぐに理想の形まで進化するという、一直線の進化論的な考えは当てはまらないと思う。その時代ごとに、制約条件は違って来るので、その諸条件になるべく多くの点で対応しているまあまあ良い制度というのが、結局は良い制度ということになるのだろう。

現在の日本の民主主義制度である、間接制議会民主主義も、時代の諸状況に対応しきれていないいくつかの点がある。まずは、国民の、それも有権者の少数の意見が国の方向を決める総意として数えられてしまうということだ。簡単な数理モデルを作った。この国では有権者の60%は棄権して投票行動に参加しない。各選挙区は、最高得票数を取ったもの1名のみが議員になれる小選挙区制である。ある選挙区でA政党のA議員が有権者の25%の票を得、B政党のB議員は10パーセント、C政党のC議員が5%それぞれ得票するとしたら、この選挙区ではA政党のA議員が当選である。すべての選挙区でA政党が有権者から同じだけの支持を得れば、全国での小選挙区の議席割り当ては、全部A政党のものになってしまう。たとえ、それが全有権者の25%の支持しか得ていないとしてもだ。そこで、A政党に果たして国会で議決をして国の方向を決める正当性があるのかどうかということに疑義がでる。

6割も有権者が棄権するのがいけないのだから、投票率を上げる工夫をすればどうか。外国などには棄権した人に罰則が科せられるところもあると聞く。罰則をちらつかせて、選挙に強制的に行くように恫喝したとして、果たしてそれが有権者の自由な意思表示と言えるのか。そこにも正当性に疑義が出る余地がある。

では選挙で代議員を選ぶ制度が機能しないのであれば、直接有権者なり国民全体が国の意思決定に加わる直接民主制はどうか。科学というのは、まず言葉の厳密な定義から始まる。そうでなければ、議論がそもそも成り立たないし、立証することも追試することもできないからだ。科学と違って、政治学などの人文系の学問は、そもそも言葉をめぐる定義があいまいだ。各人が自分の思いれで議論しているので、科学のような厳密な「真実」が立証できない。そもそも「民主主義」とは、言葉の定義としてなんだろう。そこがずれていれば議論はかみ合わない。民主主義とは、国民が国の方向を決める意思決定をする制度であるというのは、いまぼくが勝手に前提として持ち出したものであり、もしかしたら、「国民一人一人が意思決定する暇もないし、能力もないし、それだけの情報や判断材料も持ち合わせていない。だから、民主主義とは、国民の代表者に意思決定をゆだねて、国民がその意思決定に従う制度である」という定義で論を進める人もいるかもしれない。

そして、そもそも「民主主義」は、他の政体、例えば「独裁制」よりもはたしてよい意思決定ができるのかという問題もある。衆愚政治という言葉あるように、たくさんの愚者よりも、ひとりの賢人や哲人がすべて国の方向を決めた方がはるかに良い方向に行くかもしれないという可能性は否定できない。いまの日本の制度では、棄権する人、つまり票にならない人は全く存在が無だから、投票に行く人だけのある特定の利害がある特定の政党の特定の政策に反映される。ある利害だけを反映したある特定の政策が、非常に近視眼的で、長期的に見たら、国全体の利益に反することであっても、その近視眼的な政策は実行されることがままある。(例えば、環境を保全することが長期的に見れば国民全体の利益になるとしても、短期的には開発した方が、利害団体の利害になる)

国民の声が届かないと思うと、ますます政治に無関心になり、何をしても政治は変わらないと思うので、ますます人は選挙に行って意思表示をしなくなる。国民の思いを汲んでくれる受け皿がないと言って、政治家や政党の魅力が薄れ、ますます政治に関心が薄れる。主義を掲げ政策を主張をする政党や政治家ももっと、国民の関心を高める努力をする必要がある。例えば、国民の選挙の棄権率によって、国会の議員定数が減るという連動制度も、もしかしたら正しい民意の反映かもしれない。

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