2017年7月20日 (木)

東洋思想―「自然界の…」

(過去の記事の再録です)

自然界のすべて生きとし生けるものの命は平等であり、人間は自然の中の一部であるので、人間が自然を一方的に保護するという思想はなく、生き物の持っている業のため、時に食いつ食われつの関係になるものの、人間とて生命界の頂点に立つ絶対的な存在ではなくいつかはほろび、また自然界のふところへ帰る。これが本来、東洋人の直観、叡智であった。


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2017年7月19日 (水)

東洋思想―「学者がするのは…」

(過去の記事の再録です)

学者がするのは原本の校正、その時代の正しい文字の使われ方やその正しい解釈。原本が書かれた時代における原本の発している正しい思想のあったままの復元。それがすぐれた実証研究となる。生活者がするのは思想の継承とその思想を生活者が生きている時代の中に活かし毎日を生活していくこと。思想を指し示す道具である言葉そのものにはこだわらず思想の神髄のみを受けついで生きていくこと。それが思想を内側から生きるということになる。


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2017年7月18日 (火)

美しい日本の言葉たち―あくがれる

(昔の記事の再録です)

 

あくがれるは現代語のあこがれるの語源となった言葉である。このあくがれるということばは、たましいがその人の体から抜けでて遠くはなれていくことをたくみに表現している。「あく」は「あるく」を連想させ、動いて外に出て行くという語感を生み、「かれる」は「離れる(かれる)」のことで遠ざかるという気持ちである。古典文学を見ると、恋をするとたましいがあくがれるという場面がよくでてくる。相手を昼間のうちに思いに思いつめ、その心がついには夜、体をぬけだして相手のところにたどりつく。現代語のあこがれるは語義が拡大しているが、魂が外部のものに心ひかれてそちらに移るという点では同じである。

私はよくふしぎに思うのだが、人類はその誕生以来、この地球上を壮大な規模で移動してきた。地理の知識も、交通機関も発達していない大昔、どのようにしてこの大移動をなしとげのか不思議でならない。その土地での人口過剰や食料不足、疫病の流行などやむをえない事情があったことにまちがいはないだろうが、やはりわたしには、太古の人々の心にもあこがれの気持ちが強くあり、目に見えないあの山やあの海の向こうに理想の土地と生活があると強く心をひかれたのではないだろうかと思われるのである。地球の大気中には昔から人々のあくがれが満ち満ちていると私には感じられる。

※「あくがる」を大言海でひくと「在所離(ありかか)るるの略伝と云ふ」とある。


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2017年7月17日 (月)

旅する葦―正確でない地図

(過去の記事の再録です)

 

地図をながめるのが昔から好きだった。あてどもなく旅に出て地図を広げ、今日はどこに行こうかと考えるのは楽しい。さて、日本人は海外に旅行に出たら列車が時刻通り正確に運用されないとすぐ怒る。正確に運用される列車こそめずらしく予定通りに運行されない鉄道こそが世界の常識だということに思いをめぐらせないのだ。地図やガイドブックにも正確無比な情報を求める。まちがった情報はそこに読む者をだます悪意があるかのように怒る。しかし、正確さ、間違いのなさをかねそなえた事物などこの世にはひとつもないということを頭に入れ、寛容な気持ちで地図やガイドブックをたずさえて出かけるべきなのである。その地図やガイドブックを片手に現実の方は、実際どうなっているのかを確かめに旅に出てみるのもよいではないか。

天井にはった地図を
二段ベットの上段から
夜、豆電球の明かりのもと眺め
想像をめぐらすのが
少年のころの私の好きなことだった。
私は冒険船の船倉の二段ベットに
横たわる船乗りだったのだ。

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2017年7月16日 (日)

東洋思想―「なぜ禅は…」

(過去の記事の再録です)

なぜ禅は言葉による触発なのか。東洋思想は思惟するだけで行動を生まないのか。生む。それが禅である。禅は極端を打ち込むことを推奨する。とことん突き詰めればよいと言う。そうすれば反対側の道をたどって中庸の道に戻ってこれる。この世は極と極とが正反対にあり、そこに越えられない距離を抱えているのではない。極は極に接し、極めればもとにもどれるのだ。二律背反の世界ではなく接して常に流れる循環の世界なのだ。


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2017年7月15日 (土)

東洋思想―「すべてのものが…」

(過去記事の再録です)

