UA-92533382-1 よつば農場便り

2020年7月 2日 (木)

国家保安法

香港で「独立」の旗を所持していただけで、逮捕されたというニュースを聞くと、胸騒ぎがする。中国のやり方を、ひそかに効率的で有効であると称賛している為政者も多いのだろうから、「彼から学べ」という指示も広がりかねない。

「政治哲学」的に考えてみると、「独裁国家」においては、独裁国家の意に染まない言論の自由は当然、許されないだろうし、「独裁国家」という「国体」を否定する動きはすべて国家転覆罪として重罰の対象だろう。

では「民主国家」では?「民主国家」自体を否定する言論や民主国家を否定する動きは許されるのだろうか。「共謀罪」や「治安維持法」に当たるような法律があり、国家転覆を図ったり、外国勢力と結託するような動きを罰することはできるのだろうが、いまのところ「言論」については、たとえそれが、民主主義を否定するようなものであっても、大目に見られている。ある政治哲学者の見解によれば、否定的な言論であろうとも、言論の自由があること自体、「民主主義」の概念を発達させるものであるし、そもそも「民主主義」が究極の到達点であるかもわからないのだから、言論の自由は、進歩を促すためにも必要である、ということだ。もちろん、「民主国家」でも、どこまで言論の自由が許されるのか、例えば「ヘイトスピーチ」まで、言論の自由に含めるのかということは、常に意見を出し合い、検討し合う問題であるが、「言論の自由」を封殺してしまえば、そういった否定的な意見すら知ることができなくなり、検討することが不可能になる、だから、「民主国家」では、「民主国家」自体を否定する言論でも、自由が認められるべきだというのは、私も同意する。

わたしは、宗主国のアメリカに対して従属することをやめて自立した方がよいという日本の「国体」を否定するものである。そんな私も、お目こぼしをもらって大して見ている人もいなだろうこんなブログで「言論の自由」を謳歌している。しかし、それも、時の政権の思惑次第ということを思うと、少し空恐ろしい気がする。だから、香港の人たちに共感し、連帯し、民主的な価値を守りたいと思うのだ。

 

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2020年6月22日 (月)

オリンピックを考える

2020年5月5日付の『河北新報』に掲載された西谷修氏の論考に触発されて「オリンピック」を考えてみたい。

西谷氏はオリンピックの歴史やその性質を振り返って整理してくれているので、ここにそれを引用・要約する。

・オリンピックは西洋諸国が海外に手を広げるときの戦争の合わせ鏡の役割をし、1936年のベルリン大会がその頂点で、「第3帝国」の威容を内外に示す大会となり、「聖火」が初めて導入されたこの近代イベントであるオリンピックは神話化された。

・戦後は平和を象徴スポーツ大会になったが、開催国が西洋世界に認めてもらう「統合儀礼」でもあった。認めてもらう資格、つまりオリンピックをやる資格は「西側世界の価値を共有するか?」「文明国か?」ということである。

オリンピックの主役はアスリートだとされるが、実際は国家事業だと、西谷氏は喝破する。それは、国にとっては金メダル数が問題で、あらゆるスポーツがそこに向かって組織化していくからだという。

このような中での、開催国のメリットは何かというと、

1.経済効果

2.国民意識の高揚

3.公共投資、社会インフラ更新に伴う利権獲得の絶好機

ということだ。

近年の動向としては、先進国市民はオリンピックの自国招致を求めないが、それは、国威発揚は遅れた政策だし、社会の負担が大きいからだ。では、なぜオリンピックを招致したがるかといえば、民意よりも時の政権の意図だからというのが西谷氏の指摘だ。3度目の東京オリンピックは、原発事故からの復興を内外に大いに示すというのが、オリンピックの大義名分であった。

さて、当然、コロナウイルスが引き起こす感染症爆発で、オリンピックは開催延期となった。感染症を押さえるには、現代の社会経済システム、グローバル化した世界の要衝である交通・交流の機会を遮断しなければいけないが、そうすればオリンピックは開催できないというジレンマは、オリンピックを牽引車として経済社会を動かしてきた現政権のジレンマであるという。

西谷氏は、この機会にオリンピック至上の考えを改めるべきだと訴える。それが、すべての運動選手やスポーツ愛好家にとって重要なことだという。

 

 

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2020年6月11日 (木)

