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2018年9月20日 (木)

(日本人の)形と精神

人間というのは形が精神を作っていくものである。お守りに手を当てる。ある礼拝の対象に対して手を合わせて祈る。こういう人の姿を思い浮かべてほしい。


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2018年9月16日 (日)

安倍首相は保守ではない

保守の論客、中島岳志氏の論考をいくつかの新聞で目にした。面白いと思ったので主旨をまとめてみる。

まず氏は、戦後の有名な保守の論客、福田恒存さん、山本七平さんらの思想を分析する。そして、彼らが保守とはいえ、大東亜戦争に極めて懐疑的な見方をしていて、戦争に至るプロセス、イデオロギーに同調できなかったということに気づく。彼ら有名な保守論客は軍隊・戦争経験があり、軍が冷静な分析ができなくなりリアリズムが消え、大言壮語ばかりはびこる「空気の支配」の非論理性を指摘していたという。そして、アジア諸国が独立したのは日本のおかげだとする東亜解放論に対して、保守論客の林健太郎さんが「歴史の事実に反している」と指摘したことを示す。

この点からして、安倍首相の登場と牽引でますます勢いづく「大東亜戦争は正しかった。解放戦争だった」という歴史修正主義は保守本流ではないことを、中島氏は示そうとしている。そして、鶴見俊輔さんの「戦争に至ったのは、日本が保守化したからではなく、保守が脆弱だったからだ」という言葉を紹介する。

さて、では、本当の保守とは何かを、中島氏は論考する。本当の保守とは、人間の理性は完全でないと考える。だからこそ、立場の違う手と対話、議論し、相手の言い分にも利があると見れば、調整・妥協する。というのが本当の保守だというところに、私も共感した。これは、国民が安心して彼らを支持していた、(大鵬や巨人軍と同じくらい自民党を)昔の自民党の黄金時代に当たると私は思う。中島氏も大平首相を引用する。大平さんは、政治は60点でなければならないと言っていたそうだ。その意味は40点は相手に点を与えてもいい、でも60点で結局勝ちは勝ち、ということだろう。

では、真の保守から見た安倍さんはどうか。安倍さんは「この道しかない」と周りを見ないし、相手の意見はもちろん聞かず、一方的に自分の意見を言い募る。敵は完膚なきまで叩きのめさなくてはならないので0対100で勝とうとする。本当の保守ではなく、やはり祖父の岸氏の路線を目指す、戦前軍人政治だという。岸氏は2.26事件の思想的バックボーンの「国家社会主義者」北一輝を尊敬し、天皇中心の国家改造をめざす革新官僚で、満州で統制経済の理想国家を作った。

保守が共感できない安倍さんの政策として中島氏は、環太平洋連携協定、働き方改革、残業代ゼロ、水道民営化、種子法廃止などを上げる。どの政策も、「日本を守る」を捨て、日本の国民、国土、自然、生活を犠牲にして、もっと何か大きなものにそれらを生け贄に捧げようとしているようにも、私には思える。もちろん安倍さんには、私が見えない、もっと深い知恵があって、これらの政策は素晴らしいと言っているのだろうが。

近頃の安倍さんが滑稽にも似てきたのは、北朝鮮のキム委員長のような独裁者だと私は思う。トランプさん、プーチンさんらともとても親和力がある。自分を礼賛するものだけをまわりに集め、気持ちよく礼賛の声だけを聞いていたい、というところが新興宗教の創始者とか名誉会長などとも親和力がある。そういう礼賛に気持ちが醒めてしまう私のような人間には、これから生きにくい時代が来るだろうなと、うすら寒い気がするのだ。


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2018年9月 9日 (日)

読書ノート

(過去の記事の再録です)

電車通勤することの良いことの一つは本を読めることだ。いま網野嘉彦氏の「日本社会の歴史」(岩波新書)を読んで、南北朝の騒乱、足利義光の将軍就任まで来た。網野史学の特徴は