問答

「すべてのものが生まれて生きていることに意味があるのか」
「無し」

「それではすべてのものが存在することに意味はないのか」
「有り」

解説

本質的には同じ問いに、違った答えを与えることは禅ではあたりまえに見られることである。論理のなさ、矛盾にこだわってはいけない。論理を離れよということなのである。



この問答は、意味など考えずに生きるべきことを生きよということである。透徹すること、それが禅が求めていることである。意味はおまえが内側から生きよということである。


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2017年7月14日 (金)

私たちの中に生活をとりもどす―電子辞書で失ったもの

(過去記事の再録です)

私が教えている私塾の生徒は今ほとんど電子辞書を持っている。英文を読み,知らない単語に出会ったとき,日本文を英語に翻訳しようとしてふさわしい表現を探るとき,昔のように紙の辞書をめくっていくのではなく,必要な項目をキーボードで入力し,求めている情報へひとっとびでたどり着く。



電子辞書を使用することの是非についてはここでは論じない。電子辞書の使用には良い面もあれば悪い面もあるだろう。そして,それを使う人によって,よくもなれば悪くもなることもあるだろう。ここでは,紙の辞書を使わなくなったことによって,何が失われたかということを指摘するのにとどめたい。紙の辞書しかない時代を経験し,紙の辞書を使ってきて,現在電子辞書も使うことのできる時代を生きている者が体験的に考えたことである。



紙の辞書では,目的の情報には一発でたどり着けない。情報の大きな枠組みがまずは全体的に目に入ってくる。そうした枠組み・背景を意識しそこに目を配りながら,必要な情報がどこにあるのか,その情報の全体の中での位置づけを確認しながら,目的とする情報へとたどり着いていく。そのたどり着く過程で,情報がどのように整理され,どのような順で並べられ,記述されているのかを自然と目にし,自分でも身につけていく。なるほど,電子辞書の検索は便利であるが,人類がこれまで苦労して作り上げてきた考えて分類する行程をはしょってしまう。



このように,技術の進歩で常に問題となるのは,人間としてのその全体性の喪失なのである。


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2017年7月13日 (木)

東洋思想―桑田変じて蒼海となる

(過去の記事の再録です。)

古代中国老荘家の人たちは「桑の畑が青い海になる」というたとえ話をしてる。地球的規模の長い時間という単位で見ると、今畑だったところも、いつかは海の底に沈むような変化が起こることもあるというのである。だから、目の前のことだけにとらわれるのではなく、長い目で物事を見渡せというのだ。


哲学というものは、それを修めたからといって、急に収入が増えたり、社会的地位が上がるものではないが、ものの見方を(時には自分では思いもつかなかった斬新な世の中の見方)を与えてくれるという点で、貴重なものだといえる。


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2017年7月 6日 (木)

悲しい風景―自然と人の暮らし

(過去の記事の再録です)

短絡的かもしれないが私の中では地方すなわち自然の多いところである。日本では自然が豊かであればあるほど、過疎でさびれたところが多くなるが、例えば、東南アジアなどでは自然が豊かなところでも人が多く集まり活気がある。日本は、加工輸出型産業で生きていく決心をし、いくつかの主要な都市に人が集まり、そこだけが活気を呈していればそれでよしとしているのである。直線的な歴史観では、やがて遅れた地域も進んだ地域のように発展を遂げていくのであろうが、その発展によって行き着いた先が、悲しい風景では、発展の価値を大いに疑わざるをえない。


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2017年7月 4日 (火)

生の哲学―仕組みの中で生きること

(昔の記事の再録)

私は、今まで、仕組みの中でまともにお金をもらったことがない。この社会にうまく適応できず、はみ出しもののような気がしていた。

組織や仕組みは予算を組んでそれをいつも定期的に消化していくだけである。中にいる人間にとっては一定の分配が常にもらえることが当たり前となり、既得権となり、やがてそれは手放せなくなり、個々の人間よりも、仕組み自体を維持しようと必死になる。



生きていくということはもっと違うこと、もっと原始的なことではないか。原始の時代にまでさかのぼらなくても金銭を得て暮らしていくということはもっと違ったことなのではないか。その直接性を、仕組みの中にいる人間は味わったこともなければ、想像したこともない。そこでは、どの仕組みに入るのか、入れるのかが重要なことで、生きるという本源的な意味を体験することは重要なことではない。



生の意味をさぐるのはなぜか。それは生が無意味なのではないかという疑念が私たちの心にわいてくるからだ。私たちが直接性と格闘し、例えば斧で木を切り家を建てたり、簡単な農具で土を耕し食べるものを得たりして感じる腰や背中の痛み、これが生の直接の意味かもしれないのだ。


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