2018年1月23日 (火)

地方都市の印象

(過去の記事の再録です)

 

地方都市の衰退は目に余るものがある。衰退や窮状を口実に,これまで政治と土建業が手を組んで地方都市に金が流れるしくみを作り出してきたが,その仕組み,つまり公共工事はいったい今までなんの役に立ったのだろうか。進行中の病に対し,根本的な治療行為を施さず,一時的な痛み止めを打ち続け,もしくは,あなたは決して病気ではないと,耳元で甘言をささやき続けた挙句に,病が治癒不能にまで進行してしまったようなものだ。確かに全国どこに行っても道路は立派に整備された。しかし,そのこと自体,長い目で見て,地方都市に恩恵をもたらしたかというと,決してそうでない。むしろまったく逆で,地方都市の衰退を加速させている。立派な道路のおかげで,人はいとも簡単にふるさとを捨て,その立派な道路が輻輳する大都市にますます集まる。地方都市に,安定した収入を得ることができた人,もしくは逆に,まったくの低収入で身動きの取れない人や,捨てられないしがらみを持つ人だけが地方都市に残る。そういった人たちの日常行動でさえ,わが町の伝統的・中心的な商店街では買い物をしないで,道路を利用して郊外へ,郊外へと移動していき,今は,どこの地方都市へ行っても郊外に立派な商業施設が集中している。その結果,どの地方都市へ行っても,駅前には廃墟のビルが立ち並び,中心地の商店街は櫛の歯の抜け落ちたように閉店した店が目立ち,道行く人もない。こんな風景がどこの地方都市にも繰り返されているのだ。この場所に育つ子供たちや,他所から訪れる旅人にいかなる心象を与えるだろう。

どこの地方都市も同じような都市計画である時一斉に駅前開発でビルを建てたり,工業団地造成で工場を誘致したりする。時代の風向きがちょっと変わったときに,一斉にそれらは見捨てられたちまちに廃墟となる。つぎ込まれた金が巨額になればなるほど,開発や建物の規模が大きくなればなるほど,残された空間のみじめさは増大する。後世の者の心をすさませ,かつ膨大な量の産業廃棄物の処理を押し付ける負の遺産となる。現在,この世の春を謳歌している郊外型の商業施設すら,いつ何時,時代の流れが変わってみじめに打ち捨てられ,手の施しようのない夢の跡になりはてないとは限らないのだ。そんなときのために,投資は小口で最小にし,建物も小さくするべきなのだ。そうすれば小回りがきき,使い回しがきき,時代の流れが変わったとき,一斉に共倒れになってしまう可能性を少しでも減らすことができるのだ。地方都市が,どこもかしこも大都市なみに競い合って巨大な施設を作り出すことはなかろう。これらは時代の風潮が少しでも変わってしまえば,たちまち手のつけられない産業廃棄物となる。この時代,誰が喜んで景観を損ね,環境に害悪をもたらし,人間を含めた全生物の命を脅かす産業廃棄物の巨大な集積を受け入れるだろう。小回りが利く小さな設備とは,時代の流れが変わっても,その変化に合わせて自らの姿を少しずつ変化させて対応できる設備ということだ。そのような設備であるためには,小さくて,組み立てや仕切りが自在にきき,素材は天然のものを多く用いてあるもの,つまり,従来の伝統的な日本建築のようなものが大いに参照になるだろう。

投資をして巨費をかけるのであれば,その投資が先々どんな意義を持つのか長い目で考えなければならないが,広い視野から遠い将来を慮るということを地方の責任ある地位にある指導者達はしてこなかったのではないか。だから,いま地方都市は一斉にその輝きを失っているのではないか。

 


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2018年1月16日 (火)

命のビザ

杉原千畝さんは、戦前の日本の外交官で、日本本国の政府の命令に反して、ユダヤ人にビザを発給した人。安倍首相の政治信条や政治姿勢とはちょうど正反対の人なのだから、「誇るべき日本人」と言って持ち上げて、都合よく政治利用することについては、私は疑問に思う。戦前、日本はドイツと同盟国だった。ドイツやポーランドから逃れてきたユダヤ人にビザを出すことは、同盟国に配慮した日本政府が杉原さんに禁じた。しかし、本省の意向を忖度せずに、命令を無視してビザを発給したのは、人道こそが重要だと杉原さんが考えたからだ。