薬物依存症

少し古い新聞記事であるが、2019年8月30日の「河北新報」の記事を切り抜いて取ってある。埼玉県立精神医療センター副病院長の成瀬暢也氏の投稿だ。思い合わせることも多いので、成瀬氏の投稿の要点を紹介する。

薬物依存対策として「覚せい剤やめますか、それとも人間やめますか」「ダメ・絶対にダメ」というCMポスターなどを見かけるが、それは「不寛容・厳罰主義」の表れであるという。これは、「薬物依存は病気」という視点と対極のものだという。

「不寛容・厳罰主義」の観点から、著名人の薬物事件は見せしめのようなバッシングが続く。それは、ルールを守る人は大事にしても、そこからはずれた人は排除し、社会的に抹殺するという、日本の村八分的制裁ルールが表れだと指摘する。

これを読んで私は「ギクリ」とする。2019年の8月の時点で、成瀬氏だって、今回のようなコロナ・ウイルスの爆発的感染大流行を予見していたわけではないだろうけど、成瀬氏の日本社会に対する考察は、今も有効だと思われる。

さて、薬物依存に関してのこのようなやり方、つまり「排除・制裁」のやり方は、薬物依存に対するスティグマ(烙印)を強固にし、それにより、薬物使用者が支援をますます受けづらくさせることが問題だという。

世の中が「犯罪者」を責め続け、反省しろ、我慢しろと押し付ける状況では、やめたいと思う人も自分で対処するしかなくなる。そもそも自分の意志でコントロールできないのが「依存症」であることを認識して、依存症の薬物使用は懲らしめるべき「悪」ではなく、ともに回復を目指すべき「症状」なのだととらえるべきだと氏は言う。

現場を見て実践してきたであろう方だけに、言葉の重みが違う、説得力があると私は思う。

 

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2020年5月25日 (月)

京マチ子さん

家で自粛中なので映画を見る機会多くなっています。「芸」の技事も人の世の大切なもののうちの一つです。

京マチ子さんといえば、黒澤明監督の「羅生門」、溝口健二監督の「雨月物語」を見てました。これを見て「恐ろしい」女優さんだなと思っていました。「異様な」迫力があります。そして、同じく外国映画祭でグランプリをとった作品でも、「地獄門」を見て、また別の京マチ子さんの面も見れたと思いました。

「愛染かつら」はいろいろな女優さんで何度も撮られた映画で、この映画で使われた歌も大ヒットしました。京マチ子さんと鶴田浩二さんの主役で撮られた「愛染かつら」でみせた、また別の可憐で素敵な京マチ子さんもまた魅力的でした。

そして、小津安二郎監督の「浮草」。この中で、雨中の道を挟んでの中村雁治郎との対決シーンは、日本映画の中でも屈指の名場面だと思う。「用心棒」の三船敏郎の対決シーンに匹敵すると思う。この映画での、京マチ子さんは、若いころとまた違って何ともいえない魅力を見せている。

 

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2020年5月22日 (金)

将来を失うための選択

学生たちが声を上げたおかげで、学生たちにも金銭の支給が行われることとなった。ところがこの支援策、安倍さんの信任厚い荻生田氏の発表では、日本人学生だけでなく留学生たちにも支援が行くと思われていたが、その裏では留学生への支援は数を絞り選別して与えるようにとの指示を出していたことが分かったと、報道されている。

この報道が事実であれば、差別と分断をもたらすそのような支援策ではなく、日本人学生も留学生も一律平等の支援をしてほしいと私は考える。理由は、留学生たちも、この日本社会に参加し、この社会を支えてくれているという点では日本人と変わらないし、留学生への支援は、日本の未来にとっては大きな意味を持つ支援だと考えるからだ。

外国人を差別し、排除し、社会に分断をもたらす政策は、安倍さんの支持者たちを喜ばせ、人気のある政策だ。政治家が有権者の人気と支持を取り付けて選挙に当選しないといけない体制下では、支援してくれた人に利権を分配したり満足感を与える政策を行うのは必須のことなのかもしれない。しかし、この政策は将来に禍根を残し未来を失う選択だと思う。

日本は、外国の人たちから選んでもらう立場であろう。観光先として、働き先として支持してもらい選んでもらわなければいけない立場なのに、差別的な仕打ちをすれば支持を失い、誰も日本に来てくれなくなる。これから先の縮小日本社会を維持し支えていくには、外国の人も含めて多様な人たちが必要なのに、将来、まわりから見捨てられても、「この国は神風が吹く素晴らしい国だ」と、一人いきがって自己満足に浸っているのだろうか。

