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2018年6月24日 (日)

野菜工場の違和感

(過去の記事の再録です)

野菜を管理された工業製品のように工場で作る,はたしてこれは農業なのか,工業なのか。農業と分類されるか工業と分類されるか,管轄官庁にとっては利権と天下り先確保で大きな問題となるだろうが,私は一般的な感覚からこれを農業と呼ぶのには違和感がある。


 
野菜工場でできた野菜を食べるのは,環境まるごとの中から生じるものを取って食べるということが欠けている。それは,土やほこりの中の微小生物や菌類と人間が触れ合い共生していくという思想を欠いており,つまり,人間が大地から切り離されていると,私は直観的に感じるのだ。


 
野菜を工場で作るというのは効率という点からすれば優れているが,効率によって見落とされてしまうこともある。工場で作る野菜と畑で作る野菜ではどう違うのか科学的に分析できれば面白いと思う。


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2018年6月21日 (木)

差別的発言は許さない

コロンビアの外務省が、差別的発言は許さないとのコメントを発表したとの記事を読んだ。今やサッカーワールドカップは、各国の愛国心発露の場になっているが、サッカーで敗北した意趣を、SNS上で日本人に対する差別的書き込みで晴らした人がいるとのことだ。それを、コロンビア政府が毅然とした態度で制したということだ。人種的偏見を公に表明することは許されないということを、政府が公式見解で示すことは価値あることだと考える。

ひるがえって、日本では先日大きな地震が大阪を襲った。ソーシャル・ネット・ワーク上では、外国人の犯罪や在日外国人に対するデマが投稿されたという。日本では、安倍さんが首相になり、外国人や在日外国人への憎悪が非常に勢いを得てきている。安倍首相や彼を支える政権与党は、人権に対しては非常に消極的で、それがまた憎悪や排除を勢いづかせているように私には思える。

地震など起きないだろうと思われているところで次々と大きな地震が起きていて、この日本では大きな自然災害はどこでも起きうる。核発電所の直下にも、科学の知見ではわからなかった断層があるかもしれない。いったん大きな災害が起こりパニック状態が起こったら、「外国人狩り」や「外国人虐殺」がこの国で起こらないという保証はあるのだろうか。

過去にあったことは振り返らないというのも安倍さんが首相になってから大変勢いづいてきたことだ。「日本はすごい」国だから、そのようなことは起こったこともないし、絶対に今後も起らないのだろうか。そんなことを心配するのは「反日」なのだろうか。


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2018年6月20日 (水)

大人のための「道徳」

子どもの道徳授業が「教科」に格上げになった。どうやって成績をつけるのだろうか。国の方針に忠実な子や政府を批判しない子が高い評価を受けるのだろうか。「道徳」の授業が必要なのは、子どもたちではなくて大人たちの方だと思うので、こんな仮想道徳の授業を考えてみた。

文科省指導要領:「次の副読本の教材を読んで、大人同士で話し合いましょう」

「昔、中国のある人が県知事に任命され、任国に赴くことになった。その人は、任期中に大いに治績をあげるために、世に広く賢人を求めることにした。その人は古くからの友人に声をかけた。「あなたは私の古くからの友人で、苦しい時も私を支えてくれた。この度私は一国の裁量を任され、大いに治績をあげて天子のご恩に報いる必要がある。ついては、私とともに任国に下り私を補佐してくれないか。もちろん、待遇は天下無双のものを用意する」。

それに答えて友人。「お声をかけてくださったことに感謝いたします。しかし、あなたは広く天下の賢人を求め、政治に公正・公平の道を求めていらっしゃいます。もしあなたが私を採用すれば、天下の人はあなたは友人だからえこひいきして私を採用したとのあらぬ疑いをかけることでしょう。そうすれば、天下の賢人自体もあなたのところには集まらず、あなたは政治を私するものだと批判されることにもなるでしょう。私は身を引きます。「瓜田に靴を入れず。李下に冠を正さず」とも言います。あなたが宰相の間は私はあなたに近づくことはしますまい。あなたが、公平・公正な人であれば、良き人は必ずあなたの周りに集まってきます。「桃李おのずから蹊(みち)を成(な)す」とも言います。」

文科省指導の手引き:多様な意見を出し合い話し合うことが大切である。例えば、「その通りで立派な友人だ」という意見もあるだろうし「いいや、能力があるのであれば友人でも採用すべきだ」という意見もあるだろうし、「国難があるときは、国難が優先で、友人だろうが何だろうがそんな議論は必要ない」という意見も出ることが予測される。教室内で児童にしっかり議論させるとよい。