 

時の政府や権力者や強大国は変わるだろうけど、変わらないのは「人の道」だ。権力者や強者におもねらず、人道を優先する杉原さんの姿勢に私は共感するが、安倍さんは何に共感しているのだろうか。もっとも、安倍さんは人殺しの道具である武器を輸出することに熱心であるから、杉原さんを称揚することが、イスラエルとの関係強化に役立つという思惑で、杉原さんを称揚しているのであれば、やはり優れた政治感覚の持ち主であると感嘆せざるを得ない。

 

安倍さんが本当に人道主義に共感しているのであれば、ぜひ宮城県も訪れてほしい。布施辰治さんという人道派の弁護士がいた。朝鮮半島出身の人たちの弁護もたくさんした。正しい人の道からという信念だった。

雑感―アメリカに…

(過去の記事の再録です)

アメリカに太平洋戦争で完膚なきまでに叩きのめされたわけだが、本当の戦争はまだ終わっていない。これから始まるのだ。しかし、今度の戦争は、人間がいかに残虐になれるかを競う戦争ではない。いかに人類の理想の暮らしを示すことができるのかを競うのである。

2018年1月14日 (日)

平和ボケって何だろう

日本国憲法は、現状のままでいいじゃないか、特に9条は変える必要がないと、私は思っているのだが、私のような考えは、ツイッターなどの安倍首相の支持者の発言を見ると「平和ボケ」なのだそうだ。ツイッターなどSNSは、みな無責任に匿名で発言しているのだから、気にする必要もないし、世間の動向に影響しない、と思う人もいるかもしれないが、実は違う。少なくとも、世界ではSNSを使って、政治的成果を収めているのだ。日本では、まだそれが暴露されていなかったり、多くの人が知らなかったりするだけなのかもしれないのだ。

ロシアでは、政権の指示で、人が雇われフェイスブックなどに、ウクライナの悪口や、ヒラリークリントンに不利になること、イギリスがEUから離脱するのを促すような発言を大量に発信させ、そしてこの一種の情報戦に勝利している。私も安倍さんや支配政権の生の声や本音を聞きたいと思い、ツイッターでは安倍さん支持をかかげている人をフォローしている。匿名や偽名の偽カウントも多いが、百田さんなんかもフォローしている。

そこで、私たちに浴びせられる「平和ボケ」ということについて考えてみたいのである。

たとえを出すとこういうことだろうか。日本では、酔っ払って最終電車に乗って眠り込んでも、この酔っ払いさんは安全だし、女の人が夜遅くひとりで夜道を歩いても安全だ。日本のこういう状況は世界中どこに行っても同じだと思い込んでいる人が、ニューヨークの地下鉄で同じことをしたり、中南米で大都市で深夜独り歩きをして、犯罪に巻き込まれてしまう。おそらく、そういう被害者に向かって浴びせるような言葉が「平和ボケ」の真意なのではないか。

それで安倍さんは何をしたいのだろう。世界の現状が、強いものが弱いものを襲い、隙を見せれば命も財産も奪われる。この現状を、平和な日本に導入したいということだろうか。まさか、そうじゃないだろう。安倍さんや支持者の考えでは、日本は世界で一番素晴らしい国で、常に日本人はこんなにもすごい、すごいと言っていなければ不安になるくらいなのだから、日本の平和で安全な暮らしも世界に冠たるものと思っているはずだ。それなら、世界の現状を日本に輸入しようとするのではなく、日本の現状を世界に輸出しようとすればいいのではないだろうか。

もちろん、私だってそれが難しいことはわかっている。弱肉強食で、隙を見せれば犯罪に巻き込まれるというのが世界では標準的な事例だということは、その通りなのだろうけど、だからと言って、現状をそのまま認めるのでなく、日本のように安心して暮らせるほうがいいのじゃないですかと、いう努力はすべきだろうし、世界の人だって本当はその方がいいと思っているはずだ。「平和」についても同じだと私は思うのだが。


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2018年1月13日 (土)

