UA-92533382-1 よつば農場便り

2022年5月 9日 (月)

戦争の危機

独裁者の頭の中はこうなっているのかもしれない。「ヨーロッパやアメリカは、どんどん東へと防衛圏を拡大していて、我が国の生存は危機にさらされている。我が国の隣国にはヨーロッパやアメリカに後押しされたナチスを翼賛する政権まで誕生した。隣国を敵の影響下から解放し我が国の生存を防衛するためには、攻められる前に先制攻撃を仕掛けなければならない」

こういう独裁者の頭の中ではまたこうも幻影がひらめくかもしれない。「我が国の大事な東の方の領土の主権は、アメリカ、およびアメリカに従属する政府によって脅かされている。我が国の生存権を守るためには、我が国の脅威となる東方の脅威を早めに取り除かなければならない」

日本という国もロシアと親和性が高い。お上の考えには従順に従うという国民性だし、多様な意見や少数意見を重んじるという民主主義度は、先進国のノルウェー、ニュージーランド、台湾よりも下であるし、マスコミの自由報道度も先進国の台湾や韓国よりもずっと下だ。つまりは、典型的な独裁者は出ないにしても、一つの考えが世間の意見となれば、誰もそれにおかしいと異議を唱えたり、そういう意見を詳しく検討してみようという下地は少ないのだ。

こういう中で、妄想に囚われた指導者が「隣国のCが我が国の主権を脅かそうと画策している。隣国のRは、我が国を攻撃しようと準備をしている。生存権を守るためには先制攻撃しかない」となった時に、ロシア国民のように、日本人は政府やマスコミのプロパガンダを信じて、戦争に協力し始めるのではないか。いくら世界のほかの国の人から見れば、世界は違って見えるとしても、そしてそのことを我々に語ってくれたとしても、日本人には、日本人の世界の見え方しかできず、どうして世界のほかの国の人たちはこうも頭がおかしいのだろうとなる。

戦争を煽るだけ煽った人たちは、いざ戦争が始まれば先頭に立つことはないだろう。満州の歴史、水俣の歴史、フクシマの歴史を見れば、「国民を守る」というのは彼らにとって第一義でないことは明らかだ。観桜会の収支報告で嘘をつくような人が、いざ危機に立った時に、先頭に立って国民を守るに信があるとは思えない。歴史上、「国家主義」が長い間続いてきたが、「国家主義」の終焉が始まりはじめた。国家によらない、人間の安全保障を模索し始める時代が来ている。

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2022年5月 8日 (日)

『夜と霧』(V.フランクル・池田香代子・新訳)

心理学者のフランクルが、ナチスの強制収容所での体験を、自らの心理学者という立場で分析した著作。本題は、『心理学者、強制収容所を体験する』というものだそうだが、日本でも、霜山徳爾氏の旧訳がたくさん読み継がれてきた。本屋さんでは、旧訳版と新訳版が並んでいたが、私は池田香代子氏の新訳版を手に取った。

フランクルは、自分を被験者としながら、被収容者が、突然日常生活から切り離され、収容所へ集められ、これまで背負ってきた名前、職業などすべてを捨てて番号で管理される初期の心理、そして、強制労働に従事しながら碌な食べ物も与えられず飢餓に苦しむ、過酷な生活を送る心理、そして、ついに解放されることになる心理、などを分析している。

分析や描写はどれも斬新だが、私は特に、収容所生活の苦しみにどんな意味があるのかを考察している後半部分からの叙述に考えさせられることがあった。生きるか死ぬかの常にギリギリのところで、暮らしていた被収容者たちの過酷な生には、もちろん私のような生ぬるい生き方は当てはまらない。しかし、苦しみの中に意味を見つけることという、フランクルの考え方は、普遍的だと思う。つまり、収容所の中にいても、他の世界にいても人の生に共通のことだと思う。

それに、収容所は、遠い過去にあるのではない。私は自分の過去の言動から言っても、政府が推し進める戦争に反対した非・愛国者として収容所に収容されるそんな近未来がこの日本にもすぐそこにせまっているという感じがする。そして、現にこの日本には、外国人を収容する収容所がある。今も、入管職員の恣意のままに拘留されている人たちがいるのに、今後、戦争便乗で、外国人排斥の機運がますます高まり「外国人だから」という理由で、収容所に収容される人も増えるのではないか?