・西日本と東日本の歴史や社会の成り立ちの根本的に違うことを強調すること。
・日本の社会には、海上民、山民、女性の商売人などの非農業民である自由民がたくさんいたことを強調すること。

これが特色だろうか。この史観によって、硬直的でつまらない歴史の描写を、躍動的で生気あるものとして描くことに成功していて、読んでいて面白い。これを読むと、農業にこだわらず自由に生きるのもいいかなと思わせられるし、関東に生まれ東日本でしか暮らしたことしかない東男の私も西日本に住んで、その独自な世界に触れてみたいという気もしてくる。

歴史が教えてくれること、それはこの世に変わらないものがないということだ。権力の交代を見ても分かるように、驕れるもの久しからずで、必ず衰退と没落が待っている。となると、戦後社会に絶大な権勢を誇り社会を牛耳ってきた電力会社に、やや衰退の兆しが見え始めたのだろうか。

権力が衰退するとき、権威を盲信する人たちの間に疑問が芽生え、権威を支えてきた神話が通用しなくなる。網野氏の著作を見ると、日本の社会や人々は動乱・混乱を通して生き生きとその生のエネルギーを発散してきたことがわかる。それに比べると、今の日本人は本当におとなしい。電気を選択することを選べず、不当に高い料金を要求されても、何も怒らず、電力会社に反対する意見はマスコミに一切登場することができず、少しでも批判する芸能人は仕事を奪われるような、異常な事態を素直に受け入れてきた日本人の、祖先がこんなにも活き活きと生きていたのかとわからせてくれる網野史学の最終巻ももう少しで読み終えてしまう。


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2018年9月 6日 (木)

読書ノート

(過去の記事の再録です)

高校生に小論文を指導する仕事のためということもあって、加藤周一氏の著作を読んでいる。(加藤氏の著作は大学入試の現代文・小論文では根強い人気がある)。昨日は、戦前・戦中の知識人の戦争責任を論じたところを、非常に興味深く読んだ。なぜなら、原発事故以来の、言論統制や世論操作が日中戦争・太平洋戦争戦時下の状況を思いこさせないではないからだ。

戦前・戦中の知識人の言い逃れとして絶対に許されないのは、「私も知らなかった」「私も国民と一緒にだまされていた」と言うことだ。国民の一部が政府にだまされ、そしてろくに情報も与えられない状況下で、この戦は聖戦であり、絶対に勝つと信じていたのはある程度やむをえないだろう。しかし、それは知識人であれば、絶対に言ってはいけない言い訳だ。(原発事故が収束せず、国土が汚染され、それでも電気業界、政治家、官僚が原発を推進しようという状況下で、知識人は事実を知らなかったで、済ませられるのだろうか)

「知らなかった」では済まされない戦前・戦中の知識人はどうしたか。積極的に反対するにはまったく言論の自由はなく、投獄される恐れがあった。こんな戦争は間違っているし、絶対に負けると思っていたものは、沈黙した。そうでないものは、積極的に賛成の言論を公にした。こうして、知識人、文学者、芸術家たちが「○○報国会」などと組織され、政府の戦争に協力していく。(原子力安全PRに駆り出されて電力業界の広報誌や新聞の広告欄に登場した有名人たち)戦前・戦中の彼らの言論が記録として残っている、というのが今の我々にはありがたく、参考になる。それを見れば高見順が何を考え、亀井勝一郎が講演でいかにひどい発言をしていたかがわかる。

もちろん、我々は戦争責任をしっかり考えてこず、あいまいなままに終わらせてきた。(1億総懺悔で、おしまい)。だから、また、同じことが今、繰り返されているのだろうか。今、我々が、しとくとよいことは、知識人・専門家の発言や行動を記録しておいて、後世に伝えることだ。どの知識人も専門家も5年後10年後に子供や人々が病気になっても、誰も責任を負おうともしないだろうが、言動を記録し後世の人に評価してもらい、後世の人がどう考え行動するべきかの指針にすることが出来る。そうすることにより、同じような悲劇を防ぐことが出来るかもしれない。

