2017年11月18日 (土)

TED

聞く価値のある話であれば、分かち合おうではないか、という趣旨のスピーチの発表会(公開プレゼンテーション)がTEDと言われる企画で、アメリカ発祥でその様子はインターネットで気軽に見ることができる。

 

この講演会では様々な人が発表をするのだが、私がこのTEDをいいと思うのは、いろいろな人の話を聞くたびに、世界には問題解決のためにいろいろなアイディアを出して実践している人がいるのだなということに気づき、感心させられたり勇気をもらえることだ。

 

そう、世界にはいろいろな問題があるのである。でもそれで負けてはいけないのである。問題解決のために考え、働き、それで報酬を得て暮らしていくというのが今を生きるということで、世の中の仕事というのは、たとえ商売や金儲けだってすべては「問題解決」なのだと私は思う。問題解決をあきらめ、「この道しかない」としがみつくような国や人が、世界の趨勢からは、カッコ悪い、時代遅れとみなされ、取り残されるし、そうなってほしい。

 

私は、沖縄の海を破壊したり、兵器を日本に売りつけるアメリカは好きではないが、何でもいいことだったらやってみようというこのアメリカらしい精神は好きだし、見習いたい。「前例がないですから」というようなできないことの言い訳は、彼らは考えないのだろう。いいことだと思う。

 

今、世界には様々な問題があるが、そのうちの1つに、「対立・分断」がある。相手の考えを認めず、「死ね」などの否定する言葉を投げかけ、分断・対立をあおる。それをリーダーとなる政治家が率先してやっていて、そういう人が民衆からも支持を受ける。アメリカのトランプさんが代表的な人物だろうし、それにしっぽを振る他国の政治家もそうだろうし、アメリカ社会も分断されているだろうし、その属国的な立場で大きな影響を受けている国もそうだ。

 

そんな中で、「対話・意見交換」というテーマの講演会でスタンフォード大の教授が、立場が違う人に考えを認めさせるために非常に示唆のある心理実験の内容を紹介していた。英語の勉強を兼ねているので、この実験の紹介までしか聞いてなく、その応用までは聞いていないのだが、とにかく実験内容には興味を持った。

 

今アメリカでは保守とリベラル派分断されていて、対話の糸口がない。日本もちょうど似たような状況だ。政治信条が保守の人と、リベラルの人を実験室に呼んできて、環境保護に関する文章を読ませて、読んだ後で、どれくらい環境保護に関する意識が高まり行動に賛成しようとするかを調べた。読ませる文章の内容をいくつかに分けて、どれが人の考えや行動を変えることができるかを探るようにしたのがポイントだ。

 

保守派の人を、環境保護活動に向けて一番説得できた文章は、自然環境の純粋性の危機を説くものだ。つまり外来種の侵入で、固有種が危機に瀕していること、散乱されたごみで自然環境の清潔さや清純さが失われるというものだ。リベラル派には、多様性が失われることを説く文章だ。つまり、この教授の結論は、相手と対話し、自分の考えをわかってもらうには、相手が大事にしている価値観に沿って訴えろ、ということだ。

 

この研究、一歩間違えば、悪魔の研究となり、全体主義国家を作るのにも応用できそうであるが、分断や対立を乗り越え、対話し和解するきっかけにはなる。ちょうど「対話・意見交換」というテーマではノルウエーの元外相も登場していた。ノルウエーは、パレスチナとイスラエルの対話を取り持ち、オスロ合意を取り付けた、国際社会では非常に存在感がある国家だ。国際社会の中で、軍事力だけを笠に着るのは、まさに子供社会のガキ大将のようなものだ。小国でもいいので、自分の持ち味を生かして、国際社会に貢献し、尊敬を受ける国を私は、いいと思う。


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2017年11月16日 (木)

死刑判決と認知症

青酸カリを何人もの男性に飲ませて死亡させたとされる女性被告に、京都地裁の裁判員裁判で、死刑判決が下された。この被告女性が認知症を発症していることから、この死刑判決は大きな問題を含んでいる。