資本主義と同じで、勝者が全部成果をいただくというのが、今の日本の選挙制度だ。だから勝者の自民党と安倍さんは何をしてもよい。しかし、彼らの選択の結果をあとで味わうのは、ひとしく国民全体である。原子力政策なども、そういうもので、推進してきて利権にありつくのは少数の勝者だが、被害は国民皆が等しく背負う。今回の留学生差別も、将来の禍根は国民全体が等しく背負うことになる現在の選択だ。安倍さんと自民党の差別主義を何とか撤回させたい。

明治維新期の志士や愛国者だったら『史記』は読んでいた。『史記』を読んでいる愛国者だったら、目先の利益の在りそうなことが将来の禍根になることや、その逆で、今は、誰もが馬鹿にするような小さなことが、将来大きく花開く、そういう大局的な見方を持つことができるのだ。明治維新とかが好きそうな安倍さんやその支持者の「愛国者」の方々は、もう「史記」は読まないのだろうか。『史記』を読めば、これが30年後の歴史には、失敗の始まりとして筆誅されるだろうということが予想できるのに。

 

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2020年5月18日 (月)

「嫌韓」と「親韓」

2019年12月10日付の『河北新報』に掲載されていた伊藤昌亮氏の論考が面白かった。昨年の記事であるが、切り抜きして取っていたので、ぜひ伊藤氏の論考の概要を紹介させてほしい。

隣国である韓国に対する態度で二分される。それは、「嫌韓」と「親韓」だ。伊藤氏は、両派の時代背景や心理を分析する。

まず、「嫌韓」のほうだ。

「嫌韓」の背景は、歴史認識問題だ。韓国が日本の戦争責任追及の姿勢を強めたのに対し、日本では歴史修正主義という動きで対抗していく。この歴史修正主義の動機は、敗戦を受け入れたくないという思いと、「東京裁判」を退け日本の自尊心をとりもどしたい人々にとって、「嫌韓」は日本の戦争責任を免罪する旗印となる。

もう一つの「嫌韓」の背景は、韓国の経済的躍進と日本の沈滞だ。こういう沈滞しているときほど、日本経済を礼賛する本がたくさん読まれた。

まとめると、「嫌韓」は二つの「敗戦」感情に支えられているという。ひとつは、太平洋戦争。もうひとつは現在の国際競争。これらの敗戦を認めたくないというのが、「嫌韓」を支える感情であり、それは、高度成長期への復古的な思いが強い中高年層に見られるという。

さて、もう一つの「親韓」のほうだ。

これは、女性を中心とする若年層に見られ、彼ら・彼女たちは政治的・経済的な文脈から比較的自由にふるまうことができ、文化の領域に密着しながら、両国間の差異をシンボリックにとらえているという。

伊藤氏が出していた日韓のアイドルの差異が興味深かった。日本のアイドルは、かわいさが偏重され、韓国では美しさや力強さが志向されるという。

この両者の差異を基に、「親韓」の若者たちは、閉塞的な日本のシステムに対して、どこか違うところ、別の価値観や生き方を求めているのではないかという、伊藤氏の分析は、なるほどと思わせるものがあった。

「嫌韓」と「親韓」の2つの態度をまとめると、

ひとつは、「復古的な思いから、自らの在り方をどこまでも肯定しようという態度」

もうひとつは「進取的な思いから、隣人の在り方に学ぼうとする態度」、

ということだ。

伊藤氏の論考、読んで自らの思考の糧となった。伊藤氏に感謝申し上げる。

さて、考えさせていただいたので、自分の考えも。私は、韓国や台湾やほかのアジアの先進国からは学ぶべきところがあれば学んだほうが良いと思う。それほどお堅く考えないとしても、韓国のエンターテイメントと作品は面白いし、確かに日本にないものがある。それは、韓国人の性格にも言えて、面白いいい隣人なのだから大切にすべきだと思う。一方で、日本にもいいところはあるのだから、それはそれで大事にすべきと思う。私は、年齢だけは立派な「中高年層」の人だけど、政治的・経済的にそっちの立場にいる人でないから、割とこだわらない立場で考えられるのかと思う。やはり、そっちの立場に入れない人が多いだろう、若者や女性のこだわりなくアンチテーゼを求めることを支持・応援したいと思う。

