UA-92533382-1 よつば農場便り

2020年9月17日 (木)

菅首相就任・原発再稼働

宮城県の女川核発電所の再稼働に向けての準備が着々と進んでいる。

 

女川市や石巻市の住民や団体に、「お願いだから再稼働してください」という請願を提出させるという形式を踏み、それを市議会が賛同し、次いで県議会が賛同し、そして村井県知事が賛同するという儀式を経て、「そんなに望まれているのであれば、仕方がないなあ」という方式で再稼働が決まっていく。

 

東北電力の方でも、核発電がいかに二酸化炭素を放出しないか、そして核発電が停止しているせいで、いかに天然ガスや石油、石炭発電のような「汚染」をまき散らす発電がおこなわれているのか、「科学を装った」統計を大きな広告に載せて住民を説得しようとする。再生可能エネルギーの普及を何としても妨害し、核発電に国民のお金が永遠に流れ続ける仕組みを作ってしまった、そういう仕組みを作り、その中にいるものが勝つというのが、世の中だ。

 

核発電を行う地元の経済は長い目で見れば絶対に発展せず、衰退する。核発電の事故が起きれば、人間が恩恵をそこから受けている自然も破壊され、そこに立脚する人間の生活も破壊される。核発電は平時運転中も、放射性物質を排出し、人々の病気になる確率は有意に高くなる。人を幸せにしないのが核発電なのだが。

 

こういう事実を抹殺するのは手の込んだところでは、「因果関係が証明されない」という水俣の有機水銀汚染以来使われた手だし、数と金の力で民意なるものを取ることだし、あとは平然と「当たらない」「そのような事実はない」と菅首相のように無視することだ。

 

菅首相は、竹中さんをまた起用したようだが、これでまたどれだけの働く人が不幸になるのだろう。利権がある方のあちら側の人は安泰で、そうでない方の人は、生活がどのようになろうと、はなはだしきは死んだって構わない。しょせん、「権力」「政治」というものはそういうもので、「力」と「金」をとらなければ、こんなつぶやきなどはたわごとだ。しかも、今、苦しめられている方の人たちは、なかなか声を上げようとしないし、積極的に苦しめている人の方を支持するという、不思議ではあるが、この国の今の政治学を代表するようなことが起こっている。

 

こういう時代に立ち会えたことは、興味深いと言えるし、そこで何かをするという意義もあるのだろう。

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2020年8月29日 (土)

アベ政治を許さない

安倍首相の体調が悪くなったことは気の毒だ。同情申し上げるし、体調の回復をお祈り申し上げたいと思う。

 

油断はできないが、安倍さんの念願の憲法改変も一時遠ざかったと思う。時機の悪さに安倍さんは歯噛みをして悔しがっているかもしれないが、運・不運はいずれにもあり、むしろ、安倍さんや自民党政権が仕掛けておいた核発電所の事故が、ちょうど民主党政権時代に重なり、「最悪の政権だ」と批判の根拠にできたことは、安倍さんの運の強さを物語っているのかもしれない。

 

安倍さんの健康状態とは別のこととして、民主政治を無視した手法は厳しく糾弾されなければならないし、格差や差別を助長して社会に分断をもたらし、その分断による悪気に乗り政権の人気を浮上させた手法や、弱者や被害者に目を向けない原子力政策を含め、批判すべきだと思うこと、私にはたくさんある。

 

民主的なプロセスである、決定事項の証拠である公文書を速やかに破棄したり、法令にのっとらない、憲法を順守しない姿勢は、この国の民主主義を大きく後退させ、破壊したものとして、厳しく糾弾されるべきだ。法令に乗っ取らないとなると、首相を批判しただけで「不敬罪」だとか、そんな荒唐無稽と思える、恣意的な施策が実現可能になるし、そうなれば、自由で民主的な社会は崩壊する。

 