今後、日本社会のますますの高齢化が進展するに伴い、認知症を患う人が増えてくる。その中で高齢者の犯罪の割合も増加している。高齢社会と認知症と責任能力という、社会が直面する問題を象徴的に示している。

また、認知症の人が自らの行動の責任を取り刑罰に服することができるのかという、法律や刑事裁判や裁判全般の問題ともかかわりは大きい。

この問題を扱った河北新報11月8日付の記事から、問題点を要約してみる。

・今回の死刑判決が導かれるまで

…被告女性の訴訟能力については、検察が「ある」と主張し、精神鑑定した医師を証人申請。弁護側は「ない」と主張。判決は鑑定を認め、事件当時の完全責任能力をあるとして判決。認知症は事件後に発症し、初公判以降の言動から訴訟能力があると判断した。

・他の例

…最高裁では、二人の殺人罪に問われた男性被告に対し、認知症により、公判を打ち切る「控訴棄却」を言い渡した。

・高齢化と犯罪の現状

…2025年には認知症患者が全国で700万人になるという推計がある。高齢者の5人に一人の割合。法務省によると、2015年の刑法犯摘発人数の19,9%は65歳以上の高齢者。この2つのデータを合わせると、長引く裁判では途中で認知症を発症させたり悪化させたりするケースが増加すると、予測される。

・裁判員裁判の問題点

…慶応大の村松准教授によると、「裁判員へのわかりやすさが重視され、審理時間の短縮や説明の簡略を求めることが多い。これでは誰のための裁判かわからない。医学的な検査で認知機能が認められることと、責任能力や訴訟能力があることは同じでないので、そうした共通理解をもったうえで、司法と医学が共同して議論する必要がある」

※今回の記事の私の感想

…死刑制度を支持する理由の一つに「応報思想」がある。つまり、被害者が味わった死の直前の恐怖を、被告にも味わせるということだ。しかし、被告が認知症となり、自分がしたことも、自分がいま置かれている状況も、死刑が今日にも執行されるかもしれないという恐怖を理解できないとしたら、死刑を支持する根拠の一つは、揺らいでしまうのではないだろうか。


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2017年11月12日 (日)

科学レベルの低下

2017年11月6日付の河北新報に、国立天文台名誉教授の海部氏の時評が掲載された。科学レベルの低下に歯止めが必要だという主張であったが、興味深い内容であったので要旨をまとめてみる。

科学レベルの低下の論拠となるのが、科学誌「ネイチャー」の日本の科学は世界の一流から落ちこぼれつつあるという記事だ。その他、世界の科学会で評価が上位10%に入る論文数の国ごとのシェアの低下もその事実を示しているという。2000年ごろを境に順位が2位から5位になり、もうすぐ韓国にも追い抜かれるということだ。

海部氏が指摘する原因は1.日本政府の国内総生産に占める大学への出費がOECDの先進35カ国中で最低レベルである。2.大学の貧困化がさらに進んでいる。

すでに最低レベルだった大学予算に追い打ちをかけたのは1990年代からは始まった大学改革という名の「予算削減」。2004年の国立大学法人化で、大学は画一的な評価の下、乏しい予算を奪い合い、自由な研究を進める雰囲気でなくなった。大学予算が削られ、研究の評価は政府が決めるので、研究者は「役に立つ」研究に誘導され、研究テーマが近視眼的になっていく。

人件費削減で若い研究者が雇えず、研究者の平均年齢が上昇。若手研究者は2~3年の不安定なポストを転々として定職に付けないので、研究を目指す若者は減っている。

こうした事態は先進国では日本だけで、科学のレベル低下は当然で、今後もさらに進むと海部氏は言う。

さて、ここまで私は記事を読んできて、結局、この国の形や方向を決めるのは私たち国民なのだから、海部氏が指摘するような事態は、私たちが望んだこと、臨んだ結果なのだと思った。海部氏のような心ある人が心配する未来の事態は、私たちがこのまま現首相や自民党を支持し続ける限り、かなりの高い確率でやってくる。

あわせて先週の国辱的な1週間も思いだした。トランプ氏の娘さんに、その事業がどんな山のものとも海のものとも知れないのに57億円も気前よくプレゼントする。いや貢物なかもしれない。

