2017年5月21日 (日)

味覚障害

新聞で見かけた気になる健康に関する記事をまとめてみた。2017年5月17日付の河北新報に東北大病院口腔診断科科長の笹野氏が「味覚障害」についての論考を寄せていた。

まず食事の重要性として笹野氏は、人生の喜びであるとともに、バランスの良い食事をよく噛んで食べることで心身の健康を支えると指摘している。そして食事を続けていくために丈夫な歯とあご、そして健全な味覚の必要性を述べている。

高齢化と味覚障害は関連していることを笹野氏は指摘する。そして調査の興味深い結果を紹介する。高齢者71人(平均80歳)の37%に味覚障害があり、それを自覚している人が19%で、味覚障害があっても自分は正常だと思っている人の存在を問題としている。

また、味覚と食欲・体調の関係もデータが出ている。味覚が正常な人の96%が食欲良好なのに対して、味覚障害の人の43%は食欲がないと解答している。体調は、味覚が良好だと答えた人の93%が快調と答えたのに対して、味覚障害の人の45%が体調不良と答えている。これらのデータは、冒頭で述べた、味覚が健康を支えるの根拠ともなるデータであろう。

笹野氏は、味覚障害が高齢者だけでなく若者にも広がっていることを指摘している。東北大学新入生を対象とした調査で25%で軽い味覚障害が発見されている。そして、どのような学生に味覚障害が見られるかでは「食に関する意識が低く、バランスの良い食事をとっていない学生」ということがわかった。ここから導かれる結論として、若年者に対する食事指導、つまり食育も必要であるということだ。

味覚障害が健康に悪影響を耐えるシステムも笹野氏は述べている。それはこうだ。味覚障害は味がわかりにくく、そのためにより強い味を好み、塩分や糖分を取りすぎてしまう。その結果高血圧症、動脈硬化、糖尿病など生活習慣病や肥満につながる。


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2017年5月18日 (木)

憲法と民主主義

クラシック音楽を聞くことがあるのでNHKFMを聞くことがある。古い話だが、先日の憲法記念日に、NHKFMのニュースでは、ちょっと違った切り口から日本国憲法について伝えていた。FM放送なので、自民党政権の目があまり届かないのか、もしくは志のあるディレクターさんがいるのか。他の曲のニュースと違ったのは、世論調査の結果を引用して、「夫婦別性」と「同性婚」についての賛否の割合が昔と比べてどうなったかを説明していたことだ。

結果は、それぞれ昔と比べて賛成が大幅に伸びている。多様性の尊重、他人の自由を認める日本国憲法で重視された民主主義の精神が、確実にこの日本では根付いてきているというわけだ。なるほど、こういうところからする「護憲」運動もあるのだと思った次第だ。

民主主義の根本的な議論としてはジョン・ロールズの著作に書いてあったことを思い出す。ソ連や中国のような社会主義国家と、民主主義国家との違いは何か。それは、社会主義国家では社会主義を否定する言論は許されないが、民主主義社会では民主主義を否定する言論が許されるということだ。これはもちろん民主主義国家の弱点でもある。ヒトラー政権は、当時世界一民主的な憲法を持った国から合法的に誕生したし、現在の安倍政権も民主主義的手続きを踏んで、人々の内面的自由を束縛し民主主義社会そのものが機能しないような社会を作ろうとしている。

しかし、内面の自由も言論の自由も許されない社会よりは、たとえ民主主義社会を否定する言論だとしても自由が許される社会の方が、ぼくは良いと思う。もちろん、それは民主主義への挑戦だし、民主主義の試練である。だが、その試練をくぐり抜けなければ本物の民主主議は育たない。民主主義の良さは、多様な意見が出て議論することで、より良い選択肢や方向性・可能性が見つかり、社会がダイナミックに発展していけるところだ。自由な言論を封殺したところでは、結局社会は停滞する。

だから、安倍さんや日本会議の皆さんが夢想する、権威者が権威者らしく毅然として威張っていられた懐かしい昔に帰りたいという議論や提案をする権利や自由自体を、この社会は拒否すべきではない。意見をたたかわせて落着するところに落着すればいいのだ。そこで、冒頭のNHKFMのニュース報道だ。ある意味、日本国憲法の精神は国民に浸透している。国民が民主主義を守りたいのであれば、安倍さんや日本会議の皆さんの提案を否決すればよい。ちなみに、安倍さんは若者や女性の味方というポーズをしているが、夫婦別性は、日本の伝統的家族観が崩壊すると言って反対している。これが安倍さん流の女性を大切にするやり方なのかもしれないが。