慰安婦問題の不可逆的最終的解決 その3

安倍首相に代表的される人たちが目指す慰安婦不問題の不可逆的最終的解決について考えるその3回目。彼らの主張としては、こういうものもあると思う。

4.この問題でいつまで謝罪し続けなければならないのか?若い人には責任はない。
確かに、当事者としてかかわりようがなかった、戦争後に生まれた若い人たちには、積極的にも消極的にも、慰安婦制度を推し進めることも反対することもできなかったのであるから、責任はないといえようが、しかし、だからと言って、戦時下で女性に対するひどい人権侵害が起こったこと自体、なかったことにすることはできない。そのひどい人権侵害に対して、あとから生まれた人たちであっても、このことをどう思うかと問われれば、「ひどいことだ」「すべきじゃなかった」「申し訳ない」と謝罪の気持ちを持つのが自然で当然なのではないか。

安倍さんたちが恐れているのは、罪や弱みを認めれば、優れたヤマト民族(これから生まれてくる若い優秀なヤマト民族も含めて)に、スティグマ(生まれながらに貼り付けられる汚点)が付きまとうということだと思う。しかし、私はそんなことはないと思う。スティグマを恐れるのは、そもそもヤマト民族が無謬で、大変優れていて、過ちを犯さないと思っているからであって、私などは、ごく普通の民族や人間と同様、優れたところもあれば欠点も過ちも犯したという日本人でどうしてだめなのかと思う。

そして、被害者の側から見れば、日本の若い人たちがこの問題を知らないとか、この問題はなかったことになっていると思うことは、将来同じような女性に対する人権侵害を引き起こす可能性があるということであり、安倍さんたちが思っている「不可逆的「最終的」解決を遠ざけている大きな原因だと思う。どんな事件や犯罪の被害者も思うのは、二度とこのようなことが起きてほしくない、もしくはこのようなことが他の人の身に降りかかってほしくないということだが、人権侵害の事実を知らない人たちが日本の主流になれば、過去から学ぶという反省もないのだから、他国の女性に対する人権侵害を引き起こすと、被害者が懸念するのももっともだと思う。本当の意味での解決は、事実を認め謝罪することだし、事実を伝えて、これから生まれてくる人たちでもその事実を知れば、人権侵害は良くない、被害者に申し訳ないという気持ちを持つ機会を作ることだ。そうしたところで、ヤマト民族を貶めて、世界中に悪口を言いふらしていることにはならない。

 


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2018年1月10日 (水)

不可逆的で恒久的な解決への考察

考察をさらに続けたい。韓国との慰安婦問題で安倍政権が推し進める考えに賛成する人たちの声をいくつか想定してみたい。

 

1.そもそも慰安婦がいたというのは、でっち上げの事実で日本は謝罪する必要がない。慰安婦問題を取り上げることは、世界に日本の恥をさらしているようなもので、愛国心がある人なら、自分の恥を外部にさらすようなことはしない。

 

歴史の中で事実であったかどうかを証明するのは難しいのだろうし、私だってその時代に生きていたわけでないので見聞きしたわけでないから、事実であることを証明しろと言われても困るが、おおむね信頼できる歴史家やその時代を生きた人たちが証言しているのであれば、私はそういう事実が本当にあったとしてよいと思う。そして、何より大事なのは、そういう事実があり、それははなはだしい人道違反だということだ。

 

戦時中とはいえ、女性にそのようなことを仕向けたいうのは、人道に反する罪だ。そういう重大な違反を無かったことにするという態度が、そもそも韓国の被害者を納得させない一番の原因だ。フクシマの核発電事故を考えてみても、事故はなかった、あったとしても大したことはない、とする安倍さんの態度に被害者は一番不安を感じる。被害にあった自分自身がないがしろにされていると感じるだけでなく、事実がなかったのであれば、原因も究明されず、また将来同じ過ちが繰り返され、自分と同じように無用にも(苦しむ必要など本来なかったにもかかわらず)苦しむ人が生まれると考えるからだ。

 

2.国家が強制したのではなく、彼女たちは自発的に職に従事したのだ。つまり売春婦である。

 