トランプ氏は治外法権の横田基地に降り立ち、日本が敗戦国で米国の属国であることを思い知らされる。国の独立を維持するには、いろいろな要素が必要だろうが、1つには科学技術の振興ということもあるだろうと思う。


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2017年11月 5日 (日)

薩長史観の正体

東北の地方紙『河北新報』では、東北の出版社で出版された本や東北にゆかりのある本の紹介や書評も掲載している。それが、全国紙では得られない地方紙を読む楽しみの一つである。

 

10月8日の紙面に武田鏡村氏の「薩長史観の正体」という本の紹介があり、私は興味深かった。

 

概要はこうだ。「薩長による明治維新で近代化の道が開かれたが果たしてそうか。実際は謀略、殺りくによる暴力革命であり、勝てば官軍の言葉通り、勝者の都合で歴史を偽装したもの」というものだ。

 

神と崇め奉られる吉田松陰については、思い込みの激しい人物で、その思い込みの激しさにより弟子たちは維新の内乱で外国人殺害や政敵の暗殺を繰り返すも、明治の元勲となった弟子たちは師匠の松陰を英雄に仕立て上げ、自分たちの行動を隠蔽した。

 

松陰や薩長は「尊皇」を主張するも、実際は天皇を拉致しようとしたことがあり、そのことについては口をつぐんでいる。「攘夷」を唱えるも英仏両国の軍事力を見せられると「開国」へと素早く転換。討幕の口実だった「攘夷」は何の説明もなくいったん引っ込められるも、排外主義思想は軍国主義教育の中に生き続け、太平洋戦争を招いた。そして、大陸への侵略戦争を正当化する薩長史観は平成の現在まで続いている、というものだ。

 

薩長に痛めつけられた記憶が残る東北人は、同じく薩長政府に痛めつけられている琉球政府や沖縄の人たちとともに、薩長政府の系譜である現政府に対して厳しい姿勢を示してもいいのではと思う。ただ問題は、その薩長系譜の政府に対して「どうかお願いします。この地に核発電所を作って下さい」と乞うようになってしまったことだ。自立するには経済の問題というのはとても大きいことだ。このままでは、「どうかお願いします。核のゴミはこの地に捨ててください」と薩長政府にお願いすることにもなりかねない。

 

安倍首相が山口県を地盤選挙区としていて、岸首相の孫だというのは、象徴以上の大きな意味がある。排外主義や、戦前の支配体制へのこだわりにはやはり文脈から言って意味があると言われれば納得する。

 

そんなことを思っていたら、11月5日の書評欄では、「アベノミクスによろしく」という本が紹介されていて、安倍首相になってからGDPの算出方法が変わり、いかにも民進党政権時代から比べて経済が好調になるように見せかけていたという内容だった。ナチスのやり方を学ぶであれば、こういう経済がいかにも好転しているように見せかけ、同じことを何度も繰り返して言っているうちに、本当らしく思えてくるという心理を利用すれば、大衆からの支持は大きく得られる。安倍首相は政治家としては素晴らしい力量を持った人だ。


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2017年10月29日 (日)

あなたは日本の死刑制度に賛成?反対?

日本は「死刑制度」を維持している国だ。他国では死刑を廃止しているところもある。私は、今まで「賛成」してきたが、「反対」の方に意見を変えた。

人間というのは、他者に感情移入できる、してしまう生き物だ。これまで日本では、犯罪被害者の痛みや苦しみが報道されてきて、私もそれに影響されて死刑制度の維持はやむをえないと思ってきた。そして、マスコミ報道は世論を後押しして、これまで無視されてきた犯罪被害者の刑事裁判への参加など、法律上に望ましい改善がされてきた。

