2017年12月 6日 (水)

知識の活用

現行の大学入試センター試験が大きく様変わりすることが予定されている。そのおおもとの考えは、単に知識があるだけではだめで、これからは知識の活用力が大事ということだ。この考えが、テストに反映されるとなると、現行の正解を選択肢から選ぶだけの問題から、記述式を導入して自分の理解したことを自分で文章で表現する形式に変更ということが以前から言われていた。これは、何十万人も受験するテストで、どうやって採点するのかというような技術的なことや、その採点を請け負う民間企業がなぜ選ばれたのかという利権やお友達優遇、第2第3のモリカケ問題という点が指摘されていた。

昨日、知識の活用を問うテストの試案が国語と数学で発表された。国語ではいくつかの資料の中から、内容を判断するという問題だった。知識の活用、すなわち知識の組み合わせということなのだろう。

さて、以下は思いつくままに私見を述べる。

知識の活用というけれども、大学の学部レベルくらいまでの母語および外国語の読解についていえば、知識がないので正しく読解できていないというのが大半だと思う。つまり、知識を活用して、何か新しい解釈などを生み出すというのはそもそも無理なのではないかと思う。そもそも正しく読み取れていないのだから。読み取れない原因は、文法的にも、文脈的にも、内容が一義的に決まるはずなのに、その一義にたどり着けないのが大半だ。

知識の活用ということを考えると、一番いいのはコンピューターのプログラミングで、知識の活用を向上させるのに一番向いていると思う。プログラミングは、コンピューターにある動作を命じるものだが、その動作を課題としてテストでは出題するのだ。動作というのは、ゲームの中のキャラクターにこういう動作をさせるという課題でもよい。要求された動作さえすれば、そのプログラミングは用が足りる。しかし、その動作をさせるために、どういうプログラミングを書いていくかは、人により千差万別だ。効率的なものもあれば、冗長なものもあれば、美しいものもあれば醜いものもある。課題解決能力も涵養し、知識の活用力も高めそれを測定するのは、プログラミング学習やその試験が一番いいと思う。

プログラミングでも、そもそも知識を持ってないと正しいプログラミングは書けないので、知識を持ち、規則を知っていることは絶対に必要だ。そして、確かに知識を持っているだけではだめで、それを活用し、現行の問題を解決していかなければならない。知識の活用力と問題解決能力がつけば、日本も大きく変わることができるのではないだろうか。変わることは期待する。


にほんブログ村

2017年12月 5日 (火)

雑感―旅をするのは女性だ

(過去の記事の再録です)
 

海外出国者の統計を取ってみると、10代後半と20代とで男性よりも女性の方が海外出国者が多いということだ。

今の若い人たち、特に男子が持っている不安感はなんとなくわかる。今の男の子達は守られていないと行動できないのではないか。ある枠が与えられるとその枠の中では安心して生きていける。

一方、女性の方は、男性が都合のよいように作り上げた世の中の仕組みにどうせ守られていない。企業も本音を言うと男子を採用したい、どうせ女子は、結婚・子育てでやめてしまうのだからと思っている。そうなると、女子は仕組みからはじかれて生きていかなければならない。それが自由な生き方への勇気を彼女達に与えているのだと思う。

明治維新を作り上げた人たちは、江戸の封建の世の中では浮かばれなかった人たちである。例えば、福沢諭吉などは、下級武士の出身で、今までどおりの世の中であれば名を残すことをやり遂げることはなかっただろう。時代の転換点は、後世の人たちの目には明らかであるが、今を生きている人たちには、それが今なのかはわからない。だが、枠の外にいて守られていない人たちは行動し確実に世の中の変換を生み出す力を加えていく。


にほんブログ村

2017年12月 4日 (月)

シネマ歌舞伎「め組みの喧嘩」

中村勘三郎さんが鳶の辰五郎を演じた「め組みの喧嘩」の公演を松竹が映像でまとめた「シネマ歌舞伎」を見ることができる。収録した公演日は、2012年5月。もちろん芝居小屋で見た方が生の迫力を楽しめるだろうが、映画版も見どころはあるし、アップもあるのでわかりやすい。何しろ、偉大な歌舞伎人、勘三郎さんの生の勇姿はもう見られないのだから、資料的にも大変価値がある。歌麿が描いた役者絵から抜き出てきたような勘三郎さんの演技で、歌舞伎の醍醐味を味わうことができる。