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2017年5月13日 (土)

民主主義の難しい問題

署名活動などやっても効果がないという人もいるだろうが、せめて、無力な自分のこの世の中への意思表明だとして、そして、何も意思表明しなければ大きな声の人に押し消されてしまうという「一寸の虫の五分の魂」の理屈から、署名活動には割と参加している。いまは、さらに便利なオンライン署名というものがあり、署名をする物理的ハードルは低くなった。しかし、この前、呼びかけが回ってきた署名で保留してしなかったものに、作家の百田さんが、大学の学園祭で講演活動をするので反対してほしいというものだった。趣旨としては、彼が差別主義者なので、そういう差別発言を容認しないというものだったと、自分の中では記憶している。

署名をためらった理由は、もしこれが逆の立場であったらと考えたからだ。逆の立場の私たちは今ずいぶん分が悪い。例えば、慰安婦問題を考えてみましょうという様な催しや写真展は、政府の考えに反するので公共施設は貸してもらえなくなりつつあるし、憲法9条を賛美して平和のありがたさをうたった短歌が、公民館便りに載ったことが問題となり、削除を命じられたこともあったと記憶している。要は、健全な民主社会は、たとえ自分の考えや信条とは違っていても、その考えや信条を自由に表明する権利は守られてしかるべきだと、私は思うのだ。

よって百田さんは、南京大虐殺はないという立場だし、中国や韓国・朝鮮を憎悪している点では、私と立場は違うけれど、民主社会で基本的人権が尊重されているのであれば、私は、百田さんの権利を尊重する義務があると思ったのだ。

しかし、これは同時に難しい問題だと思った。同じ民主義国家のドイツなどでは、基本的に、ナチスを賛美し、ユダヤ人虐殺はなかったとか大した問題ではないとすることは許されない。もちろん、ヨーロッパにも百田さんのような思想の人はいるので、ユダヤ人虐殺のような事実はないと思っている人もいるが、そういう人が公的な立場につくようなことが許されていない。しかし、自由に自分の意見を述べる民主的権利との兼ね合いということになると、これはどう説明がつくのだろうか。

こういう日本とドイツの差というのは、サッカーの試合にも表れている。サッカー国際連盟は、サッカーに政治や人種差別を持ちこむことに大変厳しい態度で臨んでいる。だから、最近、試合会場でナチスの鍵十字の旗を掲げたヨーロッパの観客と、日本の戦前軍国主義の象徴である「旭日旗」を掲げた日本の観客に対して、その試合を主宰した責任チームに制裁を科した。しかし、日本のサッカーチームの社長は、「旭日旗」に政治的な意味はないと、制裁に反対する姿勢をとっている。

「旭日旗」が軍国主義の象徴ではないと考える日本人がいること自体は、そういう事実として私は認めるが、戦争の被害者である韓国や中国の人が見れば、「旭日旗」は戦争や抑圧を想起させるのも事実として、私は認める。いじめ問題でも、よく、いじめる方は、いじめだと思っていなかった、軽い冗談のつもりだったというが、いじめ問題ではようやく「いじめられた方がいじめだと思ったら、それはいじめだ」という認識が広がってきたのかなと思う。しかし、歴史認識問題では、被害者の立場に立つという視点を持たない考えが日本では優勢を占めていて、そのオピニオンリーダーとして多くの人から敬愛されているのが冒頭の百田さんでもある。

韓国と日本との慰安婦問題で「不可逆的に問題解決」とした合意を考え直すように国連から勧告が出た。日本政府にとって、こんな勧告、戦前であれば、国連脱退ものだろう。まさかアメリカの手前、脱退もできないので、勧告を無視するのだろうが、私は「不可逆的」つまり過去に戻らないということは、過去に事実がなかったということを意味すると思う。それは、被害者にとってはあまりにもむごい。よく言うように、被害者は金が欲しいわけではないのだ。一番望んでいるのは、過去の事実を認め、過ちを謝罪することだと思う。ずっと永久に謝り続けるのかと問う人もいるが、私は基本的には事あるごとに謝罪すべきだと思う。そうすることで、過去と同じような過ちは繰り返されないという両国の確認になり、新しい未来の関係も築いていけると私は考える。


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2017年5月11日 (木)