今、私が死刑制度にたいして意見を変えるきっかけになったのは、安倍政権になって強まる、強権的で法律を無視した非民主性や共謀罪の成立などから、自分を被害者や遺族の立場で想像することよりも、死刑判決を受ける当事者として想像することが多くなったからだ。日本社会も、異論や少数意見を認めなくなっているので、思想犯として死刑、というのも笑い事ではないと思うようになった。そしてなんといっても日本警察の自白中心主義の取り調べと冤罪の多さだ。自分がやってもいないことを「やりました」なんてどうしていうのだろうと思うかもしれないが、警察の取り調べの状況では誰しも「やりました」と簡単に言ってしまう。そして、共謀罪のせいで、今警察はインターネット監視も各段に強めていて、管理者のいない自由で民主的な空間として始まった、この電脳空間も冤罪の温床になりかねない。

死刑についての考えを変えたきっかけの一つは、仕事でこの英文を読んだこともある。オックスフォードを卒業してエリートサラリーマンだった筆者があるきっかけから犯罪関係の政府部門に勤めることになる。詳しいことは省略するし、私ももっと詳しく彼の著作など読んでみたいと思うが、以下に上げることはすべて正しくないと彼は言っている。これはイギリスに当てはまるけど、日本には当てはまらないかもしれない。しかし、彼は一般の人の目に触れないような政府関係の文書を読むことができる立場で、この結論を言っているとのことだ。

・犯罪率は上がっている。
・犯罪者はどんなことをするし、止めることはできない。
・貧困が犯罪の真の原因だ。
・移民が犯罪率を上げている。
・遺伝により犯罪者になる。
・犯罪者の悪い性格は決して治らない。
・犯罪を減らすために大胆な改革が必要だ。
・犯罪を減らすのにもっと警察官が必要だ。

この前の選挙の結果から20代、30代の自民党支持が高いという調査結果が出た。「中国・韓国が日本の固有領土を侵犯している」「中国・韓国が歴史をねつ造し日本にいちゃもんを付けている」「在日外国人はいわれもなく日本にいて、犯罪率を上げている」「いわれもなく外国が軍事的に日本を威嚇しているので、対抗する必要がある」という彼らの心情を安倍さんや自民党が一番よくすくい取ってくれるのだと思う。そこが社会科学の出番だと思う。そういう神話は果たして科学的に正しいのか。そこを解きほぐしていかないと、無辜の人が死刑台に上るような社会というのも、あながち妄想でなくなってしまうと思う。


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2017年10月23日 (月)

雑感―中国の話し

(過去の記事の再録です)

かれこれ十数年も前に中国の奥地を一人で旅行したときのことです。

中国の人々とともに,長距離バスにゆられています。外国人はたったひとりわたしだけ。広大な中国ではすぐに目的地になどつきませんから,一日中走り続けたバスは,夕方に砂漠の中にポツンと建つ旅宿にとまり,乗客たちはそこで一夜を明かし,翌朝,再びバスに乗り込み旅路を続けるのです。

外国人などはほとんど利用しないバス路線で,宿もまるで穴蔵の中にもぐりこんでわらのベットに寝るようなかんじの粗末なものでした。そんな体験が当時のわたしにはものめずらしくて,好奇心をいっぱいにして,翌朝も起きだしてきて,回りの中国人の様子を見ておりました。

となりの部屋の中国人はもう起きだして朝の支度をしておりました。私が感心して見ていたのは,この旅慣れた中国人は洗面器を持ち物の1つとして持参しておりましたが,この洗面器に宿の人から水をもらいうけ,そのたった洗面器1杯の水で,朝の用事,すなわち顔を洗い,口をすすぎ,ひげをそりといったことを済ませ,おまけに頭まで洗ってしまったのです。その器用な手つきにも感心したものですが,1杯の水をこれほど大切にいつくしむ態度にはとても考えさせられるところがありました。おそらくこの物慣れた手つきからするに,この人は常日ごろから水をこのように扱って生活をしている,たぶん自然環境の苛酷さから,そうやって暮らさざるをえない人だと察せられました。

よく見ると回りの中国人はたいていそんなふうに1杯の水を用足しに使ったり,飲むために使ったりと,皆,水を貴重なものとして扱っています。わたしたち日本人の生活を振り返ってみると,わたしたちは水を「湯水のごとく」使います。あまりにもふんだんに身の回りにあるため,水の貴重さに思い至らないのです。