私がよかったと思うのは、勘三郎さ演じる辰五郎が、兄貴分の中村梅玉演じる喜三郎に暇乞いをしに行く場面だ。お互いを思いやる中で、直接口には出せない思いを2人が演じあっているのが感動的だった。喜三郎の見事な捌きぶりが素晴らしかった。


にほんブログ村

2017年12月 3日 (日)

雑感―現代社会と幸福

(過去の記事の再録です)

こんな話があります。

旅人がある村を通りかかると,一本の見上げるような大きな木がありました。旅人は,この木の下にたたずむと,はるかに高い木ずえを眺め,この木の立派さに感心しておりました。そこへ村人が通りかかったので,旅人は思わず声をかけました。「なんとも神々しいような木でございますね。」村人は答えました。「ああ,この木は何の用途もない木だから,誰も見向きもしないんです。家を立てるのに良い木や,器を作ったりに合う木だったらとっくに切られています。」旅人はなるほどとうなづきました。その夜,宿に寝ている旅人の夢に,一人の老人があらわれました。
「わしは,今日,お前が見たあの木の精だ。おまえを始め,世の中の連中は,役に立つものばかりを求め,役に立たないものには目もくれない。おまえたちは何と馬鹿者なのだろう。わしがこんなにも長生きしてこんなにも大きくなれたのは,何の役にも立たないからこそではないか。役に立たないことが実はどれほど役に立つかということを良く考えてみよ。それが本当の知恵というものだ。」
旅人はそう言われ,なるほどと思い目が覚めました。そして,居住まいを正すと,あの大木のほうへ向かって手を合わせ,深々と頭を下げたのでした。

人間の目から見て,無駄のように見えるもの,無用のものだと考えられているものがどんどん姿を消していきました。空き地,野原,雑木林,湿原や沼,干潟,改修工事をしていないただの河川敷。こんなものが身の回りから次々となくなってようやく心ある人々は,自分たちの生活の息苦しさを感じ始め,無用のものにも用があったのだと気づいたのでした。同じように社会に何の貢献をしていなさそうに見える人,無用の人をどんどん排除していく世の中は普通の人にとっても,生きにくい苦しい世の中になることでしょう。


にほんブログ村

2017年12月 2日 (土)

中高生の読解力懸念

国立情報科学研究所の研究チームによる調査を、11月28日付の河北新報が報じていた。関心のある内容なので、その概要を紹介し、自分の考えを記しておく。

調査は約2万5千人の中高生を対象に行われた。中高生の教科書や辞典、新聞記事などに掲載された文章を題材に特別な知識がなくても、基礎的な文法をふまえていれば答えられる問題を出題した。

たとえばこのような問題。

題材となる文章「幕府は、1639年、ポルトガル人を追放し、大名には沿岸の警備を命じた」を読ませて、この文章は、次の文章と同じか?と問うた。

その文章とは「1639年、ポルトガル人は追放され、幕府は大名から沿岸の警備を命じられた」

同じと誤答した中学生が43%、高校生が28%という結果だった。

次の設問も面白い。
 

「仏教は東南アジア、東アジアに、キリスト教はヨーロッパ、南北アメリカ、オセアニアに、イスラム教は北アフリカ、西アジア、中央アジア、東南アジアに主に広がっている」

この文章を読み、オセアニアに広がっている宗教を「キリスト教」と答えられなかった中学生38パーセント、高校生28%。

この結果から、河北新報では「中高生の読解力 懸念」という見出しを付け、研究チームの新井紀子教授のコメント「読解力が不十分だと社会生活を送る上でも大きな影響が出る」を引用している。

なお付随する調査で、読書量やスマートフォンの利用時間、1日の勉強時間も尋ねたが、読解力との相関はなく、就学援助を受けている子どもの割合が高い学校の正答率が相対的に低いことがわかったという点も注目に値する。

さて、以下は思いつくままに私のコメントだが、上記の宗教分布を述べる文章は確かに煩雑で複雑な文章で正確に情報をつかむには苦労する。しかし、地理が大好きで、オーストラリアやニュージーランドの優勢な宗教がキリスト教だと背景知識がある子は、読解力を用いなくても、正解にたどり着ける。そういう結果に影響を与える要因を排除して、純粋に「読解力」のみを測定するテストというのははたして、考案できるものなのだろうか。