福島県立医大の副学長に就任し福島県の健康を守る立場になった山下氏は「100ミリシーベルトまで放射線を浴びても平気」と発言した。脳トレで有名な東北大の川島氏は、今、宮城県から頼まれて宮城県中を講演して、安全だから大丈夫と発言している。今は、幸いにインターネットやツイッターがあるので、知識人や専門家の言動を、多くの人が監視し記録することが、戦時中よりもはるかに容易になっている。


参考:加藤周一『日本人とは何か』講談社学術文庫


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2018年9月 2日 (日)

中国の地下鉄事故

(過去の記事の再録です)

 

日本のマスコミでは中国の地下鉄事故を伝えている。私が思うに、事故があったという客観的事実をだけを伝えればよいのであって、そのほかの中国政府や地下鉄当局の対応の失敗を批判的に論評するところは余計だ。当局の問題は中国人民が知恵を出し改善し対処していくべき問題であって、日本人が云々する問題ではない。こうした日本のマスコミの中国報道の姿勢には、何か大事な問題を日本国民の注意からそらさせる意図があってなされているように思える。中国が格好のスケープゴートにされているのだ。

 

日本国内のもっと大事な問題、例えば日本の電気料金の歪んだ仕組みなどをなぜ、日本のマスコミは取り上げないのだろう。日本の電気料金は、発電コストの総量に例えば8パーセントのような定率を上乗せして、国民に請求していいことになっている。コストに定率の利益率を上乗せして、売価を設定するのが許されるなんて、このグローバルな資本主義の時代に許されるのだろうか。一般企業であれば、市場によって形成された価格を上回らないように必死にコストを下げようと努力をする。もしくは、市場価格より高くなるのであれば、消費者がそれに納得するだけの付加価値をつけようと必死になる。

 

ところが日本に数社ある独占エネルギー会社では、コストはいくらでも掛け放題、むしろコストが嵩んで莫大な費用になればなるほど定率で掛け算したときの会社の儲けが大きくなる。原発の発電コストが安いというウソの計算をしているのは、反対派を黙らすときだけの方便であって、原発は建設費用も、廃炉費用も、核廃棄物処理費用も、維持費も、政治家に対するキックバックも、とてつもなく金が掛かることは、電力会社自身も知っているが、むしろコストが掛かることは大歓迎。毎年、会社で50人官僚の天下りを受け入れ、一人年収2000万あげても、ぜんぜん痛痒を感じない。なぜなら、掛かったコストは全部足して発電原価にして、それに定率を上乗せして国民に売電すればいいからだ。

 

こうして、世界で一番高い電気料金が生み出されるのであるが、あたかも、原発がとまってしまっているので電気料金が高くなる、原発をどんどん作って稼動すれば電気料金が安くなるかのような幻想を与えていることの責任を、日本のマスコミは感じないのだろうか。


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2018年8月29日 (水)

疎開児の命いだきて沈みたる船深海に見出されけり

表出歌は、平成9年の御製。

 

この歌を知ったのは、8月21日付の『河北新報』で以前より歌人で生物学者でもある永田和宏氏が、平成天皇の御製を解説する連載をしていて、その記事を読んだからだ。

 

この船とは、「対馬丸」。太平洋戦争末期に沖縄の児童を疎開させるということで長崎に向かうところをアメリカの潜水艦に撃沈されたものだ。

 

永田氏は、その経緯についてもわかりやすく解説してくれる。サイパン玉砕の次は沖縄と見た政府は学童を本土に疎開させる指令を出したのだが、当時すでに沖縄周辺近海はアメリカ潜水艦が跳梁跋扈する海域で、多くの親は疎開に躊躇したという。それを政府は「軍艦で行く」「護衛艦も一緒だから大丈夫」と半強制的に疎開させたのだという。

 

対馬丸は撃沈されたが、軍艦と言われた船は実は貨物船であり、護衛艦2隻も逃げてしまった。対馬丸の撃沈は軍の機密とされ、生き残った児童が家族に問われても泣きながら「知らない」と答えたという。

 

