2017年3月24日 (金)

小さい子供にどう話しかけるのか

新聞記事のスクラップから。2月11日付の河北新報。「幼児への言葉かけ」という記事が掲載された。専門家のアドバイスをまとめたものだが、これは結局、人間関係にも応用できると思った。では、その要約。

いたずらばかりする、片づけない、支度に時間がかかるというような小さい子供に接するとつい、怒鳴ったり、小言ばかりになったりする。気持ちを通じ合うには「子どもの言葉を否定しないで、丸ごと受け止めよう」というのが「スーパー保育士」と言われる原坂氏のアドバイスだ。

原坂氏の出す具体例はわかりやすい。転んで「痛い」といった子に「痛くない」、散歩中に「寒い」といった子に「だから上着を着なさいと言ったでしょう」と、子どもは本当のことを言っているだけなのに、こんなふうに子どもの言葉を否定するような返答は良くない。

大人も子供も認めてもらうと意欲的になれるので、先ほどの「寒い」では「寒いね」と笑顔で気持ちを受け止め、その上で「今度は上着を持って出ようね」といえば、認めてもらったので素直に「うん」となるという。

ほめるときは「挨拶ができたね」「手が洗えたね」と具体的にほめるのがポイント。具体的な事実を言葉にすると頑張れる。子どもはどんどん変わるという。

言葉によって悪い方に変わっていく怖さも、NPO法人の会長山本氏が指摘する。人格形成の基礎ができる幼児期は言葉の影響が大きく、大人の言葉通りの子どもになるという。その具体例は、「何をしても遅いんだから」子どもは経験が乏しく時間の概念も未熟なため「自分は遅いんだ」と思い込んでしまう。

こんな時は「昨日よりちょっと早くできたね」と事実とめざす方向を示してあげるとよいという。

でもついきつい言葉が出てしまったときは?取り消せないが、こんなフォローがあるという。「なんで全部食べないの!」と怒鳴ってしまったら「丈夫で強い体になってほしいから怒鳴っちゃった」と怒った本当の理由や感情を言葉にすれば子供は怒られた理由がわかり安心するという。

職場でも、教育現場でも、スポーツの指導でも、子育てのコミュニケーションは、すべての人間関係に当てはまる、基本中の基本だ。だから幼児教育についての知識は誰が持っていてもよいし重要なのだと思った次第。


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2017年3月12日 (日)

千葉すずさんからの問題提起

仙台ゆかりの水泳選手、千葉すずさんのインタビュー記事が河北新報に掲載された。(3月9日、10日)。彼女の生き方、考え方には耳を傾けるべきところがあると思うし、私もこの記事からは考えさせられた。紹介したいと思う。

千葉さんはオリンピックにも出場した有名運動選手だが、シドニーオリンピックの選手選考過程をめぐってスポーツ仲裁裁判所に提訴したことを私は覚えている。日本人なら、日本の会議や総会たるものがどのようなものであるか知っていると思う。そこでは「~ということになりますが、異議がございますでしょうか。では、特にご意見もないようですので、表記のとおり決定いたします」だ。オリンピックに選出する選手も各分会でこのように決まっていたのを、千葉さんは異議を唱えたのだ。裁判所で判定は覆らなかったものの、千葉さんの行動の意義は大きかった。見ての通り水泳や柔道を始め、選考過程やルールが明確になったのだ。

千葉さんのように異議を申し立てる人を、空気を読めないとか、協調性がないと言って、嫌う人もいるかもしれない。だが、同調圧力の中でそれは違うのではないかと異質な考えをする人を排除するのは、その社会全体の進歩や幸福の増進にもならないと私は思う。同質社会にはそれなりの強みもあるが、そこにあぐらをかき、進歩や変化の芽を摘めば、結局真実につながる道も閉ざされ、社会は閉塞停滞する。

千葉さんがそのように考え行動するのは、アメリカでトレーニングをしてアメリカ社会を経験したことが大きいのではないかと思う。海外では、プールに盲導犬と一緒に来た人が泳いでいるし、ファストフード店で障碍者が普通に働いているし、同性愛カップルが仲睦まじくしている。そういうものを見てとても自然だと感じたそうだ。