よく子供が主張する勉強しない言い訳、特に数学の場合、「そんな難しいことを勉強して将来なんの役に立つ。大人になれば、お釣りの計算ができれば十分」というのがある。読解力についても、そんな難しい文章なんて読めなくても、立派な大人になり、社会生活を送ることは可能だ。ということは、読解力が社会生活上何に役に立つのかということも明らかにされる必要がある。

『そんな勉強しても、将来なんの役に立つ?』という子供に反論できるには、学校で教わることが「汎用力」を持っていて、そのまま直接にすぐには役立たないかもしれないが、仕事や社会生活を送るうえで、応用が利く優れた力のもととなっているということを示すことができなければだめだろう。数学で鍛えた論理力は優れたコンピュータプログラムを書くために必要だという、説得はできるが、文章の読解力は、果たしてどのような汎用力を持っているのか?そんなことを私は考えてみたい。


にほんブログ村

2017年11月30日 (木)

雑感―秋葉原の事件

(過去の記事の再録です)

 

秋葉原で無差別殺傷事件があった。その犯人の青年が犯行の動機として供述しているとされていることは、朝、出勤してみると彼のツナギがなくなっていて、それを彼は「もう来なくていいということか」と、自分の存在の否定と考えたということである。

この報道が事実だとすると、問題のとらえ方は3つある。

・ツナギがなくなったというのは単に彼の勘違いであり、ロッカー室の掃除の必要などからツナギは移動された。とすれば、問題なのは彼がそのことを周りの人に確かめようと働きかけをしなかった点にある。誤解があってもそれを解消しようと他者へ働きかけをしない。解消するための戦略をとろうとせず、問題を個人の中に内向させ鬱積させる、現代の私達に共通する対人関係に関する技術の低下、という問題を予想させる。

・派遣会社が本当に彼をやめさせようと嫌がらせのためにツナギを隠した。こうした陰湿ないじめは、子どもたちが友人の靴や筆箱を隠すのと同じレベルである。幼稚なやり口ではあるが、大人の世界にもあるに違いなく、「お前はここには必要な存在ではない」というメッセージは相手に伝わる。なぜ、私たちはかくも簡単に相手の存在を抹消するのか。現実感が薄れた世界に囲まれていると、他人の存在すらも現実感をもって受け止められなくなるのか。

・彼は、社会から自分の存在を認めてもらえない。社会から疎外感を味わい社会に対する怨恨を強めていった。はたしてひとりひとりの人間に存在感や所属感を与えない社会はいい社会なのだろうか。経済の発展や企業の利潤確保のために、格差や勝ち組・負け組みを作り、社会の仕組みにうまく対応できず底辺に沈んだ人間に生きがいと存在感を与えない社会はよい社会なのかという、見方ができる


にほんブログ村

2017年11月26日 (日)

メトロポリタン歌劇場・ライブヴューイング・ベッリーニ『ノルマ』

メトロポリタン歌劇場のライブヴューイング今シーズンの第1作目ベッリーニ作曲の「ノルマ」を見た。べッリーニの甘美な曲に浸れる幸せな時間。アダルジーザ役のジョイス・ディナートもインタビューで答えていたが、他のイタリアの作曲家と比べてベッリーニはどうかと聞かれ、とにかくあふれるような甘美なメロディーがベッリーニの特徴だ。

「ノルマ」の舞台設定は、ローマ帝国に進駐されたドルイード教徒が住むヨーロッパの森の中だ。強大な軍事力を前に、蜂起すべきか、偽りの服従を続けるべきか、ドルイード教徒たちは悩む。立ちあがるべきという神のお告げがまだ出ないのだ。その神託を告げるのが巫女のノルマ。占領軍に占拠されて独立を目指すのか服従すべきかを苦悩する状況は、今日の私たちの置かれている状況にも通じるものがあると、見るたびに思う。

さて、名作を見る楽しみというのは、話の筋書きとかはすべてあらかじめわかっていてよいので、その上で、演者や演出家の違いによって、その名作が今回はどのように見るものに迫ってくるか、毎回違う発見がある楽しみだ。前回、ロンドンのロイヤルオペラハウスの「ノルマ」のライブヴューイングを見た。それでは、ノルマの父とノルマの葛藤が印象に残った。ドルイード教徒の指導者である父、しかしその娘のノルマが敵将のローマの将軍と通じてしまったのだ。掟破りは「死」だ。

