無料ブログはココログ

2018年12月 8日 (土)

昼顔

レンタルビデオ店、ツタヤの戦略は、会員カードが1年更新だということだ。更新するのに金がかかる。でも、更新させる必要があるのは、返却しない客に逃げられるの防ぐための、住所確認とか言った、企業側の事情があるのだろう。更新すれば、1本ただでビデオを貸してやるという。更新が面倒くさいので、もうやめてもいいかと思う。でも、やめて再手続きをするのも面倒くさいので、更新して、ついでにビデオを借りてきてしまった。


何の背景知識もないのだが「昼顔」を借りた。なんでかと言ったら、Me too運動が盛り上がっていた時、カトリーヌ・ドヌーブさんが「男から声をかけられるのは名誉なこと」とかいう趣旨の発言をしていて、Me too運動からは一線を画していたように思ったからだ。そこで、彼女の主演映画を借りてきた。日本でも、焼き直しされて、近頃昼のテレビドラマではやったらしいということくらいは私も知っている。

だが、ウイキペディアも読んでないし、原作の文学作品も読んでないので、映像だけからは、ストーリーがよくわからないところがあった。でも、それがこの作品のねらいでもあろう。カトリーヌ・ドヌーブ演じる人妻は、精神的なトラウマがあり、しばしば現実と過去や、夢想との間を行き来するのだ。映画では、それが切れ目なく挿入されるので、どこまでが現実の話で、どこからか人妻のトラウマや隠されたフロイト的な欲望なのかがわからなくなる。おそらく、人妻は少女のころに性被害にあいそれがトラウマになっているのではないかと推測した。

だが、役者たちはみないい演技で、よい映画だと思う。印象に残るのは、娼館の女主人マダム・アナイスやカトリーヌ・ドヌーブに潜り営業の娼館の存在を知らせる夫の友人。そして、娼館の内外で繰り広げられる、様々な変態さんたちの業の深さというか人間の愛しさ。1年に1回ツタヤの戦略にはまって、傑作映画を見てしまうのだ。


にほんブログ村follow us in feedly

2018年12月 6日 (木)

福島第一の事故 津波予測の甘さ

12月5日付の『河北新報』を見て、おやっと思った記事があった。

 

見出しが「福島第一の事故 津波予測の甘さ 東電副会長が、英で講演」とある。ついに、あの天下の東京電力が、自らの罪を認めたのか?これは、犯罪として刑事告訴された事案や、まだ未解決の多数の民事裁判にも大きな影響があるのでは?と思ったら、内容は反対だった。

 

東京電力の副会長がロンドンで講演し核発電所の事故について言及したことは事実であり、「想定する津波の高さが低すぎた」「非常用電源はもっと高いところに置くことができた」ことは認めたものの、安全策の向上を絶えず追求し、どんどん対策していけば、核発電は安全であり、さらには核事故以降の日本政府の規制対策は十分で、これで事故は起こらなくなった、という核発電再開と輸出に向けての、アピールというのがどうやら本音であったらしいというのが、私の記事に対する深読みだ。

 

ちょっと、待ってくれと言いたい。核発電は「安い、安い」というのが政府、自民党、官僚・財界の言い分のはずだが、どんどん安全策を施していけば、安くなくなるのではないか?まあ、いくら経費がかかってもどうせ、国民に転嫁するのだから、自分達の懐は痛まないし、そういう意味で「安い」ということなのだろうか?

 

まともに考えればおかしい気がするが、「朝、パンは食べだが、ご飯は食べてないので朝ご飯は食べてない」という論法を毎日聞かされ、そしてそれを拡張・伝達する国営・国策放送網のせいで、頭がおかしいのは自分の方なのだ、という気がしてくるから不思議だ。


にほんブログ村follow us in feedly

2018年12月 5日 (水)

『老子―もう一つの道』二十一 「道」とは

【口語自由訳】
大徳の人物を想像してみよ。その人物は「道」を体している。「道」は恍惚の中に包まれているが、そこからかすかに形があらわれ、形が実質を伴い物があらわれた時点で、そこには貫く法則がある。太古から今に至るまで「道」は必ず存在し、その名は不滅である。「道」の上にすべての生きとし生けるものは生かされているのである。この道理を知るには直観の世界しかないのだ。