ヒットラーの演説にかの国の国民は熱狂し、軍国日本の勇ましい虚報にかつて国民は熱狂した。安倍さんは、意味のない虚しいことを何度も繰り返し、批判に対しては「当たらない」と退け論理的な討論を拒み、自分の主張を言い募るだけだった。「言霊」の存在しない虚しい言に、多くの国民は熱狂的に・好意的に応えた。安倍さんにこれだけ多くの国民が応えていることが心配だ。今の日本社会が、やはり同じくらい内に空虚を抱えているのではないだろうか。その表れとしての安倍政権の長期の人気だったのではないだろうか。

 

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2020年8月22日 (土)

記録と文明の崩壊

なにかと記録が失われ、なかったことにされる国なので、ここに記録をしておけば何かの一助になるかも知れない。

 

女川原発の再稼働に賛成した女川町の議員の方の名前:
隅田 翔氏
鈴木良徳氏
佐藤誠一氏
阿部薫氏
平塚勝志氏
木村公雄氏
鈴木公義氏

 

反対した議員お方の名前:
高野晃氏
阿部美紀子氏
安倍律子氏

 

委員長・議長のため賛否に加わらなかった方の名前:
宮本潔氏
佐藤良一氏

 

賛否を表すのは、わたしには、これは重い決定に思える。というのは、将来事故があれば、それは決定に加わった人にも責任はあると思うからだ。だが、核発電については、だれも責任をとらなくてもよいという不文律があるからか、ここで将来の責任を問おうと思っても、かなわぬことになるのだろうか。

 

ちかごろ、私の頭にしきりに浮かぶのは、「文明の崩壊」ということだ。人類の歴史1万年ぐらいを振り返ってみても、これまで突然の文明の崩壊はしばしば起こっている。繁栄していた文明が、突然、失くなり、人々がかき消すようにいなくなる。あとには、住居跡や神殿跡など、文明の廃墟だけが残される。気候変動、食糧危機、感染症の流行、文明が滅亡した原因は謎に包まれている。だが、事実として文明の崩壊は繰り返し起こっている。

 

静かにこの繁栄した文明が幕を閉じればいいだろうが、核分裂の崩壊熱はだれが管理するのだろうか。文明の器である核発電施設は、文明の人間たちが管理し続けなければならない、巨大神殿だが、文明の方が先に崩壊し、熱を放つ神殿だけは、ジャングルの奥深くから何百万年と熱き放射線を射出し続けるという終末絵巻が、頭に思い浮かぶのだ。

 

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2020年8月14日 (金)

釜石市の放射性廃棄物拒否条例

北海道のある自治体が核発電で出た放射性物質を受け入れると手を挙げた。人口減少に悩まされ、調査に協力するだけで20億円というおいしい条件に、その自治体の長は将来の安定を考えて受け入れるということだ。以前、政府の人が、最後は「金でしょ」と言っていたが、まさにその通りだ。

 

しかし、核発電で地元経済が発展するというのは「神話」なのだ。様々な神話を含めあらゆる物語を動員しないと続けられない核発電は、残念ながら、経済的発展をもたらすどころか、経済的な衰退をもたらす。日本各地の過疎の自治体に住むあらゆる人たちが、日本に住むすべての人と同じ条件で持続的に平和に幸せに暮らしていける方策を考え、協力するのは全国民の義務だと思うが、核発電については、推進して利得を得たものが、苦しい時に逃げ出すのではなく、率先して責任を取り罰せられるのが、倫理的には正しいと思うが、残念ながらそうはなっていない。

 

岩手県釜石市も新日鉄の高炉の火が止まってからは、経済的には決して楽ではないし、東日本大震災では様々な被害も受けた。その釜石市は、放射性廃棄物拒否条例を制定した。市長の野田氏のインタビューが7月9日付の『河北新報』に掲載されていた。心に残った野田氏の発言を以下に引用する。

 

「国は無理矢理に計画を進めることはないだろうが、市民はそうは思っていない。最初の段階で歯止めをかけるべく市の立ち位置を明確にした」

 

「国の原子力政策には性善説で臨みたいが、我々の思いとは違う形で動くという不信感が消せない」

 

「電気を使う以上、一人一人の問題だと、一国民や小さな自治体に責任を考えさせるのはずるいやり方だ」

 

「国は原発を作るのなら、廃棄物処理まで国民の理解が得られるシステムを確立させるべきだった。途中で何とかなるという発想が過ちだった」

 