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2018年6月17日 (日)

唐私撰 序

(過去の記事の再録です)
盛唐の詩がなぜいつまでも輝きを失わないのか。それは「百年の憂い」をうたっているからだ。どの時代どの場所でも人間であれば直面する人生の苦悩,それをうたっているから,いつの時代にも古びることはない。ひるがえって,日本の現代詩はどうだろう。多くは個人的な小さな感傷をよんだり,その人だけにわかるその人だけのこだわり,内臓感覚,皮膚感覚を言葉にしている。小さな世界を大事にし,そしてそれが世界文学の中で特異な位置を占め,成功を収めたこともある日本文学の伝統的な血脈ともいえるものだが,しかし,日本の現代詩は,人生の大きな問題に目を閉ざし,主題があまりにも個人的で小さい。


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2018年6月12日 (火)

弱さを認める

(過去の記事の再録です)

弱いところを強くするというのもひとつの考えかもしれませんが,そこには落とし穴があることもあります。うちの娘は大の運動音痴で家の中でも転んで救急車で運ばれることがあります。そこで私がその運動音痴を直そうとスポーツクラブに娘を通わせることを決心するとします。娘はクラブで鍛えられ体力に自身を持つようになります。やがて大人になり会社できつい仕事を命じられても体力に自信がある彼女は,精神主義を発揮して無理なスケジュールを乗り切ろうとします。しかし体力を過信しあまりの無理を続けたためついに過労で倒れてしまったとしたらどうでしょう。そのとき親の私が後悔するのはそもそもの根本原因である娘をスポーツクラブに入れたことでしょう。そのはじまりがなければ,娘は過労で倒れることもなかったでしょうから。このたとえ話の場合,弱点を克服しようとするのではなく,自分は運動が苦手だと意識させ,慎重に人生を歩むようにと教えていたら,また違った人生が開けていくのかもしれません。このように自分の弱いところを見つけそれを生かすことを考えるのもひとつの道だと思うのです。


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2018年6月10日 (日)

読書ノート『第二言語習得研究から見た効果的な英語学習法・指導法』村野井仁(大修館書店、2012)

この本を読んだのは、自分の仕事に役立てようとの動機からだ。そして読んでみたら著書の先生が、私の家の窓からすぐそこに見える大学の先生だったということだし、登場してくる大学生たちもその大学の学生さんたちだったということで親近感もわいて、楽しく読めた。

 

『第二言語習得」という学問分野は、人がどのように母語以外の言語を習得するのか、そのプロセスや、うまく習得できたり、できなかったりする要因を研究するものだ。「第2言語習得」研究で明らかになったことを、教室での外国語学習に適用すれば、効果的に学習できると考えて、村野井氏が、実際に教室で教えている実践例や効果的な外国語学習法を紹介しているものだ。同業者や同じ業界のものにはとても参考になり、自分でもやって見たいと思わせる。

 

外国語学習に限らないだろうが、学習に成功するかどうかの大きな要因に「学習の動機づけ」がある。もちろん動機づけの高い学習者、つまりやる気のある人が成功しやすいのは言うまでもない。教師の役割は、学習者に、内発的で自ら学習したいという意欲をどうやって育てるかだ。

 

外国語学習の動機づけには「統合的動機付け」というものがある。それは、例えば、アメリカ人のピカピカの物質的生活がまぶしく、ドラマで見るあのアメリカ人のようになりたい、だから、彼らのしゃべっている言語をしゃべり、自分も彼らと一体になりたい、というような日本がまだ貧しかったころに見られるような動機付けだ。アメリカの物質的富がピカピカに見えなくなった今でも、あの憧れの外国人と同じようになりたいという統合的動機付けは、ネイティブスピーカーの発音を至上として、そこに近づき一体化しなくてはいけない。

 

しかし、日本の英語教育はそこを目指すべきでないという村野井氏の提案や考えこそが、この本を読む価値があるようにさせている最大のところだと私は思った。日本人が目指すのは「日本人英語」だ、というのに私は賛成だ。

 

まず、現代の英語はアメリカ人やイギリス人のものではない。国際的なコミュニケーションのための補助語なのだ。それを学べば、国際的なコミュニケーションが取れ、環境問題、格差問題、差別問題、歴史問題といった地球規模の課題を一緒に考え行動することができ、韓国人と日本人が話し合ったり、中国人と日本人が話し合ったりするのを介することができる国際補助語なのだ。だから、インド英語、シンガポール英語、イラク英語があり、日本英語もあっていいわけだ。そして、このように考えると、自国の文化やアイデンティを捨てなくてもいいという利点がある。むしろ、しっかりと自分のこと、自国の文化のことや歴史をきちんと知るという土台が求められることになるのだ。

