2017年10月23日 (月)

雑感―中国の話し

(過去の記事の再録です)

かれこれ十数年も前に中国の奥地を一人で旅行したときのことです。

中国の人々とともに,長距離バスにゆられています。外国人はたったひとりわたしだけ。広大な中国ではすぐに目的地になどつきませんから,一日中走り続けたバスは,夕方に砂漠の中にポツンと建つ旅宿にとまり,乗客たちはそこで一夜を明かし,翌朝,再びバスに乗り込み旅路を続けるのです。

外国人などはほとんど利用しないバス路線で,宿もまるで穴蔵の中にもぐりこんでわらのベットに寝るようなかんじの粗末なものでした。そんな体験が当時のわたしにはものめずらしくて,好奇心をいっぱいにして,翌朝も起きだしてきて,回りの中国人の様子を見ておりました。

となりの部屋の中国人はもう起きだして朝の支度をしておりました。私が感心して見ていたのは,この旅慣れた中国人は洗面器を持ち物の1つとして持参しておりましたが,この洗面器に宿の人から水をもらいうけ,そのたった洗面器1杯の水で,朝の用事,すなわち顔を洗い,口をすすぎ,ひげをそりといったことを済ませ,おまけに頭まで洗ってしまったのです。その器用な手つきにも感心したものですが,1杯の水をこれほど大切にいつくしむ態度にはとても考えさせられるところがありました。おそらくこの物慣れた手つきからするに,この人は常日ごろから水をこのように扱って生活をしている,たぶん自然環境の苛酷さから,そうやって暮らさざるをえない人だと察せられました。

よく見ると回りの中国人はたいていそんなふうに1杯の水を用足しに使ったり,飲むために使ったりと,皆,水を貴重なものとして扱っています。わたしたち日本人の生活を振り返ってみると,わたしたちは水を「湯水のごとく」使います。あまりにもふんだんに身の回りにあるため,水の貴重さに思い至らないのです。

ところが中国だって,大昔からずっとこんなふうに自然環境が苛酷で,人が住みにくい場所ではなかったはずです。現在,黄河の中流から上流地帯にかけては,自然がまことに痛々しく荒廃しています。私の目には,自然が完全に失われてしまっているように見えました。しかし,この黄河中流域こそが中原と呼ばれ,あの偉大な黄河文明が発祥し,発展した場所であるのです。

当時,山々は木々におおわれ,緑なす平原が続いていたと思うのですが,人間の文明が進歩するにつれ,自然はすべて丸裸にされてしまったのでしょう。

いわゆる四大文明の発祥地は現在すべて荒涼とした土地になっていて,貧困レベルの生活を人々は強いられているそうです。だとすると,私たちが,歴史の教科書で誇らしげに習う,文明とか進歩といったものは何なのでしょう。文明の進歩とは,すなわち大量の自然破壊ということであり,文明が進歩すればするほど,人々の生活は困窮をきわめていくことになります。

湯水のように水を使う日本人,文明の進歩に酔いしれる日本人に対する,警鐘のように思えました。


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2017年10月22日 (日)

岡本夏木著「子どもとことば」岩波新書

言語学研究の参考書として手に取った。岡本氏もこの本の中で言っているが、完成された言語を研究する言語学ではなく、あえて言葉以前の赤ちゃんがことばを話せるようになっていく過程を研究・観察するというのは独創的だと私も思ったし、第2言語習得や、言語障害に対する対応や教育にと応用ができる重要な研究分野だと思った。実際、本書で述べられている通り岡本氏は、自身も障害児の言語教育に携わったことがある実践家だ。

 

私が一番興味をひかれたのは、岡本氏が言葉の研究家として、そこから得られた経験や知識を基にして、教育への提言をしているところだ。子どもが書く詩や絵は時に大人をドキリとさせるくらい素晴らしい。ピカソは子供のように描けないと言って悔しがった。なぜ、子どもは時にそんなにも素晴らしい創造性を発揮するのか。それは、言葉創成の過程を自ら経験しているからだ。誰でも、言葉の創造の過程を経験しているはずなのに、言葉が一般化して、慣習的な言葉を使うようになるにつれ、創造性は矯められ、言語も絵画も平凡・陳腐に成り下がっていく。岡本氏はそのことを指摘して、そうならないような教育への提言をしている。それは本書を参考にしてほしい。研究と実践との有機的なつながりとして望ましいことだと思うし、幼児の言葉以前の言葉を研究している岡本氏らしい。