千葉さんの一見奔放な言動が誤解を生んだこともある。いまではスポーツ選手が「楽しんでやります」と言っても違和感がないが、1996年アタランタ五輪の「楽しみたい」という発言が誤解や反発を生んだ。千葉さんによると、真意は、日本の水泳練習は泳がされている強制感が強く、アメリカでは泳ぐも泳がないも自分しだいで、水泳の時間以外も楽しんでいる、このように自立した人生を歩んでいるから強いと気づいたので、「自分で考えてふだんのペースを守り、周囲に惑わされない」という意味で「楽しむ」という言葉を使ったということだ。日本では、お国の名誉のために君が代・日の丸を背負って戦うという意識が強いのだろうか。こういう意識が時に、実力以上の力を本番で発揮させることもあるのだろうが、残念ながら千葉さんはオリンピック本番では力を発揮できなかった。千葉さんは、その「弱さ」を見つめてインタビューに答えている。「弱さ」を自覚した千葉さんは決して「弱い」人間ではないと思う。インタビュー記事で写真も拝見したが、穏やかな笑顔で水泳で鍛えたたくましい体つきの4児のお母さんは、違う意味で「強く」見えた。

千葉さんの自立できていない「個」という考え方は我々オリンピックを見る側にも反省をせまる。千葉さんは、当事者として日本のオリンピック報道の過熱ぶりを体験し、(しかもそれは冷めやすい)、この異常な過熱ぶりは「個」が自立できていないからだと指摘する。自立できていない「個」は、オリンピック選手に自己を投影する。もし、その選手が好成績をおさめれば、それは投影された「個」も素晴らしいことになるのだ。しかし、本来はオリンピック選手とわれわれは違う「個」であって、選手がメダルを取ったのは、その選手の努力や才能であり、それは我々とは関係ないはずだ。それなのに、日本選手がメダルを取れば、われわれ自身も優れた能力のあるかのように勘違いし、日本人全体が、例えば隣国の人たちよりも優れた民族なのだというような錯覚をする。

東京でオリンピックが開かれるが、私個人は、オリンピックを日本で開催している場合でなく、他に力を集中してやるべきことがあると考えている。開催して、その利益が国民全体に共有されずに、一部の人たちの利権・利得・国威発揚になるのでは、心から協力する気にもなれない。千葉さんのインタビュー記事は、オリンピックを見るものにも考えることを迫る良い記事だった。


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2017年3月 6日 (月)

政治的公平性と報道

河北新報が2月8日に報じた新聞記事のスクラップから。放送倫理・番組向上機構の放送倫理検証委員会が検証したテレビの選挙報道から問題点をまとめてみて自分が考えるうえでのヒントにもしてみたいと思う。

テレビ視聴者から選挙報道に関する放送量が減った」などの意見が出たことに対して放送倫理・番組向上機構が検討した。選挙に関する報道は、報道されなくなったという印象をぼくも持っているが、その背景に挙げられることを記事は歴史的な流れを振り返っている。

大きなきっかけは2014年に自民党がテレビ局に、選挙報道での「公正中立、公正の確保」を求める文書を送ったことだ。15年にはNHKとテレビ朝日の番組内容をめぐって自民党が両局幹部に事情聴取をした。16年には高市総務相が、政治的公平への違反を重ねる放送局に電波停止を命じると言及した。

これらの自民党の報道機関への圧力が、選挙期間中の選挙報道の減少や報道局の萎縮を招いたことは疑いがないとぼくは思う。「公正中立」はとてもいい言葉だと思う人もいるだろうし、「偏った」報道をする報道機関を許しがたいと思っている国民が多いのも事実だろう。しかし、「公正中立」を標榜し、偏っているとクレームがつくくらいならいっそう選挙や政治について報道しない方がいいとなれば、大きな損失をこうむるのは「国民」であるし、結局そういう報道で得をするのは「政権与党」だ。というのは、今なにも政治やこの国には問題がないし、選挙で国民が判断を下すべき論点も特にないとなれば、現状維持が一番好まれるからだ。

放送倫理・番組向上機構もこの点を指摘する。「編集の自由が保障されている以上は、求められているのは出演者や露出時間などの量的公平性ではない」「真の争点に焦点を合わせ、主張の違いを浮き彫りにする挑戦的な番組が目立たず、残念」「選挙報道は有権者に多様な立場からの多様な見方を提示するものとなるよう心掛ける必要がある」

アメリカのトランプ大統領が、自分の気に食わない報道をするジャーナリズムを全部嘘だとか、会見から締め出すとかすれば、はたから見ていてずいぶん子供っぽいことをするなと思うのではないだろうか。それなのに日本で似たようなことが行われていても、それは偏った報道を懲らしめるための当然のこと、で済ませてよいのだろうか。