読売新聞を読め

安倍首相は、憲法改正についての私の考えを知りたければ、読売新聞を読むようにと国会で発言した。読売新聞は、全国民がとっているわけでもないし、正式な国家の宣伝機関でもないだろうから、「憲法」という大事なことで、最高の地位についている人の考えが全国民に伝わらなくなる恐れがある。

全国民に向かって自分の考えを伝えるのであれば、曲がりなりにも「国会」こそはこの国の民主主義政治というルールにのっとれば、国民の代表者がいるところであるので、ここで説明すれば、全国民に向けて説明したという形式的なルールは守られたことになる。

しかし、それをせずに、読売新聞を読んでおけ、では、国民に説明義務を果たしたことにならないと思う。しかし、読売新聞で発言すればそれで事足れりと安倍さんが考えているのだとしたら、安倍さんはこの国の民主政治という建前さえ守らない人なんだと、ぼくは不安になる。よく安倍さんのことを「存在そのものが憲法違反」という人がいるが、なるほど一理あると考えてしまった。

自分は民主主義のルールや法律・憲法を守らなくてもいいのである。つまり自分は「超・法規的存在」であるということを示しているのではないだろうか。国民も本来は、安倍さんが「超・法規的」存在であることを許しておくべきではない。もし、容認するのであれば、憲法によって「思想・信条の自由」が守られ、逮捕の際に最大限人権が守られ、拷問で自白を強要されることも最大限ないように守られている国民も、いつ「法規の外」へ置かれるかわからない。

「超・法規的存在」となれば、いつでも法規の外から、人を取り締まることが可能になる。国民は、自分は普通の市民なので自分には関係ないと思っているかもしれないが、人権や平和で穏当な生活を守ってくれている憲法や法規を超えた存在に対して、どうして自分だけは守ってもらえるという保証があるのだろうか。「超・法規的存在」となれば、自分のお友達は守るだろうが、お友達でなければ守られる保証はないのだ。


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2017年5月 4日 (木)

新ナニワ金融道

作家青木雄二さん。ぼくが尊敬してやまない人だ。あまりにも早い死が残念だ。青木さんはマルクスを尊敬していてそれを公言してはばからなかった。おそらくそれはマルクスが「銭」の面から科学的に世の中の仕組みを解明したからだろう。そう、どんなにお高くすましていても、世の中なんといっても「銭」なのである。そういう本音を隠して生きているようじゃダメだというのが、青木氏の作品を読んで感じる。「聖職」と呼ばれる教師だろうが何だろうが、青木氏の作品の中ではみんな「銭」で堕ちていくのである。氏の作品の、人間の本質をかくもグロテスクに、かつ大阪の笑いで表現しているその深さは、ドストエフスキーやバルザックのような偉大な作家にも匹敵すると思うのだ。

さて、青木氏が亡くなってもう「ナニワ金融道」の続きが読めないとがっかりしていたのだが、青木さんの遺志を継いだ青木雄二プロダクションから「新ナニワ金融道」が出た。この中では、某政権党がモデルと思われる政治家さんたちが登場し、銭になりそうな事業に口利きをしたり、ライバルを蹴落としたり、やり手の秘書に農家に現金を持たせたり息子の就職の世話をさせたりで利権をものにしていくところを描いていく。政治資金パーティーを開いたり、女体盛りをしたりと、本音丸出しで生きているが、そういうことを単に「批判する」のは浅はかだ。すばらしい文学作品には、その現実をそのまま受け入れさせる力がある。

というのも、どうだろう、正論を説く某革新政党よりも、某政権与党の方が日本人には絶対人気があり、この70年にわたってほぼ一度も政権の座を渡したことがないのだ。日本人には、やはり、「ねえちゃん、ええやろ、さわったて減るもんやないやろ」というさばけたおじさんの方が、人間味があって信頼されるし親しみを持たれるのだ。晶子の歌を思い出す。「柔肌の熱き血潮の触れもみで寂しからずや道を説く君」

新ナニワ金融道では、某政権与党をモデルにしただけでなく、正義や人権を説く対極にいるはずの人たちも登場する。その名もずばり「左浴田」なる人物だ。実際にある貧困ビジネスなるものをモデルにしたのだろうが、ホームレスの人権救済の名目の正義のNPOが、ホームレスを寮に集めて生活保護を申請してやり、寮費や食事費の名目で集金し利益を上げるという話だ。これについても「善悪」の判断や批判をしろというのではない。優れた文学作品は、現実をそのまま受け入れるしかないのだ。正義や理想を述べるのは勝手だが、その正義や理想を実現するのにも金が要る。そういう本当のところを見ないふりをしたり他人任せにして、正義や理想を語っても、世間は直感的にそれは胡散臭い、信用できない、信用できるのは、銭が大事だとわかっているあのおっちゃんたちだと思うのだ。