 

言葉を発しないのにどうやって幼児の言葉を研究するのだろうか。新書に記されている岡本氏の経歴を見ると京大で氏は哲学を学んでいる。そこで思いあったったのは、ハイデガーやフッサールなどの哲学だ。人と物の関係、社会の中の人間存在、そういう関係性を言葉でつなげていく。言葉を発しない赤ちゃんから原初的に見ていくのがとてもいい研究法だ。氏は西洋哲学を自身の研究に取り入れ独自の手法で研究している。だからと言って、専門用語等は極力使っていないので、読みやすい。

最後に紹介しておきたいのは言語を専門に研究している氏から、言語を職業としている人たちへの手厳しい批判だ。言葉を職業としている人たち、すなわち政治家や官僚の方々のむなしすぎる言葉を批判しているのだ。用事の言葉を研究し、その言葉の創造性に触れている氏には、言葉の虚しさ、白々しさが耐えられないのだろうし、私たちも他人ごとではなく、どうしたら生き生きとした言葉づかいを保てるのか、重い課題だと思う。

私も、愛国保守主義の同志に呼び掛けたいのだが、美しい日本語を守るためにも、これほど空しい言葉を連発し、日本語から言霊を抜き去る安倍首相に批判の声と輪を大きくしていきたい。


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2017年10月21日 (土)

悲しい風景―風景が持つ価値

今日、選挙の期日前投票に行って驚いた。300メートルくらの長蛇の列ができていた。仙台駅前の便利な場所ではあるが、ばかにエレベーターに乗って同じところに向かう人が多いなと思っていたら、みな投票所に向かっていたのだ。もしかしたら、久しぶりに投票率が上がるのだろうか?これはどんな意味があるのだろうか?政権党に動員された業界団体の人なのだろうか?それとも、宗教団体の動員か?安倍さんと自民が勝利するとぼくは思ってはいるが、おかしい安倍さんや自民党と声を上げ続けることが大事で、それがきっとわたしたちの敗北の後でいい形でつながってくるのだと思う。

 

 
(以下は、昔の記事の再録です)
その昔,宮城県大郷町の,農産物生産者と交流する機会を持つことができたことがある。大郷町は,仙台市の北隣に位置し,町名ぐらいは知っているものの,実際に立ち寄ってみたこと事が,それまでなかった。著名な観光地や史跡があるわけでもなく,多くの人にとっては,わざわざ目的地として足を向ける場所ではないというのが本音のところだろう。私も,仙台からは,どれくらいの時間でつけるものやら見当もつかなかったが,車を走らせること3,40分で,豊かな田園地帯の風景が広がり始めたことに,これまでこんなすばらしい場所を訪れる機会のなかった不運を悔いた。自然のままの景観を人工的に作り変えることにあまりに熱心な仙台市から,目と鼻の先ほどの距離に,緑豊かな山々に囲まれた田園都市の往時の景観が心ある人々の努力おかげで,存在していることは奇跡のようにありがたかった。

 

生産者の田で稲刈りをすることで交流を図ったのだが,その圃場の回りの環境もすばらしかった。道路からさらにわき道を登って入っていくような地形になっているので,大型店の出店のような開発がなかなか及ばないようになっている。細い道路はふだん地元の人しか通らないようなところで,行きかう車の姿も音もない。圃場の左右を囲むのは,鬱蒼と茂る見事な雑木林で,まさに貴重な里山の景観であった。

 

この里山が多くの動植物をはぐくみ,田に水や養分をそそいでくれ,われわれに命を恵んでくれているのである。地元の生産者の方に聞くと,見える範囲のあちらこちらの山林は全部この方の家の所有にかかるとの事である。このような数少ない貴重な里山は,個人的な努力によって保持されているのである。ところが逆に言えば,貴重な地球環境が,個人の意志や善意にかかって守られているとは,なんと脆弱なことであろう。

 

