2017年9月23日 (土)

瑣末なことを問う必要がないのか?

 

(高校の先生の研修会で講演をする仕事も増えてきました。今後の講演のネタに使おうと思っていることをメモしておきます。教育に関心のある一般の人が読んでも面白いと思っていただければ幸いです。教育と無縁であった人はいないでしょうから、一般の人にとっても面白いネタとなるよう努力いたします。ネタがたまれば、将来出版したいと考えていますので、その際はどうか、応援よろしくお願いいたします。)

 

 

たとえば、次の英文を日本語に訳せというような問題が、大学入試の英語では出題されるわけです。

 

Among the exciting discoveries are that highways connected the major settlements of the Empire and the complex water systems were built long before the underlying technology was believed to have existed.

これが、一般の人から見て、おそらく日本の英語教育や入試英語では一番評判が悪いところではないでしょうか。批判はおそらく、「日本語に訳してどんな意味があるのだろう?何に役に立つのだろう?こんなことをしているからいつまでたっても英語が喋れるようにならないのだ」というものなのではないでしょうか。

ちなみにこういった「訳せ」という勉強法は、文法訳読式と言って、日本の明治以来の伝統的な英語の勉強法や教授法であり、日本だけでなく、外国語を習得したり勉強したりする場合の昔からある正統的な勉強法・教授法でもありました。ヨーロッパでは、ラテン語を勉強する時にこのような勉強法・教授法がとられていたと言います。このラテン語の例でもわかるように、口語として話されている言語を勉強するには、確かに向いていない方法だとは思います。

さて、冒頭の和訳問題は、和訳せよと指定されるだけあって、構造が複雑です。英語が話せるようになるという実用的な目的ではなく、英語の試験や英語の教育の目的が、「汎用的能力」を試したり、育てたりするというのであれば、冒頭の英文は「複雑な構造を見極め、理解したことを自分の言葉で伝える」力を見たり育てたりするにはなかなか良問だと私は思います。

私の教えている経験からすると、この英文のAmong As V S(that①S' V' + that②S'V')「Aの中には、S(that以下①と②)とが存在する」という構造が分かる生徒は少ないです。そして、典型的な語訳としては、「帝国の主要な居住地を結び付けている道路が発見された」ですが、正しくは「発見の中には、道路が帝国の主要な居住地を結び付けていたことであった」です。趣旨はそれほど変わらず、おおざっぱな意味さえ取れればいい場面では、問題ないのですが、和訳問題では、「道路が発見された」と「道路が結び付けていたことが発見された」では、差があるのです。それは前者の誤訳がSVO構造を無視しているのに対して、正解がSVO構造をちゃんと意識しているというところにあります。

そんな細かい違いを追及して何になるという考えももちろんありますが、テストの目的、つまり測りたい力が、構造を見抜く力というのであれば、正解とそうでない解答とに差をつけざるを得ません。そして構造を見抜く力というのが、自然を見た時に、

198pxvitamineb12

こんな風に見えることだとしたら、そして、そのように自然が見えるから、病気に対する新薬を開発することができる能力との相関が高いとしたら、そしてそれが社会が教育に求めている子供たちに身に付けてほしい力だとしたら、その細かい差異を問いその能力を求めることは、その社会では意味があるということになる。

 


にほんブログ村

2017年9月22日 (金)

テストとは測りたい力、伸ばしたい力を計測する道具

(高校の先生の研修会で講演をする仕事も増えてきました。今後の講演のネタに使おうと思っていることをメモしておきます。教育に関心のある一般の人が読んでも面白いと思っていただければ幸いです。教育と無縁であった人はいないでしょうから、一般の人にとっても面白いネタとなるよう努力いたします。ネタがたまれば、将来出版したいと考えていますので、その際はどうか、応援よろしくお願いいたします。)

 

さて、以下は大学入試英語の問題。見ていただいて、問題を解くのではなく、問題や設問を評価していただきたいのだ。いちばん簡単な「評価」は良いとか悪いとかの簡単なコメントで結構だし、もっと詳しく見る余裕があれば、どういう意図からこの設問を作ったのかというところまで、考えていただきたい。

 

In many ways, space travel closely resembles prior phases of human exploration. For example, five centuries ago, government-funded ships from Spain traveled across the Atlantic to the American continent. Later, ordinary citizens began to make (あ)the same trip, and the trans-Atlantic voyage would become a rather routine task. As a result of such developments, powerful new nations were born. Also, in 1803, two American pioneers named Lewis and Clark, who were working for the U.S. government, began a scientific and cultural exploration of western North America. Their effort opened the West to millions of settlers. Now, government space exploration has been a reality for more than 50 years, and it may inevitable that ( A ) will follow.