性被害にあった女性に対して、これほどの屈辱的な発言はないだろう。しかし、こういう発想こそ、安倍さんや慰安婦問題で安倍さんを支持している人たちの本質を表していると私は考える。現代の「自己責任論」にもつながる。唐突だが「ああ無情」の中でジャン・バルジャンが銀の食器を盗んだのはなぜだろう。貧困の中でそうせざるを得なかったのだ。もちろん、貧しくても正しく生きている人はいるだろう。しかし、社会の状況や環境も、個人の行動に大いに影響するのだ。パチンコ屋なんて経営しないで、まともな会社で働けと、在日外国人に言う人がいるが、まともな会社で働きたくても、雇ってもらえなければ、自営業を始めるしかないだろう。個人の努力と社会の影響とどちらがどれくらいの強さで影響し合うのか、社会科学系の学問が科学的証拠を提示してもらいたいが、総じて安倍さんたちの発想には、すべては自己責任という根本発想があり、それは、慰安婦は自ら望んでなったいう発想につながってくる。こんなひどいつけ方をされたら被害者は「問題は不可逆的に解決した」という合意に心情的に納得できない。

 

3.戦争中はどこの国でもやっている。韓国はベトナム戦争参戦中、ベトナムの女性にもっとひどいことをした。

 

人がやっているから自分もやっていいかと言えば、もちろんそうではないのである。やはり大事なことは、日本が行ったことは、人道に反する罪だということで、そこを認め、被害者に謝罪し、慰藉を求めることだろう。被害者が求めているのは、謝罪だろうし、慰藉であろうし、二度とこのようなことが行われないということだろう。人道に反する罪だということを認めれば、今度は他国が行った人道に反する罪を告発することができる。このままでは、アメリカが戦争中に行った非戦闘員に対する核兵器や一般兵器による殺戮といった人道上の罪や様々な歴史上の罪を、日本は告発することができなくなる。そうなれば、歴史の中で苦しんだ人たちはあらゆるところで報われなくなってしまうのだ。


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2018年1月 9日 (火)

不可逆的で恒久的な解決はあり得ない

韓国との慰安婦問題で、安倍政権が目指す不可逆的で恒久的な問題解決はあり得ないと、私は考える。理由は、安倍首相の人柄が信頼できないからだ。そこから安倍政権とその支持する人たちが目指す「不可逆的」「恒久」という言葉の意味が重大なすり替えを行っているのではないかと、私には不信に思えるからだ。
人柄に対する不信とは、それはフクシマの核発電所の事故に由来する。事故前すでに、学者の調査により、従来の想定より高い津波が核発電所に到来する予想が示されていた。国会で、津波の到来や対策を質問された、当時の安倍氏は、到来や対策の必要性を否定している。ということは、防ぐことのできた事故を防ぐ責任を怠り、不作為により事故を引き起こした責任者は、責任や権限の重さから言えば、安倍さんということになる。しかし、安倍さんに限らず、自己の責任を取った人はこれまで誰一人としていない。

責任を取らないロジック(理由付け)に用いられている考えは、「そもそも事故は起きていない」「起きていたとしてもごく軽微なものである」というものだ。核発電所の事故をどのようにとらえるのか、そもそもそこに安倍さんとその支持者と、そのほかの人々の間には大きな差がある。安倍さんや彼を支持するグループからすれば、そもそも事故は軽微なものだし、被害も全く起こっていないのだから、被害を言い立てる人は、わけのわからないことを言っている度し難い人たちで相手にする必要なしということだろう。

さてこの伝からすると、慰安婦問題で「不可逆的」と言っているのは、「過去にさかのぼって責任はとらない」もしくは「過去にそのようなことはなかった」という意味であり、「恒久的」というのは「今後一切、永遠に責任は負わない」という意味だと解釈される。それは、もちろん被害者側から見ると許せないことだし、被害者を支援する韓国側の人たちも、韓日同意がそのような言葉の意味で使われいるのではと直感的に感じて、同意の取り消しを要請している理由だ。私も、そのような意味で、同意するのであれば、問題は永遠に解決しないと思うし、いつまでたっても善隣友好関係は作れないと考えるので、本当の意味で問題解決に向かうべきだと考える。