ところが中国だって,大昔からずっとこんなふうに自然環境が苛酷で,人が住みにくい場所ではなかったはずです。現在,黄河の中流から上流地帯にかけては,自然がまことに痛々しく荒廃しています。私の目には,自然が完全に失われてしまっているように見えました。しかし,この黄河中流域こそが中原と呼ばれ,あの偉大な黄河文明が発祥し,発展した場所であるのです。

当時,山々は木々におおわれ,緑なす平原が続いていたと思うのですが,人間の文明が進歩するにつれ,自然はすべて丸裸にされてしまったのでしょう。

いわゆる四大文明の発祥地は現在すべて荒涼とした土地になっていて,貧困レベルの生活を人々は強いられているそうです。だとすると,私たちが,歴史の教科書で誇らしげに習う,文明とか進歩といったものは何なのでしょう。文明の進歩とは,すなわち大量の自然破壊ということであり,文明が進歩すればするほど,人々の生活は困窮をきわめていくことになります。

湯水のように水を使う日本人,文明の進歩に酔いしれる日本人に対する,警鐘のように思えました。


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2017年10月22日 (日)

岡本夏木著「子どもとことば」岩波新書

言語学研究の参考書として手に取った。岡本氏もこの本の中で言っているが、完成された言語を研究する言語学ではなく、あえて言葉以前の赤ちゃんがことばを話せるようになっていく過程を研究・観察するというのは独創的だと私も思ったし、第2言語習得や、言語障害に対する対応や教育にと応用ができる重要な研究分野だと思った。実際、本書で述べられている通り岡本氏は、自身も障害児の言語教育に携わったことがある実践家だ。

 

私が一番興味をひかれたのは、岡本氏が言葉の研究家として、そこから得られた経験や知識を基にして、教育への提言をしているところだ。子どもが書く詩や絵は時に大人をドキリとさせるくらい素晴らしい。ピカソは子供のように描けないと言って悔しがった。なぜ、子どもは時にそんなにも素晴らしい創造性を発揮するのか。それは、言葉創成の過程を自ら経験しているからだ。誰でも、言葉の創造の過程を経験しているはずなのに、言葉が一般化して、慣習的な言葉を使うようになるにつれ、創造性は矯められ、言語も絵画も平凡・陳腐に成り下がっていく。岡本氏はそのことを指摘して、そうならないような教育への提言をしている。それは本書を参考にしてほしい。研究と実践との有機的なつながりとして望ましいことだと思うし、幼児の言葉以前の言葉を研究している岡本氏らしい。

 

言葉を発しないのにどうやって幼児の言葉を研究するのだろうか。新書に記されている岡本氏の経歴を見ると京大で氏は哲学を学んでいる。そこで思いあったったのは、ハイデガーやフッサールなどの哲学だ。人と物の関係、社会の中の人間存在、そういう関係性を言葉でつなげていく。言葉を発しない赤ちゃんから原初的に見ていくのがとてもいい研究法だ。氏は西洋哲学を自身の研究に取り入れ独自の手法で研究している。だからと言って、専門用語等は極力使っていないので、読みやすい。

最後に紹介しておきたいのは言語を専門に研究している氏から、言語を職業としている人たちへの手厳しい批判だ。言葉を職業としている人たち、すなわち政治家や官僚の方々のむなしすぎる言葉を批判しているのだ。用事の言葉を研究し、その言葉の創造性に触れている氏には、言葉の虚しさ、白々しさが耐えられないのだろうし、私たちも他人ごとではなく、どうしたら生き生きとした言葉づかいを保てるのか、重い課題だと思う。

私も、愛国保守主義の同志に呼び掛けたいのだが、美しい日本語を守るためにも、これほど空しい言葉を連発し、日本語から言霊を抜き去る安倍首相に批判の声と輪を大きくしていきたい。


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2017年10月21日 (土)