この地元の生産者の方は,生協の組合員と交流し,無農薬米作りも実践されて,相当意識の高い方だから,貴重な雑木林を,ゴルフ場やリゾート開発や大規模商業施設に売ったりすることはないだろうが,全国各地では里山がどんどん消えていくのは,里山を所有していても何も経済的利得を生まないからであり,公共工事や開発業者相手に売却すれば,一時的にせよ,それなりの金銭を手中にできるからである。

 

この国には,雑木林や里山のような貴重な空間をただ所有し,ただ保全していることに対する経済的利得が何も保障されていない。もちろん,多くの人が里山の,経済的な価値に換算できない価値に気がついて,関心を里山に寄せるということも大事だろう。だが,そのような精神論も,里山所有に対する固定資産税や相続税の減免,里山売却に対する重加算税的な措置といった経済的な手法により強化されて,持続され実行されていくのである。

 

日本中どこもかしこも,大型商業施設や大型宅地開発といった似たり寄ったりの風景を見る必然性は少しもないのだ。

 
(再録はここまで)

 


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2017年10月17日 (火)

「わかる」とは何か

「わかる」とは何か、は長尾真氏の著作で岩波新書から出版されている。小論文を書くという事情があり、教育関係の書籍を参考にしようと購入したのだが、教育関係の本ではなく、科学技術に関する本だった。だが、私が面白いと思って読み進めたのは、これが2001年に出版されていて核発電についての筆者の見解が書かれていることだ。

 

核発電の事故があった後で振り返って見れば、素人のわれわれにだって、「絶対に事故は起こらない」「日本の技術はソ連なんかと違って優秀だ」とかいう発言が欺瞞であるとわかるし、そういう厚顔な発言をしていた政治家や学者を糾弾することは容易だ。だがそれで我々素人の見識の凄さが証明されたことなんかには絶対にならないのはわかりきったことだ。やはり事故の前に人はどういう発言をしていたのかによって、信念や見識がある優れた人というのはどういう人なのかというのはわかる。工学の専門家であり京大の総長も務めた長尾さんが、2001年に出版された本でどのようなことを述べているのか、私の興味を引いた箇所を引用してみる。

 

・一般の人が専門分野がわからない理由はいろいろあるが、…科学技術が高度に発達し、非常の複雑な内容になってくるにつれて、少し専門が外れただけの科学技術者にとってもその内容を理解するためには大変な努力が必要となってきている。したがって、専門分野のことは難しいとしてわかろうとしないのは無理のない事であり、わかりやすく説明する工夫をして、わかろうとしない人たちにも関心を持たせるように、専門家の方で努力しなければならないという時代になってきている。

 

・やさしく書くということは、科学技術者にとっては実は非常に難しい

 

・原子炉という巨大なシステムにおいては、その内容、取り扱いと故障時の対策などすべて知っている人がいないというところに大問題がある。多くのことを決め、これを操作書、手引書に書いておいても、それぞれ局部的にはよくわかっても、予想を超えた複雑な現象が起こった時にどうすべきかについての総合的な判断が難しい。したがってこのような巨大なシステムについては、専門家だけでなく、すべての従業員、政府関係者、地域住民など、関係者が時間をかけて検討し、疑義があれば、正しいデータに基づいた説明が、みんなが納得するまで行われるべき。

 

・(なぜ巨大プロジェクトはとまらないのか?)巨大資金を投入して研究が進められるので、途中で計画を変更したり、元へ戻してやり直すことが難しい、まして研究を中止することはできない。

 

・巨大で理解することが難しいことでも、その研究の存在価値を判断できる科学技術の理解力を持つことは大切。とくに国会議員など国の科学技術政策に携わる人たちはそういう努力をしなければならない。

 

・予防原則-危険性に関する十分な科学的証拠がない状況で、厳しい立証責任を、従来のように危険を証明する側でなく、安全性を主張する汚染者側に課すという考え。このような考え方は高く評価すべきだし、この方向へ移っていく必要がある。

 

・非線形の式で表される現象―このようなシステムは、予測ができないので…初期条件が同じでも、結果が全く異なるということが起こるので、過去の経験が全く役に立たず類推がきかない。このような非線形の性質をもつものは非常に多く、過去にこうだったから、似た条件のときには似たような結果になると安易に考えると、大きな誤りを犯す危険性がある。

 