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2017年2月25日 (土)

瓜田に履を入れず、李下に冠を正さず

ぼくは中国の古典愛好者だ。表題の文句は「疑われるような行為はするなよ。たとえ身は潔白であっても。そんな状況では他人が疑うのも当然だぞ」ということ。

例えば、東京ガスという大きな会社が所有する広大な土地がヒ素などの化学物質で汚染されている。でもその土地を東京都の都知事が高く買い取る。しかも売った品物に傷があった場合は、売り主が責任を取るという「瑕疵担保責任」を東京ガスが負わないというような、東京ガス側には異常な好条件で。ふつうはあり得ないような取引に、普通の人であれば、裏で何かあるな、例えば都知事と東京ガスの社長が学閥だったからとか、考える。でも関係者によれば怪しいところは何もなく通常だそうだし、真実がどこにあるのかを掘り下げて報道しようとする報道機関もないようだ。

例えば、大阪に教育勅語を奉じる学校法人があり、安倍首相の夫人が名誉校長になっている。(ぼくは民主主義社会の強みというのは、思考の多様性だと思うので、民主主義そのものを否定するような思想を奉じる人たちの思想を許容するのもいいことだと思う。民主主義社会では選ぶ自由もあるのだから、教育勅語を奉じる学校を選ぶ人が少なくなるように非強制的な手段に訴えればいいわけだ。)8億円もする国有地を、土地にゴミがあったというような理由でほとんどただ同然に学校法人側に売り渡す。この取引、関係者によればごく普通であるし、報道機関も特に掘り下げて報じようとしているわけではなさそうだ。だが、「うり畑に入って、手で何かをとる動作をしていた」わけだから、「安倍首相と思想が同じなので、政治家の仲介で安く手に入れた」と憶測するような不逞の輩も出てくるわけだ。


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2017年2月17日 (金)

プログラミング教育

次期学習指導要領の紹介が新聞各紙でも行われている。小学校で英語が正式の教科になることに加えて、コンピューターのプログラミング教育が2020年度から必修化されることになった。自分が小学校の時に受けた教育のことを思えば、様変わりの感は否めないが、時代の流れや要請に応えて次世代の人材を育てていくというのも、教育の役目。私自身も、時代に取り残されないよう、そして頭が凝り固まらないよう、コンピュータに関する勉学はしたいと思っている。となると小学校に再入学か?というわけにもいかないのだろうが、人間一生勉強である。さて、このプログラミング学習の意義は何か。2月3日付の河北新報の記事をスクラップしてある。東北大名誉教授宮崎氏の投稿記事を要約して考えてみる。

一般的に言われているのは「プログラミング教育は論理的思考力を養うのに有効」ということだ。プログラミングは日本語よりも論理的と思われている英語を基に組まれていて、コンピューターを正しく作動させるために、例えば、こういう条件を満たすまでは何回この動作を繰り返すだとか、この数字を満たす場合はこの答えを返し、満たさない場合はこの答えを返すなど、数学を基にした論理式もわかっていなければならない。数学といえば、数列の全部の和とかそんなようなことも扱える能力もプログラミングをするには必要だ。しかし宮崎氏は、プログラミング教育の意義はそれだけでないという。

1.創造力を高める。

(理由) 算数の解は一つで、いかに早くその解にたどり着くかを学び、理科は既知の科学的事実を覚えるだけ。しかしプログラミングは、目的が与えられれば、実現のための方法や手順は自分で考え、工夫を凝らす余地がある。目的が同じでも作り手によって出来上がったものは違う。正解がないので、独創性がうまれる。

2.モノづくりの楽しさを実感できる。

(理由) プログラミングは、目的でさえ自分で自由に設定でき、これは創造的な行為であり、発想力も必要となる。これはモノづくりの精神にもつながっている。

3.達成感と成長感が得られる。

(理由) プログラミングは決して簡単な作業ではない。まちがいなく正しくプログラムが動いたとき感動する。この感動は、苦労を重ねて完成したという達成感と、こんな難しいこともできるようになったという成長感によってもたらされる。これは自ら物を作り出した能動的感動で教育上最も重要。

4.プログラム作りの大変さがわかり、優れたプログラムの価値を認め作り手を尊敬できるようになる。

(効果) 日本ではソフトウエアに対する評価が低く、このためソフトウエアに対する投資も少なく人材も手薄になっている。だから世界に通用する日本のソフトウエアがほとんどない。プログラミング教育はソフトウエアの価値を認めることができる人材を増やす。