「交付金などで歓心を買うのではなく、国民の信頼を着実に取り戻すことが重要だ」

 

「事故をきちんと処理できる国だったら、処分地に協力しようという地方が出てくるかもしれない。現状はその域に達していない。コントロールできていない以上、原発はやめるべきだろう」

 

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2020年8月11日 (火)

見たい映画

河北新報、2020年7月23日付の記事を見て、見てみたい映画だなと思ったものがある。

 

河北新報では、東京オリンピックにまつわる特集記事を連載している。その中で、1964年の東京オリンピックについての市川崑監督の記録映画「東京オリンピック」が紹介されていた。この映画は国内だけで約2000万人の人が見て、カンヌ映画祭などでも賞を取り、国外でも評価か高かったという。しかし、この映画は「問題作」なのだという。

 

なぜ「問題作」かというと、国家は威信と国威発揚を目指して、記録映画を撮るようにと予算を渡して市川監督に映画を作らせた。ところが、市川監督は、日本選手の活躍を網羅することもせず、競技の結果を詳しく伝えることもなく、ボクシングをモノクロ映像で撮りジャズを流し、東京の街の喧騒を映し出すなど、前衛的な芸術作品に仕上げてしまったのである。

 

河野さんという大臣は当然「記録性を全く無視したひどい映画」と批判する。それに対して、高峰秀子さんは、個性の強い市川監督を指名したのに批判するのは不勉強であり、映画監督は単なる編集者ではないと擁護したという。「芸術か?記録か?」ということが論争となり、それもあって、映画館に多くの人が見に訪れたという。

 

私が面白いと思ったのは、これらのことを現代の視点から見て何が言えるかを考察したところだ。多くの人が映画を見に行ったというのは、自分はどう思うのか、自分の目で確かめようとしたことであり、それはとても健全なことであり、もし今なら、映画を見に行きもしないで、税金を使ったのにそんな映画を作るのはけしからんという炎上が起こっただろうというくだりだ。

 

以下は、記事を引用。とてもいい言葉だ。
「表現されたものがそのまま観客に届けられ、見た人が自分自身の感想を言う―。作り手と受け手のそんな関係は今、ゆがめられていないだろうか」

 

わたしも自分の目で確かめるためにぜひ見てみたい映画だ。

 

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2020年8月 1日 (土)

特急ひたち

常磐線の全線開通は東北人にとってはうれしいものだ。東北地方の真ん中を縦貫する東北本線に加えて、太平洋沿岸を走る常磐線の両方が、東北のかなめの交通だ。

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車両は新しく、中はきれいで快適であった。残念ながら、このご時世で、乗客は少なかったが、またたくさんの人を乗せて活躍してほしい。

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東北をはじめ、人が幸せに暮らしていくことの最大の不安や妨げは、核発電所や核燃料再処理工場だ。人々が大事にしてきた暮らしを根本的に壊してしまう。壊してしまったうえで、放射能汚染など全く大したことがないのに、騒ぎ立てて風評被害をもたらしているというような詭弁や強弁で、被害者を糾弾し、その一方で自己の責任者は一切罰せられることがないという矛盾の上にしか、核発電は成り立たない。

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出張先のいわき市では、核汚染水に海洋投棄に反対する人たちに協力して署名をしてきた。汚染などされてもいない水を海に捨てるのに何ら問題がない、その海で採れたものを食べなかったり輸入を禁止する国は、そっちの方が誤っているのだという、詭弁と強弁の上にしか、この海洋投棄は成り立たない。ああ、ちゃんとした「ことば」をききたい。

 

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2020年7月27日 (月)

プラド美術館

いま、「プラド美術館」に行くことはできないが、「プラド美術館」という映画を見に行くことはできる。

 

この映画は、名画をたっぷり見させてくれるわけではない。

 

美術館の設立された経緯や、スペイン王室のコレクションとの関係、スペイン王室の庇護を受けたティッツアーノら歴代の画家たち、内戦中の美術品の疎開、共和国政府の教育政策と美術館との協力関係、修復作業員たちの丁寧な仕事や情熱、館長や学芸員たちのコレクションや美術館に対する熱い語り、美術館にそれぞれ思い出やかかりわりを持つスペインの女優さん、フラメンコの踊り手、写真家などの語り、などで構成された映画だ。