 

 

下線(あ)と同じ意味・内容のものは?

 

1. the trip to space 

2. the trip across the Atlantic

3. the trip for a scientific exploration 

4. the trip to Europe supported by the government

 

 

空所(A)に入るものは?

 

1. scientific exploration 

2. powerful nations 

3. routine tasks 

4. the general public

 

そして、ちなみに(あ)と(A)の設問では、どちらが正答率が低いだろうか。つまり、どちらが生徒にとって難しく感じる問題だろうか。

 

実際に生徒に与えて取り組んでもらっている、私の経験から言えば、生徒にとって難しく感じるのは、つまり正答率が低いのは(A)の設問である。それは、なぜかと推察するに、その原因は、設問が設定された意図ともかかわってくる。

 

(あ)は、いわゆる指示語が指しているものを当てる問題だ。この英文案外複雑であるけれど、指示語は常識的に直前のものを指しているので、文をさかのぼってthe trip across the Atlanticを指していることがわかればよい。

 

(A)を解くには、文中に実は3つの例が出てきていたが、その3つの例に共通することは何かを考える必要がある。「大西洋横断」「アメリカの西部開拓」「宇宙探査」の3つに共通していることは、専門家(または先駆者)のあとに一般大衆が続く、という点だ。

 

さて、こういう問題を見て、まるでパズルのようだ、そんなことが解けたところで何になる、受験というのは子供たちを苦しめているだけだ、という声が出てくる。そして、英語教育の場合は、特に、日本人がこんなにも英語を勉強しているのにちっともしゃべることができないという理由から、日本の英語教育は間違っている、特に受験英語が中心となっている日本の英語教育は弊害だらけだ、という声が出てくるのは、まあ、わかる気がする。

 

さて、設問の意図を考えていただきたい。(あ)の指示語が指しているものを当てる問題は、読解において基本的ではあるが、とても大事な力を問うている。それは、文章を前から読んできて、(それは人の話を前から聞いてきて、というのと同じだ)、前の部分の内容を短期記憶にとどめておき、それを眼前の文章と(人の話であれば、今ちょうど発話された内容と)素早く照らし合わせて、理解するという技能や能力を問われているのだ。もし、人間にそういう能力がないとすれば、読んでも聞いても、すべては文字や音の反乱・洪水がただ眼前や脳裏を流れ去っていくだけで「理解」は生じない。私たちは、日本語の文章をいとも簡単に読み慣れているので、人間が「読解」の中でいかに複雑で繁多な作業をしているのかに気付かない。

 

さて(A)の方の設問の意図はわかりやすい。異なったものの中に共通点を見つける「抽象能力」だ。これは、子供の成長を見ていてもわかるが、「抽象能力」というのは、年齢とともに力がついていくものであるし、(A)が正答率が低く差がつきやすい問題になったのも、抽象能力と関係があるのだ。

 

そこで、日本の英語教育や受験英語はこんな事ばかりやっていて、ちっとも英語をしゃべることは出来ないかもしれないが、もし、英語教育の一つの目標が、読解力や抽象能力という「汎用的」な能力を付けさせるということであれば、どうだろうか。そして、もし(A)の問題を解けたグループの方が、そうでないグループと比べて、統計的に有意に「創造的で斬新なコンピュータープログラミングを作り、世の中に革新を起こす確率が高い」という結果が出たらどうだろうか。

 

その点を、私もまだ、研究できていないので、研究していきたいのだが、もしそのような汎用的な能力が、まったく世の中の進歩や次世代の革新に役立たないことが証明できれば、そのときは日本の英語教育は失敗で弊害だらけで、もっと実用的に「英語が喋れる」ようになったり、「プログラミングが組める」ようになったり、もしくは「日本家屋が建てられる」「野菜の栽培ができる」とか、もっと実用的なことに切り替えていけばよいと思う。

 

 

 


にほんブログ村

2017年9月21日 (木)