しかし、今回の公演では、ノルマの後継者でもある若き巫女アダルジーザとノルマの葛藤が、見ごたえがあった。そして、もちろんノルマ役のソンダラ・ラドヴァノフスキーの熱演も素晴らしかった。気高いノルマと同時に女であり母であり娘であるノルマの葛藤を歌うのは、大変だと思う。しかし、最後にポリオーネと二人で火刑に赴くところは十分にカタルスシを感じることができた。


にほんブログ村

2017年11月25日 (土)

イエスに断罪される女

(過去の記事の再録です)

 

青年は少し神経質そうで,やや場にそぐわない大きめの声を出し,公共施設備え付けのパソコンで調べ物をしたいので使わせてほしいと,係りの女に申し出る。女は,上の者の命を受け,この場の秩序を守ることこそをわが使命と心え,一点の秩序の乱れなきよう細かく目を光らせている。女は,これまでの人生,規則こそを至高のものと崇め,その価値を疑ってみたことがない。


くだんの青年が,パソコンの使い方を教えてほしいと大きな声で求めてくる。
(公共施設では静かに!そしていまどきパソコンの使い方を知らない人がいるなんて!)
秩序を乱された女はいらつく。


調べ物をしようとたどたどしい手つきでキーワードを日本語で入力しようとするのだが,画面に出る文字はローマ字ばかりである。得体の知れない技術体系の前に立たされ,それを動かすこともできなければ,無理にこじ開けることもできない無力感と絶望感に青年はあせる。巨大な官僚機構を前にしてとほうにくれるカフカの小説の主人公の絶望感が,青年のそれだ。青年は助けを求める。


「すいません,どういうふうに,文字を入力するのですか」

女はいらだつ。
「ここはパソコンを使える人だけが使うことのできる施設なのです」


青年は言う。
「私はパソコンを使うのが初めてなのです。使い方を教えてください」


女は言う。
「パソコンの使い方を教えるのは,業務の範囲にありません」


青年はいらだつ。
「私は調べ物をしたいのです。どのように入力したらいいか教えてください」


女は言う。
「自分でやってみてください。ここはパソコンの使い方を教える場所ではありません」


青年の絶望感は深まる。
「あなたは冷たい人ですね。そんなふうな言い方をしなくても。私は傷つきました」


ロバにまたがったイエスが,自動ドアの前に立つ警備員の制止も聞かず,施設の中に入ってくる。そして,机をひっくり返し,パリサイ人のこの女を断罪する。


女は言う。
「おお主よ,私はいつも主命じる規則を守ってきました。たとえ,世の人が規則に従わなくとも,忠実なしもべである私は,主の言いつけを守ってきました。それなのに,なぜ,私は裁かれるのでしょうか」


イエスは言う。
「裁きの日に,天の父は言う。たくさん愛した者がゆるされるのであると」


にほんブログ村

2017年11月18日 (土)

TED

聞く価値のある話であれば、分かち合おうではないか、という趣旨のスピーチの発表会(公開プレゼンテーション)がTEDと言われる企画で、アメリカ発祥でその様子はインターネットで気軽に見ることができる。

 

この講演会では様々な人が発表をするのだが、私がこのTEDをいいと思うのは、いろいろな人の話を聞くたびに、世界には問題解決のためにいろいろなアイディアを出して実践している人がいるのだなということに気づき、感心させられたり勇気をもらえることだ。

 

そう、世界にはいろいろな問題があるのである。でもそれで負けてはいけないのである。問題解決のために考え、働き、それで報酬を得て暮らしていくというのが今を生きるということで、世の中の仕事というのは、たとえ商売や金儲けだってすべては「問題解決」なのだと私は思う。問題解決をあきらめ、「この道しかない」としがみつくような国や人が、世界の趨勢からは、カッコ悪い、時代遅れとみなされ、取り残されるし、そうなってほしい。

 

私は、沖縄の海を破壊したり、兵器を日本に売りつけるアメリカは好きではないが、何でもいいことだったらやってみようというこのアメリカらしい精神は好きだし、見習いたい。「前例がないですから」というようなできないことの言い訳は、彼らは考えないのだろう。いいことだと思う。

 

今、世界には様々な問題があるが、そのうちの1つに、「対立・分断」がある。相手の考えを認めず、「死ね」などの否定する言葉を投げかけ、分断・対立をあおる。それをリーダーとなる政治家が率先してやっていて、そういう人が民衆からも支持を受ける。アメリカのトランプさんが代表的な人物だろうし、それにしっぽを振る他国の政治家もそうだろうし、アメリカ社会も分断されているだろうし、その属国的な立場で大きな影響を受けている国もそうだ。