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2017年4月29日 (土)

お嬢さん(アガシ)

「お嬢さん(アガシ)」という韓国映画、シュール(超現実的)な雰囲気を持った映画だ。この映画は何か原作の小説があるらしい。舞台は日帝時代の韓国で、山奥の豪邸に大富豪とそのめいが住み、その生活を女中たちや使用人たちが支える。資産家のこの男、実は韓国人だが、いろいろな手段を使って日本人の貴族の称号を手に入れ、日本人として暮らし、貴族で資産家の姪の財産を密かに狙うというような設定なのだ。

豪邸の中では日本語で会話が交わされる。日本人が見ると、韓国人俳優が演じているので、どうしても母語話者の話す日本語でないとすぐわかってしまうので、違和感は禁じ得ない。でも、もしかしたらこれは、トルストイの「戦争と平和」をアメリカで映画にしてオードリ・ヘップバーンとヘンリー・フォンダが演じたことがあったが、それを見たロシア人が感じるようなものなのかもしれない。

また、セリフがバカに時代がかっているし、文学的すぎるし、衣装も、欧米人が描く典型的な日本人のイメージという感じで、日本人が見ればこれは絶対日本じゃないだろうというかんじなのだが、もしかしたらこれも、蜷川さんのシェークスピアが海外ではバカ受けだが、その蜷川さんが作り出すシュールな日本のイメージを研究してわざと取り入れた、誇り高き芸術作品を狙ったのかもしれない。資産家も姪のお嬢様もいつも皮手袋をしているのだが、やがてその秘密も映画を見ているうちにわかってくる。

この映画は極上のミステリーかつエンターテイメント映画だ。詐欺、というのはある種、人間の知力を振り絞って相手の裏をかこうとする、人間の最高の到達地点を示すものと言えるが、2重、3重のどんでん返しは最後まで見飽きさせない。結末を言ってしまえばネタバレになるので言わないが、18歳以上の人だけが許される、美しいものもたっぷりと見せてもらえるという点でも楽しませてもらえる映画だ。

韓国や朝鮮を憎むようにという世間の圧力は強いが、韓国映画は楽しませるサービス精神が旺盛だ。映画を見て文化交流が盛んになって、単純に、韓国人の俳優さんや女優さんがかっこいい、可愛いということでファンが増えていくのが良いことだと思う。韓国・朝鮮に対して憎い・嫌いという日本人の感情を分析してみると、なんといっても「近親憎悪」が一番だ。つまり、遠くにいる似ていない人のことはなんとも思わないが、近くにいる似ている人は許せない、それは、相手が自分の姿を映し出していて、自分のいやな姿を見せられるのを嫌悪するからだ。そういうわけで、ロシア人とポーランド人も、フランス人とドイツ人も、インド人とネパール人も、よくケンカもしてきたし、相手のことをよく思っていないわけだ。


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2017年4月27日 (木)

本音の時代

今村復興相が「震災は東北でよかった」と発言したと報じられているが、ご本人が言いたかったことは「もっと人口の多い首都圏で災害が起これば人的・物的被害はさらに甚大なものだっただろう」ということではなかったかと推測する。「東北でよかった」というのは、多くの人の本音を代弁したもので、よくぞ言ってくれたと思っている人も多いのではないか。核発電を推し進める人たちが、東京に核発電を置かないのは、危険なものは東北のようなところであればいいと思っているからだろうし、力の強いものが弱いものにいやなものを押し付けるのは常道だ。

こういう本音を言う政治家こそが人気が出るというのは、このインターネットが発展した時代だからこその現象だと思うし、現在の象徴的なことだと思う。短文投降のツイッターに代表されるように、今日の言論空間は、じっくり相手の考えを聞いて議論するものでない。「レッテル張り」という言葉を安倍首相はさかんにお使いになるが、まさに相手はこういうものだとお互いがレッテルを張って決めつけ、それ以上は良い方向に議論も状況も進展しない。昔、「読書」の中には、書物の筆者と読む自分との間に、深い対話があったが、今のインターネット時代にはそれがない。わかりやすく相手を決め付け、わかりやすい言葉でののしればそれが大衆の人気を博す。