 

映画の中では、コレクションの名画は、じっくり見ることはできないが、ぜひともじっくり名画を見にプラドまで行きたいと思わせる映画だ。映画中で、ちらちらと名画の断片を見せてくれるのだが、それだけでも名画は本当にすごいし、これだけの名画の集積ということが信じられないことだ。

 

画家たちの生き方や個性もすごい。なんていってもゴヤはすごい「変人」だ。これだけの絵を残した人は、ちょっと尋常じゃないところがあったのだろうと思うのは私だけではないだろう。ゴヤのお墓には頭蓋骨が残ってないそうだ。熱心な骨相学者が、持ち去ったのではないかということだ。その気持ち、わからなくもない。ああ、プラドのすべての名画、目の前で見てみたい。

 

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2020年7月26日 (日)

仙台フィル特別演奏会

コロナ感染症拡大の影響で、演奏会が中止されていた仙台フィルが、4か月ぶりに特別演奏会を開催した。山形交響楽団との合同演奏会で、指揮は飯森範親さん。

 

地元の芸術活動を応援したいという気持ちと、チャイコフスキーの第5番が聞けるというお目当て演奏会に行った。

 

演奏会自粛を受けて、再開ということで今回の演奏会は特別なものがあった。それは、プログラムに表れていた。「祈り」「未来」「希望」と3部に分かれたプログラム。

 

「祈り」では、地元プロサッカーチームで用いられているファンファーレ曲が演奏された。そしてブルックナーの宗教曲。この「祈り」部門は、金管のみの演奏だ。

 

「未来」部門は、エルガーの弦楽曲が演奏された。これは、なかなか聞く機会のない曲だが、飯森さんが「いい曲で、聴きどころが多い」と事前に解説してくれて、本当にその通りで盛り上がった。これは、弦楽器のみで演奏された。

 

どうしてこういうプログラム編成なのだろうと思ったが、金管と弦楽器が見事に融合、爆発したのが「希望」部門のチャイコフスキーの交響曲第5番だった。金管セクション、弦楽セクション、それぞれが音出しをして、今日の会場や天候具合に慣れたところで、このチャイコフスキーの交響曲が来た。そういうねらいだったのか。

 

チャイコフスキーの第5番は、どんなメレディーで、次はどんな展開になるというところまで知っているほど聞き込んだ曲だ。でも、生の演奏はCDやインターネットで聞くのと全然違って、いい。チャイコフスキーの素晴らしいオーケストレーションの妙がよくわかる。いま、オーケストラのどの位置の楽器の人たちが演奏しているのか、どこから音が出てくるのかというのが視覚でも聴覚でもわかるから、主題がここからここへ引き継がれているということや、主題がこことこことで違った形で繰り返されているとか、きれいなメロディーを今、ここが奏でているということがとてもよくわかり、本当にオーケストラのだいご味が味わえる。

 

楽団員の方々もとてもいい音を出してくれて本当に熱演だった。わたしたち聴衆も目いっぱい楽しませてもらい、惜しみない拍手を送った。

 

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2020年7月16日 (木)

Japanese lives matter

不条理な仕打ちに対して「我々の命は大事だ」と、同じ扱い、基本的人権の保障を主張してもよいのではないかと考えさせることがあった。

ひとつは、米軍海兵隊の2018年高知県沖での墜落事故報告書が発表になったことだ。それによると、戦闘機のパイロットは訓練を終えると9割がアメリカ本土に配属され、1割が岩国基地に送られる。岩国基地のパイロットは戦闘訓練中に自撮りや読書を楽しんでいたことが判明がしているが、今回の報告書では岩国に送られるパイロットは成績平均以下のものが送られているとのことだった。