雑感―文化を創造する力

(過去の記事の再録です)
私の住む宮城県でも、前知事の浅野さんの改革の一環として、高校の男女共学化が進んだ。本来、男女を分けへだてることで、異性に対する強烈な妄想が働き、それが異性に対する行動へとつながってきたはずだ。何事も男女平等、男女共同参画の社会がいいからといって、初めから男女のお互いが空気や水のようにあっさりとした存在になってしまったら、そこに文化を創造する原動力となる妄想が働かないと思うのだ。改革ばやりの世の中だが、改革は徹底しない方がいい。必ず、改革されないところを一部残しておくがよい。それが明日の豊穣の文化の母胎となるのだ。


にほんブログ村

2017年9月14日 (木)

ABC包囲網

第2次世界大戦のきっかけとして、アメリカ、イギリスが日本を追い詰めたから起こったものだという見方がある。日本は、当時国際協調を無視して、そして中国の民族的な気持ちを無視し満州国で自国の権益確保を行っていた。国連の勧告に激しく憤り、日本は国連を脱退し、国際協調の道からは離脱してしまう。日本を国際協調の道に戻すために、欧米が仕掛けたものが、日本が生命線としていた石油の禁輸だ。石油を日本が手に入れられないように、追い詰めた包囲網をアメリカ・イギリス等の名前を取ってABC包囲網という。追い詰められて自暴自棄になった日本は、先端を開き、宣戦をどんどん拡大していく。

こういう経緯からすると、先の太平洋戦争は、自衛のための正義の戦争であるという主張も出てくる。この見方の一つの良さは、アメリカやイギリスなどの罪も問えるということだ。(だからと言って、私は、日本国家や日本軍が他国民や他民族に行った非人道的行為が許されるとは決して思っていない)。特にアメリカの、無差別都市爆撃や原爆投下の非人道的な罪を問うためには、戦争に至った歴史的な経緯をきちんと見ていくことも必要だと思う。しかし、残念ながら、おそらく、岸元首相をはじめ、戦前の日本国家や日本軍の指導者が免責されることと引き換えにアメリカも免罪され、罪も問われてこなかったのだと思う。そして今、日本国家や日本国民・旧日本軍の非人道的行為さえなかったということになり始めている。

常に今ある現実の脅威こそが問題であり、過去の歴史を振り返ることは馬鹿げている、学ぶものは何もないというのも一つの考えかただろうが、なぜか歴史が好きな私は現在と過去を無意識のうちにも比べてしまう。朝鮮人民民主主義国は、国際的な脅威に見える。国連の勧告にも従わない。だから、圧力を強めろ。石油を絶てば生命線を断つことができる。そして、追い詰められた朝鮮国が、もし「自衛のための正義の戦争」を開始したら?そのときは、誰の戦争責任になるのだろうか?誰だって等しく、この世に自分たちが存在する権利を主張するのではないだろうか。


にほんブログ村

2017年9月10日 (日)

雑感―地方で生きる

(過去の記事の再録です)

明治時代の日本が、当時の国際状況下で生きていくためには、中央集権国家を作り上げ、官僚が中央から全国を支配する仕組みを作り上げるのが、正しい選択でもあり、効率的でもあったのだろう。また、第2次世界大戦敗戦後の日本で、経済復興を成し遂げ、当時の国際状況下で生き残っていくためには、やはり、中央集権の官僚支配は、効果を発揮した。

ところが、新たに、時代状況が変わった現在では、過去にうまく行った制度に今や弊害が目立つようになっている。過去にうまく行ったからこそ、成功体験にしがみつき変えられなくなっている。

今の、日本の抱えている問題は、急速なグローバリズムが進む陰で、疲弊していく地方の問題だ。地方の抱えている問題は、それぞれの地方で様々に異なる現場の問題で、現場で知恵を働かせ汗をかいて解決しなければならない問題である。

現場のことは、現場に任せて自分達の知恵と力で解決し、それを側面から静かに応援するのが一番よいのだが、予算は現場の裁量のままに全然ならず、中央がしっかりと握っている。

優秀な人が国家官僚になっても、日本の抱えている問題は少しも解決していかない。優秀で人の上に立つべき人材であるのなら、中央官僚にならず、地方で地に足を着けて生きるのもよいのではないか。