陛下自身も疎開の体験があり、慰霊と鎮魂の旅を続けてこられた。対馬丸記念館を訪問されたとき館長に「護衛艦は救助に向かわなかったのですか」「そういうときには助けないという、そういう決まりになっていたのですか」など多くの質問をされ、館長は言葉に詰まったということを永田氏は記事中で伝えてくれている。

 

このあと永田氏の記事が秀逸だったのは、この対馬丸のことから、安倍さんの「特定秘密保護法」や「集団的自衛権の行使容認と自衛隊の海外派兵」に目を向けさせてくれたことだ。集団的自衛権の容認では、安倍さんはしきりに、在外邦人が船で避難するのを救うというイメージを振りかざしていた。

 

常に戦争は国民を保護するとの名目で行われるが、本当に国民は守られるのだろうか。過去の教訓から顧みれば、最初に切り捨てられ見捨てられるのは「国民」ではないだろうか。身近なところでは福島の核爆発事故でも、守られているのは常に国民ではない気がする。

 

自分の考えも口にできない時代がやがて来るかもしれないが、この大事な時に自分の意見は表明しておきたいと思う。いや意見というよりは感情表出に過ぎなく論理はないが。安倍さんのように信頼できない人が、国を守るためと言ってもやはり信用できないのだ。野党は、森カケ問題のような些末でどうでもいいことを取り上げるのではなく、中国や北朝鮮の脅威を見ろという人もいるが、公正というルールも政治家として守らない人が、人の意見も聞かず、まともに人として受け答えをせず一方的に自分の意見だけを言い募る人が、信用できないのだ。安倍さんが国民を守ると力説するからには、いざとなったら国民を守るということなどせず、アメリカのために自衛隊員の命が捧げられてしまうのではという懐疑がどうしても生じてしまうのだ。

 

だから、憲法については内容を考えたり、考え直すということについては反対ではないが、安倍さんのように信頼できない人が主導する憲法改悪は、国民の自由や幸福が守られなくなると思うので、感情的に反対だ。少数意見だとはわかっているが、論理的には説明できなくても感情的に反対だという人だって多くなれば、勢力になって安倍さんの憲法改悪に反対できる。


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2018年8月25日 (土)

定常社会

(過去の記事の再録です)

人口も増えない、経済的な発展もないという「定常社会」ではなぜいけないのだろうか。この社会というのは一体、常に右肩上がりで発展し続けなければいけないのだろうか。大切なのは、生活の中身であったり、その生活の中でそれぞれの人が感じる満足度ではないのか。常に経済を成長させ、国土を改変し続け、莫大なエネルギーを投入し、たくさんの消費財を生産し消費する、これは戦後日本の社会のモデルで、男たちが主導した。(自民党を支持し、原発に賛成し、明治時代の青春群像を描いた司馬遼太郎の小説を好む男性たちが)

こういう男性原理が主導した社会モデルが今、転換する時期だ。自分が所有する車や家を欲しがらない若い世代が出てきたことがその証左だ。人口減、人口の高齢化、国家財政破綻などの要因により旧型モデルは必然的にも没落していくが、私たちには意識的にも、日々の暮らしの実践や選択の中で、モデルの転換を推し進めなければならない。


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2018年8月24日 (金)

愛と平和―包摂の思想

(過去の記事の再録です)

 