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2017年2月14日 (火)

消費と環境保護

関係ないと思ったところ、思わぬところでつながっている。実はこの世界すべてはつながっているのかもしれない。

環境を守るため、そして人々の環境への意識を高めるためにいろいろな指標が開発されているが、2月3日付の河北新報の記事から「生物多様性フットプリント」についてまとめてみる。

「1杯のコーヒーがアフリカのヒョウを絶滅の危機に追いやるかもしれない」というこんな目を引く話をするのは信州大の金本講師であるというところから記事は始まる。日本人が消費する食べものや木材などの生産に伴い、世界各地で希少な動植物が減少しているという分析結果を金本講師は「生物多様性フットプリント」という手法を用いて得たという。

生物多様性フットプリントとは、国境を越えた人間活動が自然の生態系に及ぼす影響をわかりやすく伝えるための指標で、日常的に消費されている食料などの原材料がどこで生産されているかを調べ、現地の動植物の生息にどのような負荷を与えているかを追跡する。日本を含め、他の先進国も当然、自国よりも発展途上国の生態系に大きな負担をかけて、自分たちの生活に必要だったり、便利なものを調達している。

日本の例で言えば、東南アジアやオセアニアに環境の負荷をかけている。マレーシアでは森林伐採によりカラフトワシやマレーグマの棲み処が縮小し、魚や甲殻類の産地であるパプアニューギニア近海ではアオウミガメの生息数が減少しているという。

コーヒーは私も好きだが、エチオピアでは日本の消費のためにヒョウやアフリカゾウの生息地が圧迫され、スペインからオリーブオイルを輸入すれば、スペインオオヤマネコの数が減少する。

このように「生物多様性フットプリント」は、これを用いて、消費者がより環境の少ない商品を選ぶ際の目安になる。生物多様性に配慮しない商品を販売する店やメーカーやスーパーを支持しないことで、また逆に積極的に生物多様性を重視した商品を売っている店やメーカーやスーパーを支持することで、少しでも世の中を良い方向に変えることができるのだ。自分たちが主体となり、しっかりと意思表示し、こういう電気が欲しい・要らない、こういうものを作っているメーカーを支持する・しない、こういう政策は支持する・しないの自主投票を粘り強く続けていけば、数が集まり時の重みで加速度がつき、動かないと思われた大きな山も動き出すことがあるのではあるまいか。


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2017年1月31日 (火)

「時間栄養学」という考え方

高齢社会である日本にとって、医療費の増大により今後も国民皆保険を維持し適切な医療体制を提供できるかという問題がある。膨張し続ける医療費を抑制するためにも、国民がなるべく健康であり、高齢者も健康で活動的な健康寿命を伸ばすことが重要である。そこで、医療も病気になってから対処する対応療法ではなく、病気を未病で防ぐ予防医療が中心となっている。身近に取り組める予防医療の基本は「食生活」である。実際、食生活の乱れは、生活習慣病を生み、そして日本人の死因の上位は生活習慣病であるがん、心臓病、脳疾患が占める。いま「時間栄養学」という考え方がある。1月30日付の河北新報の記事を参考に、「時間栄養学」の考え方を要約する。

私たちの体の中にある自然なリズム「体内時計」と栄養学を結び付けた考え方が「時間栄養学」である。人は朝日を浴びると体内時計がリセットされるが、肝臓や腎臓などの臓器の時計は規則正しく食事をとることでリセットされる。肥満のなりやすさも体内時計と関連があり、例えば、腸が糖質を取り込む時間のピークは午前中であり、糖は効率よく吸収される。しかし夕食時間が遅いと、眠るまでにエネルギー源として使いきることができず、脂肪としてため込まれてしまう。

こうした科学的知見というのは、それを現実に応用し、(この場合は、病気予防に応用し)効果を上げることが見込まれる。よく言われるように、肥満を防ぐには朝食をしっかり食べ、夕食を押さえるというのは、時間栄養学の観点からは「理にかなった」ことだということがわかる。

高齢者の筋力の低下や活動力の低下を「フレイル」というが、たんぱく質の摂取がフレイルの予防になる。では、どういうタイミングで食事を取ればよいのか。実験では、1日の食事量が同じでも、朝早く食べたマウスとそうでないマウスでは筋肉量に差があったという。時間栄養学によれば、朝はアミノ酸などの吸収力が高く、日中は筋肉を動かす機会も多い。このタイミングでたんぱく質を取ることで筋肉が増えやすくなると、わかる。