 

村野井氏は、緒方貞子さんやダライ・ラマ、チェン・カイコー映画監督がインタビューされて英語で答えているビデオを学生たちに見せると、学習に対する意欲が増すと言っている。学生たちは、ネイティブのように完璧な発音で話すことが大事でなく、中身のあることを自分の言葉で伝えることが大事だと気づき、だから英語を通して中身のあることを学ぼうと動機づけが高くなるのだそうだ。

 

もう一つ「日本人英語」の良さは、これが、世界の英語たち、つまりインド英語や、シンガポール英語や、アメリカ英語、イギリス英語だったりといったものと、等距離にあるという点だ。もし、アメリカ人と一体となりたいという「統合的動機付け」で英語を学んでしまい、アメリカ式で発音しそれを国際社会で話したら、反発を受ける恐れがある。世界には、アメリカに対して反発を感じている人や国々が多いから、アメリカ人と一体とみられるのは日本人を悪い立場に置く。「日本人英語」は、日本人の国際的な位置を現わしているし、日本人が国際社会で果たすべき役割を表していると思う。民族間対立などの世界的な課題を解決したいと思っている若い人は多いはずだし、第2言語を学んで、視野を広げ、「自分たちが一番だ」という偏見を持たないようにするためにも外国語学習は重要な教育だ。その点を強調している村野井氏の著作を、業界以外の多くの人にも読んでほしい。

 


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2018年6月 8日 (金)

地域に住んで思うこと

(過去の記事の再録です)
地域に住んで暮らしてみると,改めて今まで見えなかったこと,見ようともしなかったことが目に飛び込んでくる。それは,目をそらしたくなるような現実だ。そういうものを見るのであれば,文学的な美しい世界で想像力を遊ばしていたほうがよほど楽な,そういったしんどい現実だ。貧困。子供や老人に対する虐待・ネグレクト。失業。借金。経済的困窮。経済格差。教育格差。低学力。暴力。粗暴。本当に,われわれの国は先進国と胸を張って言えるのだろうかと考えさせる。われわれは「国内」よりも「国際」と,つい外へ目を向けがちであるが,本当は足元の問題を見つめるべきなのではないだろうか。常に地域の問題を見つめ,発見し,解決のためにコーディネイトする,民生委員やソーシャルワーカーのような地域の中の専門家をきちんと育成し,きちんと報酬を払って仕事をしてもらう必要があると思う。今までのように,名誉職としてボランティアでやってもらえばすむような範囲を超えたところまで,地域は追い込まれているのではないか。こういう人を,官僚や役人として採用しても,発想と行動が制限され柔軟性もないだろう。また,官僚の天下りのための受け皿の団体を余計に作っても地域に何も恩恵はないだろう。われわれは,自分たちが軽蔑している「途上国」並みの現実に地域がおかれていることを自覚して,マイクロ・クレジットで有名なグラミン銀行のような,先進的な事例を学び,地域で行動し活動する組織を作るべきではないだろうか。
 


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2018年6月 6日 (水)

千年希望の丘

東日本大震災の津波が宮城県の沿岸部を襲った。その復興や自然災害に向かい合う姿勢に差がある。5月に京都から知り合いが宮城県を訪れたことを機に、岩沼市の「千年希望の丘」に行って見た。ここは、もともと防潮林の見事な松林が植わっていた。巨大津波は、松林を押し流してしまった。しかし、松林があることで、波の勢いが弱まったことは確かで、これは昔からの人々の知恵だ。

この岩沼市の沿岸部には、雑木林を植え直して将来必ず再びやってくる災害を弱めようとしている。植林された雑木はまだまだ小さいが、20年、30年後には立派な林になるだろう。そして、津波の勢いを弱めてくれるだろう。ここには、自然災害を完全に払いのけるという発想はない。そもそも人間には、自然の動きを完全に封じ込める力はないのだ。自然と共生して生きていくという発想だ。

一方、宮城県知事の強い指導力のもとで、宮城県北部には、コンクリートの巨大防潮堤が建設されている。防潮堤の高さをどうするかというのは、地元の住民にとってはとても大事な問題だ。地元の人は海とともに暮らしてきた。その海が防潮堤にさえぎられて見えないのだ。さえぎられて海が見えなければ、再び巨大地震が来た時、海の様子を見て高台に逃げるという行動もとれないのだ。だから、防潮堤に対して反対運動も起き、県と地元住民の間で高さについてどうするか話し合いがもたれて、高さが決まったところがある。