・大学における科学技術研究は…個人の創意は保持されながらも、公的資金が使われることに伴う説明責任、研究が社会に対してどのような意味を持つのか、将来社会に対して決定的な害悪を流すことにならないかどうか、ということを配慮して研究を行わなければならない。戦争にかかわる研究、原子爆弾にかかわる可能性のある研究の拒否宣言などはその典型例。

 

・科学技術は非常に複雑であって、簡単に説明できないので、専門家はつい単純化して断言してしまう。その結果、学問の内容が一般社会の人に正しく伝わらず、事故は絶対に起きないと言ったのに起こったではないかと言われ、科学技術は社会の信頼を失う。

 

・あることに対する科学的説明は論理的で、その範囲内においては反論の余地のないものである。しかしそれでも社会の人たちを納得させられないのはなぜか。1つは、論理的、科学的説明と言っても、説明に用いられる推論規則は絶対確実なものではない。99.999%間違いないと言われても、0.001%未満の確率で起こる可能性があるとしたら、それに対する心配がある。原子力発電の建設に対する反対はそういうところから生じていると考えられる。

 

・科学的な説明は論理的なものであり、そのようにして説明されたことは間違いないから、人はそれに従わなければならない、と思われているかもしれない。しかし、論理的な理解の他に身体的レベルにおける理解、心のそこから納得できる状態というものがあって、これは必ずしも論理的なものかどうかわからないが、個人にとってはむしろこの納得の方がはるかに優位にある理解の状態である。客観的心理が絶対的なものでなく、それを超えた理解の状態の大切さということにもっと目を向けるべき時代が来ている。

 

・私たち一般の人間にとっては、「もってまわった理屈を聞かされ、これは科学だから間違いないと自分に言いきかせて納得したつもりになっているが、じつは自分にとっての存在感はそこにない。理屈はつけられないが、自分はこちらにくみする、こちらの方が心にぴったりくる、ということの方が、自分にとっての真実であり、実在なのである」。こういった形の真実をますます大切に思う時代が来るという予感もする。

 

以上が2001年に出版された著作に書いてあることである。どうしたら長尾氏のように曇りなき目で物事を見ることができるのだろうか。1つは、しがらみがなく自由だということが大切なのだろう。私の偏見からつい東大と京大を比較してしまうが、京大は国家の権力から自由であろうとする。しがらみ、権益がないと客観的に物事が見られ、2011年のフクシマ核発電所の事故の前から見通しの持った発言できたのだろう。ついでながら、創造性は自由から生まれるので、京大の方が創造的な研究・学問が行われているような気がする。

 

もちろん、自分のことは棚に置いて長尾氏の誠実さや見通しの確かさに感心しているのだ。私などはいわゆるブレブレの人だから、意見や考えはあっちに行ったりこっちに行ったりする。だから安倍さんのことを批判できたモノじゃないが、自民党の選挙広告を見ていたら安倍さんが自信たっぷりに「皆さんの話を聞かせてください」と語りかけていた。この人は一切人の話を聞かず、この道しかないと言い募り、民主主義の土台を切り崩してきたのに、どうしていまさら人の話を聞くのだろうか。政治家は、君子と同じで、こうも豹変しても、選挙に勝ちさえすればいいし、選挙が終わればまた豹変するし、国民もすぐ忘れるからいいのだろうか。


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2017年10月13日 (金)

核武装

日本の方向を決める衆議院選挙が行われるが、選挙の結果では、日本の核武装ということも論じられてくるだろうから、言論の自由があるうちに、核武装や核抑止戦略について自分の意見を述べておきたい。それで少しでも、自民や希望に投票行動する人が少なくなってほしいと願ってのことでもある。

私は日本の核武装に反対するし、核抑止論にも反対だ。核武装をし、抑止力として働かせるためには、いつでも相手の主要都市をターゲットのおいてやろうと思えば先制攻撃を仕掛けることができるという状態をお互いに作り上げておいて、いわば大量の人々を人質に取ってお互いを踏みとどまらせる心理作戦だ。安倍さんや小池さんが憎んでいるのは中国や韓国・朝鮮だろうから、これからこれらの国をターゲットとする抑止網を作るのの膨大な時間や費用がかかり、日本の国力では賄いきれない、もしやるとしたら国民の生活も命もぎりぎりまで削らないとできないだろう。もちろん、大事なのは国民でなく国家なのだから、リーダーがやろうと思えばこの国ではできてしまうのだろうけど、そのときに国民がいなくなれば守るべき国だってなくなっていると私は思うのだ。