悲しい風景―風景が持つ価値

今日、選挙の期日前投票に行って驚いた。300メートルくらの長蛇の列ができていた。仙台駅前の便利な場所ではあるが、ばかにエレベーターに乗って同じところに向かう人が多いなと思っていたら、みな投票所に向かっていたのだ。もしかしたら、久しぶりに投票率が上がるのだろうか?これはどんな意味があるのだろうか?政権党に動員された業界団体の人なのだろうか?それとも、宗教団体の動員か?安倍さんと自民が勝利するとぼくは思ってはいるが、おかしい安倍さんや自民党と声を上げ続けることが大事で、それがきっとわたしたちの敗北の後でいい形でつながってくるのだと思う。

 

 
(以下は、昔の記事の再録です)
その昔,宮城県大郷町の,農産物生産者と交流する機会を持つことができたことがある。大郷町は,仙台市の北隣に位置し,町名ぐらいは知っているものの,実際に立ち寄ってみたこと事が,それまでなかった。著名な観光地や史跡があるわけでもなく,多くの人にとっては,わざわざ目的地として足を向ける場所ではないというのが本音のところだろう。私も,仙台からは,どれくらいの時間でつけるものやら見当もつかなかったが,車を走らせること3,40分で,豊かな田園地帯の風景が広がり始めたことに,これまでこんなすばらしい場所を訪れる機会のなかった不運を悔いた。自然のままの景観を人工的に作り変えることにあまりに熱心な仙台市から,目と鼻の先ほどの距離に,緑豊かな山々に囲まれた田園都市の往時の景観が心ある人々の努力おかげで,存在していることは奇跡のようにありがたかった。

 

生産者の田で稲刈りをすることで交流を図ったのだが,その圃場の回りの環境もすばらしかった。道路からさらにわき道を登って入っていくような地形になっているので,大型店の出店のような開発がなかなか及ばないようになっている。細い道路はふだん地元の人しか通らないようなところで,行きかう車の姿も音もない。圃場の左右を囲むのは,鬱蒼と茂る見事な雑木林で,まさに貴重な里山の景観であった。

 

この里山が多くの動植物をはぐくみ,田に水や養分をそそいでくれ,われわれに命を恵んでくれているのである。地元の生産者の方に聞くと,見える範囲のあちらこちらの山林は全部この方の家の所有にかかるとの事である。このような数少ない貴重な里山は,個人的な努力によって保持されているのである。ところが逆に言えば,貴重な地球環境が,個人の意志や善意にかかって守られているとは,なんと脆弱なことであろう。

 

この地元の生産者の方は,生協の組合員と交流し,無農薬米作りも実践されて,相当意識の高い方だから,貴重な雑木林を,ゴルフ場やリゾート開発や大規模商業施設に売ったりすることはないだろうが,全国各地では里山がどんどん消えていくのは,里山を所有していても何も経済的利得を生まないからであり,公共工事や開発業者相手に売却すれば,一時的にせよ,それなりの金銭を手中にできるからである。

 

この国には,雑木林や里山のような貴重な空間をただ所有し,ただ保全していることに対する経済的利得が何も保障されていない。もちろん,多くの人が里山の,経済的な価値に換算できない価値に気がついて,関心を里山に寄せるということも大事だろう。だが,そのような精神論も,里山所有に対する固定資産税や相続税の減免,里山売却に対する重加算税的な措置といった経済的な手法により強化されて,持続され実行されていくのである。

 

日本中どこもかしこも,大型商業施設や大型宅地開発といった似たり寄ったりの風景を見る必然性は少しもないのだ。

 
(再録はここまで)

 


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2017年10月17日 (火)

「わかる」とは何か

「わかる」とは何か、は長尾真氏の著作で岩波新書から出版されている。小論文を書くという事情があり、教育関係の書籍を参考にしようと購入したのだが、教育関係の本ではなく、科学技術に関する本だった。だが、私が面白いと思って読み進めたのは、これが2001年に出版されていて核発電についての筆者の見解が書かれていることだ。

 