【解説】
道の存在を確信するのは直観である。宇宙の存在の初め、それがどのような状態であったのかを、実験室で再現できるようになった。そうだとしても「道」が太初に存在したということの証拠を間接的な証拠から知るだけで、直接証明できるわけではない。


「道」が始めからあり、そして、現在もあることを知るのは、人の直観である。または、「道」を体現している人に出会うことであり、その人をまみえることである。


科学的に証明された後で、何かが初めて存在するのではない。科学以前から、それはそこにあるのだ。


にほんブログ村

2018年12月 4日 (火)

『老子―もう一つの道』 二十 本当に自信がある人間とは

【口語自由訳】
学問は捨てよ。そうすれば憂いはなくなる。相対的な観念の違いを追い求めたとて成果は小さい。私に世の人と同じようにせよというが、それは真理の生活からは程遠い。世人は「学問」で身を飾り輝いて見えよう。それに比べると、私は未発の状態で、何もきざしていないように見える。世人の生活は豊かに見え、私の生活は窮乏しているかに見えよう。私は愚鈍な人間に見え、世人は明察な人間に見えよう。こう言われて、私は一人悶々として荒れ狂った内面はとどまるところを知らない。世人には物質的な所有物が多く、私は一人不器用で、世に入れられないかに見える。だが、私は道によって養われているのだ。そこが、私が世人と異なっているところだ。

【解説】
世人と行いを共にしなくても、道に忠実に生き、道に生かされているという自信が、宣言され
ている。

道家では「学問」は相対的観念をもてあそぶものと見なし、これを憎む傾向にある。では、真の「学問」とは。


にほんブログ村

2018年12月 3日 (月)

オペラ座の怪人

劇団四季の公演「オペラ座の歌人」を見た。

ロイド・ウェーバーの曲がよかったのはもちろん、四季の役者さんたちの歌や踊りも大変魅力的だった。


映画の方を先にいていたのは、ストーリーの把握や各場面の意味を深く理解する上ではよかったと思う。そのうえで、映画の製造効果を、舞台ではどのように表現するのかというのを見る楽しみがあり、四季の演出はとても秀逸で感心させられた。

「怪人=ファントム」の造形は、普遍的な人間像を描いていいて胸を打った。映画を見ていた時はわからなかったが、「怪人=ファントム」こそがこの劇の主役だ。実際に、カーテンコールでは「怪人=ファントム」がひときわ大きな拍手を浴びていた。

怪人が恋する相手、クリスティーヌの造形はどうだろうか?ふわふわとして現実と夢幻の間をさまよっている、外からの影響を受けやすい、支配されやすいというのは、若い女性の、女性らしさを表していると言えば言えるのだろうし、最後に見せる愛憎を超えた大きな愛というのは、男が投影する理想の女性像なのではないかと思うが、女性の観客が圧倒的に多く、皆さん感動していた様子だった。


にほんブログ村

2018年12月 2日 (日)

『老子』もう一つの道 十九 人智を捨てよ

【口語自由訳】
人智を捨てよ。そうすれば、結局は人は幸福になれる。目の前の利を追い、小手先の技巧に走るな。そうすればだれも他人のものがほしいとは思わない。素朴な人々と社会、人々のいりくんだ欲望も少なくなる。

【解説】
人智を捨て、小手先の技巧に走るなという、老子の主張はよくわかる。だが、素朴な社会に、私たちは戻れるのだろうか。素朴・単純な社会を理想とし、そこへ無理やり時計の針を戻すようなことをすれば、中国の文化大革命、カンボジアのクメール・ルージュの大虐殺のように、結局は、多くの人を不幸にしてしまうのではないか。老子の思想をどのように現代に生かすのか。私たちの社会はより複雑にと発展してきた。わたし達が社会を進歩させるために行ってきた変革や実験に何の価値もないというのだろうか。


にほんブログ村

2018年11月30日 (金)