フランクルは、監視者側の人間の心理や、そして被収容者の中で取り立てられて、被収容者を監視する側へと協力するようになった人間の心理も分析している。もちろん、自分が絶対的に有利な立場にあるとわかっていて、相手が無力であれば、いくらでも人間はむごい仕打ちができるようになる。日本の入国管理所で収監されたスリランカ人女性をむごく取り扱った職員の人たちもそうだろう。しかし、それは個人を責めることはできない。人間の性、人間のむごさだ。

だが、限界状況の収容所の中でそこを踏みとどまった人が少数だがいるという証言をフランクルはしている。そういう人間性の気高さを聞かされると鼓舞される。私も勇気をもって踏みとどまりたい。そんなことを思わせてくれるこの本は、フランクルという人がこの記録を書いてとどめなかったなら、この世には存在しなかったはずだ。そう考えると、運命や偶然の尊さに頭が下がる思いがする。

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2022年5月 3日 (火)

『変容の象徴』(C.G.ユング / ちくま学芸文庫)

『変容の象徴』は、不思議なタイトルの本だが、心理学者の泰斗C.G.ユングの著作を野村美紀子氏が訳出された労作だ。この著作は何やらいわくがあるらしい。

ユングは、ウイーンでフロイトのもとで心理学を学び、そして彼の弟子としてそして協力者として研究をしていたのだが、この『変容の象徴』によりフロイトとはたもとを分かつことになったという。フロイトは『変容の象徴』で主張されていることを認めなかったし、ユングはフロイトの理論を否定的に扱った。

フロイトもユングも生の衝動としての「リビド」を扱っているのだが、フロイトの方はより性欲に近い形で考えていて、ユングは、「リビド」が性欲であるはずがない、というようなことをこの著書で主張している。私としては、その様な学説の論争にはそれほど興味があるわけでなく、フロイトとユングという精神分析の2代巨頭が心理学を応用して論じる人間社会や歴史に関する「文化論」がおもしろい。

『変容の象徴』は文庫版の大部2冊でその内容はまことに茫洋としている。もともとは、(のちに精神分裂病を患うことになる)アメリカ人女性の手記を入手したユングが、その内容を分析していくものというのが骨子なのだろうが、手記とはおよそ関係ないのではと思われる世界各地の神話や宗教、その宗教のシンボルなどの紹介や考察が、(脈絡がまるでなさそうに)延々と続く。

だが、こうした混沌や脈絡のなさや豊饒な連想の網の目と言ったこと自体が、人間のこころの奥深さを象徴しているように感じられる。人間の心は、両親に固着している幼児期へと退行していく。だが、その退行に逆らって現実と向き合い自分自身にならなければならない。その過程において象徴的に親を殺したり、逆に親に殺されたりする。こういう精神過程の反映が、宗教だったり、世界各地に伝わる英雄伝説なのだ。そういう意味で、人間の精神の奥底には、全人類に共通した「元型」がある。

キリスト教は、それを信じている人にとっては進んだ崇高な宗教なのだろうが、よく知られているように、キリストが生まれたとされる日と死んで復活するという話は、キリスト教以前の古代宗教や全世界の宗教に共通する、太陽の勢いが一番弱まる冬至と、そして勢いが強まり大地に豊穣をもたらす春への移行を反映しているのだ。キリストが、精霊を吹き込まれて母親のみから生まれたとする話や、生命を象徴する十字架にかけられて死ぬという話も、多くの宗教や英雄伝説に共通のことで、そこには人間の心理の葛藤とその解決法とが潜んでいる。

 

だから、神話や宗教には、そしてすぐれた文学作品などの芸術作品にも、葛藤を癒やす心理療法の働きがあるのだ。そのことをユングはこの著作で述べている。ということは、科学を重んじ経済的利益をあげることのみを追及し、芸術活動を軽視する国家や、国家の威信を高めるために国民を戦争に動員し文学を支配者の翼賛に膝まづかせるような国家は、人々の心が癒されることのない、不毛な索漠とした国家だということがわかる。