ところが、その話し合いは全くなかったのも同然、防潮堤は初めから県の予定した通りの高さ(=知事を支援するゼネコン業界が最大の利益が得られる高さ)に建設されてしまった。県は、工事のミスだと認めているが、高さはこのままでいくと地元に押し付けている。ここに見られる発想は、災害は人間が封じ込めることができるという人間中心の傲慢な考え方だ。そして、政権党が支配しているこの国の「民主主義」の在り方だ。この国の政権党が主導している民主主義は、話しあいの積み重ねという民主主義のプロセスを重視するものではないし、人々の気持ちに寄り添うという政治でもない。宮城県の政治が、国全体の政治ととてもよくリンクしている。


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2018年6月 1日 (金)

日大アメフト部事件との共通点・相違点

加計学園の事務長が愛媛県を訪れ、「安倍首相と理事長の加計氏が会ったという虚偽の話をして、獣医学部新設の話を進めさせてしまって申し訳ない」と、謝罪をしたという話が報じられた。事務長は、加計氏から「紛らわしいことは言うもんじゃない」と叱責までされたという。

 

ひとつのウソに合わせるため、一つのストーリーにあわせるため、大人というのはここまでするもんだ、とあきれる。

 

これっていうのは、日大のアメフト部の件で言えばこういうことだ。

 

反則タックルをした日大選手が直接、関西学院の選手を訪れ、「監督の指示を聞き間違ってしまって、申し訳ない。監督からは、指示を聞き間違うなと叱責された」と直接謝罪するようなものだ。

 

日大の時は、前監督に非難が集まったのに、なぜ世間は安倍さんならこんな見え透いた嘘をついても許しているのだろうか。北朝鮮や中国に強い態度をとり、軍備を増強する強い人物であれば、多少の道徳上の瑕疵は不問ということなのだろうか。

 

私は、森友学園や加計学園の問題は民主主義の根幹を揺らす重大事案で、国の安全保障上の問題と遜色はないと感じる。安倍さんに権力があるのは、憲法に定められた民主主義的な手続きで、国民から権力を付託されているから、権力があるのであり、それを私的に、友人にのみ、使うのであれば、そしてそんなことが許されるのであれば、彼に続く権力者だって、憲法上の制約に従わなくてもよくて、私権を公共の福祉よりも優先させて、何でも好きなことができるということになる。

 

しかし、民主主義の問題として、公金の使い方も含めて、安倍さんがやったであろうことは許されることではなく、潔く、自分の行為に対して処罰を受けるべきだ。民主主義の前では、日大の前監督と安倍さんとの間には何の差もないはずだ。


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2018年5月31日 (木)

日大アメフト部と事件の同質性

日大アメフト前監督と前コーチは完全に悪者扱いされ、非難が集まっているが、まったく同じことをしているように思われる人を、世間は指弾しないし世論も盛り上がらない。弱者には容赦なく、弱いものをいじめて留飲を下げるこれが世間というものか。

 

両者の共通点は、立場を利用して部下や下の者にやらざるを得ない状況を作り、やらせた。そして、部下や下の者が、勝手に自分の言葉を忖度してやったことだと、自分の責任を認めない。しかし、勇気ある部下や下の者が自分の非を認めて告発する。それでも、立場ある方の私はそんなことはしていないと開き直る。

 

日大の前監督ら場合は、どう見てもそれはあり得ないでしょうと、非難が集まり追い詰められた。1つ嘘をついたら次々とつじつま合わせのウソをつかなくてはいけなくなるというのも、多くの人にとっては教訓だ。でも、同じようなことをしたもう一方の人は?

 

もう一方の人が許されて、国民からは多大な支持を得ているのは、私の突飛な空想だが、もう一方の人の異常なまでのアメリカ追随のおかげあるのかなと思う。とにかく日本人はアメリカが好きだ。アメリカのやること・言うことには逆らえないと思っている。そしていざとなったら守ってくれると思っている。だから、アメリカに追随するあの人は、どんな私事を政治で行おうと許されるのだ。

 

だが、本当にアメリカは日本を守ってくれるのだろうか。イラクに派遣された自衛隊が、アメリカ軍から発砲を受けたと証言する人もいる。友軍と信じているアメリが軍に、自衛隊部隊が海外で殲滅させられる、ということが起こらないとも限らない。自衛隊員の大事な命は守りたい。勇ましいことを言う人が、下の者に責任を押し付け、命を危険にさらすなんてことはやめて、自らが前線に立つか、それがいやならそのような事態にならないことに努力すべきじゃないだろうか。


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