危機をあおり、敵を作って、不安をあおる。これが今のインターネット時代に人気を博する政治の条件だ。フランスのルペンさんやアメリカのトランプさんはそのような政治家だとぼくには思える。そして彼らの言論は泡まつ候補のそれではなく、社会の確かに一定の層から支持されている。日本の状況も似ていると思う。中国や朝鮮の危機をあおれば内閣の支持率は上がる。昔の読書と違って、その危機の原因や元は何だろうというめんどくさい議論や考察は受けないのでしない。そもそも石原さんが離島を国有化したり、相手を追い詰めたりするから自衛のための戦争や核武装ということになったという可能性はないのだろうか。

「美しい日本」が目指す戦前の復古体制だって、アメリカに追い詰められた末に、自衛のための正義の戦争をしたのである。だからこそ、皇軍は無謬でアジアの国民に歓迎され、極東裁判はインチキなのではないだろうか。安倍首相は素早く今村さんを更迭し、素晴らしい危機管理能力と政治家としての卓越した手腕を見せた。フランスのルペンさんやアメリカのトランプさんのような煽動家とはおそらく違った優れた資質や能力を持ち、時代の支持や波も受けているのだろう。ぼくに何ができるわけではないが、安倍自民党政権のこの日本という時代を、世界の片隅で考察していこう。


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2017年4月23日 (日)

職業とがんの関係

河北新報2017年4月19日付の記事に職業とがんの関係が掲載されていたので、その概要をまとめてみる。これは北里大の江口氏、国際医療研究センターの和田氏の研究をまとめたもの。勤労世代の男性の肺、胃、大腸がんによる死亡率はサービス業や企業・役所の管理職などで比較的高いとするもの
・研究手法とその結果…

研究は厚労省による人口動態職業・産業別統計を利用し、25~64歳の男性の死因と死亡時の職業を解析したもの。健康管理が比較的進んでいるとされる工場労働者ら「生産工程職」に比べ、飲食や美・理容、介護業界などサービス業では3種のがんの死亡率は3~4倍、管理職は2~3倍、農林漁業、ITや医療関係などを含む専門技術職は約2倍と高いことがわかった。

・結果の考察…

これらの職業で死亡率が高くなる原因として推定されるのは

①夜間勤務とがん発症の危険性が過去の研究で指摘されているが、飲食関係の仕事は夜間勤務が多い。

②管理職はストレスが多い。

③農林漁業は個人事業主が多く、大企業のように健康管理が行き届かない。

・研究の結果をどのように社会へ還元すべきか…

死亡率が高いとされた職業では、雇用者や業界団体が検診を受けやすい体制を整え、職場環境を見直すなどの対策に力を入れるべき


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2017年4月20日 (木)

パンがなければお菓子を食べればいいじゃない

自民党の閣僚の方々の本音発言が、国民の間でもよくぞ言ってくれたと歓迎されている。「核発電の近くから逃げ出すことは許さん。逃げたやつは自己責任だ。いっさい援助しない。裁判でもなんでも起こしやがれ」「学芸員はがんだ」など。

国民は果たして怒っていないようだし、安倍首相の支持率はますます上がっている。ということは、こういう本音発言こそが、世界でも、日本でも人気を博するゆえんだろうし、そして今日考えてみたいのは、本音発言の内容が確かに今の日本で受け入れられる素地が十分あるということだ。

ツイッターなどで安倍首相をフォローしていると、ツイッターはその人の好みを分析し、その人の考えをつぶやいてくれそうな人を紹介してくれる。それを利用してぼくは、安倍首相断固支持の方々をフォローし、世の中の一半の人の考えに触れるようにしている。今や、新聞や本といった活字メディアの影響力は凋落しているのだから、こういう電脳空間で形成される世論は馬鹿にできないと思う。電脳空間で人気が出た安倍さんや麻生さんが、そのまま国民の高い支持を受け長期政権を維持している。

先日こんなツイートを見た。最低時給という仕組みがあるのだが、この最低時給を1500円にしようと運動している人たちがいる。アメリカのオバマ政権だって、最低時給を引き上げる政策をしていて、経済政策としては決して悪い政策ではなく、ぼくも支持する政策だが、1500円を求めてデモする人たちを揶揄して「そんなことしてないで正社員になる努力をなぜしないんだろうか」という趣旨のものだった。