 

そんな中で、「対話・意見交換」というテーマの講演会でスタンフォード大の教授が、立場が違う人に考えを認めさせるために非常に示唆のある心理実験の内容を紹介していた。英語の勉強を兼ねているので、この実験の紹介までしか聞いてなく、その応用までは聞いていないのだが、とにかく実験内容には興味を持った。

 

今アメリカでは保守とリベラル派分断されていて、対話の糸口がない。日本もちょうど似たような状況だ。政治信条が保守の人と、リベラルの人を実験室に呼んできて、環境保護に関する文章を読ませて、読んだ後で、どれくらい環境保護に関する意識が高まり行動に賛成しようとするかを調べた。読ませる文章の内容をいくつかに分けて、どれが人の考えや行動を変えることができるかを探るようにしたのがポイントだ。

 

保守派の人を、環境保護活動に向けて一番説得できた文章は、自然環境の純粋性の危機を説くものだ。つまり外来種の侵入で、固有種が危機に瀕していること、散乱されたごみで自然環境の清潔さや清純さが失われるというものだ。リベラル派には、多様性が失われることを説く文章だ。つまり、この教授の結論は、相手と対話し、自分の考えをわかってもらうには、相手が大事にしている価値観に沿って訴えろ、ということだ。

 

この研究、一歩間違えば、悪魔の研究となり、全体主義国家を作るのにも応用できそうであるが、分断や対立を乗り越え、対話し和解するきっかけにはなる。ちょうど「対話・意見交換」というテーマではノルウエーの元外相も登場していた。ノルウエーは、パレスチナとイスラエルの対話を取り持ち、オスロ合意を取り付けた、国際社会では非常に存在感がある国家だ。国際社会の中で、軍事力だけを笠に着るのは、まさに子供社会のガキ大将のようなものだ。小国でもいいので、自分の持ち味を生かして、国際社会に貢献し、尊敬を受ける国を私は、いいと思う。


にほんブログ村

2017年11月16日 (木)

死刑判決と認知症

青酸カリを何人もの男性に飲ませて死亡させたとされる女性被告に、京都地裁の裁判員裁判で、死刑判決が下された。この被告女性が認知症を発症していることから、この死刑判決は大きな問題を含んでいる。

今後、日本社会のますますの高齢化が進展するに伴い、認知症を患う人が増えてくる。その中で高齢者の犯罪の割合も増加している。高齢社会と認知症と責任能力という、社会が直面する問題を象徴的に示している。

また、認知症の人が自らの行動の責任を取り刑罰に服することができるのかという、法律や刑事裁判や裁判全般の問題ともかかわりは大きい。

この問題を扱った河北新報11月8日付の記事から、問題点を要約してみる。

・今回の死刑判決が導かれるまで

…被告女性の訴訟能力については、検察が「ある」と主張し、精神鑑定した医師を証人申請。弁護側は「ない」と主張。判決は鑑定を認め、事件当時の完全責任能力をあるとして判決。認知症は事件後に発症し、初公判以降の言動から訴訟能力があると判断した。

・他の例

…最高裁では、二人の殺人罪に問われた男性被告に対し、認知症により、公判を打ち切る「控訴棄却」を言い渡した。

・高齢化と犯罪の現状

…2025年には認知症患者が全国で700万人になるという推計がある。高齢者の5人に一人の割合。法務省によると、2015年の刑法犯摘発人数の19,9%は65歳以上の高齢者。この2つのデータを合わせると、長引く裁判では途中で認知症を発症させたり悪化させたりするケースが増加すると、予測される。

・裁判員裁判の問題点

…慶応大の村松准教授によると、「裁判員へのわかりやすさが重視され、審理時間の短縮や説明の簡略を求めることが多い。これでは誰のための裁判かわからない。医学的な検査で認知機能が認められることと、責任能力や訴訟能力があることは同じでないので、そうした共通理解をもったうえで、司法と医学が共同して議論する必要がある」

※今回の記事の私の感想

…死刑制度を支持する理由の一つに「応報思想」がある。つまり、被害者が味わった死の直前の恐怖を、被告にも味わせるということだ。しかし、被告が認知症となり、自分がしたことも、自分がいま置かれている状況も、死刑が今日にも執行されるかもしれないという恐怖を理解できないとしたら、死刑を支持する根拠の一つは、揺らいでしまうのではないだろうか。


にほんブログ村

«科学レベルの低下