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2022年4月16日 (土)

敵基地先制攻撃

自国を防衛するためには、敵の基地を先制して攻撃すべきだという考えが自民党や維新の政治家から出ている。私は思うのだが、この敵基地を先制して攻撃するというのは、例えば真珠湾攻撃とどのように違うのだろうか。戦争を防ぐどころか、宣戦を布告し全面的に戦争を開始することにつながるのではないだろうか。

戦争で苦しむのは庶民だ。普通の人たち、一般市民が被害にあうのであって、市民の願いは戦争がないことだ。威勢のよいことを言って戦争をあおる人たちが、いざ戦争になったら、その場にいてその戦争を引き受けるなんてことがあるだろうか。これまでの日本の歴史を振り返っても、そういうことはありえない、むしろ率先してその場から逃げるということを、わたしたちは知っている。

だから、政治に対して、私は不信に思うのだ。これまでも「守る、守る」というのは、戦争を仕掛ける口実であったし、何か大きな事故があれば、住民をなるべく現地にとどまらせようとして逃がさないようにしてきたし、桜のお花見に税金を使って選挙民を招待し、その後始末をごまかして公文書を書き換えさせるような人が、有事の危機的な状況で国にとどまり、国民を鼓舞するようなことをするだろうか。

戦争で苦しむのは絶対に庶民だ。一般市民は、戦争がないための努力と、もしおこったりすれば市民同士の連帯で助け合うことこそが必要だ。

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2022年4月10日 (日)

「ひまわり」

ロシアの侵略に苦しむウクライナを支援するため「ひまわり」のチャリティ上映が実行されている。このような企画を立てた映画人に感謝したい。

「ひまわり」が選ばれたのは、あの有名な一面の揺れるひまわり畑の撮影がウクライナで行われたから、ということだ。

ソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニが主演の「ひまわり」を見るのは2回目だ。初めて見たときは、あの情緒的な音楽やひまわり畑や鉄道の美しくも切ない場面に感情を流されてしまったが、今回は冷静に見ることができたので、前回気づかなかったこともいろいろ気づくこともできた。(だがそれにしても、ソフィア・ローレンのきつめの強い表情は美しくも印象的だった)

この映画はイタリアだけでなくソ連も含めた合作映画なのである。第2次世界大戦中、ロシア戦線で行方不明になってしまったマルチェロ・マストロヤンニ演じるアントニオを、ソフィア・ローレン演じる妻ジョアンナが、ソ連に探しに行く。そのモスクワの場面などが、大変活気のあるまるで西側の都市のようなのだ。そして、エスカレーターや地下鉄、労働者のための住宅がそろっていて、イメージの中の落ちぶれた社会主義とは全く違うのだ。おそらく、こういう場面を撮らせることを許可してそれをソビエトはプロパガンダにも使ったのだろう。

そして、ジョアンナがソ連に行ける理由が「スターリンが死んだから」というのも驚きだった。スターリンが死んで、鉄のカーテンが少し開いて、人の行き来もできるようになったという意味なのだろうが、よくソ連がこういうセリフを許可したなとも思った。これは例えると、「安部元首相が亡くなったので、日本がよくなった」というようなセリフを映画にさしはさむようなもので、自国誇り一色の政府なら許可しないだろうと思うからだ。

とはあれ、ジョアンナとアントニオは、もう変えようのない事情や運命に翻弄されて、結ばれることはない。そこは本当に切ない映画で、ヘンリーマンシーニの音楽とひまわり畑のシーンは何度も頭の中を駆け巡る。とにかく、戦争はいけないということだ。

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2022年4月 5日 (火)

ロシア虐殺報道

ロシアが、ウクライナ・キーウ州から撤退した後、市民の虐殺遺体が発見され、「ジェノサイド」「戦争犯罪」という批判が西側諸国から起こっている。日本の民間テレビ局のニュース報道番組を見たが、西側諸国のロシア避難の尻馬に乗ってロシアへの憎悪をあおるだけで、テレビでしか情報を得ない世代の人々に与える大きな影響を思うと気持ちは暗くなる。