反対理由はそんな単純な理由と、核抑止力の夢み心地の悪い平和のまどろみなんかにまどろみたくないというこちらも単純な理由だ。

こういうと自民や希望の政治的リーダーは、憲法9条なんて役に立たない、書き換えて国防軍創設だというのだろうが、そもそももし9条がなかったとしても、朝鮮共和国が核開発をやめて、日本と中国との間も平和的な状態が作れたのだろうか。朝鮮との間が険悪になったのは、安倍さんが拉致問題にかかわり強硬な発言をし始めてからであるし、中国との軋轢も、中国を心理的に軽蔑する自民党系の政治家がきっかけのように私には思える。おまけに安倍さんや甘利さんはフクシマの核事故の前に、野党議員に津波は大丈夫なのかと質問されて大丈夫だと答えていると私は記憶している。だとしたら、安倍さんこそはこの「国難」を作り出している張本人で、私たちの「平和を」という願いを踏みにじっている方だという気が私にはするのだ。


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2017年10月12日 (木)

自民党勝利の予想

衆議院選挙で自民党が大勝利をするのではないかという予想が報じられた。この報道に接したわけだから書くわけでもないのだが、前原さんが希望に吸い寄せられた時点で、今回は自民党の勝利になるのでは悪い予感がしていた。前原さんが小池さんに誘惑されたのは、もしかしたら、安倍さんの深慮遠謀で、作戦が大成功ということなのではないだろうか。そうだとしたら、安倍さんは歴史に名前を残す大変優れた政治家ということになる。

 

それにしても情けないのは前原さんだ。これを男と女の良くあるドラマに仕立て直してみたら、惚れた女のために、友達を全員裏切り、友達から預かった持ち金まですべて貢いでみたものの、その女は前の旦那とやっぱり切れないでいて、男は捨てられ、女と旦那が元のさやに納まったという話だ。このドラマ中の「男」、普通ならもう終わりだろう。周りの人から見捨てられて。政治の世界では、まだ利用価値があるのかどうか、私は知らないが。

 

総選挙開票の夜、ある男女がこんな会話をしているのを想像する。もちろんこれは実在の事物は一切関係ないということをお断りしておく。

 

シンゾウ君:やあ、ユリコちゃん、ありがとう、君のおかげで、わが党大勝利だよ。

 

 
ユリコちゃん:おめでとう、シンゾウ君。それにしても、こんなにうまくいくとは思わなかったわね。

 

 
シンゾウ君:本当だね。本当にMってやつは馬鹿だね。
 

 

ユリコちゃん:そうね、学歴が高い男って、本当に馬鹿ね。
 

 

シンゾウ君:これで、ぼくが心底嫌っていたミンシンが目の前からいなくなって本当にすっきりしたよ。そして、君も、好きなものを手に入れた。

 

ユリコちゃん:そう、私、キラキラ光るものが大好き。(アニメ・ルパン三世の不二子風に笑う)

 

シンゾウ君:少し、わが党の方にも回してくれないかな。

 

ユリコちゃん:いやよ。ぜんぶくれるって約束したじゃない。それよりも、あちらの方の約束も守ってね。

 

シンゾウ君:わかった、わかった。でもイシバ君のあとになるかもしれないけど。とにかく、ユリコちゃんがわが国初の宰相になる前に、憲法も改正し道ならしをしておくよ。その前に、目障りなリッケンとかキョウサンもやっつけておかないと。まあ、わが党にはナチスのやり方を研究しているアソウ君とかもいるし、放火事件とかでっちあげれば大丈夫だろう。

 

ユリコちゃん:もう、本当に約束を破っちゃだめよ。

 

シンゾウ君:安心して。ぼくがいつ嘘をついた?