私が考える解決へのより良い考えや、慰安婦問題をめぐる安倍さんや安倍さんの支持者が表明している考えを次は検討してみたいと思う。


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2018年1月 8日 (月)

農のある暮らし―気づき

(過去の記事の再録です)

 

学ぶということはふつう自分の外部にある知識を獲得することだと思われているが、農における主要な学びは気づきである。外にあるものではなく本来そこにあるものに気づいていく過程、自覚を深めていく過程が農のある暮らしの学びだと思う。農のある暮らしには草取りを始めゆっくりと自然や自己と向き合う時間が多い。一定のリズムで体を動かしながら、自然の働きやそこにある智慧、そして自分のこと、自己の持つ感覚や感情に気づいていく。そこに農のある暮らしの学びがある。

 
それでは一人ではなく、幾人かの人が同じ農のある場に集い、ともに学びあう意義はどこにあるのだろうか。お互いの気づきを深め合うこと、一人では達成できなかったであろう気づきの深さに下りていくというところに学びあうことの意義はあるのだと思う。
 
 


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2017年12月30日 (土)

雑感―女性たちの…

(過去の記事の再録です)

 

女性たちの貧困(2008年10月1日朝日新聞)という記事を読んで思った。派遣社員などとして働いている女性たちが生活が成り立たないほどの低賃金や不安定労働の中で苦しんでいることを紹介した記事だ。

 
・仕組みの外にいるわたしたちがどのようにして豊かに生きるかということが課題になると感じた。仕組みの外にいる人間にとっては豊かさが享受できない状況であることは男も女も同じだからだ。

 

・わたしたちは仕組みを応援し、仕組みが存続することにつながるようなものはなるべく購買しないようにする。例えば、大企業が独占的に販売し買わなければ困るような仕組みにさせられているもの。例えば電気などのエネルギーや海外からの安い穀物などをなるべく買わないですむのなら買わないですむ工夫をする。

 

 


・わたしたちが依拠するものは自然であることを自覚する。自然はわたしたちに仕組みの中の豊かさとは違った豊かさを与えてくれる可能性を持っている。

 

・豊かになりたいと思っているのは、仕組みを作り上げ仕組みの中にいる人たちも、仕組みの外にいる私たちも同じである。しかし、その「豊かさ」のとらえ方にずれがあることを意識する。

 
・だから、わたしたちを豊かにしてくれるはずの自然を壊そうとする仕組み側の動きに対しては、おかしいと思ったのなら声をあげ行動するか、抗議のこもった不服従を貫くこと。


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2017年12月26日 (火)

悲しい風景―彼らはもちろん

(過去の記事の再録です)

彼らはもちろんわれわれが嫌いであろう。われわれももちろん、彼らとは相容れない。こうして何の共通点ももたないと思われる彼らと、私たちではあるが、彼らとて、日本のために良かれと思って、せっせせっせと山を削り、谷を埋め、ダムを作り、海や干潟を埋め立てたりしているわけである。我らは我らなりに、日本の遠い将来とそこに住む孫子のためを思って、彼らのやっていることに反対しているわけである。だとすれば、日本を愛するというこの一点では、彼らもわれらも変わらないのである。

しかし、彼らにとってはわれわれは虫けら同然。彼らには権力があり、地位があり、金があり、給与があり、安定がある。われらには、権力もなければ、身分もなければ、金もない。彼らにたてをついたってはじめから勝負はないのである。



しかし、われらは自然の恩恵を受けて生きている。だから、われらが生きる基盤が失われるのであれば、たとえ小さな声でもあげなければならない。

彼らは、社会や経済という制度と利権に生かされ、その恩典で生きているから、その社会や経済の仕組みを必死になって守り抜く。



多くの人がもっと自然に依存しその恵みで生きれば、何も彼らの権力や金力を恐れることはない。彼らは張子の虎で、われわれは彼らにおもねって何かを恵んでもらうということもないのだ。われわれが、謙虚に頭を垂れるのは、我らを生かしてくれる自然だけで事足りるのだ。



こうして、われわれは自然に生かされて暮らしている仲間を増やしていくことだ。そうすれば、各地で仲間達が、自分達の暮らしを守っていってくれるだろう。彼らの付け入る隙はなくなる。


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