ロシアは、ロシア軍が犯したとされる市民虐殺の戦争犯罪をフェイクニュースだと否定している。それを日本の民間テレビニュースが「見え透いた嘘」と煽り立てる。戦争犯罪は犯した方の国は、「ありえない」と必ず否定する。それは、どこの国の政府もそうだし、100年前の戦争でもそうだ。現・日本政府もそうだ。だから、大事なのは、戦争犯罪が客観的に行われたという証拠を、当事者全員が納得する形で集め、その証拠に基づいて犯罪が裁かれ、犯罪の罪に服し、犠牲者の被った被害を回復する手立てを見出すことだ。「ロシア憎し」の憎悪を煽り立てたって、戦争犯罪の犠牲者が浮かばれるわけでもないし、今後起こるであろう戦争による残虐行為も抑制できない。

さらには、ロシア軍のロシア兵だけが特別に悪人で、彼らを罵ればそれで事が済むというわけでもない。徴兵された普通の人がなぜ残虐行為を働いてしまうのか、そこを解明しないと戦争犯罪はなくならない。旧日本軍の招集されて軍隊に入った普通の人たちも残虐行為を行った。どういう心理でそうなるのか、戦争というものがどう人を変えてしまうのか、そこを解明してこそ、本当に「戦争」を根絶できる。

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2022年3月13日 (日)

英国ロイヤル・オペラ・ハウス『トスカ』

英国ロイヤル・オペラ・ハウスで公演されたオペラ作品を映像で堪能できる。仙台では「フォーラム」で上演されている。3月のこの週は、プッチーニの『トスカ』が上演されている。

プッチーニの音楽は、なんと劇的に人の感情を動かすのだろうか。『トスカ』は、序曲もなく第1幕が上がり、嵐のように音楽も劇も進行していく。プッチーニの音楽を本当に堪能できる作品だ。

トスカの役をロシア出身のエレナ・スティヒナが演じている。肉感的な見事なトスカの役がすばらしかった。この公演が撮影されたのは昨年の12月。ロシアのウクライナの侵攻前だ。今、西側の芸術・芸能関係のロシア出身者は、侵攻とプーチンへの反対の信仰告白をしないと、降板させられたりしている。それを考えると複雑な思いだ。ロシアの侵攻後に、この公演が行われていたらどうなっていたであろうかと。

こういうライブ・ビューイングの良いところは、公演だけを中継するのではなくて、作品の解説をつけてくれたり、リハーサルの様子を映してくれたり、芸術監督や指揮者のインタビューなども伝えてくれて、全体として作品や公演の理解が深まるという点だ。

その様な公演以外の映像を見ていて感じたのは、ここでは男女共同参画が進んでいるのだということだ。日本であれば、男性しか出てこないであろう世界に、ちょうど半分くらい女性がいる。さらには、男性・女性という性別に分類をすることに意味がない人なども登場してきて、逆に、男性ばかりの日本のことを思うと、日本の光景が、異様に思えてくる。そういうことも強烈に感じさせるライブ・ビューイングの作品になっている。

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2022年3月 8日 (火)

戦争と民主主義

戦争を抑止するのに有効なことは何であろうか。相手と同等の軍事力を持つことか。相手を上回る超・破壊兵器を所有することか。武力であればよりエスカレートし対立のサイクルは永遠に断ち切れないおそれがある。

何が有効であるかはわからないが、「民主主義」というのも一つ有効な戦争抑止手段であるということを思い至った。

まず、自国が戦争を仕掛けられるという場面を想定してみると、ロシアのような統制された権威主義国家でさえ、戦争反対の声が上がる。大義のない侵略であれば、戦争指導者の野望は、民主主義的な国民の要望とは異なる。民主主義的な国で、だれがすきこのんで、独裁的な指導者の命令で、戦地に赴こうとするだろうか。しからば、「民主主義」は、これが広まれば相手国が不法にも戦争を仕掛けてくるのを抑止する、結構有効な手段となる。

では、自国が相手に戦争を仕掛け侵略する立場を想定した場合はどうか。やはり「民主主義」は、戦争を抑止する有効な手段となりうる。民主主義的な報道の自由があれば、戦争を煽り立てる人たちが主張する都合の良い情報はそうたやすくは信じられないだろう。民主主義的な思想や信仰の自由があれば、指導者が煽り立てる敵国への憎悪に対して、自身の良心に従って行動できるだろう。