 

ユリコちゃん:だから、心配なんじゃない。

 

シンゾウ君:オホン(咳払い)。とにかく、ユリコちゃんは、ぼくのあとで、憲政史上初の女性宰相、そして核の発射ボタンを持つ初めて首相になる。今回のお手柄に対するご褒美だよ。

 

ユリコちゃん:素敵シンゾウ君。(アニメ・ルパン三世の不二子風に抱き着く)


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2017年10月 8日 (日)

選別と排除 純粋日本人の党

いま日本は政治的・社会的に岐路に立っていると思う。民主主義が持続するか終焉するかだけでなく、開かれた繁栄した社会になるか、閉じた衰退した社会になるかという岐路や選択の時だと思う。

 

希望の党の小池さんは、外国人排除の思想の持ち主だ。安倍さんも、中国や韓国・朝鮮が心情的に嫌いという点で排除思想の持ち主だと私には思える。小池さんや安倍さんのような国民に人気があり大きな影響力を持つ人がこの国のリーダーシップをとっているので、排外的・排除的思想に共感・共鳴する人たちも活気づいている。

 

私などは、自分の半径50メートルくらいのところで考えてるだけの、経験論の持ち主であるが、外国人排除には賛成しかねる。今、自動車整備の仕事などは、なかなか日本人の若者はやりたがらない。しかし、資格を取って日本で働こうと苦学してそれでも笑顔で頑張っている外国出身の青年たちがいて、そういう彼らに接している。それに職場の同僚にはとても優秀な語学講師がいる。彼は、何十年と日本に住み税金を納めることで国家に貢献しているが、政治的な決定に参加する権利は与えられていない。今度宮城県知事選があるか、税金をもっと子供の教育や福祉に使うべきか、それともトヨタに使うべきか、女川の核発電を止めるべきか、継続すべきかという選択に加わることもできない。彼自身のためにも、彼の子どものためにも、選択に加わることができないのだ。

 

彼の問題を複雑にしているのは、彼は日系人なので外見は日本人そっくりだということである。カナダ出身なので英語はもちろんとても上手だが、日本語は片言だ。ちょうど、ノーベル文学賞を取ったカズオ・イシグロさんのようなものだ。だから、私が思うに、小池さん、安倍さんの排外選別思想を続けていったら、必ず「純粋な日本人とは何か?」というところに行きつくはずだ。

 

たとえば、江戸時代の朝鮮使節で半島から日本に来て、何かの事情でそのまま日本で暮らした人もいるかもしれない。そしていのちをつないでその子孫が日本のどこかにいるかもしれない。今は科学が進んでDNA鑑定が進んでいるので、「あなたは200年前から日本に住んでいるので、純粋な日本人ではありません。純粋日本人党に入れるのは、日本列島(ただし沖縄と北海道は除く)に3000年以上居住している人に限られます」などという線引きと選別がどこかで必要になり、それを線引きする鑑定委員会が誕生せざるを得なくなるのではないだろうか。

 

こんなことが実現しないよう、馬鹿げた夢想であってほしいが、小池さんや安倍さんの人気ぶりを見ると不安に駆られるのだ。だから、希望の党や自民党に投票するとこんな恐ろしい未来が待っていますよと、少しでも私の不安を分ちあってくれる人を見つけたいのだ。私一人の妄想でない一つの証拠に、今「デストピア小説」なるものが結構上梓され読まれている。この先の暗い日本の将来を予見する小説だ。中村文則氏の「R帝国」を選挙前に読んで、私たちの選択肢を考える際の参考にしよう。


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2017年10月 7日 (土)

ノーベル平和賞

本年のノーベル平和賞が、NGO「核兵器廃絶キャンペーン」に送られた。核兵器を非人道的な兵器だと規定する国際的な枠組みを作り、核兵器の廃絶を目指すその運動にわたしは賛意を表したい。

安倍首相や日本政府、日本をリードする自民党政治の「核兵器」に対する考え方は、このNGOの方向性とは逆だ。こういう頭の中にお花畑が咲いているような方法では問題は解決しないとよく言っている。そして、反対ばかりしてないで対案を出せともよく言う。しかし、彼らのように武力や徴発で相手を脅しつけて核兵器を放棄させようとしても、実際のところうまくいっていないのだから、もしも、核兵器を廃絶しようという気があれば、(なければ別の話だが)、短期的・長期的にいろいろ有効と考えられる方法を組み合わせたらよいと、私は思う。