核発電の事故があった後で振り返って見れば、素人のわれわれにだって、「絶対に事故は起こらない」「日本の技術はソ連なんかと違って優秀だ」とかいう発言が欺瞞であるとわかるし、そういう厚顔な発言をしていた政治家や学者を糾弾することは容易だ。だがそれで我々素人の見識の凄さが証明されたことなんかには絶対にならないのはわかりきったことだ。やはり事故の前に人はどういう発言をしていたのかによって、信念や見識がある優れた人というのはどういう人なのかというのはわかる。工学の専門家であり京大の総長も務めた長尾さんが、2001年に出版された本でどのようなことを述べているのか、私の興味を引いた箇所を引用してみる。

 

・一般の人が専門分野がわからない理由はいろいろあるが、…科学技術が高度に発達し、非常の複雑な内容になってくるにつれて、少し専門が外れただけの科学技術者にとってもその内容を理解するためには大変な努力が必要となってきている。したがって、専門分野のことは難しいとしてわかろうとしないのは無理のない事であり、わかりやすく説明する工夫をして、わかろうとしない人たちにも関心を持たせるように、専門家の方で努力しなければならないという時代になってきている。

 

・やさしく書くということは、科学技術者にとっては実は非常に難しい

 

・原子炉という巨大なシステムにおいては、その内容、取り扱いと故障時の対策などすべて知っている人がいないというところに大問題がある。多くのことを決め、これを操作書、手引書に書いておいても、それぞれ局部的にはよくわかっても、予想を超えた複雑な現象が起こった時にどうすべきかについての総合的な判断が難しい。したがってこのような巨大なシステムについては、専門家だけでなく、すべての従業員、政府関係者、地域住民など、関係者が時間をかけて検討し、疑義があれば、正しいデータに基づいた説明が、みんなが納得するまで行われるべき。

 

・(なぜ巨大プロジェクトはとまらないのか?)巨大資金を投入して研究が進められるので、途中で計画を変更したり、元へ戻してやり直すことが難しい、まして研究を中止することはできない。

 

・巨大で理解することが難しいことでも、その研究の存在価値を判断できる科学技術の理解力を持つことは大切。とくに国会議員など国の科学技術政策に携わる人たちはそういう努力をしなければならない。

 

・予防原則-危険性に関する十分な科学的証拠がない状況で、厳しい立証責任を、従来のように危険を証明する側でなく、安全性を主張する汚染者側に課すという考え。このような考え方は高く評価すべきだし、この方向へ移っていく必要がある。

 

・非線形の式で表される現象―このようなシステムは、予測ができないので…初期条件が同じでも、結果が全く異なるということが起こるので、過去の経験が全く役に立たず類推がきかない。このような非線形の性質をもつものは非常に多く、過去にこうだったから、似た条件のときには似たような結果になると安易に考えると、大きな誤りを犯す危険性がある。

 

・大学における科学技術研究は…個人の創意は保持されながらも、公的資金が使われることに伴う説明責任、研究が社会に対してどのような意味を持つのか、将来社会に対して決定的な害悪を流すことにならないかどうか、ということを配慮して研究を行わなければならない。戦争にかかわる研究、原子爆弾にかかわる可能性のある研究の拒否宣言などはその典型例。

 

・科学技術は非常に複雑であって、簡単に説明できないので、専門家はつい単純化して断言してしまう。その結果、学問の内容が一般社会の人に正しく伝わらず、事故は絶対に起きないと言ったのに起こったではないかと言われ、科学技術は社会の信頼を失う。

 

・あることに対する科学的説明は論理的で、その範囲内においては反論の余地のないものである。しかしそれでも社会の人たちを納得させられないのはなぜか。1つは、論理的、科学的説明と言っても、説明に用いられる推論規則は絶対確実なものではない。99.999%間違いないと言われても、0.001%未満の確率で起こる可能性があるとしたら、それに対する心配がある。原子力発電の建設に対する反対はそういうところから生じていると考えられる。

 

・科学的な説明は論理的なものであり、そのようにして説明されたことは間違いないから、人はそれに従わなければならない、と思われているかもしれない。しかし、論理的な理解の他に身体的レベルにおける理解、心のそこから納得できる状態というものがあって、これは必ずしも論理的なものかどうかわからないが、個人にとってはむしろこの納得の方がはるかに優位にある理解の状態である。客観的心理が絶対的なものでなく、それを超えた理解の状態の大切さということにもっと目を向けるべき時代が来ている。