原発を東京のような人口密集地に作らず、辺鄙な過疎地に作るのは、事故があったときの被害をこうむる人数を考慮してのことだと一般に言われている。1000万人が放射能で死ぬよりも、1万人が放射能で死ぬほうが被害が少なくてすむというわけである。だが、政治家たちをはじめ原発推進派の発想はそうじゃないと思う。彼らの発想の根底にあるのは差別の思想だ。東京などの大都市が人数が多いので原発を作らないというのでなく、辺鄙な田舎に住んでる愚か者なら死んでもいいと思っているから過疎地に原発を作るのだ。原発はもともと人殺しの道具である原子力爆弾を作るために作ったもので、日本に原発を導入した中曽根氏がもと帝国軍人だったことは、原発が「戦争」や「軍隊」の発想を受け継いでいる証拠である。(原発が原爆・核武装のために必要だということは、自民党の石破氏がニュースステーションのインタビューで答えていた。自民党は「戦争」「軍隊」の発想を受け継いでいる)「戦争」「軍隊」の発想は「包摂」の思想ではなく、差別と切り捨ての思想である。国家や国の指導者が勝利するためには、弱者や一部のものは必ず切り捨てられる。切り捨てる決心がつかなければ勝者になれない。原発は「戦争」「軍隊」の発想と切っても切り離せない。原発を維持するためには、下請け労働者に被爆させ病気で死んでもらう。そんな瑣事にかまっていれば原発は回らない。原発は田舎に建てて愚かな田舎ものは死んでも何の痛痒も感じない。中央国家と指導者が勝利して栄光に包まれればよいのである。

 

原発推進派の思想にどうやって克つのか。それは、ジョンレノンが唱えたように「愛」と「平和」の思想しかない。まずは手始めに、電力会社の社員にこちら側への投降と帰順を呼びかけよう。「戦争」「軍隊」の発想のように手荒い言葉と利益誘導や脅しでは、彼らを包み込むことはできない。「愛」の言葉で、こちら側へおいでよといおう。「君たちだってつらいんだよね」「仕事がなくなったら不安だよね。でもね、みんなで新しい仕事を考えて、君たちが困らないようにしようよ」と優しく呼びかけよう。「愛」と「平和」の思想で、推進派の内部を瓦解させよう。上関原発で中電の職員が反対派の漁民に「こんな儲からない仕事してないで、原発で働きなさい」と呼びかけていた。その中電の職員の父母ももしかしたら、田舎で農業をやっているかもしれない。みんな事情を抱え、矛盾を感じつつも仕事をしているのかもしれない。だから「愛」と「平和」の思想でこっちに来なさいと優しく包み込んであげよう。


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2018年8月23日 (木)

アキレスは亀を越える

(過去の記事の再録です)

 

学問的厳密さを求めたら、チェルノブイリの原発事故はガンを引き起こさなかったことになるし、今度の福島原発の事故による放射能汚染も人体への影響は認められないということになる。

 


だが、私たちは毎日生活をし、生きていかなければならない。この毎日の生活の中では、アキレスは決して亀を超えられないと学者が言っても、アキレスは亀をやすやすと超えていかざるを得ない。


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2018年8月22日 (水)

原発文学

(過去の記事の再録です)

 

日本文学―源氏物語にせよ、谷崎の「細雪」にせよ、川端の「雪国」にせよ―は、西洋文学的な意味では見せ場もなければ、盛り上がりもなく、思想もない文学である。春になったら花見に行って、夏になったら涼みに行って、秋になれば紅葉狩り、冬になれば雪が降るという年中行事とその永遠の繰り返し、そしてその舞台の中での「もののあはれ」と自然と人間の交情が描かれているだけ。だが、こういう日本文学の「もののあはれ」という伝統が3.11以降、本当に大事になっている。人為的ミスによる原子力事故の目に見えない恐怖が突然人々の日常生活と幸せを奪うということがわかった3.11以降、日常生活の中の「もののあはれ」を描く日本文学の伝統が、今こそ求められている。

 

原子力推進派の政治家、官僚、財界人は、文学なんて一銭の得にもならなければ、誰の腹も満たさない、というだろう。「もののあはれ」の文学よりも、過疎の町に原発を建てれば、(放射能被爆する下請け労働者も含めて)3万人の雇用を生むんだ、とうそぶくだろう。

 

だが、日常生活の幸せな営々の繰り返しが明日も続く保証がない、突然放射能の恐怖によって断ち切られることがわかった今こそ、「もののあはれ」の文学の大切さを認識すべきだ。

 

ただし、3.11以降の文学は、もう以前の文学と同じではない。広島、長崎の後に「原爆文学」があったように、3.11以降は「原発文学」があるし、それに取り組むのが文学に携わるものの義務だ。


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