その最たる方法が、核兵器を非人道的、人倫にもとるものとすることだ。人間社会が存在するように、国際社会も確かに存在する。そして通信技術の発達や人の移動により、国際社会の実在性や身近さは、50年前や10年前と比べて格段と強く感じられるようになっている。そういうコミュニティの中で、核兵器を持ったり使用したりするということは、人間のすることじゃないと強く非難するのだ。人間は社会的な動物なので、仲間や社会から孤立することが一番つらいことだ。非倫理的と規定することは、十分圧力になり、目標達成の具体的な対策にもなると思う。

日本では選挙が近いが、ノーベル平和賞のニュースを見て、自分たちの思いを実現する方法は、「自民党」や「希望の党」に希望を託して、投票することばかりじゃないと思った。自分たちが実現したいことを実現してくれそうで、力を合わせる仲間は、今や国際非政府組織などがあり、国家や政府と対等の力や影響力を持ち始めているのである。自分の少ない持ち分の中から、金を出し、目標の実現に協力するのであれば、今の日本国政府に税金の形では納めたくはないが、願いをかなえてくれそうな国際非政府組織にだったらお金を出すという選択肢も、これからどんどん現実的になってくると思う。

国際非政府組織が世界の世論を作ってしまって、逆に日本政府を孤立させるということだって今後は起こり得るだろう。抑圧的な独裁国家とお友達になり、ちやほやされていい気持ちになっているうちに国際社会から置いてきぼりにされないよう、私たちは国際社会の方にも目を向けていたい。


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2017年10月 5日 (木)

たかが選挙で日本の未来が変わる

現在のお話ではありません。昔作られた動画です。「希望の党」というのができて、差別と排除で日本社会を恐怖に陥れるというSF小説的なお話です。選挙に行かないなんて高をくくっていたら、命にかかわるという、動画の中の主人公の言葉が妙に心に残ります。この動画は、もちろんYou Tubeからは削除されましたが、私はニコニコ動画で見れました。

 

http://www.nicovideo.jp/watch/sm32024165
しかし、「排除と選別」の時代が目近に迫っていて、言論や表現の自由も危ういものです。民主的抵抗により、多くの人が小さく共有すれば、都合の悪いことを権力者が隠そうとしても、隠せなくなるのではないでしょうか。それが民主的社会の底力です。いま民主主義は、内側から窒息しそうになっているものの、一見無関係に見える技術の進展が民主主義を救うのかもしれません。

 

科学技術をうさん臭く思っていた私ですが、理系の学問、科学技術の進展が、世の中の問題解決に重要な役割をするということがわかってきました。自民党の安倍さんが勝っても、小池さんが勝っても、自由で寛容な社会がいいなと思っている、私のようなものには、「前門の虎、後門の狼」ですが、選挙に行って、安倍さんにも、小池さんに投票しない人が増えて多くなってほしいと願っています。


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2017年10月 1日 (日)

選別と排除

「国難」を自ら作り「国難」をあおる安倍さんが日本社会の主導権を握ろうと、「選別と排除」の小池さんが支配権を握ろうと、どのみち自由で民主主義的な社会を望む人たちにとっては、「前門の虎、後門の狼」でよいことは望めそうはない。

私が不安を感じるのは、私のような人は今後「選別され排除される」方のリストに入るのだろうなということ。それは例えば、「日の丸」や「君が代」に起立して敬礼して敬意を示さなかった、というような理由で。「東京五輪」に故なくして反対し熱狂に加わらなかったというような理由で。

言わせてもらえれば、私は自らを「愛国者」だと思っているのだが。美しい国土が、利権のための土木工事で形を変えるのに疑問を感じ、国を愛しているからこそ、五輪よりも核発電所事故の収束に力を結集したほうがよいと思っているし、神社だって大好きだ。

神社に象徴される日本人の宗教観は「ケガレとキヨメ」だ。だからこそ、美しい国土に、放射性物質をまき散らすのが心情的に許せない。科学的根拠を持ち出して、この程度の放射性物質は何ともないというのも許容できない。神社が好きで大切だと思うのであれば、「神社庁」も「日本会議」も、「ケガレ」は許せないと毅然とした態度を取ってほしいものだ。

国政選挙のその後に「選別と排除」の時代が本格的に来るのか、毎日、空襲警報が発令される挙国一致準戦時体制が来るのか、不安を抱える日々だ。


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