地方で、行政の長になってリーダーシップを発揮したり、地方で起業して10人、100人と人を雇用することが、この国のために貢献することになる。


にほんブログ村

2017年9月 3日 (日)

「負け」の心性

仙台の8月は、雨降り続きで雨の連続日数は30数日にわたり観測史上最長だったと聞いた。そんなさえない空模様のように、仙台に本拠地を置く職業野球団「楽天」も、これまでの好調が一転、負けの連続が続いている。
スポーツ、特に団体競技では精神面のプレーへの影響は甚大なものがあると思う。いま「楽天」はチームとしてはやることなすこと、すべてうまく行っておらず、試合に勝てるような気がしない。応援している私も、シーズンが終わるまでこのまま負け続けるような気がする。

試合観戦に行った知り合いの話では、球場ではファンは味方チームに厳しいヤジを浴びせるでなく、負けた瞬間に力が抜けたように「フー」というため息だそうだ。これが、関西の某縞柄ユニフォームのファンであれば、お構いなしに痛烈なヤジが飛んでくるのだろうが。星野元監督も、お客さんはもっとやじって選手を強くしてほしいということを言っていたが、東北の人は優しくてそういうことは出来ないというのも、私にはよくわかる。

思えば、東北の歴史は負けの歴史だ。ヤマトの坂の上田村麻呂に負け、源頼朝に負け、長州藩に負け、近年では、自民党中央政府に核発電所を押し付けられて負け、と敗者の心性に非常に親近性がある。中央から蔑視されているのは、沖縄と似ているところがあるが、抵抗する沖縄のウチナンチュとはまた違った心性がある。

東北人の心性は、やはり粘り強さだろうか。2013年に楽天が優勝した時、たくさんの人が優勝パレードに詰めかけた。楽天の優勝が一種、震災からの復興の象徴になっていたということもあるが、あの年の楽天は、最後まであきらめない粘り強い戦いで、それで勝っていったというところに、東北の人たちは自分を重ね合わせたところがあったのではないかと思う。

だから、今年は今年で、負けの連続、十分、この悔しさも情けなさも、東北人にはわかるが、負けに親近性がある東北人は、この負けを受け入れているのだ。もしこのまま、9月一回も勝てないとしても、私はそれを受け入れるし、来年も応援し続ける。だから則本投手よ、涙を拭いてくれ。


にほんブログ村

2017年8月27日 (日)

『現代社会と教育』堀尾輝久著(岩波新書)

たまたま研究目的で上記タイトルの新書を読んでいた。1997年が第1冊なので、今となればかなり古い本である。その中で「臨時教育審議会」の議論を取り上げていた。「臨教審」という言葉を覚えている人もいるだろうけど、自民党中曽根内閣が、「行政改革」という目玉政策を行ったことに引き続いてのことなので、ことが起こったのはもう30年も前。

その30年も前のことで、私がなるほどなと思ったのは、この書に引用されている、「臨教審」を推進した指導的人物の思想。「理念」や「思想」を馬鹿にして、そんなの現実に影響を与えないとか、「現実を見ろ」とかいう人がいるが、30年前の臨教審の理念がいま、日本社会で花開きつつある。そして、自然に多くの人が、その理念に共感しつつある。他民族や他国を憎悪して、それをばねに内部の思想を統一する、そんな社会が支持されて実現しつつある。筆者の堀尾氏は、そういう社会を作る教育に反対するという文脈で、臨教審の指導者の言動を引用しているし、私も態度表明すれば、そういう世の中や社会には反対している。

以下は臨教審のオピニオンリーダーの香山健一氏の著作から引用する。彼のめざす分断社会は、中曽根内閣から現在の安倍内閣にまでしっかりと受け継がれ、そして両内閣とも国民の支持は高い。

「社会は高度の知識人からなる、知的な豊かな社会となっていくであろう。優生学は優れた素質を持った人間で社会を満たすようになるであろう」

「情報革命のかなたに、われわれは素晴らしい素質を持ち、驚くほど高度の教養と知識とを身につけた健康な男女たちが、自動化された産業を基礎に高い生活水準を楽しみ、…余暇を、科学や芸術やスポーツなどの創造的な仕事に没頭し、知的な会話と人生のゲームを楽しみながら過ごしているような、そういう未来世界を構想したい」

