自然農との出会い
私がなぜ農業に関心を持ったのかを考えてみると、それは産業としての農業ではなく、自然の中での自然と交流する生き方としての農だったと思います。
だから作物を作るという技術的なことよりも、自然が好き、自然の中にいると心地よいという感覚的なことが出発だったに違いありません。
私が小学生だったとき、有吉佐和子さんの「複合汚染」が新聞に連載され、私も食品の安全性に興味を持ちましたし、そのころは日本中で反公害の機運が盛り上がっていました。
20代で、岩手県で農業研修生になったときは、化学肥料と化学合成農薬を使わない有機農業が盛んに言われていた時期でもあったし、私自身も興味を持ち有機農業を少しずつ実践してみました。
そのような中、30代で、いろいろな勉強会や集まりに参加させてもらって一番自分の腑に落ちたのが自然農です。
自然農といえば、種をまいたら一切の人事を排して人の手を加えない福岡正信氏が有名ですが、私がやり方として参考にし、そして直接話を聞き納得するところがあったのが川口由一さんの自然農です。
宗教の宗派ではないのだから、誰のやり方に従うかは重要ではないし、その人のやり方が絶対ということはありません。そして、自然農の思想そのものが、その土地その土地にあった自然条件に寄り添った作物の作り方をするというのですから、教科書に載っているような絶対的なやり方を信奉するのはおかしなことです。
しかし、川口さんから学び、私なりに理解している自然農とはあえて言えばこういうことです。
「作物を作るときには、虫や草を敵と思わず、みな自然の中の平等な命として、時に争い、時に協力して、みな無心に、自分のいき方を全うして生きているものとみなす。
とはいえ、栽培作物は人間によって育てられてきた歴史の中で、完全な自然のたくましさを失っているので、最低限の草刈や防除、肥料分の補いをして、作物の本来持っている能力を全部生かしてやるようにするのもまたある意味、自然なことである。
作物の自然を引き出すために、季節に外れた無理なことをせず、一番その作物の自然な生理にかなった作り方をし、その作物の生き方を全うさせる。
そのようにしてできた作物は自然の力に満ち溢れ、それを食べたものにもその力を分け与えてくれる。
刈った草や殺した虫は、自然の中でいのちを循環して作物のいのちになり、作物のいのちは人間のいのちになる。
私たちの生活もいのちも大きな循環の中でやがて帰るべきところに循環していき、やむことのない大きな流れになる。
その大きな循環に寄り添って作物を育てていくのが自然農である」
原田禎忠 yoshinari harada
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コメント
おめでとうございます。
いつも読みにきますね。
投稿: 和和 | 2007年1月 8日 (月) 22時30分
和和さんへ
ありがとうございます。
ブログ、インターネットはわからないことだらけですが、これからも頑張ります。
原田
投稿: 原田禎忠 | 2007年1月 9日 (火) 09時31分