このように、「民主主義」は戦争や侵略を受ける方も仕掛ける方にとっても、有効な抑止力になりうる。

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2022年3月 7日 (月)

「ウエスト・サイド・ストーリー」

スピルバーグ監督が「ウエスト・サイド・ストーリー」を撮り直した。知っている話の筋、知っているあのおなじみのバーンスタイン作曲の音楽であるが、とても見ごたえがあり、よかった。

 

この新「ウエスト・サイド・ストーリー」では、より人種的対立やアメリカの人種問題や差別があらわになった。オリジナル「ウエスト・サイド・ストーリー」では、ジェッツ団とシャーク団が人種的対立も背景にあるということが意識できなかったが、新「ウエスト・サイド・ストーリー」では、配役であったり、言葉づかいであったりでそれがはっきりわかる。特に、マリア役の女優さんが、マリアはプエルトリコ出身なのだというリアリティがあった。そして、背の高いポーランドが出自だというトニー役の俳優さんにもリアリティがあった。

 

その他話題になったのは、ジェッツ団でLGBTのメンバーが登場することだ。より社会問題と絡めての脚本だ。

 

「マンボ」「アメリカ」の曲で踊られるダンスは、とにかく切れ切れで素晴らしかった。シャーク団のリーダー、ベルナルドの恋人役アニータが魅力的だ。

 

「ウエスト・サイド・ストーリー」の更なるオリジナルの話はシェークスピアの「ロメオとジュリエット」なのだが、「ウエスト・サイド・ストーリー」のマリアとトニーの悲劇も、誤解から生じる。その誤解から生じる悲劇的な死が、オリジナル「ウエスト・サイド・ストーリー」よりも、この新「ウエスト・サイド・ストーリー」の方が納得できる脚本で描かれていたと思う。恋人を殺されたアニータは、マリアからトニーへ伝言を頼まれるが、こういう状況であれば、その伝言の内容が変わり、それが誤解を生み、悲劇を生むのだと納得がいく筋書きになっているのだ。

 


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2022年2月20日 (日)

ドボルザーク作曲・歌劇『ルサルカ』

ドボルザークが作曲した歌劇『ルサルカ』は、民話をもとにしている。狩りに来た王子に憧れた水の精が、人間になって王子と愛を結びたいと願う話だ。歌劇は、ドボルザークの優しい音楽に包まれた傑作だ。

 

水の精は人間の娘になるため、魔法使いのおばあさんに頼むが、その際に代償としなければならないものは「声」だ。「声」を失って人間になった娘だが、人間社会の移ろいやすさ、人間の気まぐれな情熱により、普遍の愛が得られなかった娘は、水の精に戻ることもできず、人間の世にもとどまることもできず彷徨し続けるという悲劇だ。

 

私がここで注目したのは、何かを得るために何かを失うという、民話やおとぎ話にある共通のパターンだ。アンデルセンが書いた「人魚姫」は創作童話であるが、「人魚姫」も、声という代償を払って人間の姿になる。

 

こんなことを考えたのは今ちょうどユングの『変容の象徴』を読んでいた途中で思い至るところがあったからだ。ユングによると、現代に生きている私たちの心の奥底にも、DNAにより古代からの人類の系統発生の痕跡が伝えられているように、古い時代からの人々の経験や思いが繋がってきているというのだ。ユングはそれを「元型」と呼んだり「イマーゴ」と呼んだりした。たとえ現代の文学作品だとしても、そういう「元型」に触れ、人々に「元型」を呼び覚ますような作品が、人々に言い知れぬ感動だったり、おそれや恐怖を引き起こす、そう、人々の集合的無意識へと働きかける傑作なのだ。

 

人々の集合的無意識は、民族に関係なく、さらに人類全体に広がっていると思う。昔、昔の人々が畏れたり、喜んだりしたこと、そういう根源に触れることが出来たり、呼び醒まされたりするのは、民話だったりする。それを題材にしたのが、ドボルザーク作曲・歌劇『ルサルカ』だ。

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