「高い知識を持った知能水準の高い層と、平均以下の知能水準の低い層との階層分化が生じてくることは避けられないだろう」

「高度知識社会のメリトクラシー(注:能力優先主義)の下で、エリート層は真のリーダーシップを確立しなければならない。それは俗流化した民主主義や平等主義によって活力を失った社会ではなしに、永遠に活力を失わない、ダイナミックな社会の秩序を維持していくために必要不可欠なことである」

「能力のある人間にはそれにふさわしい冒険と挑戦の機会を与え、能力の劣る人間にはそれにふさわしい生きがいの対象を与え、能力のない人間にも―そういう人間には教育と優生学によって減らしていかなければならないが―適度な人間的思いやりを与えうるような社会を構想しなければならない。非凡人には非凡人にふさわしい、平凡人には平凡人にふさわしい満足の機会を与えるような条件を発明しなければならない」

「人間の質とその改良の問題は、…教育の問題とともに、優生学の問題に決定的にかかわっている」

「現代の産業文明ではIQ110以下の人間は役に立たなくなりつつある。…人口学者たちが深い不安をもって指摘していることは、人口の増加率がIQの低い層において特に顕著であり、IQの高い層において人口増加率が低いため、人類は遺伝的素質低下の危機にさらされているという事実である。」

「この遺伝的素質低下の問題を解決し、さらに人間の質を高めるための最も賢明な社会的技術を開発しなければならない。…ある優れた遺伝的素質を持つ者に飲み3人以上の子どもを持つことを認め、かつ―助成金その他の方法で―奨励し、それ以外は2人以下に制限するといった方法も考えられる」

(引用の引用元は、香山健一『未来学入門』潮新書、参考までに潮出版は創価学会系の出版社である)


にほんブログ村

2017年8月25日 (金)

新しい経済理論―「農家の人は…」

(過去の記事の再録です)

農家の人はよくこう言う。「農業じゃ、食えない」。私はこの「食える・食えない」という言葉には疑問を持っていた。「食えない」というのは食料不足で飢餓状態になるということではなく、経済的に見合わないということだ。自給的な農業をしていれば、食べ物はたくさんあって豊かであるが、経済的には窮乏し、貧困状態に置かれるというのはなぜか。この矛盾はどこから来るのかそれを私は考えていきたいのだ。


にほんブログ村

2017年8月22日 (火)

新しい経済理論―「人を育てることをしないで…」

(過去の記事の再録です)

人を育てることをしないでダメなやつは切っていく、優秀なやつだけを生き残らせるという方法は、若年人口が次々と供給される時代にこそあっていた。今、少子高齢時代を迎え、企業活動等においても、個々人の能力を引き出し高めることが求められているのに、短期的な視点で、労働者を切り替え可能な代替品とみなし、パート化、派遣労働者化がすすんでいる。いつでも仕事を切られると思えば労働者も、現場で感じた仕事の改善点を上層部にフィードバックし、全体の業務レベルをアップすることに動機付けを感じない。こうした上層部の経営方針と現場での意思疎通がちぐはぐな企業体等がたくさんあることだろう。その結果生まれる利潤の低下を上層部が人員コストの増加と判断し、次々と安い労働に置き換えれば、ますます現場ではやる気を喪失し、創意を働かせなくなるだろう。この悪循環の中で、もはやこれ以上その賃金で喜んで仕事をする人が日本にはいないとなれば、次は外国人労働者が次々と呼んで来られるだろう。だがこれは外国に安易に食糧供給を頼り、国産産地を育てなかったことで、食料の安定供給や安全性といった犠牲を払わざるを得なかったように、将来手痛いしっぺ返しを食らう可能性があるのだ。


にほんブログ村

2017年8月21日 (月)

美しい日本の言葉たち―言霊考

(過去の記事の再録です)

やりたいことを口に出す。実現したいと思っていることを実際に書き出してみる。そうすることで潜在意識に働きかけ自分の行動を目的実現のため統御していく。また、潜在意識から顕在意識へと願望の形がより明瞭にされ、言動がより明確になり、現実に対しより有効な働きかけができるようになる。これが自分の願望を実現させるプロセスと言葉の持つ力。言葉を使い、話すこと、書くこと、人はその能力を鍛錬すべきである。


にほんブログ村

«美しい日本の言葉たち―私の言語体験