 

・私たち一般の人間にとっては、「もってまわった理屈を聞かされ、これは科学だから間違いないと自分に言いきかせて納得したつもりになっているが、じつは自分にとっての存在感はそこにない。理屈はつけられないが、自分はこちらにくみする、こちらの方が心にぴったりくる、ということの方が、自分にとっての真実であり、実在なのである」。こういった形の真実をますます大切に思う時代が来るという予感もする。

 

以上が2001年に出版された著作に書いてあることである。どうしたら長尾氏のように曇りなき目で物事を見ることができるのだろうか。1つは、しがらみがなく自由だということが大切なのだろう。私の偏見からつい東大と京大を比較してしまうが、京大は国家の権力から自由であろうとする。しがらみ、権益がないと客観的に物事が見られ、2011年のフクシマ核発電所の事故の前から見通しの持った発言できたのだろう。ついでながら、創造性は自由から生まれるので、京大の方が創造的な研究・学問が行われているような気がする。

 

もちろん、自分のことは棚に置いて長尾氏の誠実さや見通しの確かさに感心しているのだ。私などはいわゆるブレブレの人だから、意見や考えはあっちに行ったりこっちに行ったりする。だから安倍さんのことを批判できたモノじゃないが、自民党の選挙広告を見ていたら安倍さんが自信たっぷりに「皆さんの話を聞かせてください」と語りかけていた。この人は一切人の話を聞かず、この道しかないと言い募り、民主主義の土台を切り崩してきたのに、どうしていまさら人の話を聞くのだろうか。政治家は、君子と同じで、こうも豹変しても、選挙に勝ちさえすればいいし、選挙が終わればまた豹変するし、国民もすぐ忘れるからいいのだろうか。


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2017年10月13日 (金)

核武装

日本の方向を決める衆議院選挙が行われるが、選挙の結果では、日本の核武装ということも論じられてくるだろうから、言論の自由があるうちに、核武装や核抑止戦略について自分の意見を述べておきたい。それで少しでも、自民や希望に投票行動する人が少なくなってほしいと願ってのことでもある。

私は日本の核武装に反対するし、核抑止論にも反対だ。核武装をし、抑止力として働かせるためには、いつでも相手の主要都市をターゲットのおいてやろうと思えば先制攻撃を仕掛けることができるという状態をお互いに作り上げておいて、いわば大量の人々を人質に取ってお互いを踏みとどまらせる心理作戦だ。安倍さんや小池さんが憎んでいるのは中国や韓国・朝鮮だろうから、これからこれらの国をターゲットとする抑止網を作るのの膨大な時間や費用がかかり、日本の国力では賄いきれない、もしやるとしたら国民の生活も命もぎりぎりまで削らないとできないだろう。もちろん、大事なのは国民でなく国家なのだから、リーダーがやろうと思えばこの国ではできてしまうのだろうけど、そのときに国民がいなくなれば守るべき国だってなくなっていると私は思うのだ。

反対理由はそんな単純な理由と、核抑止力の夢み心地の悪い平和のまどろみなんかにまどろみたくないというこちらも単純な理由だ。

こういうと自民や希望の政治的リーダーは、憲法9条なんて役に立たない、書き換えて国防軍創設だというのだろうが、そもそももし9条がなかったとしても、朝鮮共和国が核開発をやめて、日本と中国との間も平和的な状態が作れたのだろうか。朝鮮との間が険悪になったのは、安倍さんが拉致問題にかかわり強硬な発言をし始めてからであるし、中国との軋轢も、中国を心理的に軽蔑する自民党系の政治家がきっかけのように私には思える。おまけに安倍さんや甘利さんはフクシマの核事故の前に、野党議員に津波は大丈夫なのかと質問されて大丈夫だと答えていると私は記憶している。だとしたら、安倍さんこそはこの「国難」を作り出している張本人で、私たちの「平和を」という願いを踏みにじっている方だという気が私にはするのだ。


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