さらには、目的によっては時間を選んで(夕食で)食べた方がよいというものが何かということも、時間栄養学でわかる。骨粗しょう症の予防を目指すのなら大豆イソフラボンの食品を夕食でとるのが良い。なぜなら、骨は夜つくられるのでそのタイミングに合わせて取ることで効率よく使われるのだ。

なかなか「時間栄養学」は興味深い。この研究がもっと進んでいけば、「インフルエいざにかからない食事とその取るタイミング」とか、「スポーツの大事な試合に勝つための食事とそのとるタイミング」などということも科学的に解明されていくのかもしれない。

2017年1月26日 (木)

動物実験の代替法

薬や化粧品を開発したらはすぐには、人間には使用しない。安全性を確認しなければならない。特に薬は、その国の当局によって認可されなければ販売することができない仕組みになっている。そこでその安全性をどう証明するのか。「治験」と言って、名乗り出たボランティアに実際使用してみて安全性を確かめる方法もあるが、いきなり人間で試すのは、危険性が大きい。そこで、人間に試す前に、動物に使用してみてその安全性を確かめる「動物実験」がある。例えば、ウサギに化学物質を点眼して状態を観察する眼刺激性実験、モルモットに皮下注射してアレルギー反応を見る皮膚感作性試験などがある。

しかし、動物で実験することが倫理的に許されるのか、と疑問を呈する人たちが出てきた。動物も痛みを感じるし、人間に当てはまる「倫理」は動物にも当てはまり、同意もなく残酷なことはすべきでないという考えだ。また、動物愛護家といわれる人たちもいる。かわいそう、残酷だからと言って、動物実験を嫌悪する人たちもいる。インターネットでしばりつけられたウサギに化粧品を塗り、肌がはげてしまった映像などが流出したりしたことが背景となり、動物による実験をすべきでないという意見が大きくなった。行動家たちが、動物実験をしている企業の製品をボイコット(不買)するというようなこともあり、企業側もこの問題に敏感になっている。

EUでは化粧品の動物実験が2013年に全面禁止になっている。イスラエル、インド、スイス、台湾、ニュージーランドが禁止した。日本では、資生堂、マンダム、花王などの企業は廃止している。

動物実験をしないで、薬や化粧品の安全性をどうやって確認するのか。1月24日付の河北新報に現在の取り組みが紹介されていた。まとめてみる。

欧米では細胞やコンピューターによる代替試験法の開発に力を注いでいる。資生堂では、ヒト由来の細胞に物質を振りかけて反応を見るh-CLATを開発した。

課題としては、全身の臓器の毒性を見る動物実験などは代替法の確立が難しいとのこと。

だが、時代の流れからも、動物実験の代替法を研究、開発していくことが必要であろう。

2017年1月22日 (日)

常に少数者とともに

1月19日付の河北新報の記事「転換への一歩」に考えさせられたこと。

この記事は、在日文学の今を紹介したものだ。どういう文脈で紹介されたかというと、おそらく「民族差別をあおるヘイトスピーチが社会問題化ししばらくたち、対策法が施行されても差別意識が社会に根を下ろす」という社会的な文脈であることは間違いないだろう。しかし「じゃあ、差別はやめましょう」のような底の浅い内容ではない。

記事では崔実さんの「ジニのパズル」という小説の内容の紹介や、在日1世の父と在日2世の母のもとに生まれた深沢潮さんの発言や小説の紹介がある。

私がはっとさせられたのは、温又柔さんの言葉だ。温さんは日本育ちの作家で、読み、書き、考えるのは日本語だが、「われわれ日本人は…」というような言葉を耳にした瞬間「親密なはずの日本語が自分から遠ざかる」経験があったという。温さんのような日本語との関係の結び方をしている人もいるという声を上げたくて、小説を書いているという。

私もつい「われわれ日本人は…」という言い方をしてきてしまったが、これからは本当に気を付けてこの言葉を使おうと思う。いや、むしろこの言葉はもう今後使わないようにしようと思う。というのは、日本語は誰のものなのだろうかと考えたら、それは日本人だけのものではないだろうからだ。それはどの言語でも言えるだろう。日本出身で英語で書いているカズオ イシグロという作家もいる。言語の所有者は果たして誰なのか?