ぼくはこのツイートを見てマリー・アントワネットが言ったとされる「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」という言葉を思い出した。これは、フランスの農民が飢饉で食べるものがなくて困っているのを聞いた王女が、主食であるパンがないなら、他のものだってたくさんあるのだからそれを食べれば困らないはず、なに農民は騒いでいるんだろう、(育ちの良い高貴な)私にはわからない、と解釈されて、フランス革命で怒れる人々に油を注いだとされる言葉だ。

フランスでは怒りを持って迎えられる言葉も日本では歓迎される。フリーターは怠け者だ、正社員になろうと努力しない悪い奴だ、そんな奴らのためになぜ、法令で最低賃金を上げる必要がある?自己責任だろう、という発言がいまの日本では受け入れられる。安倍さんや自民党がせっせと、非正規、不安定雇用を増やす政策を行っていることには目を向けないで。

いま、トヨタの高級車レクサスがバカ売れだそうだ。最低1000万円する高級車の納車が3年待ちだそうだ。いま日本では、レクサスが買える人と買えない人に分断されているが、買えない人は努力が足りないのである。この「買えない人は努力が足りない」という考えが、心地良く受け入れられてしまう背景には、分断された時、自分は必ず「レクサスが買える方」「正社員に成れる方」に入れると、多くの日本人が信じているからだと思う。だがそんな信念になんの根拠があるのだろう。いつ「そうじゃない方」に転落するか保証はできないと思うのだが。そのときに、こんなに排他的・攻撃的な社会でなく、寛容な社会を作っておかなかったと後悔するのではないか。しかし、安倍さんや閣僚の方々の本音発言が受け入れられ人気を博すのは、確かにこの日本ではその素地が備わりすでにその素地が出現しているのだと思う。


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2017年4月17日 (月)

愛国を考える

インターネット上には出どころの良くわからない広告が配信されていて、その中には「なぜ、韓国はダメで日本はいいのか?」とか「なぜ、明治時代、日本だけは欧米の植民地にならなかったのか?」といった類のものがあり、その種のものをついクリックしてしまったら、ユーチューブ上に設けられている彼らの宣伝ビデオに誘導され、それを拝見した。「韓国・朝鮮人、中国人と日本人はいかに違っていていかに優れているのか」を説明・主張するものだった。

主催団体がよくわからなかったので、ぼくの忖度に過ぎないが、こういう「日本人特殊=優秀論」特に、「韓国・朝鮮人および中国人を下に見ての比較論」というのが、「愛国」を自称する人たちや、安倍首相も「素晴らしい教育」と同調する「教育勅語」を信奉するような人たちの心をとらえる主張およびよりどころなのかなと忖度する。ぼくなどは、違いを主張して排斥しあうのでなく、共通点を強調してそこを認め合った方が、平和的な共存につながるのではと考えるのだが。

ぼくが見たものは、科学的根拠を引用していて、日本人が特殊なことの根拠としてDNAタイプを挙げていた。中国人・韓国人・朝鮮人と日本人とではDNAタイプが違うのだそうだ。その違いの由来は、日本には縄文人がはじめに住んでいて、その上に弥生人のDNAがのっかっている。縄文人のDNAのタイプはアジアの古層とでもいうべき古いタイプということだそうだ。

確かに、歴史的な日本人のなりたちを考えれば、その通りだと思う。弥生時代から朝鮮半島・中国大陸から多くの人たちが日本列島に渡ってきた。半島・大陸から渡ってきた人たちはいまの中国・韓国・朝鮮と同じDNA組成だ。そして、ここはぼくの考えだが、彼らが尊崇する皇室だってDNAタイプは中国・韓国・朝鮮型だ。皇室は弥生時代に渡来してきて日本列島を統一・支配するようになったし、日本書紀にははっきりと半島・大陸系の人との婚姻も書かれている。

彼らが日本人の独自性を主張する際の根拠となる縄文系だが、縄文系はアイヌ人や沖縄の人たちに受け継がれている。おそらく蝦夷と言われた東北の人たちも縄文系のDNA型だ。えみしにせよ、アイヌにせよ、沖縄にせよ、皇国の名のもとに滅ぼされてきて、その独自性や独立した文化・文明は認められず無視され続けてきたのに、日本人の独自性を出すときにだけ「縄文人・縄文文化」が持ち出され持ち上げられても、なんだか鼻白むだけだ。とはいえ、中国・韓国・朝鮮を排斥する言動に人気が集まり国民の支持も高いというこの国の現実を理解するために、彼らの主張する愛国というのはどういうものなのか、そのビデを拝聴した次第だ。


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