さて、ここからは下衆の勘繰りであるが、植民地の人民、二等国民、有色人種である日本人なら、飛行機が墜落しようが、住宅地ぎりぎりに飛ぼうが、多少危険な目に合わせてもかまわないというのが、本国・宗主国の判断なのだろうか。それなら、私は、私たちだって、Japanese lives matter主張して、自分たちの権利を認めてもらい、本国の人たちと同等の権利を勝ち取る運動をしてもいいのではないかと思う。

もう一つの出来事は、こちらからは立ち入ることができず、あちらからはいくらでも自由に出入りできる米軍基地内で、コロナ感染が広がっている(らしい)ということだ。そこは、治外法権の場所だから、我が国の行政や対策本部は、実態する把握できない。感染者が自由に基地外に出て、そしてアメリカ本国との人のいききに、何ら日本政府は検疫的な行動をすることはできないのだ。コロナ感染が爆発的にならないように、日本の市民が努力をしていても、それに忖度などしてくれるべくもない人たちが、感染を広げるかもしれないのだ。感染した人をもちろん責める気はない。感染予防のために、患者の把握や病院体制の整備など一貫した政策を行うためには、こんなふうに政府の対策の及ばないところがあっては困ると思うのだ。そもそも、アメリカは感染防止対策に失敗している国なのだから、基地が感染源になって日本の感染増が止まらないということもあるのではないだろうか。

そこで私が思うのが、「独立・自立」だ。治外法権を無くして、自分たちの自治を取り戻すには、本当の意味で「独立・自立」が必要だ。世界一の暴力的な国家であるアメリカのくびきから独立することは容易ではないだろう。彼らは強大な暴力だけではなく、心理戦にもたけている。独立運動のリーダーが出てこようものなら、あちらはインターネットの通信記録などは全部持っているだろうから、そこから「この人物はこれほど卑劣な人間なのですよ」というようなスキャンダルも容易に捏造して独立運動を妨げようともするだろう。

だが、今の国際社会は、人間社会と同じで、暴力をふるって自分の主張を押し通そうとする人が、やがては社会のメンバーの信頼を失って、社会的地位を保てないのと同じように、国際社会だって、支持や信頼を失って誰も支援しなくなれば、超大国だってその威信をいつまでも保てるものではない。

 

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2020年7月 2日 (木)

国家保安法

香港で「独立」の旗を所持していただけで、逮捕されたというニュースを聞くと、胸騒ぎがする。中国のやり方を、ひそかに効率的で有効であると称賛している為政者も多いのだろうから、「彼から学べ」という指示も広がりかねない。

「政治哲学」的に考えてみると、「独裁国家」においては、独裁国家の意に染まない言論の自由は当然、許されないだろうし、「独裁国家」という「国体」を否定する動きはすべて国家転覆罪として重罰の対象だろう。

では「民主国家」では?「民主国家」自体を否定する言論や民主国家を否定する動きは許されるのだろうか。「共謀罪」や「治安維持法」に当たるような法律があり、国家転覆を図ったり、外国勢力と結託するような動きを罰することはできるのだろうが、いまのところ「言論」については、たとえそれが、民主主義を否定するようなものであっても、大目に見られている。ある政治哲学者の見解によれば、否定的な言論であろうとも、言論の自由があること自体、「民主主義」の概念を発達させるものであるし、そもそも「民主主義」が究極の到達点であるかもわからないのだから、言論の自由は、進歩を促すためにも必要である、ということだ。もちろん、「民主国家」でも、どこまで言論の自由が許されるのか、例えば「ヘイトスピーチ」まで、言論の自由に含めるのかということは、常に意見を出し合い、検討し合う問題であるが、「言論の自由」を封殺してしまえば、そういった否定的な意見すら知ることができなくなり、検討することが不可能になる、だから、「民主国家」では、「民主国家」自体を否定する言論でも、自由が認められるべきだというのは、私も同意する。

わたしは、宗主国のアメリカに対して従属することをやめて自立した方がよいという日本の「国体」を否定するものである。そんな私も、お目こぼしをもらって大して見ている人もいなだろうこんなブログで「言論の自由」を謳歌している。しかし、それも、時の政権の思惑次第ということを思うと、少し空恐ろしい気がする。だから、香港の人たちに共感し、連帯し、民主的な価値を守りたいと思うのだ。

 

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