『老子―もう一つの道』 十八 なぜこうも規範が多いのか

【口語自由訳】
「道」をひとが見失なった時、人は道徳の教えがこの世に必要だと言い始める。人のさかしらが進めば、偽りも多く、人々の間の親和が乱れると、孝の教えが盛んとなる。同じように国家の秩序が乱れると、忠の教えが盛んとなるのである。

【解説】
道家の儒家への対抗意識。

政治のとらえ方、理想の政治が違うのだ。規範とは人を縛るものなのだ。

では、不羈とは。天衣無縫とは。素朴で真なものなのである。


にほんブログ村

2018年11月28日 (水)

『老子―もう一つの道』 十七 最上の存在

【口語自由訳】
最尊の存在について人々は、これが存在するのだということを知るのみである。存在の程度が下る(くだる)につれて、人々はその存在に親しんで誉めるようになったり、次は、畏れるようになったり、ついには侮るようにもなる。自らに、誠実・真実が足りなければ、人々は信頼を寄せない。悠然として迫らず、普段軽々しく口を聞かず、いざという時の一言の重みがあれば、功は成り事は成し遂げられる。しかも、周りの人々はその自然な成り行きに、もっともなことだと思うのである。

【解説】
老子が理想とする最上の存在、それが内に「信」を抱えていること。「信」とは何か。言(こと)が実行されることにより、その人に備わる徳のことである。「信」を持つ存在に、人々は「信」を寄せる。そうすれば、無為自然でありながら、事は成る。天・地・人の、「信」に基づく、おのづからなる協力のもとである。


にほんブログ村

2018年11月27日 (火)

『老子―もう一つの道』 十六 静(せい)なるもの、常(じょう)なるものを体得せよ

【口語自由訳】
心を虚しく静かに保ってみる。すると、身の回りの自然界の動静があなたの心に映ってくる。春夏、万物は盛んに成長する。秋冬、すべてのものは成長をおさめ、もとにかえる。天命のなすがままの運行に従うものは、そのものの内に常(つね)なるものを抱えている。あなたのうちの常(つね)なるものを知っていることこそがあなたの明察であり、これを知らなければ、あなたは危うい。おのれのうちに常なるものがあることを知っていれば、みだりに動いて危うくなることはない。おのれのうちに常なるものを抱えた人は穏やかな様子を保つことができる。すべてを公正に判断し、王ともなり天ともなる。天道に通じれば、その人は己の中に道を体得した人であり、一生安泰である。

【解説】
意識を内にめぐらせて、変わらないものに出会う。その変わらないものこそが、この世の運行、有為転変をもたらしているものである。しかし、移り変わりにのみ目をとめてはならない。肝心なことは心の目で変わらないものを見ることである。これを静かに観じて、これと一体となれ。これとはすなわち「道」である。


にほんブログ村

2018年11月23日 (金)

『老子―もう一つの道』 十五 理想の大人(たいじん)

【口語自由訳】
深さをたたえた真の大人(たいじん)とは、微妙なことすべてに通じている。その人格の深さを知ることはできない。知ることができないものをあえて形容するなら、謙虚で恭しく、物腰は柔らかで人柄は素朴、度量は広くてその果ては見えない。人柄の広大さゆえその底は濁って見えず、静かに落ち着いてしまえばこれを動じさせることもかなわない。うちに「道」を保持しているものは、満つることを望まない。完全・完璧を求めないからこそ、すべてのものを覆い尽くして常に清新でいられる。

【解説】
理想の大人(たいじん)とは揚子江のようなものであろうか。悠々と迫らず、泥を掻き上げて濁って底は見えない。大海のごとくに見え、それが流れているとは感じられない。「清らかさ」を追求しないのが老子だ。澄んだ水と濁った水と、多く入れるものはいずれだろうか。内に多くを含んで含んでいったとしても、決して満ちてあふれて壊れることがない。そんな大きな器がこの世の中のどこにあるのか。入れてもこわれない、その大きな器こそが老子の理想の大人(たいじん)。


にほんブログ村

«『老子―もう一つの道』 十四 とらえどころのないもの