 

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2020年5月12日 (火)

懐かしい「そこ」

5月10日付の河北新報1面の下段大広告に、ハート出版から出版されている書籍の案内が出ていた。それは『初等科 修身』と『初等科 修身 ヨイコドモ』だ。東大名誉教授・矢作直樹氏の推薦文付きだ。『修身』は太平洋戦争敗戦前まで使用されていた国定の道徳の教科書で、国民の意識を形成するのに大いに役立った。

現在は使用されていないものだが、この教科書が体現しているあの懐かしい素直で、なおびやかな時に戻りたいと思っている人たちはたくさんいる。あの懐かしい良き時代に戻りたいと思うそういった人たちの心情を如実に代弁しているのがこの広告のコピー文だ。引用する。

「皇室や氏神様、ご先祖様を大切に、家族仲良くみな助け合い…当時のはつらつとした子どもの姿が目に浮かびます」

「偉人の物語を通して「忠義「孝行」「勇気」「誠実」「勤勉」「慈悲」等の徳目を、生きた形で学べるようになっています」

彼らの懐かしい「そこ」とは「家父長である男性を中心に、その中心から恩恵が下され、その恩恵に包まれた家族も同然の人々が、その恩恵をありがたく受け取って、決してそれに対して不満や批判を漏らさず、ありがたく恩恵を頂戴し、その恩恵に対してご恩返しをする」という共同体のことだろう。

もし、この『修身』の世界がこのすさんだ現生に現出したら、安倍首相から下賜されるマスクは、ありがたく頂戴し、誰もそれに不満を漏らす人はいないはず。ましてや、そのマスクの利権に絡んだ怪しいお友達企業の素性をかぎつけようと動き回ったりするやつはいないはず。さらにましてや、国家の番人である検察の定年延長に異議を唱えるものなどいないはず。懐かしい「そこ」は、みながニコニコ笑っている家族共同体で、上長から下賜された恩愛に皆がひたり(もちろん、家族の一員である「日本人」だけが)、恩を受けたら義理で上長に奉仕して一身を奉げる、うるわしい世界なのだから。

 

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2020年5月 3日 (日)

新型コロナから考える その2

識者が、このコロナウイルス感染症の時代を通して思考する観点を与えてくれる特集記事を、引き続き紹介したい。2020年4月22日付の河北新報には与那覇 潤氏と、将基面貴巳氏の論考が掲載された。

与那覇氏は、オリンピックについて、このように論考している。

オリンピックというのは基本的に「新興国型」の催しだという。それはなぜかというと、自国の外に広がる世界に一握りのエリートスポーツ選手が活躍するのを、銃後の私たちが前線にいる兵士をあおる構図になっているからだという。日本は、新興国ではなく、「老熟国」。外に向かうのではなく、うちに受け入れていくというポジションになるのに、オリンピックに熱狂しているのは、「途上国」のままでいたい国民の心性があるからだと指摘する。

私も前から思っているのだが、「老熟国」の民だってそれなりに幸せになれるし、老熟国にふさわしい幸福を追求した方がよいし、それを示すことがまた、世界に対する貢献だと思う。伸びあがって、ここにないものを探し、それで虚栄心を満足させることはないと思う。

将基面氏は、日本の同調圧力の強さを指摘する。また、日本人であれば危機を乗り越えられるという愛国主義の発露が、海外から見て取れるという。ウイルス拡大と関係があるのは良き市民としての個人のふるまいであり、そこに日本人というアイデンティティは関係ないという。非常時とはいえ、全権を政府に預けてしまう危険性を指摘する。

今回のコロナウイルス蔓延での、私の社会的な気づきは、やはり日本人は、江戸時代と同じ、相互監視の五人組的精神を保持していて、いともやすやすと翼賛体制に、自らが参与していくのだということだ。コロナウイルスに感染したものは村八分になり、自粛を守らないものをお上に告げ口し、相互に政府の言いつけを守っているか監視する。「欲しがりません勝つまでは」精神を発揮して、どんな理不尽なことにも進んで我慢して、悪いのは我慢できない自分だと自分を責めたてる。緊縛すればするほど、もっと縛ってくださいと懇願してくる。

変化しないこういう精神的側面も、コロナで変わるのか、それとも、緊急事態条項が常態となって、ずっと自虐の喜びの中に浸り続けるのだろうか。

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2020年4月27日 (月)