曽野綾子さんという作家は、新しい教科書をつくる会の教科書で、「そもそも国家という枠がはじめにあって、その中に個人がある。だから国家がなければ、個人はあり得ない。だから国家の形や領土を守ることを優先すべき」という趣旨のことをおっしゃっていたが、そもそも「日本」とか「日本人」の定義とは何だろう。本当は、定義することはそんなに簡単じゃないはずで、私は、改めて「日本人」とは何か?「日本語とは何か?」を考えてみる必要があると思うのだ。そして「日本」「日本人」「日本語」を国家や政府が独占することができるのだろうかとも思う。

 
さて少数派の在日文学の意義は何か。温さんによると「在日文学が描く孤独も痛みも普遍的な感情のはず。個人を救うヒントがこれほどあるのに、その宝物に日本人は気づいていない」という。

私は、文学なんてメジャーになってはいけないと思っている。人生で大事なことは、会社勤めや、政治、経済、科学、科学技術などの生活を支えるもっともっとメジャーなことだ。文学は少数者の関心事でいいと思っているが、まったくなくなってしまっていいとも思わないのは、メジャーなことに携わっているだけでは、気づかなかったり言葉に出来なかったりする考えや感情を、文学は表現し、それが社会の大多数を占める人たちにも、「役に立つ」(経済活動や科学技術が役に立つ、というときの言葉の意味とは微妙に違うが)から、存在意義があるのだと思う。

まさに在日文学は、そもそも少数派の文学の中でも少数派。でも少数派だからこそ、時代に先駆けたり、時代の奥底にある感情をすくい取ったりして表現できるのだろうし、私たちもそれを読んでみるべきだと思うのだ。そういう人の抱えている痛みに気付くためにも、文学を志す人は常に少数派とともにいるべきなんだろうとも思う。村上春樹さんが奇しくも、壁と卵では、私はいつも割られてしまう卵の方に立つ、といったように。


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2017年1月21日 (土)

河北新報120周年・提言

宮城県の地元紙、河北新報が120周年を迎え「東北の道しるべ」として次世代へ東北像を提案した。「エネルギー自治を確立しよう」「自然と人間の通訳者を育てよう」といった提案に私も共感する。

その提案があった1月17日付の記事に、「90歳に学ぶ失われつつある44の価値」という東北大学の古川准教授の研究も紹介されていた。新聞側は特に意図していないかもしれないが、自分の中で同じ日の、もしくは日をまたいで記事の共通性を考えさせられることがある。新聞は私に思考の種を提供してくれるので感謝している。

さて古川准教授の研究を要約すると、氏は1922年(大正11年)前後に生まれ、戦前の生活を大人として経験した人たちに当時の暮らしぶりを尋ね分類・整理した。そして失われつつある44の価値をまとめた。その中から全く私の個人的価値観で共感するものを挙げてみると「自然に寄り添って暮らす」「自然を生かす知恵」「山、川、海から得る食材」「食の基本は自給自足」「水を巧みに利用する」「燃料は近くの山や林から」「家の中心に火がある」「庭の木が暮らしを支える」などというものがある。そして古川氏は、東北人は、多くの制約の中で暮らさざるを得ず、いかにして豊かに暮らすかを考え続けてきた、環境に優しい未来の暮らし方は、特に東北古来の生き方にヒントが多く隠されていた、と研究を総括している。

私もその通りだと考えるのだが、と同時にため息もつきたくなる。お金のかからない環境に優しい暮らしをしようとしても、里山の木は汚染され薪ストーブを焚けば灰に放射性物質が濃縮され、裏山のキノコ、山菜、タケノコも放射性物質を含んでいる。東北が前に進むのを妨げているのはやはり核発電所の事故だと嘆かれてしまう。

もちろんそうは考えないという意見の方々が大勢いらっしゃることを、私も知っている。東北は何ら今でも傷ついてはいない。私のような人の言動が、ありもしない放射能被害を拡大し風評被害を形作っているのだと。

「失われつつある44の知恵」の中には「いくつもの生業を持つ」「小さな店、町場の賑わい」「振り売り、量り売り」なんて言うのもある。河北新報の提言にも「2枚目の名刺を持とう」「共創産業を興そう」というのがある。中央や東京の真似をせずに、東北の知恵を生かして未来を築き上げていければ、他の地域の人たちだって振り返って見るような生き方が東北ではできるのじゃないだろうか。


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