新型コロナを考える

新型コロナウイルスの蔓延によって、日本社会は、そして世界は、変容せざるを得ないであろう。私も含めてたぶん人間は、昨日のままに今日も明日も世は続いていくのだろうと何となく考えてすごしてきた。変わるとしても、過去の延長線上に変わるのだろうと考えるので、変化は大したことではないと考える。だが、今回のコロナウイルスの登場で、世界は大きく変わらざるを得ないだろう。コロナウイルスが収束した後で、また元通りの世界が来るのだろうか。とてもそれは信じられない。

今、人間活動が収まっているので、地球環境はとてもきれいだということだ。こんな変化がすでに起きている。コロナウイルスのことで、これを機にどのように考えていけばよいか、識者の言葉を2020年4月21日付の河北新報が掲載していた。私自身大変興味を持った内容だったので、概要を伝える。

批評家の東浩紀氏によると、
・私たちは地球規模のコミュニティーを作ったつもりだったが、それは大変脆弱なものだった。
・不安だから国を頼り強い命令を求める雰囲気があるが、自由を譲り渡すのでなく市民の力で防ぐべき。
・ウイルスは国家が戦う相手出ないし、政治で抑え込めるものではない。
・今回、社会が持っている弱点が明らかになり、事態の収拾後、グローバルコミュニティーに傷を残す。
・グローバリズムは不可欠だが、市民同士の交流が必要。グローバリズムの弱さを知って、身の丈グローバリズムを構築すべき。

医療社会学者の大野更紗氏によると
・コロナウイルスの脅威は、人間を孤立させる大きな力があること。相互不信をあおり、社会的連帯を阻む。
・グローバル社会の仕組み自体がパンデミック(世界的大流行)を速めている。
・パンデミックは、ワクチン開発、治療法の確立、あるいは社会の大部分の人が感染するという惨事によっていつかは収まる。このように出口は確実にあるが、収束に何年かかるかわからない。

こんなふうに、いくつかの言葉が今の社会を言い表していると思うし、こういった言葉を頼りに私も思考していこうと思う。このような「言葉」を掲載してくれる新聞というメディアにも感謝だ。

 

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2020年4月21日 (火)

歌舞伎鑑賞

外出自粛と人の集まりを避けるため、コンサートや舞台公演が軒並み中止となっている。演劇関係者の方の苦悩はいかばかりかと思う。文化的営みが今後も続いていくことを祈る。文学や芸能などは、このような感染症爆発的拡散の緊急事態時には、優先順位が低く考えられようが、しかしこのような分野も深く人間の本性に根差したもので、人が生きるために必要なこと、再び、芸能鑑賞ができる時がやってきてほしいものだし、きっとその時は来る。

国立劇場で行われるはずだった「義経千本桜」の通し狂言も、公演が中止となった。稽古を積まれていた役者さんたちも、準備をしていた関係者の方々もさぞかし残念なことだろう。

緊急事態宣言が発出され、自宅にいる人も多かろうと配慮もあったと思うが、国立劇場の方で、「義経千本桜」の公演の映像を期間限定で、公開してくれている。観客がいない劇場で通しの演目を収録したものだ。歌舞伎は、観客が役者に声をかけたり、その声掛けで、役者の見えが決まったりする。もともとは、弁当やお茶を飲みながら見ていたようなちょっと猥雑した力強さが魅力なのだから、無観客というのは何とも寂しいが、歌舞伎役者さんたちの芸事の凄さは伝わってくる。ぜひ、多くの人に見ていただきたい。

それに歌舞伎というのは、そもそも筋を全部知ってから見た方が、役者の演技の妙やほかの演者や演出の違いに集中できてよい。だから、公開されたこの名高い古典作品を見て筋書きをしておくのもよいと思う。

脚本は江戸時代に書かれたので、荒唐無稽なところや、江戸時代の人々の生活実感にはとても訴えたのだろうけど、現在の観客には果たしてというところもある。しかし、平家の公達が落人となって生きていたというのは、改めて平家滅亡の悲劇を強調するし、やはり幼い安徳帝の入水前の無邪気さや辞世の句には涙が誘われる。

立役の尾上菊之助が見事だ。佐藤忠信を演じ、一方で狐となれば親を慕う無邪気な子狐にしか見えないし、一方で武士を演じれば実直な武士にしか見えない。内面からも醸し出される演技だが、それが見るものが全くいない劇場で行われているとは。

 

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